バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第6回

吉田裕



4 雑誌「アセファル」のなかのニーチェ(その3)

 今回は「アセファル」最後の第5号を取り上げる。第5号は前号からほぼ2年の間をおいており、その間の37年1月にはロールことコレット・ペニョーの死があり、また戦争の切迫を予感して、死が深く影を落としていることは、一読して読みとることができる。また判型も活字も小さくなっている。この号は「狂気・戦争・死」の特集名を持ち、「ニーチェの狂気」「切迫する戦争」「死を前にしての歓喜の実践」という短い三つの文章から構成されているが、それぞれは特集名の三つの観念に対応している。ただし前述のように、この三つの文章の著者は、発行時には無署名だが、実際はすべてバタイユである。二年を経て「アセファル」という場所に残ったのは、バタイユ一人であった。したがってこれら三つの文章は、いままでよりももっと緊密に、つまりトライアングルのように常に他の二つと結びつけて読まれなければならないだろう。そして当然と言うべきか、この号を貫いている原理もまたニーチェである。冒頭の「ニーチェの狂気」には、20行ばかりのエピグラフがつけられているが、そこでは、倒れた馬の首に抱きついて正気を失い、気を取り直したときには、自分をディオニュソス、あるは十字架にかけられたイエスだと確信するにいたったというニーチェの最初の発狂のことが述べられている。この事件は実は1889年1月3日のトリノでの出来事であって、「アセファル」第5号は、この出来事の五〇周年を記憶するためのものだった。
 バタイユはこの短い文章のなかに、『ツァラツストラ』から〈生きようとするものが自らの支配者となるとき、彼は自らの権威をあがない、自らの法による裁き手、復讐者、そして犠牲者とならなければならない〉という一節を引用している。生きるということにおいて、その人間が同時に裁き手、復讐者、犠牲とならねばならないということは、彼の生きるという行為がほかのなにものにも依拠しない絶対的なものになろうとしていることを意味するが、このような一節を書き記しているということは、バタイユ自身の生が、このような場所に追いつめられつつあったということを示している。ところでこのニーチェの一節は、バタイユが『内的体験』のなかで語っているブランショの言葉と直結しているように思える。バタイユが、内的体験を追求するとき、目的や権威等のものに対する配慮をひとつひとつ排除しながらも、ひとつの空虚だけは相変わらず残ってしまうという不満を訴えたとき、ブランショは目的や権威は推論的思考の要求するものにすぎず、内的体験はそれ自身で権威でありうる、しかしこの権威は罪あるものであって、その罪を自らあがなわなければならない、と答えて、内的体験には特異な根拠のあることを示し、大きな示唆を与えたという。バタイユがブランショと出会うのは41年頃、右の一節が含まれる「刑苦」が書かれるのはこの年の9月から10月のことであるらしいが、実際にはバタイユは、同じような意味の言葉を39年に見つけだしていると言えるし、また逆に彼やブランショが占領下で見ていたのは同じニーチェ的な経験であったとも言える。
 このエピグラフのあとには、二部構成の短い本文がくる。いずれも断章形式で書かれているが、第1部のほうには39年1月3日という日付が記入されている。いうまでもなくこれはニーチェ発狂五〇周年の日付である。この短い文章は印象の強いものだが、それはここに神秘的ニーチェの姿が否応なしに現れてくるように見えるからである。このノートの最初にバタイユのニーチェ像には、戦略的実践的ニーチェと神秘的ニーチェの二つがあるといったが、「アセファル」5号では、ニーチェの姿は前者から後者へと旋回し移行していくように思われる。この変容は狂気への関心によって媒介されている。狂気とは、後にバタイユが内的なと呼ぶことになる体験、先ほどのニーチェやブランショの言葉によって表されるような経験のことだが、それ自身だけですべてを根拠づけることを求めるような試みであって、そのような試みは、他者から見たとき理解のきっかけを与えないから、狂気と呼ばれる。しかしながら、バタイユの取り上げる狂気のなかには、彼のみが明らかにしえた、特異な姿があらわれる。つまり彼の「狂気」は、ほかのどの場合よりも徹底して他者と現実に依存するのを拒否するものでありながら、同時に他者と現実をいっそう深く遠く関係づけるものとして実行されるのである。この結果、移行は単に別のものに移り変わるというのではなく、両者をともに保持するようなかたちで、つまりバタイユにおいてはファシスム批判的な実践的な姿と内的体験という神秘的な姿を直結して保持するようなかたちで行われる。レイモン・クノーは、39年頃のバタイユについて、〈きわめて懐疑的。民主主義勢力をまったく「擁護」しない。彼はもはや政治とはいかなる関係を持とうとも思っていない〉という観察を残しているが、それでもバタイユが、必ずしも「政治的」であるばかりではない現実的なものとの関係を持ち続ける回路を探っていたことは明らかだとわたしには思われる。
 バタイユはこの回路の探求をまず、ニーチェの狂気がほかの狂気の場合と異なっていることを明らかにすることからはじめる。〈狂人たちの逸脱ぶりは、分類され、単調に反復されるので非常に退屈なものとなる。痴呆者たちに魅惑がほとんどないことは、論理のまじめさと過酷さをあかし立てることになる。だが哲学者というものはたぶん、その言説において、異常者たちよりももっと不実な「うつろな空を映し出す鏡」なのであって、この場合にはすべては破裂しなければならないのではないだろうか?〉。
 ついで、論理の果てに見いだされた狂気としての哲学者は、次のような様態を持つことになる。〈哲学者は人間の総体から独立して存在することはない。この総体は互いに引き裂きあう何人かの哲学者と群衆からできている。この群衆は、無気力状態であれ、興奮状態であれ、哲学者たちのことは知らずにいるのだが〉。しかし哲学者の側からは、この「総体」はいつも拒否し得ない課題としてあるのだ。そして哲学を通じて狂気のまぎわでおびただしい発汗を経験する者は、総体とのこの絆のおかげで、「歴史」にうちあたることになる。〈この地点において、冷たい汗を流す者たちは、歴史を眺める者たちに「闇のなかで」うちあたる。後者は変転する歴史が人間の生の意味を明らかにするのを見ているのである。なぜなら、群衆は互いに殺戮しあいつつ、歴史をとおして、両立しがたい諸哲学に結末――虐殺という対話の形態のもとに――をつけるというのは本当のことであるからだ〉。
 バタイユはここで、変転する歴史に追われ、歴史からくる意味付けを拒否することにまで追いつめられながら、それを哲学を検証する機会としてとらえ返そうとしている。ここで哲学と呼ばれているものは、次第に観念、思考、そして経験へと読み替えられていくのだが(それは第2部で、表現することや芸術また文学の持つ欺瞞に対する激しい批判として行われる)、この「哲学」が、不思議なやり方でいっそう深く回復される「総体」あるいは「歴史」との緊張した関わりのなかで検証されるという構図は、戦争を含む以後の期間を通じて不変となるだろう。
 では歴史のなかで検証される思考あるいは体験のなかからは何があらわれるのか。これも原理的にはすでに明らかであって、「死」というのがその答えである。〈歴史の完了と戦闘の彼方には、死以外の何があろう?〉とバタイユは反問しているが、「アセファル」第5号では、この問は「切迫する戦争」と「死を前にしての歓喜の実践」という二つの文章に受け渡される。いうまでもなく変転する歴史に相当するのが「戦争」であり、死の経験に相当するのが「歓喜の実践」である。

「切迫する戦争」は、三つの文章のうちもっとも短いもので、六つの断章からなっている。これらのなかでバタイユは闘争(この場合は反ファシスム闘争であり、ファシスムといわゆるデモクラシーに対する反感がはっきりと名を挙げて言明される)と生の同一視、文学的な遁辞への嫌悪を語っているのは前と共通するが、とりわけ目につくのは、総体あるいは共同性を強調する部分のあることだ。第3節で彼は次のようにいっている。〈人間の運命の果てまで行こうとするならば、単独のままでいることは不可能であって、本物の「教会」をつくらなければならない〉。この共同性は霊的な力を基盤とするために教会と表現されているが、共同的なものの不可欠が述べられていることには変わりがない。そして最後の第5節で彼は、この共同性が現今の状況においては政治的なものとしてあることをはっきりと述べる。〈あまたの人々が意味を奪われつつ地獄へと下っていくのを見たいならば、政治的な諸結果から切りはなされては不可能である〉。ここでもバタイユが、狂気を媒介にした絶対的な経験と現実の実践の間のさらに引き裂かれつつあった距離を、懸命に保持しようとしていたことが見えてくる。

「死を前にしての歓喜の実践」は、実は68年つまり五月革命の年に、詩人のベルナール・ノエルによって、今度はバタイユの名を出して刊行されたことがある。この文章は二つの部分に分かれているが、主要部たる後半は、理論的な叙述ではなく、どうやら実際に「歓喜」を経験するための手引きのようなものであるらしく、反復の多い祈祷文のような文体で書かれている。前半部はそれに対する序文である。エピグラフにはニーチェの一節が引用され、本文中の多くの引用も、すべてを確認しえたわけではないが、ほぼニーチェからのものらしい。冒頭でバタイユは、完了という言葉を数回使っているが、それは歴史の完了のことであって、無用性として追求される経験の条件を確認するためである。これを前提として、この文章の視点は、とりあえず「切迫する戦争」の反対側、それ自体としての権威を持とうとする経験の側に振り向けられる。そしてそれが宗教上の神秘体験と共通することが述べられる。〈「死を前にしての歓喜」という主題について、「神秘的」という言葉を使用する余地がある〉。彼が自分の経験について、神秘的という表現を使いはじめるのはこのあたりからである。同時に彼は「内的」という言葉も使いはじめる。彼は「歓喜」に触れるために、眼前の一点を凝視することから開始する。彼はこの一点を彼の全存在を集約する点とみなし、そこに苦悩、欲望、死等あらゆるものを集中する。するとこの集中によってそこに、〈純粋は暴力性、内部性、無限の深みへの純粋で内的な墜落〉が生じる。このエクスターズ(自己からの脱却)によって、恐怖と同時に「歓喜」を経験しうる、と言うのである。
 しかしながら、私にいちばん興味深いのは、神秘的あるいは内的といわれるようになったこの「歓喜」の経験が、現実との緊張した関係のうちに保持されていることである。そのことはまずキリスト教批判のうちにうかがわれる。〈その「死を前にしての歓喜」が内的な暴力になるような人間の持つ神秘的な存在性は、どうみても、それ自身で満足してしまうような至福、――永遠を前もって味見するキリスト教徒の至福と比べられるような――というものと合致することはできない〉。これは現実に目をつぶり、脱出して、彼岸のみを得ようとすることへの批判である。この批判はもっと一般的にされる。彼は「彼方」へと超越することをはっきりと拒否する。〈どうしてそのうえ「彼方」なるものが、またどうして「神」や、何であれ「神」に似たものがまだ受け入れられるということなどがあるだろう? 「彼自身を殺害する時間と舞踏する」人間が、永遠の至福を待ち望むことのうち逃げ込んでしまうような者たちに対して持つ幸福な侮蔑を表すには、どんな言葉も十分に明瞭ではないのだ〉。
 この考えは、本文たる後半にはっきりと反映している。後半部は6つの節から成っているが、その中心をなしているのは次の二つの文である。ひとつは第2、3節と二度繰り返される〈私は死を前にしての歓喜である〉という一文、もう一つはこれだけは「ヘラクレイトス的省察」という小題を付された最終第6節冒頭の〈私は私自身戦争である〉という一文である。後者が「アセファル」の創刊宣言的な文章中の、〈われわれが企てるのは戦争である〉にこだまを返していることは前に言ったが、このこだまを背後に起きながら「実践」のなかの二つの文は、明らかに対をなしている。二つを合わせれば、「私」は同時に、死の前の歓喜、また戦争であり、逆に見れば、死の前の歓喜と戦争は、「私」を媒介とし、「私」の内部において同一なのだ。これが戦争を目前にして獲得されたバタイユの存在の様態だったといえよう。

(「アセファル」に関する項終り)


[ホームページ(清水)] [ホームページ(長尾)] [編集室/雑記帳] [bt総目次]
エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
[No.13目次] [前頁(「棲家」について 6)] [次頁(塵中風雅 10)]
mail: shimirin@kt.rim.or.jp error report: nyagao@longtail.co.jp