バタイユ・ノート3
バタイユ・マテリアリスト 連載第2回

吉田裕



3 「ドキュマン」以前

 物質性への関心は、バタイユにおいて最も注目すべきものの一つだろう。物質性はバタイユにおいて、どんなところでも作用している。ほかの要素はかき消されてしまうように見えるところでも、それはかならず作用している。たとえば精神分析学というテーマをとり出してみる。するとバタイユがそれに引かれた時期と批判的になっていった時期のあることが見えてくるが、だからといって、バタイユはこのような理由から精神分析学に関心を持ち、後になるとこのような理由から関心を失った、と述べることには、ほとんど意味はない。なぜなら関心のこの消長は現象にすぎないからだ。それは根底的には、物質的なものへの関心に動かされているが、それを見ないかぎり、精神分析学またほかのどんな主題も、個別的であるにとどまる。またこの関心抜きでは、ほかの主題につながっていくということも起こらない。たとえば、もう一つ政治的関心という主題を取り出すとき、これら二つのものへの関心は、何年頃には、精神分析学に関心を持ち、また別のの時期には政治的な関心を示したという年代記的羅列にとどまる。それでなければ、集団形成に関する心理学は政治的関心と同質の関心であるという指摘にとどまる。だが、これらバタイユが次から次へともった関心は、簡潔だがもっと深い関心に貫かれている。この関心は、私の見るところでは、物質的なものへの関心なのだ。それをとらえることで、彼の目の眩むような多様性は、もっとはっきりとしてくるだろう。
 それぞれの個別の主題の中のいくつかには、個別性の枠が破られていく場面の現れることがある。政治的関心の場合は、そのひとつの例である。たとえば「ニーチェ時評」(三七年)で、〈共同の情熱が人間の諸力を結び合わせるのに十分な大きさを持たなくなったときには、強制力に頼ること、またさまざまの調整、取引、ごまかし等を発達させることが必要になる。これが政治という名を受けることになったのだ〉と彼が言うとき、彼は普通政治という名のもとに受け取られているものの奥に、本来的な何かの運動を見ている。この運動こそが本当の意味で政治的なものに違いないのだが、それは根本的には、共同体を熱狂のうちに動かす作用をもっとも強く持つ死のなせるわざであることが証明される。だが死とは、人間の物質性があらわになる瞬間でもあり、その意味では、共同性そして政治とは、物質にかかわり、物質性のもたらす運動であることになる。バタイユの政治という概念をそこまで踏み込んでとららえておけば、戦争が始まってバタイユは政治に背を向けたと言われる出来事の意味を、過剰あるいは過小にとらえる過ちを免れることができる。政治的と見える体験と考察の中に、常に変わることなく作用し続けたのは、物質的なものへの関心と、そこから来る否応なしの力だったからだ。それは彼の次の探求と実験の中でも継続した力だったからだ。
 精神分析学や政治というのは例証にすぎない。だから物質性の作用はバタイユのあらゆる関心と主題に作用していて、それをできるだけ多くの領域でとらえたいのだが、そのためにまずそれが最初の時期にどのように現れたかを検証する。なぜなら最初期には、この関心はもっとも率直なかたちで現れているにちがいないからだ。対象とするのは主に「ドキュマン」以前の部分である。この時期のバタイユの活動については、便宜的な分け方に過ぎないが、小説と論文とまだ実践的ではないが政治的な関心の三つの相でとらえることが、有効ではないかと私には思われる。

 一九一八年二十一才の時の「ランスのノートルダム」を別にすると、二三年に彼はシェストフの「トルストイとニーチェにおける善の概念」の翻訳に協力し、二五年には「シュルレアリスム革命」のために「ファトラジー」を翻訳している。だが彼自身による著作としては、二六年の『WC』が最初である。これは破棄されたが、一部分は残り、「ダーティ」と題されて後に『青空』に組み込まれる。それを見るとこれがエロチックな小説であったことがわかる。これをきっかけにして彼は同様の小説あるいはエッセイふうのものをいくつか書く。二七年には「松果腺の眼」、「太陽肛門」、そしてボレルによる精神分析の療法の一つとして『眼球譚』に着手し、これは長編となるが、翌二八年書き終えられ、出版される(同じ年に『ナジャ』が出ている)。そしてこの時期、つまり二六年から、彼は美術と考古学の雑誌「アレチューズ」に寄稿しはじめる。これは学術雑誌であって、彼はそこに彼の古文書学、あるいは配属された国立図書館の貨幣室の専門家として、モンゴル、ベネチア、インドの貨幣についての専門的な論文を発表している。「アレチューズ」への協力は二九年まで続く。そして二八年には、「プレコロンビア芸術展」――つまりコロンブス以前の南米文化に関する博物展――に接して、「消え去ったアメリカ」を書く。この論文は、血と残酷さへの彼の関心を明らかにしてきわめて重要であり、以後論文の先駆けとなるものである。
 バタイユにおいてエロチスムは、常に汚辱する行為として現れるということに、昇華に反抗する物質性の存在を認めることができるが、そうすると、後に彼の関心の中枢を占めることになる物質性への関心は、まずエロチックなものとして、小説を書くことの中であらわになったということができる。おぞましさという点では、先行する「松果腺の目」や「太陽肛門」のほうがまさっているかもしれないが、最初の成果が『眼球譚』であることは、量から見ても、また地下出版であれかたちになったことから見ても確かである。
 他方、論文というかたちでこの関心があらわになるのは、少し遅れるようだ。だが右にあげた学術的という枠のうちにあるを論文も、詳細に読んでいくと、ここかしこに後に固有の関心の萌芽が論文という枠を破って出てくるのを見い出すことができる*1。彼は「アレテューズ」に計七つの論文を寄稿しているが、主に書評と紹介であって、長いものは二つである。それらは「ムガール帝国の貨幣」および「ササン朝クシャンの貨幣」と題されていて、後者は純粋な学術的論文であって客観的な記述に終始しているが、前者には、後のバタイユから見てわかることではあるが、学術性の枠を破るような記述がある。四代のムガール帝国の皇帝の貨幣政策について述べているのだが、バタイユは、その中でもっとも華麗な貨幣を造った第四代皇帝のジェハンジルの人物性に、貨幣についての研究という枠を超えるような関心を示している。この皇帝は大酒のみで、残酷で、殺害者で、「激しい愛情」を持った女を、その夫を殺して奪い、后にする。そして彼の鋳造させた貨幣には、イスラムの伝統がある地域にしては珍しく、さまざまの動物が刻印される。このような人物への関心はいかにもバタイユ的で、次の「消え去ったアメリカ」を準備し、またはるか後のジル・ド・レーへの関心を予告しているようだ。
 「消え去ったアメリカ」は学術雑誌に載せられているから、学術論文として執筆されたのだろうが、言葉づかいも客観的と言いがたいものが多くなり、彼の関心はいっそう前面に出てくる。彼はより豊かで進んでいるとされるインカやマヤよりも、〈気違いじみた暴力と夢遊症的な歩み〉を持つアズテカ文明に惹かれる。彼はそこにヨーロッパの観点から言えば悪魔に近い様相を持ったものが信仰の対象とされていること、またその祭礼が、残酷極まる供犠――数千人が生きたまま心臓をえぐり出され、祭司たちはそれを食する――によって恐怖に満たされていることに惹かれる。これはヨーロッパ人に度を失わせ、理解をそれ以上に進ませなかったが、バタイユはさらに、その血にまみれた恐怖が幸福につながっていることを見い出す。彼はそこに〈恐怖の持つ驚くほど幸福な性格〉を見る。だから〈アズテカ人にとって、死はなにものでもない〉と彼は言う。恐怖は極度のものになることで幸福に転化し、そしてこの転化を媒介するのは死だ、というのが、バタイユが教えられたことである。さらに〈この悪夢のような破局はある種のしかたで彼らを笑わせた〉とも彼は書いている。ここには後年のバタイユの主要なテーマが、十分明らかなかたちで顔を出していることを認めることが出来よう。

4 政治的なものへの接近

 小説に現れたものは、作者のもっとも内発的な関心だと言えるだろう。プレコロンビア期のアメリカに対する関心も、内発性からくるところが大きいとたぶん言えるだろう。だがこの同じ時期に、つまりバタイユが青年期を、ヨーロッパが一九二〇年代を迎えるというこの時期に、ただ内発的ばかりではない、つまり外側から否応なしに侵入してくる関心と言うべきものが重なってくる。それはとりあえず政治的と言いうる問題である。
 バタイユは一八九七年生まれだから、二十歳前後に第一次大戦と、ロシア革命と、その後に続くファシズムの勃興過程を見ている。これが知的な青年に精神的な影響を及ぼさなかったはずはない*2。第一次大戦後のフランスは左右への分極が激しく、右翼運動も多くの若い世代を引きつけていたが、彼の政治との接触は、左翼運動への傾斜として始まる。この傾斜はロシア革命後の世代への特徴だったろう。〈私は同世代の多くの人々と同じようにマルクス主義に傾斜する運命にあった〉*3とバタイユは言っている。ところでバタイユにおいて左翼運動への仲介役を果たしたのは、シュルレアリスムであるようだ。二四年、バタイユはレーリスの紹介によって、『シュルレアリスム宣言』を出したばかりのブルトンたちと接触し、前述のように「シュルレアリスム革命」に中世の詩を翻訳することになる。ブルトンとの交遊は、生涯の終わり近くなって和解らしきかたちを取るものの、二、三〇年代においては、ほとんど両立しがたいものだった。ブルトンにとってバタイユは、〈汚れて、おいさらばえ、すえた匂いのする世界で、悦に入っている〉(『第二宣言』)偏執狂だったが、バタイユから見たブルトンは度しがたい観念論者だったからである。バタイユの反理想主義、唯物論は、ブルトンとの対立があればこそ、あれほど先鋭で過激なものとなったと言える。
 だがシュルレアリスムとの接触でもたらされたのは、文学上の刺激だけではない。それはバタイユにとって政治的なものへのイニシアシオンともなった。ブルトンたちは、夢の記述また自動記述などの実験を一九年頃から開始している。ブルトンとスーポーの『磁場』は二〇年のものだが、その試みが前衛的、つまり伝統的な価値観に対する強い批判を持っていることによって、政治的な前衛の関心を引くことになる。関心を示したのは、クラルテのグループである。クラルテとは、一九一九年にアナトール・フランスによって創設された文化人のグループでアンリ・バルビュスを責任者とし、ハインリッヒ・マン、ゴリキー、アインシュタインらを主要メンバーとしたが、若い会員の間では社会主義の影響、ことに第三インター(一九年にコミンテルンとなる)の影響が強かった。二〇年一二月には、トゥールで社会党が分裂し、翌年の一二月には共産党が成立する。こうした動きを背景として、クラルテの一人で、小説を書いていたアンリ・ベルニエ*4が橋渡し役になって、シュルレアリストのグループとクラルテのグループを接触させる。二一年頃からこの交流は始まるらしい。二四年にシュルレアリストたちは、アナトール・フランスの葬儀に際して、フランス労働党までが右派に一致して哀悼の意を表したのに反撥し、それを攻撃するパンフレット『死骸』を出し、続いて「クラルテ」自体もその創設者を批判する。それによって、既成政党の枠を越えた左翼運動が生じることになる。シュルレアリスム運動の機関誌として、二四年から「シュルレアリスム革命」が出ているが、二五年には、政治的パンフレット「まず革命を、常に革命を」*5が出され、文学芸術上の革命を社会革命と重ね合わせようというへ志向をシュルレアリストたちは持ちはじめる。
 この交遊の中にスヴァーリン*6の名前が入ってくる。彼はキエフ生まれのユダヤ人で、子供時代にフランスに移民し、労働運動の活動家となり、二〇年にフランス社会党から共産党が分離するときの創立メンバーの一人である。党の機関誌の編集長を務め、コミンテルンへの代表として、二一年以来モスクワで活動するが、二四年のレーニン死後のスターリンとトロツキーの間の権力闘争で後者を擁護したことで追放され、フランスに戻る。しかし彼は、ソ連共産党と協調路線を取るフランス共産党からも除名される。以後彼はいくつかの独立的なグループを作り、フランスにおける非共産党系の左翼活動家の一中心となる。二五年に彼は「共産主義者会報」を出し、二七年にはマルクス・レーニン主義共産主義者サークル」 というグループを作るが、これは三〇年に「民主共産主義者サークル」と名前を変え、三一年から「社会批評」を出しはじめる。彼自身は三五年に『スターリン』を出す。これはフランスでの最初のまとまったソ連論である。この活動の中にシュルレアリストたちが交差してくる。ブルトンの最初の妻シモーヌ・コリネは、シュルレアリスムの初期にブルトンにもっとも顕著な政治的感化を及ぼしたのは、このスヴァーリンとベルニエだと証言している*7
 二七年にブルトン、アラゴン、エリュアール、ペレらは、共産党に入党する。トロツキーが追放された二四年にクラルテのグループは、共産党批判を行っているし、帰国後のスヴァーリンらを中心とするコミンテルン批判、スターリン批判もすでに開始されていたが、またブルトン自身もトロツキーの『レーニン』に感銘を受け、紹介記事を書くほどであったが、彼らは共産党に加盟する。なにがしかの幻想がまだあったからだろうか。スヴァーリンは相談を受けたが、反対はしなかったらしい。しかし芸術が政治に従属させられ、シュルレアリスムが利用されても理解されてはいないことを感じて、彼らと党の間には齟齬が生じる。ペレはすぐさま離党する。ブルトンも距離をとるが、ただ離党するのは三五年になってからである。一方アラゴンはそのまま党にとどまり、反対に三〇年にはシュルレアリスムの運動から脱退する。

 バタイユとブルトンの関係の最初の結節点となった事件が起こるのは、二九年はじめのことである。この年の二月一二日ブルトンとアラゴンは、個人的活動か集団的活動かの間で態度を明確にするように求めるアンケートを、シュルレアリストのグループとその周辺にいた人物八十人ほどに送付する*8。シュルレアリスム運動からは、二六年にアルトー、スーポー、二八年にはデスノスらが除名され、また自らすすんで運動から離れ、すでに分裂が起きている。だからブルトンとアラゴンのこのアンケートには、このようにたがのゆるんだシュルレアリスム運動の方向性をあらためて明確にしようという意図があったことは間違いない。この質問は同時に、共同行動を行うときには、誰となら行動をともにすることが出来るかを答えることを第二の質問とし、これは多くの紛糾を巻き起こした。だが重要なのはやはり、最初に出された共同行動か個人行動かという問いのほうであろう。それは単に芸術上の運動としてのシュルレアリスムのみにかかわるのではなく、政治的な意味あいを含んでいることは明らかだった。集団行動がというのが何を指すのかは明示されていなかったが、それだけにそれは政治的なものである可能性を持っていた。前述のように、ブルトンたちはこの時期、集団で共産党に入党し、また脱退していた。それにこの時期には、トロツキーの問題があった。彼は二五年に権力機構から排除されたが、この年ソ連領からも追放されたからである。マルマンドは、このアンケートの実行の背後には、トロツキーの影があったと言っている*9。右のアンケートに肯定的に答えた者たちには、三月一一日に集会に出席するよう招待状が出されたが、この集会にはトロツキーの問題が議題の一つとして取り上げられることになっていた。
 このアンケートに対してバタイユは、きわめて簡潔に〈イデアリストの糞ったれどもにはうんざりだ〉と答えている。この頃バタイユは、政治的な行動を行っていないし、思想的な探求もそれほど深かったとは言えないが、ブルトンたちへのこの回答の中には、その政治的な匂いをかぎつけた上での拒否があるように思われる。党を担ぐのであれ、トロツキーを担ぐのであれ、彼らのうちにあるのは、あいも変わらぬ観念論にすぎない。そうである限り、自分の考えるような革命は原理的にあり得ようがない。仮に直観に負うところが大きかったとしても、この時、文学上でも、思想上でも、バタイユの立場は揺るぎようなく明確なものになっていたように見える。

*1 バタイユの「ドキュマン」以前の論文は、全集第1巻におさめられ、十項目ある。うち最初の一つは、古文書学校の卒業論文――一三世紀の騎士団に関する研究――の梗概、二番目がファトラジーの翻訳、最後が「消え去ったアメリカ」であって、「アレチューズ」に載ったのは七つである。引用する二つの論文は未訳である。
*2 バタイユの政治上の活動については、マルマンド『政治的バタイユGeorges Bataille Politique』一九八五年とシュリヤの『バタイユ伝』一九八七年(河出書房新社)に多くを負っている。
*3 『バタイユ伝』上87、OC,t8,p563
*4 ベルニエは、ブルトンやバタイユよりわずか年上で、第一次大戦に従軍したあと、政治ジャーナリスムの世界で活動し、その関係でドリュ・ラロシェルの友人となる。『ジル』でグレゴワール・ロランとして戯画化されているのが彼である。さらに彼はドリュを通じてペニョー家を知り、その娘であるコレットを政治活動の世界に連れ込む。
*5 「シュルレアリスム革命」は二九年まで続く。その最終号に第二宣言が掲載される。その後分裂を経て三〇年から「革命に奉仕するシュルレアリスム」となる。これは三三年六号で終わる。以後シュルレアリストたちは新たに創刊された美術雑誌「ミノトール」に参加する。
*6 スヴァーリンに関しては、次の伝記を参照した。"Boris Souvarine", Jean-Louis Panne, Ed. Robert Laffont, 1993.
*7 マルマンドは、ほかにマルセル・フリエとナヴィルの名を挙げているp23。
*8 このアンケートの文面は、モーリス・ナドー『シュルレアリスムの歴史』思潮社に収録されているp191。
*9 前掲書p33。

[ホームページ(清水)] [ホームページ(長尾)] [編集室/雑記帳] [bt総目次]
エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
[No.18目次] [前頁(矢印)] [次頁(Windows ヘルプを使った詩集の制作)]
mail: shimirin@kt.rim.or.jp error report: nyagao@longtail.co.jp