清水青磁歯科医院の狂騒 観察詩2

山本育夫



歯科医院の午後は、モダニズムの憂鬱である。誰も彼もが眠ったように動かない。ひとけのない真っ白な土道を、黒い影を引き連れてひとりで、ぽつんと、そう、全身にいっさんの蝉時雨を浴びながら、清水青磁がウィスキーのポケット瓶に、こう、人差し指を差し入れたまま、立っている。上下白の綿のスーツが細かな皴を寄せているのは、哀愁である。白いハットが清水青磁の顔を黒い塊にしていた。その青磁の立ち姿を見ていたのは、この村の頭上一面に午後からむくむくと発達していた巨大な積乱雲ばかりであったが、実はもうひとり、清水青磁歯科医院の二階の、洋風の白い窓からその姿を覗き見していた者がいた。清水菜々子、つまり清水青磁の次女である五歳の娘。清水青磁が道の真ん中に立ちすくんでいたのには理由があったのだが、その時その理由をもちろん村中の誰一人として知る者はなかった。広大な敷地を持つ歯科医院は、林の中に建つ西洋館であり、当時としては珍しい地下室を持っていた。昼でも庭は湿り気を帯び、その湿り気はそのまま地下室にも這い及んでいて、奇妙な人体模型の残骸や、頭蓋骨などが散乱しているその暗い部屋の奥には、巨大なコンクリートの桶がしつらえてあり、ホルマリンがあたり一面に臭気を放っていた。そこに母が眠っているのを菜々子は知っていて、時折その小さな白い足の裏をひんやりとさせながら地下室の桶を覗き込み、母さま早く目を覚ましてねと呼び掛けたりしていたのであるが、しかし眠っている母の真っ白な裸身の中の柔らかな乳房の丸みと乳首の朱色、股間にゆらりと立ち上がっている陰毛の、その黒い茂みを無表情な目で見つめていることもあったというから、すでに五歳にして菜々子は、宿命をその白い小さな心に痣のように染み付けてしまっていたのかもしれなかった。その母の裸身には、首がなかった。清水青磁の人差し指の先の、茶色い小さな空間の中で、ちゃぽっと、ウィスキーの芳醇な香りが跳ねた。よく見るとその、琥珀色の水の面には、小さく白い積乱雲の影が映っている。清水青磁はそれから、ゆらりと歩みを進め、それと同時にあたりには村の日常の活気のようなものがよみがえったのではあるが、そのとき歯科医院の一階にある診療室の暗い医療器具たちもまた、周囲にあった少ない光を吸収してざわりと身震いした。その診療室の片隅で、向こう向きに座り込んで一心に江戸川乱歩の少年探偵団を読んでいるのは、長女の祥子。祥子は今日、級友の葬式で長い弔辞を読んできたばかり。そのとき流した涙のあとが白く、切れ長の鋭い目の縁に残っている。土道をゆく、青磁。明日は「天皇陛下」が「御越し」になるというせいか、太平醸造社長金丸信は、額の汗をぬぐいながら社員をどやしつけている。おお、青磁さん、と信は青磁を見つけて歩み寄り、それにしても顔色がわりいじゃねえか、とそっとうかがったが、すぐにまた、なにしろ明日は陛下が来る、この村も有名になる、と吐き捨てるようにそう言うと、そのまま背を向けた。青磁は、そんな信に構いもせずに、角の豆腐屋に入っていく。振り返る豆腐屋主人、坂田冬至。その一瞬に喉仏をするどい何かでかき切られた。血はあたり一面に吹き出し、水底に沈む白い豆腐の塊はみるみる赤く染まった。青磁は指の先のウィスキー瓶をいつの間にか石塀の角か何かで叩き割っていたのであった。「翌々日」の新聞記事がある。山梨日日新聞である。四十年ほど前のこの事件は、紙面の片隅に小さく報じられている。なにしろ「翌日」の新聞の一面には大々的に天皇陛下の来訪記事が載ったばかり。あまりにも不吉な出来事であり、しかも事件は天皇が来訪する前日に太平醸造の隣の店で起こったのであったから、報道を押さえられたに違いない。「歯科医師、妻を寝取られ逆上し、豆腐屋を殺す」と、ある。なぜ青磁が妻の首を切ったのか、また、妻の首はどこに隠されたのか、ついにわからぬままであった。

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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