バタイユ・ノート3
バタイユ・マテリアリスト 連載第5回(最終回)

吉田裕



9 「老練なもぐら」
「老練なもぐら」は、執筆時期を特定できないものの、草稿として残されたものを辿っていくと、「サド」のあとに書かれたことは確かなようだ。「サドの使用価値」では、等質的同一的世界から分離された異質なものがさらに、高貴な異質さと忌まわしい異質さに分離すること、だがこの前者は等質的な世界と同化してしまいがちであるのに対して、後者はどこまでも異質なものにとどまることがサドを主題にして述べられた。「もぐら」は、たしかにこの点を引き継ぎ、比較して言えば、等質性と異質性の分離と後者の中のさらなる区別を前提とした上で、低い異質性から発する高い異質性に対する激しい、けれども論理的な批判が中心となっている。反対に、社会革命との関わりの問題は、それほど厳密には述べられない。多く言及される作家はニーチェだが、ニーチェそのものが問題にされるのではなく、それはこの場合ひとつの例である。簡単に言えば、これはイデアリスム批判を主題とする論文である。反対に「サド」にあった社会革命との関連づけは、「もぐら」ではそれほど明瞭には現れない。この点は、同時に書かれつつあった一連の異質学の草稿に委ねられたのだろう。
 高貴な異質性と低い異質性の対比は、「もぐら」では鷲ともぐらの対比としてあらわされる。鷲とはもちろん高く飛ぶもの、もぐらとは地の底、腐敗の中をはいずり回るものである。前者はブルトン、後者はバタイユである。後者は次のように批判を展開する。
 同質化された社会の内部から批判者が出ることはないわけではない。その同質性から来る束縛に息苦しさを感じるからだ。だがそれは、しばしば次のような経路を取ることになる。彼らはこの社会から脱出しようとするのだが、現実的な世界を動かすことが難しいために、その脱出は抽象的、観念的な世界に向かうことになってしまう。それは、十分な批判と破壊を行いえないときなのだが、結果として、この社会を批判するためにという理由のもとに、より高みにある別の権威を求めることになってしまう。求められた権威とは、神という名を持ってはいないとしても、精神、超現実、絶対など、イデア的なものである。それは高貴な異質性にほかならない。これがシュルレアリスム(超現実主義)とニーチェの超人に含まれる超の意味である。
 この高みへの志向、観念性が同質性と癒着して権力を構成してしまう危険は、「サド」で明らかにされたが、「もぐら」ではもう少し別の可能性が示され、より詳細な分析がなされている。すなわちこの高みへの思考が同質性とすぐさま癒着しない場合でも、倒錯と退廃に陥らざるをえない。なぜなら、自分の出自たる場所から観念の世界へと越え出たものは、批判の視座を勝ち得るものの、距離を持つことによって不安を持つことになる。観念性は、それが強くなればなるほど、深い不安、一種のインフェリオリティ・コンプレックスをもたらす。このコンプレックスは罪責感と自己処罰の感情として現れる、とバタイユは言う。罪責感とは自分の出自の場所を離脱したことに起因するものであり、それが高じるとそのような誤りを犯した自分を処罰しようとする衝動が無意識のうちに現れるのである。それはまたすでに「去勢されたライオン」の去勢でもあった。古典的な例を引くならば、天上の火を盗んで禿鷲に肝臓を裂かれ続けるプロメテウスであり、あまりに高く太陽に近づいたために失墜するイカロスである。
 同じことが〈純粋に文学的な存在〉であるブルトンにも起こっているとバタイユは指摘する。ブルトンは第二宣言の末尾で〈一切の事物の獣性に対抗するイデアという復讐の武器〉と言っている。彼はイデアを自分の根拠だと確信している。この立場はバタイユの対極にある。バタイユによれば、ブルトンはポエジーの領域内から出ることができず、出ようともせず、不可避的にコンプレックスと退廃をはらむ。『第二宣言』冒頭には、〈もっとも単純なシュルレアリスト的行為は、ピストルを手に持って街路に降り立ち、できるだけあてずっぽうに群衆に向かって発砲することだ〉という物議を醸した一節があるが、バタイユはそこに、罪責感と自己処罰の欲求があることを見出す。これはイデアの世界にあまりにも深く入り込んで支えを失った心情が、罰されたいという無言の欲求を隠しつつ、どのように爆発するかを示しているのだ*1
 次いで重要なのは、この精神の劇が社会の中に位置づけられていることである。それは「サド」で、作家としての物質性の探究が革命運動と重なり合おうとする様として触れられたが、「もぐら」においては、もっと今日的な姿をとることになる。
 神であれ、王であれ、単一的な権力に支配されているゆえに同質的な社会からも、批判的な精神は生まれうる。しかしながら一九世紀においては、この観念的な革命性は権力と癒着し、革命を挫折させ、軍事的なファシスムに接近する。ナポレオンがその例であった。そしてニーチェは*2、一九世紀終わりにおいてもその危険があることを、古典的な優越者のモラルを称揚することで示すが、シュルレアリスムは今日もまだ同じ危険のあることを示す。しかしながら、今日事情はある意味では根本的に変わった。中世において騎士階級は、現実には無慈悲な略奪者にすぎなかったが、聖杯伝説を媒介にして騎士道の理想という神話を作りだしえた。だがブルジョワ社会の支配者たちは、このような聖化の可能性を持っていない。銀行家はどう見ても英雄となりえない。そのようなとき、聖なる異質さを担うべき人間は、同化すべき至高の存在を見出すことができず、ただ観念的な存在にとどまるほかなく、その時退廃と去勢の危険は不可避のものとなる。
 だから「サド」から「もぐら」へという二つの論文で示されたのは、高いものと低いものの単なる二者択一ではない。バタイユからすれば、ブルジョワ社会を批判してこの倒錯を避けるためには、もぐらのごとく〈ブルジョワ文化の悪臭を放つどぶを掘り返す〉ほかないのである。

10 シュルレアリスムと共有するもの
 もっとも目に付きやすい区切り方をすると、バタイユの最初期の活動は、シュルレアリスムとブルトンに対する構想としてとらえることができると考えて、その過程をまず彼の著作に密着するかたちでたどってきた。この作業をとりあえず終えたところで、次に必要な作業は、それをもう少し掘り下げ、バタイユの原理的な姿にもう一歩近づくことである。そのためには、シュルレアリスムとの関係を総括して、次の時期への視野を拡げておく必要がある。
 シュルレアリスムとの関係は、異質性をめぐる違いも、サドの読み方をめぐる差異も、深いものでありながら、少し視点を高くするならば、大きな共通性を持っているとも言える。なぜならサドを問い、異質性を探究するなどということは、どう考えてみてもごく少数の者のみが行いうる行為だったに違いないからである。バタイユが自分をシュルレアリスムと無関係と考えることができなかったのはそのためである。
 三〇年前後のこのやりとりは、ブルトンの側からすれば、単にバタイユとの論争であるにとどまらず、シュルレアリスム内部に顕在化してきた矛盾とそれに伴う変化の問題であった。この時期以後のブルトンの志向は二つの局面をとって顕在化する。それは〈神秘主義への傾斜とコミュニスムの戦闘主義への服従〉(ナドー『シュルレアリスムの歴史』*3)である。ただこの傾向は二〇年代半ばからすでに現れている。『第二宣言』でブルトンは、〈私の願いはシュルレアリスムの深遠、かつ誠実な秘教化である〉と書き*4、占星術、錬金術への関心を明らかにしている。女性を通って現れる神秘もその一つである。『第二宣言』では〈女性の問題こそは、この世における不可思議かつ混沌としたものの代表である〉と書いているが、すでに二八年の『ナジャ』は女性から来る神秘がもたらした物語である。そののあとには、三〇年に「処女懐胎」、三一年に「自由な結合」、三二年に「通底器」、三七年『狂気の愛』、四四年『秘法一七』が書かれる。
 コミュニスムへの傾斜も二五年頃から始まり、ブルトンは二七年には共産党に加盟する。一方彼はトロツキーに惹かれている。そして『第二宣言』をめぐる騒動で「シュルレアリスム革命」誌が廃刊になった後、彼は「革命に奉仕するシュルレアリスム*5」誌を創刊する(三三年までに六号を発行)。この誌名からだけでも、ブルトンがシュルレアリスムを政治に重ね合わせようとしたことを見て取ることができる。だが彼はひたすら忠実な党員であったわけではなく、曲折がある。三一年の「赤色戦線」に始まるアラゴン事件を経て、彼はソ連系正統派共産党的なコミュニスム運動から離れる。次いで彼は「コントル・アタック」の冒険を経て、トロツキーへのいっそうの親近を明らかにし、三八年にはメキシコまで会いに出かけるのである。
 興味深いことだが、この二つの局面の顕在化はバタイユの側でも同じである。三〇年に彼は「低次唯物論とグノーシス」を書いて、物質性が宗教性と対立するどころかその不可欠の条件となる場合のあることを示して、新たなかたちの宗教的関心を覗かせる。三一年には『太陽肛門』を書き、同じ頃高等研究院でコイレによるニコラウス・クザーヌスの「無知の知」「反対物の一致」のセミナール、続いて三四年からは、その跡を継いだコジェーヴによるヘーゲルの『精神現象学』のセミナールに出始める。彼がそこで知ることになるのは、プロシア国家の御用哲学者ではなく、狂気の一歩手前まで行ったヘーゲルであるり、後の神秘的な傾向の発端でもある。女性への関心について言えば、『眼球譚』は二八年だが、それはまさに『ナジャ』の年でもある。またアラゴンの『イレーヌ』も同じこの年である。
 他方政治的な側面はもっと類似性を示している。彼が左翼的な思想への関心は「もぐら」で明らかである。「ドキュマン」の廃刊前後の三一年、彼はボリス・スヴァーリンと知り合い、「民主共産主義サークル」に加盟する。これはトロツキーの影響の強い非共産党系の組織である。そしてその機関誌「社会批評」に同じ年の一〇月の第三号から寄稿しはじめ、この時期の彼の最重要の著作、社会的政治的な射程を持った「消費の概念」「国家の問題」「ファシスムの心理構造」(三三、四年)を発表する。そして三五年には、「コントル・アタック」で再びブルトンと会いまみえることになる。
 むろんこの中にも差異を無視することはできない。物質に関する考えかたは見てきたようにずいぶん異なる。ブルトンは史的唯物論、唯物弁証法、マルクス主義と言われるものに同意している。〈シュルレアリスムは、すでに見たように社会的にはマルクス主義の公式を断固として採用するものである〉*6。これに対してバタイユは、とうてい採用するなどという姿勢をとることはなかったろうが、それは別にしても、「もぐら」の冒頭に、〈自然においても、歴史においても、腐敗は生命を生む実験室である〉というマルクスからの引用を置く。このマルクスは、史的唯物論として取り出されるマルクスとは、ずいぶんと違っているだろう。またトロツキーについても、彼はスヴァーリンやまたこの頃知り合うシモーヌ・ヴェイユの影響か、批判的な姿勢を最初からとっている。
 だがここに並行性を見ることは不自然ではない。しかしこれを単にブルトンとバタイユの間だけのことと限定するのは間違いである。シュルレアリスムは、三〇年代に入って以前のような固有の力を失っていたように見える。神秘的なものへの関心は、彼ら二人だけのものではなかった。オリエは〈神話は時代の流行だった〉と言っている。また政治的な動向への関心はロシア革命以後の世代に共通であり、さらにそれに応じるようにして勃興したファシスムは、あらゆる芸術家思想家に、政治的な立場、また政治に対する立場を明らかにすることを否応なしに強いたからである。その時ブルトンあるいはバタイユの立場は、特別なものではなかったが、おそらくは彼らは相手に対する近さと差異を測りつつ、時代の中へ拡散していった。それはひとつ時代をもっと深く共有することであった。

11 補遺
 バタイユ・ノートの3「物質の探求者」をとりあえずここで終える。この標題で書き始めたとき、三九年つまり戦争が始まるまで行くつもりでいたが、いったん休止符をおくことにする。しかしそれはこの主題が無効だったということではなく、展開しながらそれが別の言葉のほうがふさわしい姿を取り始めたように思うからである。
「物質の探求者」を始めたとき、バタイユの生涯を通じての探求の一番底部には、不可解な手触りを持った何かがあるように思え、それを何とかして明るみに出してみたかったからである。この手触りはそれと名指すことは難しいが、それでも確かなものであって、さかのぼっていくと、初期にはかなり明確なかたちで現れていて、「物質」というのがこの手触りの元にあるものだということがわかってきた(あるいは私にはそう思えた)。ものを書き始めた頃のバタイユには、物質論への傾斜がはっきりとしている。しかしそれはある時期から、私にはそうだったように、見えにくくなっていく。それを何とかして連続させて読み通したいというのが、念願だった。バタイユの中でもっとも人目を引き、確かに興味深いものである内的体験やエロチスムも、基底にあるこの物質性との関係を明確にしない限りは、十分明瞭なものにならないと思えた。
 それで「物質の探求者」を始めたのだが、それをここで終えるのは、今言ったようにバタイユの物質性が、変化しながら――見えにくくなるのはこのためなのだ――別の様相を持ち始め、物質性という、通常ではスタティックな印象を与える標題の元では追跡しにくくなったからである。バタイユにおいて物質が物質性そのものを保ちつつ、その強度を一番高めるのは、三〇年前後のことである。そしてまさにこの獲得された強度を条件として、それは変化を起こす。すなわちバタイユの物質は運動し始めるのである。それをどうとらえるか。まずとりあえずとしては、社会的な関心と視野の広がりとなって現れたと言ってみるのが、妥当だと思われる。
 社会的な関心と視野とはもっと具体的には何か、と反問されれば、それは彼が社会学や民族学といった新たな視野を開発しつつあった学問領域の読書と、政治的な実践に近づいたことをあげられる。しかしそれを単に彼の知的好奇心の幅の広さとか、思想も実践もともに行った人間性といった観点で見るべきではない。そこに現れるのは、言ってみれば一つの「空間」あるいは「場」である。社会学とは、社会に対する知であるが、もっと根本的には社会に対する関心であり、もっと下れば社会的意識そのものではないのか。バタイユが行おうとしたのは、社会学という学問のかたちにまで形成されてしまったものを、もう一度社会に対する意識という最初のかたちにまで還元しようとすること、それを通じて人間を社会的存在という様式にま戻してみようとすることだったと思える。そのことがさまざまのきしみをもたす。
 典型的には、社会学研究会は、バタイユの中でこの還元の試みであった。それはある程度まで提唱者たちの共通の目的だった。三七年三月の「設立声明」では、この研究会で対象とされる社会学は、聖ナルモノに関する社会学だが、それは「聖社会学sociologie sacree」ともなると言われている。逐語的な翻訳ではうまく表せないが、ここで言われている変化は、社会学が、聖ナルモノを研究する、つまり客体化する立場にたっての学問であるにとどまらず、この学問自身が聖ナルモノとなる、すなわち社会的な意識そのものとなること、しかも聖なると言われるほどに動的なものとなることを指している。
 この過程はどのように実践されたのか。社会学研究会とはたぶんその結論的な試みであって、それを十分にとらえるには、「ドキュマン」以降のバタイユの試行錯誤を丹念に辿る必要があるだろう。だが社会学研究会においても、バタイユのやり方は、主要な同人であったカイヨワあるいはレリスのやり方と、かならずしも一致しているわけではなかった。バタイユと彼ら二人の間で問題になったのは、まずバタイユがデュルケムやモースの著作を恣意的に読み過ぎるという批判だった。これはたぶんにレリスとカイヨワが訓練を受けた専門の研究者であったのに対して、バタイユはこれらの学問に対してはアマチュアであったからだ。たとえばデュルケムの『宗教生活の原初形態』、モースの『供犠』(これはユベールとの共著)『贈与論』を、バタイユの神秘主義、あるいはポトラッチに関する所論と較べて見れば、これは一読して力点の置き方が違うことがわかる(バタイユはニーチェについても、読み方が恣意的だという批判を受けている)。だがこの差異は、専門家とアマチュアの読み方の差異ばかりではない。それはバタイユが、社会学を社会的な意識そのものへ還元することがあまりに激しかったためだと私には思われる。カイヨワにしても、レリスにしても、そういう志向を持たなくはない人々であった――特に前者――が、それでもバタイユのやり方は、異和をきたすほどのものだったのだろう。
 政治的なものについても同じことが言える。バタイユにとっては政治とは政策ではない。彼がもっとも政治化したとされる時期に彼が書き残したものを辿ってみても、政策的なものは見あたらない。またニーチェの政治について、〈彼は給与とか政治的自由の問題とかいった一時的な問題からは身を背けていた〉と言っている(「ニーチェはファシストか」)のも、同じ傾向を示そうとしたものだ。これは確かにリアル・ポリティックの領域では限界を持つ立場だろう。しかしそれはこれまで未知であったものを示す立場でもある。政治とは権力の問題として現れる。だがこの権力というのは、そのまま現存の政治組織のことではない。それは何か力の作用の仕方、社会的とはまた違った現れようである。この点についてはまだうまく言えない。それをとらえ、言い表そうというのがこれからの試みなのだが、ほかのところで示唆を受けた文章があったので、引いてみる。フーコーは『性の歴史』の中で次のように言っている。〈権力という語によって私が表そうとするのは、特定の国家内部において市民の帰属:服従を保証する制度と機関の総体としての「権力」ではない。私のいう権力とは、また、暴力に対立して規則の形をとる隷属の仕方でもない。さらにそれは、一つの構成分子あるいは集団によって他に及ぼされ、その作用が次々と分岐して社会体全体を貫くものとなるような、そういう全般的な支配の体制でもない。権力の関係における分析は、出発点にある与件として、国家の主権とか法の形態とか支配の総体的統一性を前提としてはならないのだ。これらはむしろ権力の終端的形態にすぎない。権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ〉(邦訳第一巻p119)。
 国家の主権とか法の形態とかは、権力の終端的形態にすぎない。それは社会学は社会的な意識の終端的形態にすぎないのと同様である。バタイユにおいて政治は、無数の力関係にまで還元される。そうするともはや社会的なものとの間に境界はないのだ。そして私は自分がバタイユに見いだしてきたことを思い出すのだが、彼は同じことを、神に関して、また文学に関してもやってきたのではないのか。彼は〈神とは流動的な概念だ〉と言っている(「ニーチェの笑い」)。つまり、キリスト教的な神、人格神化された神を、恐怖と笑いに満ちた原初の神的な存在――神の不在――にまで戻してしまおうとする。また彼の言語もあらゆる形式を踏み倒して横溢し始める(これに関しては『聖女たち』所収の論文「淫蕩と言語と」を参照していただきたい。そこで私は「流動する言語」という章題を用いたが、それは図らずものことだった)。
 バタイユの世界は、三〇年代に入って一挙に流動化した、という印象を私はうける。この流動的な世界の中で、物質性は一方のメルクマールをなしている。もう一つメルクマールをなしているのは、神秘的つまり彼が言うところの内的経験である。この二つを極としてバタイユの思想的な――というよりも彼の存在の全体に関わるところのと言うべきだろうが――空間は限界を越えて拡げられる。そしてこの二つは本当は同じ一つのことだろう。そのための還元と解体の作業には、彼が出発点で見定めた物質性、どんな観念化にも有効性にも取り込まれないその永続的な異質性が作用している。この作用を見失うことなく彼の三〇年代を辿る(物質性の作用を見失わないことは辿るための絶対的な条件である)、まず物質性に一番近い社会的政治的な意識の変遷をたどるというのが、次のノートの主題である。

*1バタイユの出発点にある、観念性に対するこのように激しい批判を読むとき、私がどうしても思い出すのは、吉本隆明の場合である。吉本もその思想的出発にあたって、観念性批判を展開せねばならなかった。それが最もよく見られるのは「マチウ書試論」の場合であろう。彼は原始キリスト教の激しいユダヤ教批判の中に、現実から疎外されたものの攻撃的パトスを見たが、この深い疎外は、反面で現実から外へ出たということから来る不安を「原罪」の意識にまで集約させたと見ている。罪責感、自己処罰の欲望、去勢願望、原罪はすべて同じ心的構造から来ている。それを去勢願望と見るところにはフロイト読書が、原罪を批判するところには、おそらく『道徳の系譜』のニーチェが作用している(吉本の場合はそう告白している)に違いない。
*2バタイユは「もぐら」の第三章全体をあててニーチェを論じている。ニーチェとはもちろんバタイユにとって最重要の哲学者のひとりである。バタイユは二五年頃からこの哲学者を読み始めるが、熱心に言及しはじめるのは、三五年の「アセファル」以降のことである。そこでは全面的なニーチェの世界への全面的な同意が見られるが、それと対比すると「もぐら」での明らかなニーチェ批判は注意を引く。ただしバタイユの見方は一貫していると言わなくてはならない。なぜならバタイユは、ニーチェを力への意志ではなく永劫回帰を中心に置いて読むようになるが、ニーチェの超人は力への意志の文脈に属する思想であるからだ。バタイユのニーチェ理解に関しては、本ノートのU「バタイユはニーチェをどう読んだか」(現在『ニーチェの誘惑』の標題で書肆山田から発売中)を参照していただきたい。
*3思潮社、二四四ページ。
*4アンドレ・ブルトン集成第五巻、一一三ページ。次は一一六ページ。
*5考えてみると、この雑誌の名前そのものが、バタイユの求めたところとはずいぶん異なっている。彼はこの時期以後ニーチェに傾倒するが、それは〈ニーチェの原則は利用されることが出来ない〉ものだという性格を持つものであるからだった(この点については、『ニーチェの誘惑』の第5節を見ていただきたい)。このようなありようは、ファシスム的な利用に反対するために強調されたが、そのときバタイユの頭の片隅には「革命に奉仕」しようとしたシュルレアリスムへの反発が作用していたかもしれない。少なくともバタイユはこのような名前はつけなかっただろう。
*6アンドレ・ブルトン集成第五巻、九三ページ。

(バタイユ・ノート 3 「バタイユ・マテリアリスト」終わり)


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