バタイユ・ノート4
政治の中のバタイユ 連載第1回

吉田裕



第1章 政治的関心
 一人の思想家の青年期を読んでいくと、あてどのない無軌道な試行錯誤のなかで、彼自身の関心が否応なしに浮き彫りにされてくるのが見える。次いでこの関心は、時代と社会に衝突し、その中に拡がろうとするが、それは同時に時代と社会が、この青年の中にほとんど暴力的に侵入してくる過程でもある。そこまではたぶん、誰にでも起こることだ。それでもこの相互的な浸透と破壊を正面から受けとめることを、誰もが成し得るわけではない。多くは身を逸らし、目をつぶり、いくつかの教訓を引き出すだけでこの時期をやり過ごす。しかし、ほんの一握りだが、それによく耐えることができる者がいる。彼はこの苦痛に満ちた時期を、ただそれを書きとめ、対象化し、自己を見つめることで支える。その時彼が書きとめたものが、それだけがどこからか光を放ち始める。思想となりうるのは、そうして書きとめられたものだけである。
 一九二〇年代は、バタイユにとっては、大筋では自分の生来の関心にかかずらわった時代である。シュルレアリスムあるいはブルトンとの対立は、彼の関心をあらわにするように作用している。彼に明らかになったのは、自分がどうしようもなく、汚れたもの、低いもの、要するに物質性に憑かれていることだった。彼の書き残したものを見ると、彼が物質に関心を持っていたというのではなく、物質のほうが彼につきまとったのだという印象を受ける。彼はもはや自分の意志で物質から逃れるということはできない。物質は否応なしに彼につきまとい、つき動かし、にっちもさっちも行かぬ場所に彼を追いやる。こうして彼は、時代と社会の真ん中に立つのである。
 ブルトンとの決裂があった三一年頃から、取りあえず戦争という事件で区切られる三九年頃までの期間、これはバタイユの関心が急激に拡大されていった時期である。この広がりは実に多様な姿を見せている。曰く政治への関心、社会学、哲学といった学問への没頭、エロチックなものの探求、画家たちとの交流、あるいは宗教からの魅惑、等々。これらを本当は区分することは出来ない。それらはバタイユというほかならぬ全体を示しているからだ。しかしこの全体を知るために、どこかに最初の接点を求めねばならないとしたら? さまざまの可能性のうち、今私はまず政治的な部分にこの接点を求める。なぜなら、政治的なものというのは、目に見える形を取ってこの時期の彼の存在をもっとも強く規定したものであるからだ。また全体の側から見ても、政治的なものとは、それが内包する活動する力のもっとも先鋭な現れ方であるに違いない。政治とは政策だというのは私たちの通念であって、バタイユにおける政治的なものは、このような考えかたを変えてしまう。政治とは共同体の全体を動かす力のもっともあらわな姿であり、この力全体の発火点となり、さまざまの力を通底させる作用を持つ。そしてこの動的な力は、秩序に回収されることがないという意味で、彼の物質性とどこかでつながっているはずだ。私の印象では、この時期の彼を読むにあたって、ほかに有効な視点は、彼の社会学的な関心と宗教的な関心であり、これらは相互に働きかけ合いながら一つになっているが、これをまず政治に関わる層から接近したい。

第2章 コミュニスム運動とスヴァーリン
 バタイユは一八九七年生まれだから、二十歳になるやならぬかで第一次大戦とロシア革命を知り、三〇前後で大恐慌とファシスムの台頭を見ている。これらの出来事が、彼のような青年に落とした影響は生半可なものではありえなかった。彼および彼の世代は、大戦によってヨーロッパ伝来の価値意識が動揺するのを目の当たりにする。そうした世代にとっては、労働者と農民が権力を持つというソビエト社会の出現は、大きな魅惑を持ったにちがいない。バタイユの世代の政治は、まずコミュニスムとの関わりから始まる。次にこの世代が直面する政治的課題はファシスムである。イタリアでファシスト党、ドイツでナチ党が政権を取るのは、二二年および三三年である。地理的により近いこともあって、三〇年代はファシスムが焦眉の問題となる。バタイユの政治的な考えかたは、コミュニスムとの関係でまず作られ、ファシスムに関する問いの中に展開されたと言える。
 「ドキュマン」を通読して、バタイユのキリスト教とイデアリスムに対する憎悪に近い批判を知れば、彼がヨーロッパの伝統的あるいはブルジョワ的価値意識に、強い不満と批判を持った青年であったことを疑うことが出来ないが、その青年が革命を目指す運動体としてのコミュニスムに惹かれていくのは、当然と言えば当然のことではある。彼は二五年頃にニーチェを知り、衝撃を受けるが、それでも〈自分はニーチェを忘れ、全力を挙げてマルクシストになろうとした〉と書いている。ことほどさように、マルクス主義の魅力は強いものだった(ニーチェの影響はその後もっと強力なものとなって戻ってくるが)。二九年にアメリカで始まった大恐慌は、数年後フランスにも波及し、社会の秩序は大きく動揺する。こうした事情を背景にバタイユは、マルクス、トロツキー、プレハーノフらを読みはじめている。
 彼はブルトンとの論争で友人と雑誌を失った三〇年代のはじめ、ボリス・スヴァーリンという人物と知り合い、彼の主宰するサークルと雑誌に参加する。この雑誌――「社会批評」――に書いたいくつかの論文は、彼の戦前期を代表する論文となる。スヴァーリンとは、この時期のフランスのコミュニストとして――党の外にいたのだが――著名な人物であった。ロシアふうの名前を通用させていたが、本名はリフシッツ、一八九五年ロシアのキエフにユダヤ系の家庭に生まれ、幼年時にフランスに移民している。彼は労働者として育ち、社会主義運動に参加し、社会党からの共産党の分離に際しては指導的な役割を果たした一人であり、党機関誌の編集長を務め、ついでコミンテルンに対するフランス共産党の最初の代表としてモスクワで活動する*1。バタイユのコミュニスムとの関係、コミュニスムについての考えかたは、スヴァーリンからかなりの影響を受け、スヴァーリンを経ることで視野を世界史的なところまで拡大したように見える*2。それを知るためには、スヴァーリンの背後にあったものを瞥見しておく必要がある。
 ロシアでの一九一七年の革命は二月にケレンスキーの臨時政府を樹立させたが、レーニンらを迎えることで十月にソビエト政権を誕生させる。それまで革命が起こるなら一番最後だろうと考えられていた後進国ロシアで、社会主義に向かう最初の革命が始まったのである。この成功によって戦後の社会主義運動の構図は大きく変化する。崩壊したインターナショナルは一九年にコミンテルンへと改組され、本拠はモスクワに置かれて、実質的にロシア共産党の支配を受けることになる。このコミンテルンとの関係をめぐって、各国の社会主義政党の内部で分裂が起きる。フランスでは、ロシア共産党の例に倣って、合法的改良主義や議会制民主主義の意義を認めず、実力行使の展開による革命闘争を主張する分派が多数を占めることになり、二〇年の党大会で分裂は決定的になり、二一年にはマルセイユで共産党が結成され、コミンテルンに加盟する。各国でも事情は似たようなものであったが、この分裂による社会党と共産党の対立は、右翼勢力の伸長に味方することになり、後にファシスムの台頭を許す一因となる。
 スヴァーリンは、誕生したフランス共産党の代表として、二一年からモスクワのコミンテルンで活動することになる。このモスクワ滞在は、彼にさまざまの体験をもたらす。まずこれはレーニン(革命以前の亡命時代から書簡のやりとりがあった)、トロツキー、プレハーノフ、スターリンといった、ロシア革命の指導者たちと実際に接触し、国際共産主義運動の内部で活動することである。彼がもっとも多くの接触を持ったのは、コミンテルンの実際上の指導者であったトロツキーである。それに対してスターリンは、ロシアの国内的な指導者であったためか、さほど接触はなかったようだ。この時期ロシアの社会主義革命は重大な岐路に立たされていた。ロシアは後進国であり、そこでの革命だけでは十分でないと多く考えられていた。だが、革命がもっとも期待されていたドイツでは、一九年にスパルタクス団の蜂起が失敗し、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは殺害され、二一年頃には革命の失敗が明らかになっていた。ロシアでは内戦をようやく乗り越えた二〇年にクロンシュタットでソビエト政権に対する反乱が起こり、ネップ(新経済政策)への転換が始まっている。状況は否応なしに、ボリシェヴィキの一党国家体制へ向かいつつあった。
 このように困難が深まっていた二三年にレーニンは病に倒れ、翌二四年に死去する。そしてロシア共産党内で、革命の戦略と指導者の地位をめぐって争いが起こる。この権力闘争に勝利するのは、周知のようにスターリンである。この結果ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンらが次々に追放され、また後には粛清されることになる。その中でもっとも有能でスターリンのライヴァルと見なされていたのはトロツキーだが、彼は二六年に政治局員を解任され、二七年に連邦共産党(二五年にこのように改称している)から追放され、シベリア居住をへて、二九年には国外に追放される。彼はトルコ、フランス、ノルウェー、メキシコを転々とし、最終的には四〇年にメキシコでスターリンの指令によって殺害されることになる。
 この転変の中でスヴァーリンは、二四年五月の第一三回ボリシェヴィキ大会でトロツキー擁護の演説を行い、そのためにコミンテルンから除名され、七月にはフランスに帰国する。だがソ連共産党、コミンテルンと共同歩調をとるフランス共産党からも除名される。こうして以後、彼は非共産党系の左翼理論家として活動することになる。彼の活動はサークルを主催し、雑誌を発行するという形で行われる。二六年に「マルクス・レーニン的共産主義サークル」、三〇年にこれを改称して「民主共産主義者サークル」を組織し、機関誌として二五年から「共産主義通信」、三一年から「社会批評」を刊行する。彼の周囲には、共産党を除名されたり、離党した者、また共産主義運動に興味はあるが党に対しては批判的な人々が集まる。たとえばブルトンも、そうした人々のうちの一人である。最初の妻であったシモーヌ・コリネは、ブルトンの政治的関心を決定するのに一番大きな影響を与えた人として、クラルテの同人であったベルニエと並んで、スヴァーリンの名前を挙げている*3。バタイユは、ドキュマン廃刊のあと、三一年に「民主共産主義サークル」に加盟する。同じ時期にクノーやレリスも加盟している。また後に因縁浅からぬ関係を持つシモーヌ・ヴェイユは、サークルには加盟しないが、「社会批評」に何度か執筆している。

第3章 左翼運動のなかで
 スヴァーリンがもたらした最大の効用は、フランスにおける最初のロシア革命の批判者であったことだろう。彼の批判は必ずしも高度に理論的なものではなかったにせよ、外国での熱狂の裏で現実の社会主義革命がどのようなものであったかを告知する役割を果たした。彼は指導者たちの実際とロシアの現実を見ていた。彼はレーニンが革命を擁護するために反対派を弾圧することになるのを見たし、スターリンの人物をも知ることができた。彼は三五年に『スターリン』という大部の書物を出すが*4、これは偶像化された当時のスターリンとスターリニスムを批判する最初の書物だった。他方トロツキーとの関係について言えば、彼はトロツキーを高く評価し、時にトロツキストと呼ばれることがあったが、常に同調していたわけではなかった。彼はトロツキーが赤軍の組織者であり、クロンシュタットの反乱の鎮圧者であったことを知っていたし、亡命後のトロツキーに判断の誤りを指摘する手紙を送っている。トロツキーは三三年七月から三五年六月までフランスに滞在し、ファシスムの成立を許したコミンテルンを批判し、第四インターナショナルの設立を計画したが、そのときには手助けをしてもいる。この計画のために三三年十二月に彼らは、シモーヌ・ヴェイユの提供したアパルトマンで秘密の会合を持ったが、その際ヴェイユはトロツキーがクロンシュタットの反乱を鎮圧したことを批判し、トロツキーは言葉に詰まったと伝えられている*5。ヴェイユの背後にはサンディカリスムがあるとしても、これもスヴァーリン周辺の雰囲気を伝えているエピソードだろう。
 つまりバタイユは、紙一重のところで世界史的な動きに触れるところにいた――それがそのまま何かの優越を示すわけではないが――ことになる。しかも彼は批判的な距離を持つことができた。彼は共産党とスターリンにつながる系列に参加することはないし、トロツキーに対しても距離をとり続ける。それはたとえばブルトンやアラゴンと比較するとよくわかる。ブルトンは二五年頃にトロツキーの『レーニン』を読み、トロツキーに惹かれ続ける。彼は二九年に、亡命の途上トロツキーがフランスに立ち寄ろうとした時、擁護運動を組織し、三九年にはメキシコまでトロツキーを訪ね、「独立革命芸術連盟」を共同で組織しよう考えるまでに至る。一方アラゴンは「赤色戦線」事件をきっかけとしてシュルレアリスムから離脱し、共産党の中での活動をはじめ、戦後は党の文化関係の重要人物となる。こうした人々の中におくと、バタイユの差異は明らかである。彼は職業的な活動家ではなかったから、政治的意見を政治的な形で表明することはなかったが、彼の書き残した断片から見て、どの党派にも属さない、あるいはどの党派からも受け入れられない意見の持ち主であった。この異質さは、実はスヴァーリンに対しても同じである。バタイユは「社会批評」に「消費の概念」を書くが、そのとき、「この論文の主旨は、編集部の方向と異なるが、理論的探究の多様性を許容するために掲載を決定した」という但し書きをつけられる。これを見ると、バタイユの考えがこの独立的なグループの中でも異質なものだったことがわかる。
 バタイユのコミュニスムに関する初期の見解が現れているのもまた「社会批評」の論文である。主要なものは、三一年十一月の第三号の「ヘーゲル弁証法の基礎に関する批判」(クノーとの共著で、自然科学に関する知識はクノーが提供し、討論を重ねたが、実際の執筆はバタイユだったとクノーは言っている*6)、「消費の概念」(三三年一月、七号)、「国家の問題」(三三年九月、九号)、「ファシスムの心理構造」(三三年十一月および三四年三月、一〇、一一号)だろう。これらの論文は、それぞれ個別のテーマを持っているが、同時にどの論文にも、政治的な思考――とりわけコミュニスムに関する批判的考察――が入り込んでおり、そのために政治的思考に刺激を返してくるものでもある。ここではこれらの論文をこの政治的な関心という視点からとらえたい。
 「ヘーゲル弁証法の基礎に関する批判」は、題名の示すようにヘーゲルの弁証法を批判しようとしたものである。しかしながら、コジェーヴとの出会いはまだ後のことであって、この時期のバタイユ(以下二人の著者をバタイユで代表させる)のヘーゲル理解は後のようなものではない。だがクノーによれば、この時期彼らに映じたヘーゲルは「汎論理主義」者であって、彼の弁証法は、世界のすべてをイデアと理性の中に移し容れ、閉じこめてしまう哲学と見なされていた。バタイユはこれを批判しようとする。この批判を通じて少なくとも、この時期のバタイユが弁証法あるいはマルクス主義になにを求めていたかを読みとることはできるだろう。彼はこの論文を、今ではもうあまり読まれることのないドイツの哲学者ハルトマンの、〈ヘーゲルの『論理学』は、その大部分が現実に根ざしていない弁証法としてしか成立しないのではないかという嫌疑が、深刻な様相で生じる。それは『自然哲学』においてなおのことそうである〉という一節を出発点として開始する。この「現実」は新たな形に展開される。それは一つには「自然」であり、もう一つには「質料matiere」である。すなわちバタイユの関心の底にあるのは物質なのだ。どのような体系からも逸脱するものとしてのこの物質の性格は、明らかに「ドキュマン」以来あらわになってきたものであり、「基礎批判」はこの点では「ドキュマン」の延長上にある。
 ヘーゲル弁証法批判の試みは、ハルトマンによっては「現実」、エンゲルスによっては「自然」、そしてバタイユによっては「質料・物質」を通して行われる、というのがこの論文の提出する構図であろう。バタイユは前二つの試みを次のように位置づけている。〈ハルトマンは、弁証法的主題のなかで生きられた体験によって与えらると見なされるものを認識しようとしたのに対し、エンゲルスは、それらの諸法則を自然の中、すなわち、反対命題を伴って発展する理性の全概念を最初は閉め出しているようにみえる領域に見出そうとする〉。
 ハルトマンは現象学を用いることで、いわばヘーゲル弁証法の内部から「現実」を取り入れようとするのだが、弁証法的主題の中から現象学に合致するものを取り出そうとするだけだった。バタイユはハルトマンが自然には無関心だったと批判しており、それよりも、ヘーゲル弁証法から閉め出された領域から出発して、ヘーゲル弁証法を解放しようとするようなエンゲルスの試みにより関心をもつ。しかしながらエンゲルスの例もまた次のように錯誤の一つである。
 弁証法に対する批判は、実はヘーゲル自身――当時バタイユがみていたヘーゲル――にすでにみられるものだ。バタイユはヘーゲルが、自然は〈概念を実現し得ないゆえに哲学に限界をもうける〉ものだと言っていることを引用している。弁証法に対するこの批判の上に、エンゲルスの試みがある。エンゲルスは、無機的な自然、極限的には数学の中にも弁証法的な運動があることを証明して、自然と社会が弁証法によって一貫されていることを証明しようとする。だが彼は八年間を費やした後にこの試みに失敗し、また一九世紀の科学はこの試みの無意味さを暴き出す。〈電気が熱に変化すること・・と階級闘争と言うような全く別個の事象を比較することには、実際どのような意味もあり得ない〉197とバタイユは言う。自然をとらえることは、エンゲルスのように無媒介的に自然に接続することでは不可能なのだ。
 ではどうするか。バタイユは、この論文の主題は、〈弁証法的応用が・・有益になる限界はどのあたりかを極めることだ〉と言っている。しかしこれは、弁証法的な領域とそうでない領域の境界線をただ画定する、ということを意味しない。バタイユは〈弁証法的探求の対象は、もっぱら自然のもっとも複雑な生産物を表す〉288と言い、かつ〈自然における比較的単純な諸形態は、もっとも複雑な形態がもたらす資料を利用して研究されうる〉とも言う。すなわち弁証法の限界を意識し、それをより単純な自然、すなわちより自然的な自然の方向に拡大していくことで、いっそう自然を獲得すること――それは同時に弁証法もまた変容していくことであるのは予感されている――が目指される。これはマルクス主義にとっては、エンゲルス的ではない方向で物質をとらえようとすることであり、バタイユはその方向でのみ、〈マルクシスムを柔軟かつ苛烈なものとし、改革主義的な解決に断固として対立するものとする〉ことができると考えるのである。
 この革命運動における物質、あるいは物質的なものの意味と作用を、もっとも基礎的な水準でとらえようとしたのが、翌年の「消費の概念」である。バタイユの全過程の上での里程標の一つであるこの論文には、社会学をはじめとするさまざまの学問と思想が流れ込んでいるが、それでも政治的な思考から影響を受け、また政治的な思考に刺激を送ってくるような部分は確かにある。この論文でバタイユは、生産に還元されない消費があること、それが人間と動物を、さらに人間のなかでも高貴な人間と凡俗な人間を区別することを明らかにし、ついでそれが歴史上、社会活動上でどのように実践されてきたかを、彼の知識をすべて動員して分析している。それらは、奢侈、葬儀、戦争、祭典、遊戯、芸術、倒錯的性行為等々だが、そのなかに階級闘争もまた数え入れられている(第五章)。近代において台頭したブルジョワ階級とは、無意味な支出を嫌悪することで、富を蓄積し、それによって社会の支配権を握った階級である。だからブルジョワが支配するかぎり、その社会は、非生産的な消費を実践することが出来ない。そして今日のこの全体的な鬱積状態を吹き飛ばす役割は、プロレタリア階級の蜂起に求められるのである。

〈千八百年間はキリスト教の宗教的陶酔によって構成され、そして今日では労働運動によって構成される普遍的痙攣は、社会に迫って階級間の相互排斥を活用させる決定的衝動と一方において見なすべきであり、その目的はできるだけ悲壮で奔放な消費形態を実現すること、同時にまたきわめて人間的で、それに較べれば伝統的形態がさげすむべきものに思えるほど聖なる形態を導入することである〉

 ここでもまずバタイユ自身の固有の思考をたどらなければならない。彼が行おうとしているのは、秩序をなそうとするものに抵抗すること、その根拠を見出すことである。それは最終章の題名「物的事象の非従属性」がよく示していることではあるまいか。彼の根拠はここでもけっして従属しないものとしての物質なのだ。それが「ヘーゲル弁証法の基礎についての批判」を受け継いでいることは明らかだが、プロレタリア階級は、この物質性の一つの現れとして取り上げられ、浪費、排泄物、倒錯等と同列におかれることになる。バタイユにとっては、階級闘争、プロレタリアの蜂起は、非生産的消費の絶好の機会とみなされるのだ。このような主張が、当時のマルクス主義者――正統的であれ非正統的であれ――の疑惑を買ったことは、想像するに難くない。
 バタイユと彼らとの隔たりはこの時十分明らかだった。だがバタイユは自分の関心を追い続ける。三三年の「国家の問題」は、「社会批評」の四つの論文のうち、バタイユの政治的な立場がもっとも明瞭に言表されたものである。それは執筆の時期の問題でもある。社会民主党を無力化し、三三年一月にナチス政権が成立すると、その直後共産党は国会議事堂炎上事件によって壊滅させられる。「国家の問題」はこれらを背景においている。
 目に付くのは、〈ファシスムとボルシェヴィスムがもたらした結果のいくつかが一致していること〉を指摘し、ソ連、イタリア、ドイツを〈三つの奴隷社会〉と呼び、コミュニスムをファシスムと同一種と見なしていることである。それは国家の権力がかつてなく強大なものとしたことを指す。〈現今の歴史は、国家の強制力とヘゲモニーという方向へと向かっている〉。バタイユが「ドキュマン」あるいは「消費の概念」を通して、どこまでも異物として作用し、動的な性格をもたらす物質の存在に関心を寄せてきたとすれば、その対極にある最大の抑圧機構として見いだしたのが国家だったといえる。
 その中でとりわけ問題にされるのはコミュニスムである。なぜならコミュニスムは、本来は抑圧された者たち――その最大はプロレタリアである――解放する役割を持っていたにもかかわらず、退廃とを重ね、ファシスムに抵抗するどころか、ファシスムと同質の全体主義へと変質してしまったからである。それはスターリンの問題だが、西欧においてはそれ以上にレーニンを墨守してことをすまそうとしたコミュニストたち自身の問題である。
 ではこれに対して、彼はなにを提案するのか。彼は指導層を楽天主義と批判し、〈このような拘束の下にある世界のうちで目覚める革命の意識は、自らを歴史的に無意味であると考えるようになる〉と述べて、公式化された方向性すべての無効を宣言した後、彼の求めるところを次のようないくつかの言い方で表明する。〈それ(革命の意識)はヘーゲルの古い言い回しを用いるならば引き裂かれた意識、不幸な意識となる〉、〈すべては方向性を総体的に失わしめることにかかっている〉、〈ただ「絶望からくる暴力」のみが国家という根本的な問題に関心を集めさせうる〉。彼は理性から逸脱するもの、どんな統制からも逃れ、拒否するものを求めて、いっそう低いところ、暴力的なものの方へと惹かれていく。彼は彼の物質性が国家と直接的に対立しうるものであることを確認する。だがこのような提案は「ヘーゲル弁証法の基礎に関する批判」にもまして、公式のコミュニストたちはもちろん、反対派コミュニストたちにも認めがたいものだったろう。
 同じ三三年の「ファシスムの心理構造」は、ヒトラー政権が誕生したことを受けたファシスム分析であり、根本をなしているのは、ブルトンとの論争の時期に彼が構想した「異質なもの」に関する理論であって、異質なものが持つ共同体形成の強力な力とそれが陥りがちな錯誤を分析した論文だが、この本論部分の読解は、次のファシスムを検討する項に譲る。今はコミュニスムという視点から眺めることに関心を限定する。私たちの注意を引くのは序文である。この序文は、彼のマルクスの捉え方、またコミュニスムとファシスムという二つの主題を包括しようとする当時の彼の思考の枠組みを示していて、興味深いものである。

〈マルクシスムは、最終段階では社会の下部構造が上部構造を決定し条件づける、と断言した後、宗教的・政治的社会の形成に特有の状況について、総体的な解明の試みをいっさい行わなかった。同様にそれは、上部構造からの反作用の可能性を認めてはいるが、その場合もやはり、断言したままで科学的分析を施すに至っていない。本稿は、ファシスムに関連させて、社会的上部構造とその経済的下部構造との関係を、厳密に(完全にではないにせよ)提示することを試みるものである〉*7

 これはほとんど機械的な経済決定論に支配されていた当時のマルクス主義から言えば、きわめて特異な考えかたであった。だがそれだけにマルクス主義と言われていたものの欠陥を鋭くえぐったものであって、おそらく今日でも十二分に聴くべきものであると思われる。この背後にはバタイユのこれまでの思考が蓄積されている。下部構造が上部構造を決定するとは、一見物質の優位を言っているようでありながら、それは物質が上部構造すなわち観念の世界に包含されたことを言っているにすぎない。だが物質が非従属性という本来の作用を持つならば、それはまた観念の世界から解放されると同時に、観念の世界を解放し、後者が独自の様相を持つことを許すのである。観念の世界のこの独自性は、第一に宗教として現れる。だがある状況下においては、政治の動きもまたこのような独自性を持つことがあり得る。ファシスムの場合がそれなのだ。だからファシスムは、ただ経済的現象としてではなく、心理的現象として扱いうるのである。このような立場を認めることで、彼はファシスムを批判する視点を獲得するが、それは同時にこのあと、彼に宗教的な探求を可能にし、かつこの探求を特異なものとしたのである。
 「消費の概念」「国家の問題」「ファシスムの心理構造」は、息せくようにしてわずか一年ほどのうちに書かれるが、これらが書かれた三三年という年は、ヨーロッパの現代史の上できわめて重要な年であった。なぜなら、繰り返し述べてきたが、この年の一月三〇日ドイツでヒトラーが政権を取るに至ったからである。「民主共産主義者サークル」の中では、この成立をめぐって対立が生じる。スヴァーリンはこのグループを合法的な政党として組織することを考えていたが、ほかにには武装闘争を主張して地下組織化することを求める意見があったらしい。三四年始め、今度はパリのコンコルド広場での右翼の騒擾事件を背景として、サークルも雑誌も分裂する。この時バタイユはどちらにも属さない、というよりも、革命に非合理的な要素、病理的な本能を持ち込もうとしているという非難を受け(そう言われたということは以上のような検討から理解されるだろう)、どちらの側からも排除される。彼は自前の組織の結成へと向かうほかない。それがコントル・アタックである。だがその前に、バタイユの政治意識を作ったもう一つの要素であるファシスムを検討しなくてはならない。

*1 スヴァーリンについては、評伝が出ているので、それを参照した。"Boris Souvarine", par Jean-Louis Panne, ed.Robert Laffont, 1993.
*2 バタイユはそのようには語っていないが、それはたぶんコレット・ペニョーをめぐる争いのためである。スヴァーリンは後にバタイユに、ほとんど中傷のような批判を投げかけることになる(一九八三年に「社会批評」復刻された際に寄せた序文、Edition de la difference、バタイユに関する部分が「ファシスムに魅された男」の題で訳されている。岩野卓司訳「ユリイカ」一九八六年二月号)が、バタイユも彼を無視する態度をとることになる。
*3 ブルトンは二六年に共産党に入党する際、スヴァーリンに相談している。スヴァーリンは除名後だったが、反対はしていない。この時期の彼は、追放後のトロツキーがそうであったように、復党とその後の党の路線変更がまだ可能であると考えていたようだ。トロツキーがファシスムを阻止できなかったコミンテルンと共産党に見切りをつけ、第四インターナショナルを計画するのは三三年(結成は三八年)、フランスとスペインでの彼の同調者に社会党に入党することを指示するのは三四年以降である。
*4 トロツキーの『スターリン』が出版されるのは一九四〇年のことである。ただし未完。
*5 ペトルマンの評伝『詳伝―シモーヌ・ヴェイユ』(杉山毅訳勁草書房)による。
*6 クノー「ヘーゲルとの最初の衝突」
*7 この一節を読むと、誰もが吉本隆明の幻想論を思い出すのではないだろうか。吉本は、「下部構造が上部構造を決定する」という理論の下に社会主義リアリスムが力を振るったのを批判したが、その根底には、マルクスに関する次のような理解がある。マルクスは初期において哲学や宗教のあり方を含む哲学的な全体を考察の対象とし、それらの相対的な自律性を認め、それらが経済的な構造に一元的な支配を受けるものではないと考えていた。だが後期においては、自分の仕事を資本主義社会の経済的な分析に限定し、宗教や芸術に関する考察は手つかずに残した、と。そしてマルクスが残した仕事を継ぐものとして構想したのが、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』を軸とする彼の幻想構成の理論である。

第1回終わり


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