バタイユ・ノート4
政治の中のバタイユ 連載第2回

吉田裕



第4章 ファシスム
 政治的なものに向かうバタイユの軌跡をたどろうとするならば、ファシスムの問題が最大のモメントをなしていることは、誰の目にも明らかだろう。コミュニスムがある意味では遠い国の出来事で、理論的な問題にとどまったところがあるのに対し、ファシスムは国境を接する隣国で起こり、またフランスの国内においても現実的な危険となった問題でもあったからである。バタイユの政治的意識は、ファシスムとの関わりの中でもっとも先鋭な姿を取って現れる。
 ファシスムは通常、第一次大戦後のイタリアにおいて発生し、三〇年代のドイツにおいて最盛期を迎えるというふうに理解されている。そしてバタイユの試みは、これに抵抗するものと見なされて読まれることになる。しかしながらこの姿勢は、すでに後世のある判断、すなわちファシスムはある特定の国の運動体であり、悪であるという判断を前提としている。だがこの二つの判断とも前提とするには足りない。なぜなら、ファシスムはフランスの問題でもあったし、また批判的な考えかたが最初から一般的であったわけではないからである。私はまず、当時のありのままの状況の中にバタイユを置く。彼が「シュルファシスム」と批判されたことは、今では周知の事柄に属するが、けれどもこのような視点をとることは、右の批判を肯定することではない。私は彼はファシストではあり得なかったと考えるが、しかしそれは彼がリベラリストであったということではない。彼はファシスムにもっとも近くまで接近することで批判をなしえたのであって、この様相はある種の人々には「シュルファシスム」と見えたのである。このような危険を冒した彼の大胆さは、彼を時代のなかに位置させる立場からしか理解され得ない。
 ファシスムの名のもとになった運動は、一九一九年三月にイタリアのミラノで、元社会主義者で、退役軍人であったムソリーニが「イタリア・ファッショ戦闘団」という団体の旗揚げをしたところに始まるとされている。ファッシというのは、イタリア語で「束ねる」の意味であり、このような互助的な組織は一九世紀末から存在したらしい。ムソリーニのものは、第一次大戦に従軍した帰還兵士の団体であって、戦闘を経験した者同士の友愛と結束を保持することを唱い、その上に社会的紐帯の再建を加えて、当時はイタリアのみならず、フランスでもドイツでも、さほど珍しくはない団体の一つだった。ムソリーニのこの団体は、彼の指導者としての有能性から急速に支持者を集める。また一九年から二〇年のイタリアでは、「赤い二年間」と呼ばれるほどに共産主義運動によるストライキが頻発したが、それに対する破壊活動に加わることで、ブルジョワ階級の支持をも得て、政治的な力を持ち始める。
 その結果彼は二二年に支持者を集めてミラノからローマまで示威的な行進を行う。これは実質は大規模なデモンストレーションにすぎなかったのだが、政府を狼狽させ、国王は戒厳令に署名することを拒否して、逆にムソリーニに組閣を命じる。ここに初めてファシスト政権が成立したのである。ファシスト集団の持つ軍事的暴力的な性格、指導者に対する盲目的な服従は、人々を不安にするが、他方で新しい価値観を与えるようでもあって、多くの人を引きつけもする。文学者の中でも未来派の提唱者であったマリネッティ、官能的な詩人であったダヌンチオなどが共鳴する。この政権は、経済がようやく戦争の痛手から立ち直りかけていたこともあって、かなりの成功を収め、二九年の大恐慌もとりあえず乗り切る。
 しかしながら、イタリアそのものが大国ではなかったために、ファシスト政権がフランスに強い不安をもたらしたとまではいえないようだ。バタイユに関して言えば、二四年以前の彼には政治的な関心を示した痕跡はない。はじめて政治的な発言が現れるのは、二〇年代後半だが、それはもっぱらコミュニスムに関するものである。ファシスムに関する言及が最初に現れるのは、私が知る限りでは「老練なもぐら」(三一年)である。ファシスムの不安と同時にある種の魅惑がフランスに侵入し、フランスにも存在したファシスム的要素を増幅させるのは、常に脅威であった隣国ドイツでファシスムが勃興し始めたときである。
 ドイツの場合も、第一次大戦後、イタリア同様の理由から、旧軍人の民兵的な集団が各地に生まれる。その中の一つが、一九年にミュンヘンで結成された「国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」である。創立者は別人だったが、すぐあとに入党したヒトラーは、弁舌の才によって瞬く間に指導者に成り上がる。この時期ドイツではワイマール共和制のもとにあったものの、地方分権がまだ強く残っており、バイエルン地方では軍の関係者から、強力に浸透し始めた共産主義に対抗する活動を期待され、突撃隊を中心に資金上装備上の援助を受ける。当時ヒトラーはムソリーニを尊敬していたようで、二三年には、ローマ進軍に倣ってベルリン進軍を計画し、武装蜂起を試みるが、これは事前に漏れて失敗する。これがいわゆるミュンヘン一揆である。ヒトラーは逮捕され、有罪の宣告を受け、収監されるが、その間に『わが闘争』を著す。
 ヒトラー出獄後、二五年からナチ党は政策を変え、一揆主義を放棄し、合法的な議会主義路線をとるようになる。二八年の国会選挙では、党勢はふるわない。しかし二九年に大恐慌の波が、アメリカから発して全世界を覆う。この大恐慌は大戦の痛手からようやく立ち直りかけていたドイツ経済を直撃する。大きかったのは、当時の社会生活の中心であった中産階級、自営の商工業者を没落させたことだ。破産に追い込まれたこれら中産階級は、労働階級におちていくことを肯定できず、新しい秩序を訴えるナチス党に多く参集する。その結果三〇年九月の国会選挙では、ナチス党は議席数を二八年の一二から一〇七に伸ばし、第二党に躍進し、三二年七月と十一月の選挙ではついに第一党となり、三三年一月には政権を掌握して、ヒトラーは首相に就任する。共産党は社会民主党と労働組合にゼネストを呼びかけるが、合意は得られなかった。逆に選挙直前の二月末、謀略によるらしい「国会議事堂炎上事件」によって、両党は徹底的な弾圧を受ける。三月の新国会では、政府に強大な権限を付与する授権法が成立する。この間ヒトラーは三二年一月に経済界と接触し、それなりに持っていた資本主義批判を修正して資本家階級と妥協し、政権獲得の翌三四年六月には、突撃隊の指導者であったレーム、社会主義的側面を持っていたシュトラッサーを粛清する。そして同じ八月、大統領ヒンデンブルクの死去にともなって大統領職を廃し、総統という権力を集中させた職を作り、それに就任する。これによってドイツでナチ党の独裁体制が成立する。
 以後を簡単にたどると、三五年九月にドイツ人の民族性を守るという名目のニュルンベルク法が成立し、再軍備を実行し、三六年三月にラインラントに軍隊を進駐させる(七月にスペイン内乱が始まる)。三八年四月にはオーストリア、一〇月にはミュンヘン会談をへてチェコ・ズデーデン地方が併合され、一一月には水晶の夜がある。三九年になると三月にプラハが占領され、八月には独ソ不可侵条約が締結される。そして一週間後の九月一日、ドイツ軍はポーランドに侵入し、第二次大戦が開始されるのである。

第5章 フランス
 隣国イタリアとドイツでの出来事は、フランスでも無縁でありえない。フランスは一貫して民主主義の国であったというのは、教科書的思いこみにすぎない。第一次大戦での戦勝国の側にあったとはいえ、死者は一三五万人、第二次大戦よりも多く、また経済的にも疲弊して、社会的不安はドイツとあまり変わらなかった。政治的には、第三共和政の議院内閣制の下で左右の衝突が激しく、政府は平均して八ヶ月程度の寿命しか持たなかった。三三年にはボルドーで大規模な贈収賄事件が発覚し、贈賄者とされたスタヴィスキーとが不審な死に方をして、共和制民主主義の腐敗が明らかになる。
 こうした状況に応じて、諸党派は批判を強める。左派に関しては、先に見たように二一年に社会党から共産党が分離し、労働者の間に浸透する。右派に関してはさまざまの党派が存在するが、中で特に記憶しなければならないのは、シャルル・モーラスの理論に支えられた「アクシオン・フランセーズ」と、元軍人であるラ・ロック大佐に率いられた「火の十字架団」、およびプロレタリア階級出身で共産党政治局員であったドリオの「フランス人民党」であろう。だがこれら三つは性格が異なる。「アクシオン・フランセーズ」は、ドレフュス事件さなかの一八九九年に結成され、反ユダヤ主義的傾向、王党派的反動的な性格、フランス革命以前のキリスト教(カトリック)に基づく王政の復古をめざした。これは日本型の天皇制ファシスムと似ている。これに「火の十字架団」は、元軍人とその子弟を集め、三五年には団員七〇万人と言われ、その暴力的な性格で恐れられるなど、ファシスト党の黒シャツ隊、ナチス党の突撃隊に似た性格を持っていた。三六年に結成される「フランス人民党」は、党首であるドリオの経歴から明らかなように、左翼からの転向者を集め、党員の三分の二までが労働者という特異なファシスム政党であった。
 隣国イタリアとドイツで、強い国家権力とカリスマ性を持つ強力な指導者が出現したことは、フランスの右翼をいらだたせる。これらの国々に対抗し得るおなじように強いフランスを求め、ヒトラーの独裁体制が成立したことに反応し、三四年二月六日に、「アクシオン・フランセーズ」と「火の十字架団」を中心に数千人がパリの中心コンコルド広場に集まり、激しい示威行動を展開する。これはムソリーニのローマ進軍、ヒトラーのミュンヘン一揆に相当するものだろう。デモ隊は新内閣の信任案を討議中の議会(セーヌ川を挟んだ対岸のブルボン宮にある)に押しかけようとし、警備の憲兵隊や警官隊と激しく衝突し、十数人の死者を出す騒擾事件を引き起こす*1
 この事件は、各方面に大きな衝撃を与える。フランスでもファシスムの時代が始まるのではないかという深刻な不安がフランス中を覆う。この不安はようやく社会党と共産党を動かすことになる。当時まで二つの党は、分裂の経緯と路線の違いから激しく対立し合っていた。社会党は議会主義路線をとっていたが、共産党は国際的な共同路線を重視し、議会外での行動を重視するものであった。ドイツでは二九年に、プロイセン政府、社会民主党、労働組合の指導部は過激団体の取り締まりを理由として、すべての集会とデモを禁止したが、これを無視した共産党の呼びかけによって、労働者が集結したところに警察が発砲し、多数の死傷者を出す事件が起こっている。この「血のメーデー」事件によって、社共の分裂は決定的になる。コミンテルンの見解では、社会民主主義はファシスムの予備軍であり、共産主義者は、まず社会民主主義者と戦うべきであるとされた。左翼の側のこの分裂が、ファシスムの進出を利したことは否めない。フランスにおいて社会党と共産党は、ドイツでのこの失敗に鑑みて、ようやく協調路線を取ることに合意し、騒擾事件直後の二月一二日に、その影響下にある労働組合を合同して大規模なデモとゼネストが実行する。ストライキに参加した労働者は一〇〇万と言われ、左翼は力量を示すことに成功する。
 このときの協力が元となって、翌三五年七月一四日の革命記念日に、社会党、共産党、急進社会党、それにCGTなどの労働組合、反ファシスム知識人監視委員会*2などの知識人組織を含めた「人民の結集Rassemblement populaire」を成功させる。これがやがて「人民戦線Front populaire」と呼ばれることになる。この年仏ソ相互援助条約の調印して、フランスとの友好を政策としたソ連とコミンテルンは、この統一行動を評価し、人民戦線方式を是認する。これによってフランス共産党の方針は変更され、社会党、急進社会党との間で、三六年一月に政策協定が結ばれ、反ファシスムを中心とする左翼の統一が成る。この統一党派は、五月の総選挙を経て、六月に社会党党首のブルムを首班とするところの人民戦線政府が成立させる。これはフランスの歴史上で最初の左翼政権の成立であった。この第一次ブルム内閣によって、週四〇時間労働制、二週間の有給休暇(ヴァカンス)、労働組合の交渉権の認知などブルムの実験と言われる一連の社会主義的な改良が行われ、フランスは平和な改良の時代を迎える。しかしながら、難事件は外側からやって来る。
 それはスペイン問題である。スペインでは、フランスよりもわずかに早く三六年の一月に王政を倒して、人民戦線内閣が成立し、土地改革などの改良に着手するが、軍部や地主階級の抵抗が強く、七月にはフランコ将軍が共和政府に反乱を起こす。これがスペイン戦争の始まりである。フランコの反乱に対してイタリアとドイツは公然と援助を行うが(ドイツ空軍によるゲルニカ爆撃は三七年四月のことである)、フランスは同じ人民戦線政権でありながら、イギリスの協調を得ることができず、ドイツ、イタリアと直接衝突するのを恐れて、不干渉政策を採る。戦争は、三九年、共和政府側の敗北に終わり、スペインにはファシスト政権が誕生することになる。これは明らかにフランス人民戦線政府の外交上の失敗であり、また国内の経済がうまくいかなくなったこともあって、ブルム内閣は三七年六月二二日、わずか一年で瓦解する。そのあとも政権は左右に揺れ動き、三八年三月にはブルムがもう一度内閣を組織することもあるが、わずか一ヶ月間続いたのみで、もはや三六年の熱気を再現する力はなく、そのあと急進社会党のダラディエが組閣するものの、人民戦線は完全に瓦解しており、ファシスムに譲歩を重ねて、三九年九月の第二次大戦勃発を迎えることになる。

第7章 民主共産主義サークルからコントル・アタックまで
 バタイユは、この変転著しい時期をどのように生き、どのように考えたか。三三年終わり頃、彼はスイスのスキラ書店の誘いを受けて、マソンとともに「ミノトール」を計画し、発刊にまでこぎつける。バタイユはこれを「ドキュマン」の跡を継ぐものと考えていたようだが、結局シュルレアリストたちに乗っ取られる。三三年末には「民主共産主義サークル」と「社会批評」は、完全に瓦解する。これによって彼は再び、よりどころのない立場に追いやられる。彼は政治に嫌気のさすことがあったようだが、三四年二月の反ファシスムデモには参加している。同じ頃、通っていた高等研究院で、コジェーヴのヘーゲルの「精神現象学」に関するゼミナールが始まり、そこに出席し、強い影響を受ける。私生活の上では、三四年三月には妻と別居し、三五年はじめに離婚する。同時に無数の交情があり、ロールこと、コレット・ペニョとの関係が始まる(「アセファル」の冒険を経て、ロールが死ぬのは三八年十一月七日である)。
 この時期のバタイユの思想的な遍歴には、きわめて興味深いものがある。この遍歴は錯綜しているが、それを解きほぐす作業はどうしても欠かすことはできない。この時期バタイユの関心を最も強く導いたのは、ファシスムに対する批判の意識であることは間違いない。彼は「社会批評」の最後の二つの号(三三年十一月の一〇号、及び三四年三月の一一号)に、「ファシスムの心理構造」を書いている。これは特異な観点を提出して、高度な分析に及んだ論文だったが、それでも問題がこれで解決したのというのでは全くなかった。彼はいっそう深くファシスムを追求しようとする。三四年二月一二日のデモのさいには、珍しいことだが、日録風のかなり詳細な覚え書を残している*3。そして彼はファシスムを論じるために一冊の著作を計画する。この書物は「フランスのファシスム」という題名を予定されるが、バタイユの多くの著作計画と同じく、完成には至らない。だがこの関心は、変容して小説の形を取るに至る。それが『青空』である。けれどもこの作品も戦後の五七年に至るまで未刊行のままに残される。すべては最も奥深いところで、人知れず行われたのである。
 ファシスムに対する批判の意識は、ついで「コントル・アタック」という極左的なグループを結成させ、失敗させる。この時期にも、彼はかなりの量の書き物を残している。しかもこの時期に書かれたものは、眼前の事件の分析、アジテーションのためのビラ等々であって、有効性に専念するもっとも実践的な言語なのだ。この言語は、現実と激しく接触し、消え去ろうとしながら、かろうじて残される。これらもまた最も見えにくいところで行われた彼の試みの痕跡を示すものである。
「コントル・アタック」の失敗は、彼を実践的な局面から引き離すが、それでも彼を政治から背を向けさせることはない。三七年の「アセファル」また「社会学研究会」が政治の原質的なものへの強い関心に動かされていたのは、前にも見たとおりで、そして今回はこの二つにやはり同じ年の「集団心理学会」の結成があるが、かりにこれらが学問的な装いを持った関心だったとしても、その背後には、共同体というかたちでの現実への関心が作用し続けていた。加えるべき証拠に次のようなものがある。彼は「フランスのファシスム」を書くのを、少なくとも開戦に至るまではあきらめていない。三八年のことだが、彼は「社会学研究会」の共同主催者であったカイヨワに対して、後者があるガリマール社で編集の責を負っていた「君主と圧制(権力の極度の形態に関する研究)」という叢書の一冊として、「社会批評」に発表した論文に手を入れ、前文を新たに付加して「悲劇的運命」という表題のファシスム論を出せるように申し込んでいるからである*4
 三八年というと、バタイユはヨガの手ほどきを受け、秘教的な実験に乗りだそうとしていた頃である。「死を前にしての歓喜の実践」(三九年六月の「アセファル」五号に公開)が書かれ、その後に「反キリスト教徒のための心得」(これは草稿のままで残される)が続く。これらは、題名からは、もっぱら宗教的な関心のみの著作のように聞こえるかもしれないが、ことに前者は、供犠によってどのように宗教的境地が獲得されるかを心理学および社会学の立場を念頭に置いて分析したものであり、その背後にはファシスムを核とする政治的動向に結びつく関心があったはずだ。この錯綜は、とうてい一枚の見取り図に還元することは出来ない。私たちは少しずつ視点を変えながら、数回にわたってこの時期を反復してなぞることを避けえないだろう。私がまず提起したいのは、そしてそれが今回のノートの主題なのだが、最も現実的なものとしての政治的な関心である。

第8章 「ファシスムの心理構造」
 この論文を理解するためには、まずそれがこの時期のバタイユの中でどのような位置を占めているかを把握しておく必要がある。論文の一番根幹の構造をなしているのは、ブルトンとの論争文の一つである「サドの使用価値」で提起された異質学の理論である。この理論的構想は、「サドの使用価値」で最初の形を与えられた後、「心理構造」(以下このように省略する)で最も進んだ形にまで高められるが、以後は前景から退いてしまう。理論として整えることは放棄されたのだろう。ただ同じ関心は、姿を変えてこの時期の多くの論文に現れる。「消費の概念」の宗教、情念、無意識、暴力など生産に還元されない非生産的消費とは、明らかに異質的なものであり、逆にこれらの非生産的消費は、「心理構造」では異質的なものの例としてあげられている。
 「心理構造」は、理論的な面のかなりの部分を先行する諸論文に負っているが、基本的にはバタイユは、ファシスムを異質的なものの現代における最も先鋭な形態として考えている。その上で彼は次のように把握する。〈ファシスムは、なによりも権力の集中化、凝縮として現れる〉(第10章「異質性の至上形態としてのファシスム」*5)。すなわち、「心理構造」は権力論として構想され、宗教的権力、軍事的権力、王制的権力という歴史的な現れを考察し、その上で現代における課題としてファシスムを提起するという構成をとっている。バタイユは、〈王権の中に他の二つの権力、つまり軍隊と宗教の権力を構成する要素を見いだすことは容易である〉(第7章「傾向的中心統合」)、また〈王権についての一般的記述は、ファシスムに関連するあらゆる記述の基礎になる〉(第6章「異質的存在の強権的形態ー王権」)と言う。彼は人類の最初の権力として宗教的権力と軍事的権力を、そして二つが合体したものとして王権を考え、その現代的な様態をファシスムだとみなす。
 もう一つ注意しておかなければならないのは、一般的にはそう思われているような、また当時のマルクシスムがそうしていたような、経済的な優位性が権力を決定するという立場をとってはいないことである。序文で明言されているが、彼は「上部構造」が独自の動きをして、それが政治的権力の本質をなすという立場をとる。本文中でも〈ファシスムによる統一が成立するのは、それに基礎を提供する経済的諸条件の中ではなく、それに固有の心理的構造の中でのように思われる〉(第12章「ファシスムの根本条件」)と書いている。そこから導き出されるファシスムの姿は、今日でもなお私たちの目を引くものである。
 これらのことを背景にした上で読むと、「心理構造」の最も基本をなしているのは、異質なものは社会の中でどのような本質を持ち、どのように作用し、どのように錯誤しうるかという問いであることが見えてくる。彼はまず社会が同質性に依拠して形成されることを確認する。なぜなら〈人間関係というものは、一定の人員と一定の状況とによって成立する同一性の意識を基礎とする固定された法則にようやくすることで保たれる〉(第1章「社会の同質的部分」)からである。このことは、貨幣によって通約性がかつてなく拡大された近代社会においていっそうよく当てはまる。しかしながら同質性の確立は、反面で異質なものの排除であり、こうして成立した近代ブルジョワ社会へのバタイユの憎悪に近い反撥はすでに見たところである。
 この社会に対して、ファシスムとその指導者ムソリーニやヒトラーは、異なった存在の仕方を示す。〈ファシスムの扇動者たちは、異議なく異質的存在に属している〉(第4章「異質な社会存在」)。彼らの持つ魅惑の力は、民主主義政体の政治家たちがとうてい持ちえないものである。それは彼らが等質化から排除された社会の異質な部分――落伍者、あるいは元兵士といった――の出身であるところから来ている資質である。だがこのような異質性があることは、すでに「サドの使用価値」の中で指摘されていた。バタイユはエルツとデュルケムを援用して、聖なるものの存在と、それに純聖と不純聖の二つがあることを説いていた。エルツとデュルケムは、この二つの聖なるもののうち、純聖なものが宗教として結晶していくのを後付け、肯定した。しかしそのときバタイユは、純聖なものは、いつの間にか世俗的同質的世界と合一し権力と化してしまうことを指摘し、それに対して不純聖な異質さだけが、どこまでも異質的であり続けうると述べ、この後者の異質さ、すなわち汚れたものまた低次の物質に依拠することで、同質的な世界へと回収されてしまうことをどこまでも拒否しうるとしたのである。
 しかしながら、ファシスムはさらに一歩先で問題を提起したと言わなければならない。なぜならファシスムは不純な異質性から出発しながら、いつの間にか同質的な世界に合致し、権力を構成してしまうことがあり得るということを示したからである。これはバタイユにとって新しい課題であったはずだ。またそれは、聖なる世界と俗なる世界、純聖と不純聖は壁画的に分類されるものでなく、その間にダイナミックな変容と交換の可能性のあることも示したのである。あるいはそれは、イエスの十字架上の死という惨憺たる出来事を巧妙に純聖へと読み変えていったキリスト教を批判することにも通じると考えられていたに違いない。だから彼は是非とも、ファシスム的権力のよってくるところを明らかにしなければならなかった。
 私の見るところでは、彼の批判は次のように読みとることができる。バタイユは不純聖の異質さが辿りうる過程を、ファシスムに即して次のように分析している。

〈外面的な行為についてではなく、その源に関して考察するならば、ファシスムの扇動者たちの持つ「力」は、催眠状態において働く力に似ている。扇動者をその賛同者たちに結びつける感情の流れ――それは賛同者たちを扇動者に精神的に一体化するというかたちを取る(この働きは相互的である)――は、権力とエネルギーを持つことを共同で意識するという機能を果たす。それによってこの権力とエネルギーは、ますます激しさを加え、ますます常軌を逸するものとなっていき、統率者の人格の中に蓄積され、統率者が無制限に行使し得るものとなる〉(第4章「異質な社会存在」)。

 低次の異質さは、強力なエネルギーを発揮する。それはかりに扇動者を持つとしても、その関係は相互的でなければならないはずである。しかし扇動者を受け入れるということは、このエネルギーを一方的にこの扇動者にゆだねることになってしまう。扇動者はエネルギーを搾取するのであり、一方大衆は、自分たちが産出したエネルギーの過剰さに耐えられず、それを他の人間に譲り渡すのである。
 この過程はまた単なる委譲ではなく、変質を伴う。バタイユは、前述のようにファシスムに王権的性格と軍事的性格の二つを認めているが、とりわけ後者の性格が強いこと、指導者に対する絶対的な服従があることを指摘した上で、エネルギーの委譲が倒錯を引き起こすことを次のように明らかにする。

〈この統一の感情的性格は、兵士の将軍に対する癒着という形態で現れる。それは兵士それぞれが、将軍の栄誉を自分自身の栄誉と見なすことを意味する。この過程を媒介することによって、吐き気を催させる殺戮は、根本的にその逆のものである栄誉に、つまり純粋かつ強烈な魅惑に変容する〉(第8章「軍隊と将軍」)

 この過程は、もっと原理的には次のように言えるだろう。すなわち、異質的なもの、その中でも不純聖に属する異質さは、魅惑と嫌悪、引き寄せと反撥の二つの相反する作用を持っていてそれを相互に作用させることによってはじめて本来的な姿を持つのだったが、それがただ引き寄せる作用のみを拡大された時、それは引き寄せられた者たちをただ服従させ、彼らが産出したエネルギーを吸い上げ、権力的な構造を作り出し、同質的な世界と癒着することになるのである。これが、汚れたもの残酷なものを根源に持っていた宗教や軍事力がいつの間にか権力を持つことになる変質の過程であり、ファシスムは、現代においてこの過程を正確になぞったのである。
 この批判から、今度はバタイユの積極的な試みがどのような方向に向かって打ち出されようとするかを推測することは容易である。すなわち異質なものをただ魅惑する力の側面からのみとらえないこと、また魅惑の力のみが偏重されて変質と凝固が起きているときには、異質なものの持つ残酷で、汚れて、おぞましい力をいっそう明らかにすることであった。不純な異質性は、「心理構造」の範囲内では、まずプロレタリア階級に求められる。〈こうして意志的領域の上層部は、不動のものになると同時に、他を不同にするものであり、一人貧困で抑圧された階級で構成される下層部だけが身軽に動きうる。・・マルクシスムの用語でいうならば、この階級は革命的プロレタリアートとして自己を意識せねばならない〉(第12章「ファシスムの根本的条件」)。プロレタリアートがプロレタリアートとしての自己を意識するとは、下層のつまりは低次の異質性を確認し、それを決して譲らないことを意味する。
 しかしながら、注目すべきは、この動的な本質を持った部分がただプロレタリアートのみではないとされている点である。バタイユは次のように書いている。〈こうした魅惑の中核は、ある意味では「意識を持ったプロレタリアート」と呼ばれるべきものの形成以前に存在していると言うことすら可能である〉(同上)。これはバタイユの関心事が思いがけず漏れてしまった一節であるように見える。プロレタリアートの形成以前に存在するとは、〈存在論の尊大な機構に還元されることを拒否する〉(「低次唯物論とグノーシス」)ことではないのか? そしてそのように存在するのは、バタイユにおける「物質的なもの」のことではないのか? ここでバタイユは確かに、マルクス主義的な限定を越えて、いっそう物質的なものの方、そのおぞましさの方へと向かおうとするのである。
 ファシスム批判は、バタイユにとっては、政策として成文化されうるようなものではなかった。それは姿勢のちがい、もっと踏み込んで言えば、存在の仕方のちがいであった。彼は物質を求めて、いっそう深いところに潜り込まねばならなかった。思考と言語の底は、ほとんど破れようとしていた。彼が触れようとするのは、その亀裂の先にあるざらつくような現実の手触りである。

*1この事件については、さらに検討が必要である。「火の十字架」は、最終的にはブルボン宮に侵入しようという他党派からの誘いには乗らず、そのために後日批判を受ける。事件以後、いっそう過激な小グループが多く生まれるが、三六年一月、つまり六月の人民戦線内閣成立以前のことだが、極右の行動部隊に対する解散命令が出される。
*2三四年の騒擾事件に危機感を持ったブルトンの呼びかけ「行動へのアピール」をきっかけとして結成された。参加者は他にアラン、ゲーノ、マルローなど。
*3この時期のメモ類は、全集第U巻に収録されている。いずれも未訳である。その中のいくつかを以後検討の対象とする。三四年二月一二日の覚え書は比較的長いもので、「ゼネストを待ちながら」という題で収録されている。
*4『カイヨワへの手紙』Lettre a Roger Caillois, 4 aout 1935 a 4 fevrier 1959, Edition Folle Avoine, 1987, p83。未訳。
*5この論文では「心理構造」のすべての論点を網羅することはできない。権力論としてのみ取り上げる。

第2回終わり


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