微茫録(97/5〜97/11)

築山登美夫



○今年にはひつてからも幾つか事件があり、あるものを阻止しに血だらけになつて帰つて来るのを覚悟して体を張りに行く(空ぶりにはをはりましたが)といふこともありました。くはしくは述べられませんが、しかし本人にとつては胸の皮が裂けるやうな事件も、第三者からは笑ひ話にしかならない、そんなことを何度経験してきたことでせうか。単純な正義感の発露がみつともないのは、それが全体の構造にたいする無知をさらけだしてゐるからでせうが、それでもじぶんなりに冷静に検討しつくしたあげくに、なほまちがつてゐるかも知れない行為に出る、といふことはあります。小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』が面白いのも、冷戦構造とともに凍結され、またその崩壊とともに溶融してしまつた、われわれの倫理の発露としての行為の構築といふことが、これからの時代の差異線となつて行く経緯を、みごとに描出してゐるからでせう。それが世間の、現在の言説空間の荒波に揉まれて、停滞をもしながら高度化していくさまは興味津々です。昨年末からのトゥパック・アマル革命運動のメンバーによるペルー日本大使公邸人質事件が、この四月二十二日、武力突入によって十七人の死者を出して終結しました。皆殺しにされた彼らトゥパックのメンバーはまれにみるイノセントな、しかも日本人的な情にうつたへかける面をも持つた革命グループだつたのではないでせうか。少なくとも彼らの身に何が起らうとも人質に危害をくはへる意図がないことだけははつきりとわかりました。それにたいしフジモリ大統領とペルー軍・情報機関の詐欺師的なやりくちはひどすぎました。それを許容した橋本政府も同罪です。ですから、ぼくの場処からもつとも関心の的となるのは、解放された日本人人質のうち、政府と所属する企業の箝口令をこえて、だれかがほんたうのことを語るかどうかです。「トゥパック・アマルによつてマインドコントロールされた人物」などといふ風評が致命傷となるやうなわが風土では、そんな勇気のある人物はひとりもゐなかつたといふことになるのかも知れませんが。

(97/5)


○この六月二十八日に逮捕された連続小学生殺人事件の犯人とされる十四歳の自称「酒鬼薔薇聖斗」こと***少年(マス・メディアとそれに同調するライターは匿名にし、顔写真の掲載も見合せてゐるやうですが、何の意味もないと思ひます)にかんする報道や論評をみてゐてぼくが感じたのは、この市民社会の窒息性を強化しようとする無意識の意図ばかりでした。そしてこの市民社会の空気と、***君の犯罪は表裏の関係にある、といふよりもつと恐ろしい因果関係があるやうに思ひました。小説『午後の曳航』(六三年)で十三歳の少年の殺人を共感をもつて描き、絶筆の一つとなつたエッセイ『小説とは何か』(七〇年)で、当時のシージャック事件(警官を刺して逃走中のライフルを持つた二十歳の青年が船舶を乗つ取り射殺された事件)にたいする反応であらはになつた「弁天小僧を讃美した日本の藝術家の末裔とも思へぬ、戦後民主主義とヒューマニズムといふ新らしい朱子学に忠勤をはげんだ意見ばかり」になつてしまつた文学者の倫理の堕落を批判し、「地獄の劫火の焦げ跡なしに、藝術は存在しない」と悠然と述べた三島由紀夫のやうな存在がこの社会から払底してしまつたこと、そこにどんな、この四半世紀の時間のうつりゆきの必然があつたのか、といふ深刻な問ひがたつてゐます。どんな不利益をかうむることになつても、この社会からもつと過激に孤立し、文学者が文学を殺し詩人が詩を圧殺する世界――この狭い世界が全体に見えてしまふ場処から離脱しつゞけなければならないのでせう。さうしなければ、われわれの社会はふたたび大規模な惨劇を自らまねいて崩壊するまへの、時間の間延びしただけのワイマール共和国になつてしまふ。そのことにどれだけの人が気づいてゐるのでせうか。久しぶりに詩集を出しました。『異教徒の書』といふタイトルは十九歳のランボーが『地獄の季節』のさなかにかんがへてゐたタイトルを厚かましくも頂戴しました。右に書いたことはその宣伝文ともなつてゐるやうです。

(97/9)


(附記)右の文で***とある箇所は原文では少年の姓が記されてゐました。なぜさうしたのかはこれから述べますが、この文を載せてくれるはずの編集者である清水鱗造さんとの話し合ひで、明記することを断念しました。その理由は、ぼくが少年の姓を知つたのは知り合ひのジャーナリストからでしたが、すでにインターネット上で少年の姓名が興味本位に、しかも筆者自身は匿名にした上で取り沙汰されてゐるらしいこと、そして右の文もまた雑誌の方針でインターネット上に掲載されることを前提としてゐることです。ぼくが原文で少年の姓を記したのは、そのことによつて少年を断罪したかつたからではなく、むしろその逆であることは右の文で尽きてゐます。少年を断罪してメディアは実名報道せよなどと云ひながら、じぶんの文ではちやつかりと断りもなしに匿名にしてゐるオヤヂ評論家などは先のインターネット・ライター(?)と同じく論外ですが、大勢を占める、少年法の精神や少年の人権保護を云ひたてそれを隠れみのにこの少年の存在をタブーとして闇にはふむりさらうとする市民社会の冷酷な無意識は、すでに少年の弟などの家族や親族にまで及んでゐるやうです。ぼくは一般的に云つても善行と悪行を機械的にふりわけ、たとへば高校野球の有名選手が暴力事件を起したとたんに匿名扱ひになるといつたたぐひのメディアの迷信じみた作為は、善と悪とが同じ力の二つのあらはれにすぎないことを見ないふりする、そのことで善悪ともに追放しようとする市民社会の現在の姿をよくあらはしてゐると思つてゐます。ぼくの云つてゐることがわかつてもらへるでせうか。「僕ははつきりいふとスペインの画描きのやうに血に飢ゑてゐるんだ。…僕は人を殺したくて仕様がない。赤い血が見たいんだ。…これは逆説でなくつてほんたうだぜ」  かう発言したのは件の少年ではなく、並ゐる先輩文学者を前にしたある座談会での二十三歳の三島由紀夫でした。あるひはランボーが「白人の上陸」とひとこと書きつけただけで、どれほど当時の西欧市民社会の気づかれざるタブーを踏みやぶることになつたか。先頃産経新聞に掲載された「懲役13年」と題されたこの少年の手記を読むと、彼がすでに三島や埴谷雄高などの作品にふれてゐたことが知れます。ぼくはこの少年に三島由紀夫を超えるやうな文学者になつてほしいと思つてゐます。それを許容できたときこそ、わがくにははじめて成熟した文明社会になつたと云へるのではないでせうか。

(97/11)


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