バタイユ・ノートV
エクスターズの探求者 連載第1回

吉田裕



1 前歴
 バタイユ・ノートのIVを先回で終えて、Vに入ろうとするのだが、その前に、自分がこれまでバタイユをどのように読んできたのか、そしてこれからどのように読もうとするのか、自分の位置を確かめてみたいと思う。
 私はバタイユについての興味は学生時代からあって、少しづつ読んではいたが、書こうとすることはなかった。とても自分に扱えるような作家ではないと思っていたからである。それが書くことになったのは、築山登美夫が自分の雑誌「なだぐれあ」で、ポルノグラフィの特集をやるというので、バタイユには未完だがまだいくつか未訳の小説があるよ、と言ったところ、それを訳し、解説を付ける仕事をやらないかと誘われたのがはじまりである。それで「シャルロット・ダンジェルヴィル」を訳し、解説を書いた。「なだぐれあ」は途中で休刊になり、計画したものを全部出すことはできなかったが、出来上がっていた訳と論文を、彼が出版社に紹介してくれ、「シャルロット」と「聖女」の訳に、『マダム・エドワルダ』まで遡り、『わが母』を含む「聖ナル神」の全体に触れる論文を合わせて、『聖女たち』の題で本をまとめることが出来た。これは私のバタイユに対する最初の接点であり、以後のための橋頭堡となった。
 ただ「聖ナル神」は、魅力的とはいえ、バタイユという巨大な全体の露岩の一つであることはよくわかっていた。だからその次には、もう少し持続的な触れ方をしてみたかった。それで設定したのが、ニーチェ論を読み連ねることである。バタイユは生涯を通じてニーチェ論について言及し、抜き出してみると論文は二十を越えるので、それらを読むことで、自分の持つバタイユのイメージに一本の筋道を通せるのではないかと考えた。この時清水鱗造氏から誘いを受け、「ブービー・トラップ」に連載の場をもらって、それを実現することが出来た。これがバタイユ・ノートのII「バタイユはニーチェをどう読んだか」である。目論見は、半分当たり、半分外れた。宗教的なエクスターズを求める探求、ファシスム批判については、ニーチェ論に視点を置くことでかなりの程度をカバーできる。しかし、有り体に言えば、戦後のニーチェ論は、このような集中力を持っていないと見えた。もし哲学だけで言うとすれば、戦後のバタイユが主な参照対象とするのは、ヘーゲルの方であろう。ただ一九四五年くらいまでのバタイユについては、ニーチェ論を読むつなぐことで、ほぼイメージを持つことが出来たように思う。ついでに言っておけば、戦後のバタイユは、私にとっては、いくつかの例外――先に触れた「聖ナル神」あたり――を除いて、ほとんど未知の領域である。どちらかと言えば私は、戦後のバタイユよりも、戦前から戦中までのバタイユのほうに引かれる。後期は確かに収穫期だが、それよりも放蕩と政治に同時に深入りし、訳の分からぬ宗教的実験に邁進し、まとまる当てもない論文を書き散らしていたバタイユが好きである。またバタイユの読者の関心は、多くの場合は思想的な著作、特に挙げるとすれば『内的体験』当たりに集中し、小説は省みられることが少ないのだが、私は彼の小説は好きである。
 バタイユのありようは捉えがたいが、ニーチェ論に視点を置くことでいくらか鮮明なイメージを結ぶようになった。私に見えてきたのは、もっとも鋭い場合には政治的なかたちをとる現実に向かう関心と内的体験となる宗教的な探求との二つに引き裂かれている作家の姿である。これはある人には、前者から後者へと継起的に起こったように見えるらしいが、私には、いくらか時間的にずれがあることは本当だとしても、二つはほぼ同時的で、複合的に関係していると、すなわち二つを一体のものとして捉えなければ、どちらも本当の姿が見えてこない、と思えた。私にとってこうした考えは、必ずしもバタイユひとりに触発されて出てきたものではない。たぶんずっと前から考え、また書いてきたことでもある。必要とあれば、バタイユ論の中で、これまで他の作家について書いてきたのと同じことを繰り返しているのを、自分で指摘することができるだろう。自分の内部と外部を一体のものとして捉えたいというのは、私自身の根本の願望であって、その願望に動かされた記述は、私のバタイユ論のいたるところで目につく。だがそれは、私がバタイユについて書いていることが、できあがった考えかたの応用編であるというのではない。私の願望は、バタイユを読むことでいっそう明らかになってきたのであり、この点でバタイユは、私にとって、またとない試薬になったということだ。
 便宜上簡略化して、内と外という言い方をすることにする。私はこの二つのイメージをともに手放さないようにしようとしたが、しかしながら、実際に書こうとするときには、テーマを一つに限定せざるを得ないことはある。私が次に選んだのは、バタイユにとってのシュルレアリスムという問題であった。この頃私はともかくバタイユを全部読んでやろうという気持ちになり、そのために、一番常套的な手段だが、ともかく彼が書いた順に著作を読もうと考えたのだったし、シュルレアリスムというテーマは、二〇年代をほぼ網羅するものだったからである。これがバタイユ・ノートのIII「バタイユ・マテリアリスト」となった。書き始めたときは、ただ初期の活動の一つを確認することが目標だった。シュルレアリスムのような運動体は、人間関係を頭に入れるだけでも難しいのだ。だが書くことでわかってきたのは、バタイユの中に物質への異様なまでの関心と、それと一体になってイデアリスムに対する激しい憎悪があることだった。それはある程度予想していたことだが、これほどまでに強烈であるとは知らなかったというのが本当である。そしてもう一つには、物質へのこの関心が、異質学というさほど展開されず、したがってあまり知られることのない試みを経て、政治的な関心の原理にまで届いていることが見えてきた。
 その延長上で、コントル・アタックに行きつく三〇年代の彼の政治的闘争を読むこととなった。それがノートのIV「政治の中のバタイユ」で、そこではコミュニスムとファシスムに関してバタイユ個人が問題にならないところまで叙述を拡げなければならなかったが、それによって「外」を拡大することができたと思う(「ユリイカ」の『青空』論もその一環で、これらを近々本にまとめるつもりでいる)。私のイメージでは、物質と政治は、位相を異にし、ずれながらも、重なり合い、共通する原理に貫かれている。そしてこの原理は、物質から政治へと堀削されたことにより、その反対側、すなわち「内」の側にも展開され、しかも前者が広くなればそれだけ後者も深くなる、と思えるのだ。

2 供犠とカトリシスム
 こうして私は今一九四五年以前という限定つきだが、「内」について書こうとするところまで来た。だが「内」とは何だろうか? それはバタイユにおいて宗教的な経験のことであろう。彼は宗教に対する強烈な批判者でもあったから、宗教的という言葉は適合しないが、それでもとりあえず宗教的と言っておこう。しかし、宗教も、主題と言うにはあまりに漠然としていて、書き始めるにはもっと個別的な限定が必要だろう。宗教の内部でもっと限定された主題としては、何が浮かんでくるだろうか? たとえばキリスト教批判、神秘主義、ヨガや禅との修練、アセファルの実験、宗教社会学の摂取、内的体験、等々。そのなかから、私はまず「供犠」という問題を設定してみたい。なぜなら、供犠とは、バタイユが宗教的行為の中心にあると考えていたものであるようだし、また彼の全集を読んでいくと、もっとも多くの場所で出てくるものであると見えるからだ。アズテカの太陽神への数千人を捧げる儀式から受けた衝撃、宗教社会学への関心、ゴッホら自己毀損者を供犠の視点から読みとること、三〇年代のマソンとの画集「供犠」の共同作業、アセファルの実験、「死を前にしての歓喜の実践」、神の殺害者ニーチェの背後に供犠の姿があること、ヘーゲル論「死と供犠」すなわちヘーゲルが供犠の関心から読まれていること、もちろん内的体験、等々。内的体験は、たぶんバタイユにおける供犠的な経験のもっとも先鋭な姿だが、それを最初から持ち出すことはしない。なぜならそれをすると、問題がほぼ『内的体験』という書物に限られてしまうからだ。無論これは重要な書物であって、供犠の問題を辿っていくとその頂点にこの書物に収束していくのだが、それでもそこに至る過程も視野に入れるためには、まず供犠を主題とした方がよいように思われる。また内的体験は変化していく(そう私には見えるのだが)が、それを確かめるためには、その発端からはじめて基本的な構造を見ていくことが必要であると思われる。
 だから今私はこの探求を、概略的には供犠から内的体験へというかたちで想定する。だが、バタイユの宗教という問題を検討するためには、供犠を出発点とするとしても、実はその前に、もう一つ準備作業を行うことが必要である。それは言ってみればバタイユの宗教的気質の問題、具体的に言うと「ランスのノートルダム」とほかいくつかのテキストが提示してくる問題である。
「ランスのノートルダム」*1とは、一九一八年、二十一歳の時に書かれたものであって、バタイユの手になるものとしては、残っている最初の著作である。ランスは北仏にある町で、彼は中部のビヨンという町に生まれたが、四歳の時にそこに転居し、パリに出るまで暮らす。彼はこの町で第一次大戦に遭遇する。その時のことは、後に『眼球譚』で語られるが、それよれば、ドイツ軍の包囲下の町に盲目で半身不随の父親を残して母とともに避難し、その間に父親は死ぬ。そのことは彼に深い傷となって残るが、この戦争中に、町にあった有名な大聖堂がフランス軍の観的哨として使われ、そのためにドイツ軍の砲撃を受け、会堂の部分を破壊される。戦後これを再建する運動が起こり、当時バタイユは・サン・フルールの神学校にいたが、一役買って、再建運動への協力を呼びかけるパンフレットを起草したのである。
 このパンフレットを読むと、聖堂の建築によって大戦で荒廃した精神を立て直そうと訴える敬虔と言うほかない青年の姿が現れてくるのだが、問題となるのは、後年のバタイユはこれについては完全な沈黙を守ったという点である。この文書の存在が明らかにされるのは、彼の死後、古文書学校時代のバタイユの友人であったアンドレ・マソン(画家のマソンとは同姓同名の別人)が書いた書いた追悼記(一九六四年)の中で、そのような文書があったらしいことを回想したからである。文書は数年たってようやく発見される。生前それほど著名だったとも思われないのに、バタイユは自分の草稿類を執拗なまでに保存したが、それと較べるとこれほどの隠蔽のしかたは注目を引く。だがこれを実際に読んでみると、彼が隠そうとした理由はむしろ単純だと思える。この敬虔ぶりは、以後激烈なキリスト教批判者となった人間から見れば、若年の迷妄とは言わないにしても、一時の姿にすぎないと見えたに違いない。彼は聖堂が象徴する天空へ向かう志向を称揚したが、それは十年後のドキュマンでは完全に転倒され、大地と暗闇への志向が宣言されるからである。
 それにこの論文には、キリスト教のみならず、フランスという風土の称揚すらある。ランスの大聖堂はゴチック様式の代表とされるが、ランスの聖堂が持つのは、ただ美術的な価値だけではない。ランスの町は、四九六年にフランク王国の建設者であったクロヴィスがカトリックに改宗し、戴冠式を挙げた町であり、聖堂はその由来を背負って建設され、以後歴代のフランス国王は、ここで戴冠式を挙げなければフランスの国王とはみなされないという由緒ある聖堂であった。ジャンヌ・ダルクがシャルル七世を戴冠させたのもここである。だからランスの聖堂を再建するというのは、フランス精神の再建という意味を伴っていたのであって、それはやはり後年の民族や土地に対する民族主義的固着――ナチスムの標語の一つは「血と土」というものだった――を激しく批判してきた人間にとっては、許容できないものだったのだろう。
 この著作をどう受け取るか。これは以後のバタイユの著作全体からすると異物のようなものであって、バタイユ自身がしたように目をつぶってしまうと、一貫したイメージが結びやすくなるのだが、今は知らぬふりをして通すことは出来ない。少なくともバタイユの宗教的探求を辿ろうとするときには、どう読むかを提出しておかねばなるまい。ある人々は彼のこの「処女作」を重要視し、そこに後年の彼の全思想の萌芽を読みとろうとする。「処女作」、とりわけ秘められてきた「処女作」については、それを大きく取り上げようとする傾向が働くのだろう。だが私はこのような読み方に対しては用心したい。この著作から見えてくるのは、彼が宗教的な傾向、すなわち個体あるいは合理性という限界を超えようとする傾向を強く持っていたという点である。このことは最低限確かであって、それを読みとることは十分妥当だと、わたしには思われる。そしてこのような傾向は、少年期までの間では育った環境から大きく限定されるために、バタイユの場合はカトリックの伝統に接近するほかなかったということだ。
 以後の彼の過程は、この最初の限定をいかにして乗り越えるかという方向に向けられる。だがそれはうまくいったかどうか。「ランスのノートルダム」を読むと、私はもう一つの後期のあるテキストを思い出す。後年のバタイユは、時に不用心なと思えるようなやり方で「神」という言葉を使うことがあって、これは当時のバタイユの友人や数少ない読者を関心を引き、あるいは苛立たせることがあったようだ。一九四八年に彼は「シュルレアリスム的宗教」*2という題の講演をし、後で討論が行われたが、そのなかでクロソウスキーが単刀直入に「あなたはカトリックでしょう」と尋ねている。それに対するバタイユの答は、次のようである。「私がカトリックですって? 反論はいたしません。なぜならなにも言うことはないからです。私はひとがそう考えてくれなら何者でもあってもいいのです」と答えている。だがクロソウスキーは、当然ながらこの答には満足できなかったようで、しばらくあとに同じ問を繰り返している。「私は時に触れて、あなたのことをカトリックだと思ったことがあります」。これに対するバタイユの答は次のようである。「私は、私がカトリックだという評価に抗議しようとは思いません。全く支持できないことを言われたときには、私は答えることをしないのです」。
 これは文字通りに取れば、自分のことをカトリックだというような下らぬ問いには答えないと言うことである。だが見ようによっては、この問いに自分は答えようがないのだとも言っているように見える。またそもそも、一人のフランス人がもう一人のフランス人に、あなたはカトリックだろう、と言うとき、とりわけクロソウスキーのような人がバタイユのような人に向かって言うとき、どのような意味が込められているのか? 私にはにわかには推測がつかない。もし問が、信仰を持っているかどうかという意味だったら、あなたはクリスチャンだろう、というかたちを取った野ではないか? そうだとすれば、あなたはかとりっくだろうという問の意味は、あなたはプロテスタントではなくカトリックだということだったのだろうか。そうだとすると、ほかに少し考えるところがある。
 カトリシスムとプロテスタンティスムの違いは、バタイユにとってきわめて大きな問題であった。たとえば、バタイユの歴史認識では、近代の最大の転換点は、ルネサンスでも、アメリカ独立でも、フランス革命でも、産業革命でもなく、宗教改革なのである。プロテスタンティスムは、教会の権威に頼らず、神を内面化し、神と個人が直結しうることを教えた。それは人間の個人としての存在が重きをなすようになった近代が必要とし、また可能にした信仰の形態であった。そこから振り返ってみると、カトリシスムは、イエスの十字架上の死を共同で経験することによって成立する共同体すなわち教会を不可欠とし、それを聖餐式として繰り返す宗教、後に彼が非生産的消費と呼ぶ共同での生命の濫費を条件とし、古代の遺風を色濃く残す宗教であった。
 ところで、バタイユはそう見ていたと思えるのだが、カトリシスムの信仰の中心にあるのは、聖餐式であり、すなわち反復されるイエスの処刑である。するとこれは供犠なのだ。供犠への関心というのは、とりわけカトリック的な関心ではないのか。クロソウスキーがバタイユに言ったカトリックというのは、このような関心の持ち方だったのだろうか?
 だが供犠とカトリックを結ぶことは、前者が後者に含まれるということではない。クロソウスキーの尋ね方にはむしろそのような見方が感じられるが、バタイユにおいてはそれは逆で、供犠のほうがカトリックよりはるかに大きい概念であると設定されていたように思える。この違いがバタイユの木で鼻をくくったような答の理由ではないのか? 単純な見方をすれば、供犠は世界のほぼすべての原始的宗教に見られるものであり、その点からはイエスの死も一例にすぎず、だからイエスの死を供犠へと一般化することで、カトリックそしてキリスト教の限定を越えることが出来ると考えられていたのではないか? 先に私は、供犠から出発して内的体験にいたるというのを、今回のノートの仮説だとしたが、今はこのプロセスの前にもう一つ、カトリックあるいはキリスト教という段階を加えるべきかもしれない。カトリック的な出自を乗り越えるために、供犠に関心を集中したというのは言い過ぎだろうが、供犠に対する関心の中には、それがカトリシスムを相対化し、越えるための強力な一助になるという考えはあったに違いない。また供犠に対する関心は、すなわち彼が生来残酷さへの強い関心の持ち主だったということではなく、カトリック的な素養が作用していたとは言えるかもしれない。そして彼がカトリシスムあるいはキリスト教を乗り越えるとしたら、それはヨガや禅のようなほかの宗教、あるいは唯物論を対置し、横にずれて乗り移るのではなく、供犠から内的体験へというプロセスのうえで前方に向かって乗り越えられたのだ。この仮説の下に、今しばらく彼の供犠に対する関心を探ってみたい。

*1「ユリイカ」九七年七月号掲載。酒井訳。
*2ガリマール版全集第七巻、三九六ページから九七ページ。未訳。

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