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July 1871996

 颱風が押すわが列島ミシン踏む

                           小川双々子

和32年の句。わかりますねえ、この情景。そして、ミシンを踏んでいる人の心も。軍国幼児(?)だった頃、母の足踏み式ミシンをずいぶん悪戯したものですが、車がついているくせに前進しないところに苛立ちを覚えていました。なんとなく、百万の敵を迎え撃つ孤立した要塞で必死に耐えている……。そんなイメージが、この句にもあるような気がしてなりません。『小川双々子全句集』所収。(清水哲男)


August 2181996

 汗の身や機械に深く対ひゐて

                           小川双々子

所に、典型的といってよい小さな町工場がある。それなりの企業の下請けだろう。前を通ると、いつも機械の作動音と薬品の臭いがする。休み時間に工員たちは、ジュースを買いに近くのスタンドまで出てくる。みんな若い。茶髮もいる。でも、寡黙だ。そのスタンドのあたりには、彼らの通勤用のバイクと自転車が整列している。この句の主人公は、かなりのベテランだろう。が、読んですぐに、私は若い彼らのことを思った。どんな思いで、毎日機械にむかっているのだろうか。工場の道ひとつへだてた斜め前には、耐震構造が売り物の高級マンションが建設中だ。「地表」(1996年6月号)所載。(清水哲男)


June 1261997

 雨音の紙飛行機の病気かな

                           小川双々子

院中の作者が、たわむれに手元の紙で飛行機を折って飛ばしてみた。よく飛んだかどうかは問題ではない。病気だからそんな振る舞いに出たのだし、病気だから雨の音も明瞭に聞き取れている。それだけのことを言っている。ここにたゆたっているのは、作者の諦念だ。何度も目先に希望を見い出そうとした果ての諦めの心である。いまはストレートに「病気かな」と言い放てるほどに、その心は定まっているのだし、自分の病気を引き受け、冷静に見つめようとしている。みずからを「紙飛行機」に見立てているとも読めるが、同じことだろう。決して、鬱陶しいだけの句ではない。『異韻稿』(97年6月・現代俳句協会刊)所収。(清水哲男)


October 28101997

 柿二つ読まず書かずの日の当り

                           小川双々子

の日差しを受けて、二つだけ木に残った柿の実が美しく輝いている。それなのに、作者はといえば本を読む気にもなれないし物を書く気力もない。そんな情けない日(「日」は「日差し」にかけてある)を浴びながらも、柿はけなげに自己を全うしつつあるのだという感慨。しかし、この無為を悔いる気持ちは、あまり深刻なものではないだろう。軽口で言う「空は晴れても心は闇だ」という程度か。というのも「柿二つ」は「読まず書かず」に対応していて、このあたりに遊び心を読み取れるからだ。この明るさと暗さを対比させる方法は、キリスト者である作者初期の段階から始まっている。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


April 2141998

 暗いなあと父のこゑして黄沙せり

                           小川双々子

沙(こうさ)の定義。春、モンゴルや中国北部で強風のために吹き上げられた多量の砂塵が、偏西風に乗って日本に飛来する現象。気象用語では「黄砂」、季語では「霾(つちふる)」と言う。どういうわけか、最近ではあまり黄砂現象が見られなくなってきた。かつての武蔵野では、黄砂に加えて関東ローム層特有の土埃りが空に舞い上がり、目を開けていられなくなるような時もあったほどだ。この句の「暗いなあ」は、そうした物理的な意味合いも含むけれど、作者にはそれがもっと形而上的な意味としても捉えられている。何気ない父親のつぶやきが、自然のなかに暮らす類としての人間の暗さに照応しているように思えたのである。暗い春。春愁などという言葉よりも、一段と深く根源的な寂しさを感じさせるこの作品に、双々子俳句の凄みを感じさせられる。『囁囁記』(1981)所収。(清水哲男)


August 1881998

 はだかにて書く一行の黒くなる

                           小川双々子

だかで物を書く。ハタから見ればいささか滑稽な姿かもしれないが、珍しいことではない。私にも、ずいぶんと経験がある。汗がしたたるから、書いた文字はにじんで黒くなる。現象的には、それだけのことを書いた句だ。でも、それだけのことを書いた句が、なぜ読者の心にひっかかるのだろう。私の考えでは、はだかが人間の原初の姿であるのに対して、文字は原初から遠く離れた着衣の文化だからだと思う。すなわち、着衣を前提にして、文字による表現は幅と深みを獲得してきた。はだかで暮らせる人には、複雑な文字表現など必要はないのである。はだかで原稿などを書いた体験からすると、自分で自分が笑えてくるような感じがあって、実に不思議な精神状態になる。そしてその次には、はだかでいる自分が、まぎれもなくいつかは消滅する生物であると自覚され、汗ににじんだ黒い文字列がひどく虚しく見えてきてしまう。あえて一言で、この心境を述べるならば「黒い孤独」とでも言うしかないようだ。これを気障な台詞と感じる人は、幸福な人である。人間の着衣文化を、当たり前だと信じて疑わない人である。皮肉で言うのではない、念のため。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


July 1471999

 向日葵の非のうちどころ翳りゐて

                           小川双々子

るさを、明るさのままに享受しない。もとより、逆の場合もある。それは詩人の性(さが)というよりも、業(ごう)に近い物の見方であり感じ方だと思う。意地悪なまなざしの持ち主と誤解されるときもあろうが、まったく違うのだ。といって「盛者必滅」などと変に悟っているわけでもなくて、そのまなざしは物事や事象を、常にいわば運動体としてとらえるべく用意されている。現在のありのままの姿のなかに、既にその未来は準備されているという認識のもとで、まなざしは未来を予感すべく、ありのままを見つめようとする。作者の眼前の向日葵のありのままの姿には、実は一点の「非のうちどころ」もないのである。見事な花の盛りなのだ。しかし、花であれ人間であれ盛りの時期は短く、生きとし生ける者はことごとく、いずれは衰亡していくものだ。衰亡の種となるであろう「非のうちどころ」は、いまのところ「翳りゐて」見えないのだが、確実にそこに存在しているではないかという句だ。手垢にまみれた「非のうちどころ」という言葉を逆手に取った手法も、新鮮で魅力的である。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


December 30121999

 水仙が捩れて女はしりをり

                           小川双々子

月用の花として、いま盛んに売られている水仙。可憐な雰囲気だが、切り花として持ち歩くには少々厄介だ。すぐにポキッと折れそうな感じだし、「水仙やたばねし花のそむきあひ」(星野立子)と、あまりお行儀がよろしくない。それがこともあろうに、水仙の花束を持って走っている女性がいるとなったら、これはもうただならぬ気配だ。師も走るという季節(句は年末を指してはいないが)ではあるけれど、いつにせよ、花を持った人の走る姿は確実に異様に写るだろう。このときに作者は、捩(ねじ)れている水仙の姿を、その女性と一体化している。実際は花が捩れているのだが、女性その人もまた水仙のように捩れていると……。双々子には他に「女体捩れ捩れる雪の降る天は」があり、女性の身体と「捩れ」は感覚的に自然に結びついているようだ。もちろん、女性を貶しているのでもなく蔑視しているのでもない、念のため。キリスト者だから、おそらくは聖母マリア像にも、同様な「捩れ」を感じているはずである。誰にでもそれぞれに固有に備わっている特殊な感覚の世界があり、そのなかから私たちは一生抜け出すことはできない。『小川双々子全句集』(1991)所収。(清水哲男)


February 2622000

 椿的不安もあるに井の蓋は

                           小川双々子

だ寒さの残る早春の光景。田舎で育った人には、きっと見覚えがあるだろう。庭の片隅に蓋のされた井戸があって、すぐ近くでは椿の花が凛とした姿で咲いている。井戸の蓋は、手漕ぎポンプを取り付ける支えのためと、ゴミが入らないようにするためだ。誰もが見慣れた光景だが、そのなんでもないところから、双々子はこれだけのことを言ってのけている。「凄いなア」と、ただ感嘆するばかりだ。「椿的不安」とは、凛として咲いてはいるのだが、いつ突然にがくりと花首が折れるかもしれぬ不安だ。ひるがえって、井戸の蓋はどうか。一見ノンシャランの風情に見えるけれど、考えてみると、蓋の裏面は奈落の底と対しているわけだ。その暗黒で計ることのできない下方への距離感は、想像するだに「板子一枚下は地獄」よりもずっと怖いだろう。いつ、突然にはるか下方の水面に落下するやもしれぬ。日夜、そんな「椿的不安」にさいなまれていないはずはない。なのに「井の蓋」は、いつ見ても平然としている。見上げたものよ。人間だとて、所詮はこの「井の蓋」と同じような存在だろう。かくのごとき境地を得たいものだと、作者は願っている。「地表」(1999年・11-12合併号)所載。(清水哲男)


May 1952000

 牡丹を見つ立つてをり全き人

                           小川双々子

者の視線と関心は、おのずから「全き人」にむかう。どんな人なのだろうか。昔から牡丹は美人の比喩に使われてきたから、凄い美人なのかもしれない。あるいは、人間世界を超越した神に近い人物という印象であるのか。説明がないので、それこそ「全く」わからない。でも、それでよいのである。この「全き人」には、姿がない。いや、姿はあるのだけれど、「全き」と作者が言ったと同時に、忽然と姿は消えてしまったのだ。そう思った。なぜなら、この句は、牡丹と牡丹を見ている人のそれぞれの姿をただ並べているのではなく、牡丹と見ている人の「関係」の充実性を詠んでいるのだからだ。花の美しさが極まり、それを見る人の感興が極まった場面の呼吸を、作者は提示したかった。すなわち、姿かたちなど問題にならないほどに、両者はお互いに高まっているのであり、このときに見る人を言葉で表現するとすれば「全き人」とでも言うしかないという句なのだと思う。このように花を見るときに、誰でもが「全き人」となる。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


September 1892000

 刈田ですわたくしたちの父たちです

                           小川双々子

を刈り取ったあとの田圃(たんぼ)、整然と切り株が並んでいる。散髪したての頭のように、さっぱりとして見える。農村で暮らした子供のころの私は、さあ、今年もここで野球ができるぞと勇み立った。勇み立って、たしかに盛んに野球をやったけれど、最初はなんだか足の裏が痛いような感じも覚えたものだ。刈田とはいえ、田圃が決して遊び場ではないことを知っていたからである。農家の生命源であることくらいは、農家の子なら誰にでもわかっていた。そんなわけで後年、掲句に接して、あっと思った。足の裏が痛かったのは「わたくしたちの父たち」を理不尽にも踏んづけていたからなのだ、親不孝だったのだと。田圃は農家の生命源というよりも、人間の生命そのものであったのだと。稲作という労苦の果ての形骸なのではなく、依然として刈田では「わたくしたちの父たち」の労苦が継続している場なのだと……。が、刈田で野球に興じていると、いつしか最初の痛みなど忘れてしまう。たとえ人の生命を踏んづけている認識があったとしても、同じことだったろう。「遊び」一般とは、そういうものだ。それはそれで、仕方がない。恐いのは、興じているうちに、掲句のような視点(考え)を理解できなくなることだと思う。「稔るほどに頭(こうべ)を垂るる稲穂かな」などと説教めかして言われないと、気がつかなくなることだろう。敬虔の念は、説教されて生まれてくるものではない。……と、しかし、これもまた私流の「説教」かしらん(苦笑)。作者はキリスト者。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


March 0932001

 残雪に月光の来る貧乏かな

                           小川双々子

つまでも薮陰などに残っている雪は、それだけでも貧乏たらしい。ましてや青白い月光を浴びるとなると、作者のように、おのれの貧乏ぶりまでをもあからさまにされたように気恥ずかしくもあり、ぐうの音も出ない感じになる。貧乏を嘆いているというよりも、月光の力でおのれの貧乏を再確認させられた心持ちなのだ。残雪と貧乏とは何の関係もないのだけれど、貧すれば何とやらだ。下うつむいて暮らす人の目には、いずれは消えゆく残雪だからこそ、ことさらにシンパシーを覚える。自然に、そうなる。無関係なものにも、勝手なワタリをつけてしまう。だから、それを煌々と照らす月は、当然のように無情と写る。とは言え、この句にはうじうじとした陰湿さがない。あっけらかんとしていて、むしろ面白い、滑稽だ。それは「貧乏かな」と意表を突く表現によるわけだが、もはや「かな」と力なく言うしかない作者も、心の片隅では苦笑(微笑に近いかな)しているにちがいない。したがって、作者に心の貧乏はないと読める。えてして金持ちは比較級で語りたがるが、実は貧乏人も同じなのだ。どれくらいに貧乏かを、互いに意地で競い合ったりすることすらある。そういうところが揚句には微塵もなく、すこぶる気持ちがよろしい。子供の頃に赤貧を味わった私には、自然にそう写る。作者の貧乏の程度を推理しようなんて、野暮な振る舞いには及びたくない。比較級抜きで「貧乏かな」の、残雪のように冷たくとも、月光のように清々しい滑稽を味わうのみである。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


April 2542001

 乙鳥はや自転車盗られたる空を

                           小川双々子

の場合の「乙鳥」は「つばめ」「つばくら」「つばくろ」いずれの読みでもよいだろう。そんなに長くかかる用事でもないからと、駐輪場には停めずに、ちょっとそのあたりに置いておいた。さて帰ろうかと出てくると、自転車がない。私も盗られたことがあるのでわかるのだが、こういうときには、すぐに盗難にあったとは思わないものだ。置いた場所を間違えたのか、あるいは邪魔なので誰かが移動したのかと、しばし探しにかかる。でも、いくら探しても見当たらない。自分のと似たような自転車に触ってみたりしながら、だんだん盗まれたらしいという懸念が現実化してくる。弱ったなあ。不思議なもので、こういうときには何故か誰もが空をあおぎ見るようだ。と、まぶしい空を滑るように飛んできたのが初「乙鳥」だった。そこで作者は束の間、「はや」こんな季節になったのかと、途方に暮れている気持ちを忘れてしまうのである。燕は、とにかく勢いよく飛ぶ。その勢いが、人の日常的な困惑やら思いやらを、一瞬断ち切るように作用する。作者にはお気の毒ながら、自転車を盗られることで、飛ぶ「乙鳥」の心理的効果がはじめて鮮やかに具象化されたわけだ。おーい「乙鳥」よ、私の「自転車」をどっかで見かけはせなんだかーい……。『新大日本歳時記・春』(2000)所載。(清水哲男)


December 18122001

 炭俵的にぞ立つてゐようと思ふ

                           小川双々子

語は「炭俵(すみだわら)」で冬。当歳時記では「炭」の項に分類。最近はさっぱり見かけないけれど、あるところにはあるのだろうか。米俵とは違って、カヤなどで編んだ目の粗い俵である。もちろん、名のごとく炭を保管しておくための入れ物だ。炭がいっぱいにつまっている俵は、がっしりと直立している。が、中の炭が減ってくると、当たり前のことながら、だんだんへなへなと崩れそうに傾いてくる。だからときどき、重心を戻してやるために、持ち上げてゆさぶってやる必要がある。作者は、そんな不安定な「炭俵的にぞ」立っていたいと述べている。すなわち「俺が、私が」と自我を丸出しに直立して生きるのではなく、中身が少なくなれば重心がそれなりに変化していき、いまにも倒れそうになり、誰もゆさぶってくれなければ倒れかねない生き方をしたいと言うのである。阿弥陀仏の「他力本願」に似た心境だろうが、作者が敬虔なキリスト者であることを思えば、さまざまな宗教の求めるところは、ついにこのあたりに集約されるのかと考えさせられた。そんな大真面目な物言いはべつにして、傾いた「炭俵」の姿には、なかなか愛嬌がある。この句にもまた、大真面目の重心がどこか妙にずれているような不思議な愛嬌が感じられる。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


May 1452002

 征矢ならで草矢ささりし国家かな

                           小川双々子

語は「草矢(くさや)」で夏。蘆などの葉を裂いて、指にはさんで矢のように飛ばす。退屈しのぎに「草矢うつ正倉院の巡査かな」(鳥居ひろし)などと。掲句は、さながら現代日本の政情を風刺しているかのようだ。「征矢(そや)」は実際の戦闘に用いられる矢のことだが、遊び事の草矢が何かにささることは、まずありえない。が、我らが「国家」には簡単にささってしまうのだ。ああ、何をか言わんや、ではないか。今回の中国領事館の出来事にしても然り。目の前で不可侵権を侵害されても、ただぼおっと立っているだけ。これぞ、絵に描いたような「有事」だというのに。私だったら、かなわぬまでも大声をあげ警官を押し戻そうとしただろう。事の是非を考えるよりも、とにかく身体がそのように反応しただろう。そうすれば、警官は十中八九は退いたはずだ。彼らはみな、その程度のトレーニングは受けている。かつての安保全学連で習得した一つのことは、理念の肉体化物質化だった。ただ見ていただけの外交官には、権利を防衛する意識がまったく肉体化されていない。自分が、国家の最前線に位置している自覚すらない。「同意」はしなくとも「拒絶」もしなかった。だから、たかが草矢ごときにさされてしまうのだ。外交官が武闘派である必要はまったくないが、呆然と眺めている必要もまったくない。トレーニングが足らねえなあと、テレビ映像を見て舌打ちしたことであった。そして、征矢ならばともかく草矢がささるはずなどあるものか、ささったのであれば自分でさしたのだというのが、現段階での中国側の認識である。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


July 1272002

 かはほりの天地反転くれなゐに

                           小川双々子

語は「かはほり(蝙蝠・こうもり)」で夏。夜行性で、昼間は洞窟や屋根裏などの暗いところに後肢でぶら下がって眠っている。なかには「かはほりや仁王の腕にぶら下り」(一茶)なんて奴もいる。したがって、句の「天地反転」とは蝙蝠が目覚めて飛び立つときの様子だろう。「くれなゐ」は「くれなゐ(の時)」で、夕焼け空が連想される。紅色に染まった夕暮れの空に、蝙蝠たちが飛びだしてきた。「天地反転」という漢語の持つ力強いニュアンスが、いっせいに飛び立った風情をくっきりと伝えてくる。そして、この言葉はまた、昼夜「反転」の時も告げているのだ。現実の情景ではあるのだが、幻想的なそれに通じるひとときの夕景の美しさ。最近の東京ではとんと見かけないけれど、私が子供だったころには、東京の住宅地(中野区)あたりでも、彼らはこんな感じで上空を乱舞していた。竹竿を振り回して、追っかけているお兄ちゃんたちも何人かいたような……。何の話からだったか、編集者時代に武者小路実篤氏にこの話をしたところ、「ぼくの子供の頃には丸ノ内で飛んでましたよ」と言われてしまい、つくづく年齢の差を感じさせられた思い出もある。俳誌「地表」(2002年5月・通巻第四一四号)所載。(清水哲男)


August 1982002

 昼寝びと背中この世の側にして

                           小川双々子

語は「昼寝」で夏。そろそろ、大人の昼寝のシーズンもお終いだ。私は昼寝が大好きだが、涼しくなってくると、さすがに寝る気にはなれなくなる。暑さゆえの疲労感がなくなるからだろう。夜の睡眠とは違って、昼寝には明日の労働力再生産への準備といったような意味合いがない。たいてい、何の目的もない。だから、夜間に眠れなくて深刻に悩む人は多いけれど、昼間に寝られないからといって、気に病む人はいないはずだ。そして、昼寝に入るときの至福感は、入浴のときの「ああ、天国天国」という感じによく似ていると思う。当今流行の言葉で言えば、一種の「癒し」に通じている。作者はたぶん、そういう感覚から「昼寝びと」を見ているのだろう。すなわち、昼寝の当人は「天国」に向いている気持ちなのだが、起きている作者からすると、そういったものでもないのである。俯せにか、横向きにか。無邪気に寝入っている人の気持ちはともかく、見えている「背中」は「この世の側」に残っている。現実が、べったりと背中に貼り付いている。かといって、昼寝の人が故意にこの世に背を向けているのでもない。人の気持ちと現実とが乖離(かいり)している様子を、視覚的にとらえてみせた巧みさに、私は惹かれた。俳誌「地表」(2002年・第415号)所載。(清水哲男)


October 17102002

 百日紅より手を出す一人百人町

                           小川双々子

語は「百日紅(さるすべり)」で夏だが、名の通りに花期が長く、我が家の近くではまだ咲き残っている。「百人町」といえば東京の新宿区百人町が知られるが、句のそれは、作者が愛知県の人なので、名古屋市東区にある百人町だろう。建中寺の東に接して東西に細長く伸びた町で、その昔、百人組と呼ばれた身分の低い武士が住んでいた。道路は細く迷路のように入り組んでおり、これはむろん矢弾の進入を防ぐためにデザインされたからだ。いまでも、そこここに名残が見られるという。そんな町は、歩いているだけで不思議な感じになるものだ。町の歴史を反芻するようにして、一つ一つの不思議に合点がいったりいかなかったり……。それが、とある庭のとある百日紅の間から、いきなりにゅっと人の手が出てきたとなれば、不思議さにとらわれていただけに、ぎょっとした。手を出した人には何か理由があったからだが、出されたほうにしてみれば、理由などわからないからびっくりしてしまう。ここで「百日紅」と「百人町」の「百」と、それに挟まれた「一人」の「一」との対比が効いてくる。「百」は全であり「一」は個だ。つまり全にとらわれている気持ちに、個は入っていない。町全体の不思議にいわば酔っているときに、急に全からは想像もつかない個のふるまいが示されたのだからびっくりして、個であるその人を逆に強く意識することになったのだ。上手に解釈ができなくてもどかしいけれど、百人町が百日紅と言葉遊び的に配置されたのではなく、この町ならではの句であることを言っておきたかった。俳誌「地表」(2002・第417号)所載。(清水哲男)


April 1742003

 人類の歩むさみしさつちふるを

                           小川双々子

語は「つちふる」で春。「霾」というややこしい漢字をあてるが、原義的には「土降る」だろう。一般的には、気象用語で用いられる「黄砂(こうさ)」のことを言う。こいつがやって来ると、空は黄褐色になり、太陽は明るい光を失う。その下を歩けば、はてしない原野を行くような錯覚に陥るほどだ。そしていま、作者もその原野にあって歩いている。そしてまた、作者には「つちふる」なかを歩く人の姿が、個々の人間ではなくて「人類」に見えている。類としての人間。その観念的な存在が、眼前に具体となって現れているのである。下うつむいておろおろと、よろよろと歩く姿に、人類の根源的な「さみしさ」を感じ取ったのだ。太古からの人類の歩みとは、しょせんかくのごとくに「さみしい」ものであったのだと……。「人類愛」などと言ったりはするけれど、普段の私たちは類としての存在など、すっかり忘れて生きている。一人で生きているような顔をしている。が、黄砂だとか大雪だとか、はたまた地震であるとか、そうした人間の力ではどうにもならぬ天変地異に遭遇すると、たちまち自分が類的存在であることを思い知らされるようである。その意味で、掲句は「人類」と言葉は大きいが、実感句であり写生句なのだ。名句だと思う。愚劣な戦争を傍観しているしかなかった私の心には、ことさらに沁み入ってくる。『異韻稿』(1997)所収。(清水哲男)


June 1062003

 平伏の火の父が見し蟻なるか

                           小川双々子

語は「蟻」で夏。平伏(へいふく)する父親の姿。誰だって、そんな屈辱的な父親の姿など見たくはない。想像もしたくない。が、かつての大日本帝国に生きた父親たちにとっては、抽象的にもせよ、平伏は日常的に強いられる行為であった。ニュース映画に天皇が登場するだけで、起立脱帽した日常を、いまの若者は信じられるだろうか。今日伝えられる某国の圧制ぶりをあざ笑う資格は、我が国の歴史からすると、誰にもありえない。しかし、今日の某国でもそうであるように、かつての心ある父親たちはみな「火の」憤怒を抑えつつ平伏し、眼前すれすれの地を自在に歩き回る「蟻」を睨んでいただろう。その「火の父」の無念を、作者は子として引き受けている。かっと、眼前の蟻を睨んでいる。「昭和二十年七月二十八日夜、一宮市は焼夷弾による空襲で八割が灰燼に帰した。僕の父は防空壕内で窒息死した。傍らに自転車が立つてゐた」と作者は書いている。平伏の果てが窒息死であったとは、あまりにも悲惨でやりきれない。作者が父と言うときには、必ずこの悲惨な事実を想起して当然だが、それを個人の問題に矮小化して詠まないところが双々子の句である。個人を超えて常に人間全体へと普遍化する意志そのものが、双々子のテーマであると言っても過言ではないだろう。だから、作者の父親の窒息死を知らなくても、掲句はきちんと読むことができる。ところで、父たちの平伏の時代はあの頃で終わったのだろうか。そのことについても、掲句は鋭く問いかけているようだ。『囁囁記』(1998・邑書林句集文庫)所収。(清水哲男)


July 0872004

 明易き人生ああ土根性は

                           小川双々子

語は「明易し」で夏、「短夜」に分類。夏の夜が明け易いように、人生もまた明け易い。光陰矢の如し。時間ばかりが、どんどん過ぎてゆく人生……。夏の早暁に目覚めた作者の実感的連想だろう。人生に欠かせないキーワードはいろいろあるが、あえていまどき流行らない「土根性(どこんじょう)」を持ちだしたところが面白い。戦後の日本人総体のありようを振り返ってみれば、なんだかんだと言ったって、この「土根性」という曖昧な精神力でがむしゃらに驀進してきたような気がする。猛烈サラリーマン、それが飛び火したスポ根ものの隆盛。そんな時代が、確かにあった。このときに句の「ああ」という詠嘆は、複雑だ。土根性いま何処でもあれば、いまこそその残り火を掻き立てよ、でもある。そしてまた「ああ」には、早暁の夢の醒めぎわで、「土根性」などという自分でもびっくりするような、思いがけない言葉が出てきてしまったことへの苦笑も含まれているだろう。妙なことを言うようだが、この句を目覚めのときに思い出すと、けっこう床離れがよくなる。「明易き人生」で意識は静かに覚醒してくるが、次の「ああ」以降を復唱するととても寝てはいられない気持ちになってくる。跳ね起きてしまう。一瞬、忘れていた(土)根性がよみがえり、わけもない焦燥感にかられるからだろうか。お試しあれ。俳誌「地表」(第434号・2004年5月刊)所載。(清水哲男)


August 1482004

 首振りの否定扇風機は愛しも

                           小川双々子

語は「扇風機」で夏。まだしばらくはお世話になる。新着の「地表」でこの句を読んで、つくづくと扇風機の「首振り」を眺めてしまった。なるほど、こちらがどう出ようとも、いつまでも首を降りつづけている。それを「否定」の表現としたのが句のミソで、再びなるほど、ゆっくりではあるが永遠に首を振りつづけるとは、赤ん坊の「いやいや」などを越えて、頑固な否定の意思が感じられる。でも最後には「愛し」いよと作者は言い、いきなりの「否定」という強い調子の言葉にぎくりとした読者に「なあんだ」と思わせる。作者一流の諧謔だから、ここに何か形而上的な意味を求めても無駄だろう。二年ほど前だったか、こんな句もあった。「水打つといふ絶対の後退り」。たしかに、水を打ちながら前進する者はいない。後へ後へと退いていくのみだから、その行為はなるほど「絶対」である。「否定」といい「絶対」といい、こうした高くて強い調子の言葉をさりげない日常の光景や行為に貼り付けてみると、たとえ「なあんだ」の世界でも新鮮に感じられるから、言葉というものは面白い。これからは扇風機を見かけるたびに、掲句を思い出すだろう。となれば、扇風機売り場などはさしずめ「否定地獄」みたいなもので、通りかかったら思わず笑ってしまいそうだ。俳誌「地表」(第435号・2004年6月)所載。(清水哲男)


August 2082005

 だけどこの子は空襲で死んだ草

                           小川双々子

季句だが、夏を思わせる。「空襲」ののちの敗戦は、折りしも「草」生い茂る夏のことだったからだろう。掲句を含む連作「囁囁記」のエピグラフには、旧約聖書「イザヤ書」の次の一節が引かれている。イザヤは、キリスト生誕の700年以上前に登場した預言者だ。「人はみな草なり/その麗しさは、すべて野の花の如し/主の息その上に吹けば/草は枯れ、花はしぼむ。/げに人は草なり、/されど……」。すなわち「囁囁記」の諸句は、このイザヤの言の「されど……」を受けたかたちで展開されている。なかでも掲句は,「されど」を「だけど」と現代口語で言い直し,言い直すことで、草である人の現代的運命の悲惨を告発している。「子」は小さい子供というよりも、「神の子」たる人間のことを指しているのではなかろうか。作者の父親は空襲の際、防空壕のなかで窒息死している。その父親がまず,作者にとっての「この子」であると読むのは自然だろう。たとえそうした背景を知らなくても,引用されたイザヤの言葉を頭に入れていれば、「子」が「空襲で死んだ」個々人に及んでいると読めるはずである。ちなみにイザヤ書の「されど……」以下の部分は、こうだ。「我らの神の言葉は永遠に立つ」。キリスト者である作者はこの言を受け入れつつも,しかしなお「だけど」と絞り出すようにして書きつけている。やがては枯れる運命も知らぬげに、いま盛んな夏草の一本一本が,掲句によってまことにいとおしい存在になった。『囁囁記』(1998・1981年の湯川書房版を邑書林が再刊)所収。(清水哲男)




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