見R髓ケ句

July 1971996

 裸子や涙の顔をあげて這ふ

                           野見山朱鳥

鳥はいつも病気がちで、人生の三分の一は病床にあった。したがって、死をみつめた句が数多い。そんななかでの健康な乳児をうたった作品だけに、印象が強い。もちろん、赤ん坊の微苦笑を誘うしぐさのスケッチと読んでよいわけだが、涙の裸子に声援を送る作者の気持ちにはそれ以上の思いが込められている。『荊冠』所収。(清水哲男)


November 08111996

 いちまいの皮の包める熟柿かな

                           野見山朱鳥

に重い熟した柿。極上のものは、まさにこの句のとおり、一枚の薄い皮に包まれている。桃の皮をむくよりも、はるかに難しい。カラスと競い合うようにして、柿の熟れるのを待っていた我ら山の子どもは、みんな形を崩さずに見事にむいて食べたものだった。山の幸の濃密な甘味。もう二度と、あのころのような完璧な熟柿を手に取ることはないだろう。往時茫茫なり。なお、この句には、同時にかすかなエロスの興趣もある。『曼珠沙華』所収。(清水哲男)


December 06121996

 雉子鳴いて冬はしづかに軽井沢

                           野見山朱鳥

でもないような句ですが、そこがいいですね。避暑地の冬です。夏場の混雑と対比させるために、あえて「しづか」と言ったところが利いています。冬の軽井沢を、私はもちろん知りませんが、この句のとおりなのでしょう。風景は寒々としていても、読者をホッとさせてくれます。さすがはプロの腕前だと思いました。アマチュアには、できそうでできない作品のサンプルといってもよいのではないでしょうか。『荊冠』所収。(清水哲男)


January 2611997

 人も子をなせり天地も雪ふれり

                           野見山朱鳥

いものの舞いはじめた夕暮れのレストランで、知り合いの若い女性に妊っていることを暗示された。急遽、結婚することにしたという。相手は私の知らない男性である。とたんにこの句を思いだし、彼女には言わなかったが、ひそやかに「おお、舞台装置も今宵は満点」と祝杯のつもりでジョッキをかかげた。もとより、この句はそのような「はしゃぎ」とは無縁のところで作られたものだ。死に近い床での自然との交感の産物である。だからこそ、逆に私は、若い彼女の出発にふさわしいと感じたのだった。妊った女性は、必然的に現実を見る目が変わる。そのときにはじめて「自然」と向き合うからだ。すなわち、みずからの身体を賭けて「自然」の意味を具体的に知るからなのである。『愁絶』所収。(清水哲男)


June 2061997

 交響楽運命の黴拭きにけり

                           野見山朱鳥

鳥はいつも病気がちで、人生の三分の一くらいを寝て暮らした。したがって、自分の人生や運命に対しては過敏なほどに気を配り反応して、多くの優れた句を残している。虚子は「異常な才能」と言っているが、その通りだろう。そんななかで、この句は一瞬のやすらぎを読者に与える。戦後間もなくの作品だから、ベートーベンの「運命」のレコードはSP盤だ(何枚組だったろうか)。ひさしぶりに聴こうとしたら、長い間針を落とさないでいたので、黴(かび)が生えてしまっていた。それをていねいに拭き落しながら、いつしか作者はみずからの運命の黴を拭いているような思いにとらわれたということである。私は深刻には受け取らず、このときに朱鳥が思わずも苦笑した様子を思い描いた。あえて言うのだけれど、俳諧ならではの滑稽味がにじんでいる作品だと思いたい。『天馬』所収。(清水哲男)


January 2111998

 鶴を見る洟垂小僧馬車の上

                           野見山朱鳥

楚な鶴の姿と洟垂小僧(はなたれこぞう)の対比が面白い。洟垂小僧とはいっても、実際に洟を垂らしているのではなく、ここでは「悪ガキ」の意味だ。病気がちだった作者の句には暗い雰囲気のものが多いが、珍しく明るい句である。よほど体調がよかったのだろうか。とはいっても、ここにもやはり病者のまなざしがあり、馬車に揺られながら神妙な顔つきで鶴を見ている洟垂小僧の元気に、朱鳥は限りない羨望の念を覚えているのである。そしてこの馬車だが、シャーロック・ホームズが乗っていたような立派な代物ではない。木材や薪炭などを運搬するためのそれだ。私にも覚えがあるが、そんな馬車が通りかかると、すかさず我ら悪ガキたちは飛び乗って遊んだものである。悪路を行く馬車に乗ると、揺れの激しさに頭がジンジンした。『運命』(1962)所収。(清水哲男)


March 0531999

 あたたかや四十路も果の影法師

                           野見山朱鳥

分の影。五十歳に近い男の影法師。病弱だった作者は、暖かさに誘われて庭に出ている。若いころの影とはどこか違い、影にも年輪があることを見いだして、作者はあらためて己の年令のことや來し方を思っている。春愁の心持ちだ。朱鳥は五十二歳で亡くなった(1970)。だから、この句を書いた後、そう長くは生きられなかったことになる。そのことから照り返されてくる哀切……。しかし、こうした事実を知らなくても、句は十分に観賞に耐え得る。人間が時間を心に置き、年令をカウントするのは、究極のところ「死」を意識する結果であるからだ。たとえば、サラリーマンが「四十路の果」で定年までの年数を頭に浮かべたりするのも、その果てには確実に「死」が待ち受けているという認識があるからである。人間に「死」の意識がないとすれば、定年などどうということもない。いや、定年という制度そのものが既にして「死」の観念から逆算されたものだから、定年を思うことは畢竟「死」を思うことなのだ。そこで、句の影「法師」の意味が鮮明に立ち上がってくるということになる。「絶命の寸前にして春の霜」(朱鳥)。「死」の寸前にあっても、なお「寸前」という時間意識にとらわれる怖さ。『愁絶』(1971)所収。(清水哲男)


October 21101999

 万太郎が勲章下げし十三夜

                           長谷川かな女

宵の月が「十三夜」。陰暦八月十五日の名月とセットになっていて「後(のち)の月」とも言い、大昔には十五夜を見たら十三夜も見るものとされていたそうだ。美しい月の見納め。風雅の道も大変である。で、片方の月しか見ないのを「片見月」と言ったけれど、たいていの現代人は今宵の月など意識してはいないだろう。それはともかく、十三夜のころは寒くなってくるので、ものさびしげな句が多い。「りりとのみりりとのみ虫十三夜」(皆吉爽雨)、「松島の後の月見てはや別れ」(野見山朱鳥)。そんななかで、この句は異色であり愉快である。「万太郎」とは、もちろん久保田万太郎だろう。秋の叙勲か何かで、万太郎が勲章をもらった(ないしは、もらうことになった)日が十三夜だった。胸に吊るした晴れがましい勲章も、しかし十三夜の月の輝きに比べると、メッキの月色に見えてしまう。ブリキの勲章……。かな女は、そこまで言ってはいないのだけれど、句には読者をそこまで連れていってしまうようなパワーがある。勲章をもらった万太郎には気の毒ながら、なんとなく間抜けに思われてくる。寿ぎの句だが、寿がれる人物への皮肉もこめられていると言ったら、天上の人である作者は否定するだろうか。にっこりするだろうなと、私は思う。(清水哲男)


February 1222000

 落椿天地ひつくり返りけり

                           野見山朱鳥

字「椿」は、実は漢字ではない。日本で作られたいわゆる「国字」という文字で、中国では通用せず、本当の漢字(ああ、ややこしい)での「椿」は「山茶」と書く。そんなことはどうでもよろしいが、句は椿の落ちている様子を大袈裟に描いていて面白い。たしかに、椿の落ちざまはこんなふうだ。天地がひっくりかえっちゃっていて「えらいこっちや」という感じ。その意味では、誇張した表現を得意とする「漢詩」に似ていなくもない。昔の人はごく普通に漢詩に親しんでいたので、俳句にもその影響を受けた作品はいくつもある。「天地」で思い出したが、私は長い間「天地無用」の意味を反対に解していた。よく荷物の外箱に書いてある。「天地」が「無用」なのだから、逆さまにしても構わない意味だと信じ込んでいたのだ。でも、そんな荷物に限って逆さまにはできない感じだったので、不思議なことを書くものよと、訝しく思ってはいたのだが……。それが大学生のころだったか、「口外無用」という言葉に出くわして、はじめて「無用」に「してはいけない」という意味があることを知り、それこそ「天地」がひっくりかえるほど驚いた。お笑いください。英語では「This Side Up」などと表記する。わかりやすくて好きだ。『曼珠沙華』(1950)所収。(清水哲男)


March 3032001

 火の隙間より花の世を見たる悔

                           野見山朱鳥

哭。印象は、この二文字に尽きる。人生の三分の一ほどを病床で過ごした朱鳥は、このときにもう死の床にあることを自覚していたと思われる。夢うつつに、めらめらと燃え盛る地獄の炎を意識していたに違いない。実際はうららかな春の日差しだろうが、重い病いの人に、あまりの明るさはコタえるのだろう。その我が身を焼き尽くすような「火の隙間」から、ちらりと桜花爛漫の「花の世」を見てしまった。未練を断ち切ろうとしていたはずの、俗世の人々のさんざめく様子が垣間見えたのである。実際には、もちろん花見の情景などは見ていない。家人の動きや言葉の端などから、桜の見頃であることを察知したのだ。くやしい。猛然と、そんな心が起き上がってくる。健康であれば、私も「火」の向こう側で楽しく花見ができているはずなのに……。掲句の神髄は、赤い「火」と紅の「花」との取り合わせにある。「火」と「水」のような対比ではない。同色系で奥行きを出したところに、作者の俳句修練の果てが表れている。そんな技術的方法的な意識はもはやなかったかもしれないが、しかし、修練無くしてこのような句は生まれないだろう。それにしても、実に悪寒がするほどに恐い句だ。いよいよ自分が死ぬと自覚できたとして、この句を知っている以上、春たけなわの「花の世」で死ぬのだけは免れたいと思う。その昔「花の下にて」春に死にたいと願った歌人もいたけれど、当分死ぬ気遣いのない人だからこそ詠めた「浪漫」だ。死の床に「浪漫」の入り込む余地はない。朱鳥の命日は、二月二十一日(1970)だった。「花の世」には、無念にも一ヶ月ほど届かなかった。「生涯は一度落花はしきりなる」。朱鳥亡き後も、花は咲き花は散っている。『愁絶』(1971)所収。(清水哲男)


October 03102001

 秋風よ菓子をくれたる飛騨の子よ

                           野見山朱鳥

弱で、人生の三分の一ほどは病床にあった作者の、まだ比較的元気だったころの句だ。どのようなシチュエーションで、「飛騨(ひだ)の子」が「菓子をくれた」のかはわからない。想像するに、この子はまだ私欲に目覚めてはいない年ごろだろう。四歳か、五歳か。「おじさん、はい」と菓子を差し出して、すっと離れていった。私にも同じ体験が何度かあるが、欲のしがらみにまみれているような大人からすると、その子供のあまりの私欲のなさに、一瞬うろたえてしまう。それがいかに粗末な駄菓子であったとしても、子供はもう食べたくないから、余ったから「くれた」のではない。むしろ美味しいから、もっと食べたいのに、差し出したのだ。そんな、いわば無私無欲の子供の心に、作者はいたくうたれている。子供の顔が、仏のように写ったかもしれない。地名の「飛騨」には、たまたまの旅先であったというしか元来の意味はない。でも、この子の出現によって、理屈ではなく情趣的な深い意味が出てきた。その詠嘆が「飛騨の子よ」となり、心地よい「秋風よ」となって、作者の胸を去来している。句の主潮は、決してセンチメンタリズムではない。このように表現した意図は、作者が子供から受けたのが「菓子」を越えて、掌にも、そして心にも重い確かな人間の美しさだったからだと、私は思う。『荊冠』(1959)所収。(清水哲男)


January 1612002

 寒雷や針を咥へてふり返り

                           野見山朱鳥

語は「寒雷(かんらい)」で冬。冬の雷のことだが、冬に雷は少ない。少ないからこそ、鳴ったり光ったりすれば、一瞬何事かと音や光りの方角を自然の勢いで見やることになる。その一瞬をつかまえた句だ。しかも「ふり返」った人は、偶然にも「針を咥へて」いた。雷と針。物理的に感電しそうだとか何とか言うのではなく、いかにも犀利でとがった印象を受ける現象と物質とが瞬間的に交叉し光りあったような情景のつかみ方が面白い。現代語で言えば、「しっかりと」構図が「決まっている」。さて、この「針」であるが、私には待針(まちばり)だと思えた。したがって、ふり返ったのは女性である。妻か母親だろう。待針は裁縫で縫いどめのしるしとし、あるいは縫い代を狂わないように合わせて止めるために刺す針のことだ。一度に何本も刺さなければならないので、大工が釘を咥(くわ)えて打つのと同じ理屈で、何本かを口に「咥へて」いるほうが能率的である。たいていは、頭にガラス玉か花形のセルロイドなどが付いていたので、咥えやすいという事情もあった。それにしても掲句は、よほど研ぎ澄まされた神経でないと見過ごしかねない情景を詠んでいる。作者の人生の三分の一が不幸にも病床にあったことは、既に何度か書いた。『曼珠沙華』(1950)所収。(清水哲男)


May 3052004

 交響曲運命の黴拭きにけり

                           野見山朱鳥

語は「黴(かび)」で夏。決して大袈裟ではなく、掲句をパッと理解できる人は、国民の半分もいないだろう。俳句もまた、年をとる。年を重ねるにつれて、詠まれた事象や事項が古くなり、忘れられ、新しい世代の理解が得られなくなる。淋しいことではあるが、仕方のないことでもある。「交響曲運命」はベートーベンの曲だが、ここではその曲の入ったレコードのことを言っている。それも、蓄音機で聴くSP(Standard Play)盤だ。SP盤の材質にはカーボンに混ぜて貝殻虫の分泌液が使われていたので、梅雨期にはよく黴が生えたし、ダニの温床になることすらあったという。だからこうして黴を拭う必要があったわけで、たまたまそれが「運命」という曲であっただけに、作者はさながらおのが運命を念入りに拭ったような晴朗の心持ちを覚えたのだろう。いまのCDとは違って、SP盤は割れやすかったし、交響曲などの長い曲は何枚組にもなっていた。それらを一枚いちまい拭い陰干しにしたりと、実に丁寧に取り扱って聴いた。だから聴く時には、まさに傾聴というにふさわしい聴き方をしていたのである。音楽好きの私の先輩などが、例外なく交響曲のディテールに詳しいのも、このためだろう。SP盤がLP(Long Play)盤にほぼ取って代わられたのは、1960年(唱和三十五年)と言われている。とすれば、既に四十数年前のことだ。多くの人に、掲句がわからなくても無理はない。なお、この句については一度書いたことがあるが、少し感想が動いたので再掲することにした。『天満』(1954)所収。(清水哲男)


December 12122004

 初雪は隠岐に残れる悲歌に降る

                           野見山朱鳥

語は「初雪」。724年(神亀元年)に、公式に流刑地として定められた「隠岐」島。以来、江戸時代末期まで1000年以上にわたり、主に身分の高い政治犯が流された。有名どころでは、小野篁(小野小町の祖父)、後醍醐天皇、後鳥羽上皇がいる。前二者がしぶとくも再起を果たしたのに対して、鎌倉幕府転覆に失敗した後鳥羽上皇は、数人の側近とともに再び京の都へ帰ることを強く望みながら、崩御するまでの19年間にわたって島暮らしを余儀なくされた。彼は歌聖とも呼ばれた歌作りの名手であったから、この間に多くの歌を詠んでいる。「眺むればいとど恨みもますげおふる岡辺の小田をかへすゆふ暮」。恨みと涙と諦念と……。それらの歌からは、いまにしても深い絶望感が伝わってくる。すなわち、悲歌である。そうした悲しい歴史を持つ隠岐に、初雪が舞いはじめた。灰色の空と海を背景に舞う白いものの情景を、ずばり「悲歌に降る」と言い止めた技倆は素晴らしい。これで、俳句の寸法が時空間に大きく広がった。作者自身が、このとき歴史の中に立ったのである。上皇が見たのと同じ初雪を感じているのだ。余談ながら現在の隠岐には、後鳥羽院の歌を集めた「遠島百首かるた」があるそうである。『幻日』(1971)所収。(清水哲男)


February 0522005

 父と子は母と子よりも冴え返る

                           野見山朱鳥

語は「冴(さ)え返る(冴返る)」で春。暖かくなりかけて、また寒さがぶり返すこと。早春には寒暖の日が交互につづいて、だんだんと春らしくなってくる。普通は「瑠璃色にして冴返る御所の空」(阿波野青畝)などのように用いられる。掲句はこの自然現象に対する感覚を、人間関係に見て取ったところが面白い。なるほど「母と子」の関係は、お互いに親しさを意識するまでもない暖かい関係であり、そこへいくと「父と子」には親しさの中にも完全には溶け合えないどこか緊張した関係がある。とりわけて、昔の父と子の関係には「冴え返る」雰囲気が濃かった。「冴返る」の度をもう少し進めた「凍(いて)返る」という季語もあって、私が子供だったころの父との関係は、こちらのほうに近かったかもしれない。女の子だと事情は違ってくるのかもしれないが、一般的に言って男の子と父親は打ち解けあうような間柄ではなかった。ふざけあう父子の姿などは、見たこともない。高野素十の「端居してたゞ居る父の恐ろしき」を読んだときに、ずばりその通りだったなと思ったことがある。でも、見ていると、最近のお父さんは総じて子供に優しい。叱るのは、もっぱら母親のようである。となれば、この句が実感的によくつかめない世代が育ちつつあるということになる。良いとか悪いとかという問題ではないのだろうが。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


November 16112006

 一枚の落葉となりて昏睡す

                           野見山朱鳥

核療養のため、生涯の多くを病臥していた朱鳥(あすか)晩年の句。「つひに吾れも枯野のとほき樹となるか」もこの頃の作である。体力が衰え、身体がきかなくなるのに最期まで意識が冴え渡っているとは、何と残酷なことだろう。回復の希望があるならまだしも、この時期の朱鳥はもはや死を待つばかりの病状であり、自然に眠りにつくなど難しい状態だった。病が篤くなるにつれ痛みも増し、薬を服用する回数も多くなるだろう。睡眠薬やモルヒネの助けを借りて眠りにおちる「昏睡」(こんすい)は突然、奈落の底へ落とされるような暴力的眠り。目覚めたときには眠りが一瞬としか思えないぐらい深い意識の断絶があり、それは限りなく死に近い闇かもしれない。晩秋から冬にかけて散った木の葉はもう二度と生命の源である樹につながることはできない。枝からはずれたが最後、落ちた場所で朽ちてゆくしかないのだ。身動きの出来ない身体を横たえたベットで息絶えるしかないことを朱鳥は深く自覚している。落葉は見詰める対象物ではなく、今や自分自身なのだ。「一枚の落葉となりて」という措辞に希望のない眠りにつく朱鳥のおそろしいほど切実な死の実感がこめられているように思う。『野見山朱鳥句集』(1992)所収。(三宅やよい)


September 0492009

 秋風や書かねば言葉消えやすし

                           野見山朱鳥

かれない言葉が消えやすいのは言葉が思いを正しく反映しないからだろう。もやもやした言葉になる以前の混沌をそれでも僕らは言葉にしないと表現できない。加藤楸邨には「黴の中言葉となればもう古し」がある。書かねば消えてしまう言葉だからと、書いたところでそれはもう書かれた瞬間に「もやもやした真実」とは乖離し始める。百万言を費やしたところで、僕らは思いを正確に伝えることは不可能である。不可能と知りつつ僕らは今日も言葉を発し文字を書き記す。言葉が生まれたときから自己表現とはそういうもどかしさを抱え込んでいる。『現代の俳人101』(2004)所載。(今井 聖)


December 03122014

 とぎ水の師走の垣根行きにけり

                           木山捷平

や、師走である。「とぎ水」はもちろん米をといだあと、白く濁った水のことである。米をとぐのは何も師走にかぎったことではなく、年中のこと。しかし、あわただしい師走には、垣根沿いの溝(どぶ)を流れて行く白いとぎ水さえも、いつもとちがって感じられるのであろう。惜しみなく捨てられるとぎ水にさえ、あわただしくあっけない早さで流れて行く様子が感じられる。「ながれ行く」ではなく「行きにけり」という表現がおもしろい。戦後早く、牛乳が思うように手に入らなかった時代、米のとぎ汁に甘みを加えて、乳幼児にミルク代わりに飲ませている家が近所にあったことを、今思い出した。栄養不足で、母乳が十分ではなかったのだ。とぎ汁には見かけだけでなく、栄養もあったわけだ。寒さとあわただしさのなかで、溝(どぶ)を細々とどこまでも流れて行く、それに見とれているわずかな時間、それも師走である。とぎ水を流すその家も師走のあわただしさのなかにある。「師走」の傍題は「極月」「臘月」「春待月」「弟(おとこ)月」など、納得させられるものがいろいろある。野見山朱鳥の句に「極月の滝の寂光懸けにけり」、原石鼎に「臘月や檻の狐の細面」などの句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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