@T句

July 3171996

 なつかしき炎天に頭をあげてゆく

                           原 裕

さしぶりに訪れた故郷の地。見るもの聞くもの、すべて懐しい。耐えがたい暑さなど、いつの間にか忘れたように、頭(づ)をあげて歩いていく。そろそろ、帰省のシーズン。この夏も、こんな気分でなつかしさを噛みしめる人はたくさんいるだろう。ちなみに、原裕(はら・ゆたか)は茨城県の出身。『風土』所収。(清水哲男)


August 0781998

 涼つよく朱文字痩せたる山の墓

                           原 裕

の朱文字は生存者を意味する。生前に自分の墓を建てるか、あるいは一家の墓を新しく建立した人の名前は「朱」で示される。よく見かけるのは後者で、墓の側面に彫られた建立者の姓名のうち「名」だけが朱色になっている。句の場合も、おそらくは後者だろう。山道で、ふと目についた一基の墓。そうとうに古い感じがするが、よく見ると建立者の名前は朱文字である。ただし、その朱文字は朱は痩せていて(剥げかけていて)、かなり「古い新墓」なのであった。ということは、墓の施主もいまでは年老いた人であることが想像され、山の冷気のなかで、作者は見知らぬその人の人生を思い、しばし去りがたい気持ちにとらわれたのである。人生的な寂寥感のただよう佳句といえよう。墓ひとつで、作者は実にいろいろなことを語っている。俳句ならではの表現でありテクニックだ。私には墓を眺める趣味はないけれど、たまに興味をひかれる墓がないではない。東京谷中の大きな墓地の一画に美男スターだった長谷川一夫の墓があって、そこには「水子の霊」も一緒にまつられている。『風土』(1990)所収。(清水哲男)


October 12101999

 赤き帆とゆく秋風の袂かな

                           原 裕

書に「土浦二句」とある。もう一句は「雁渡るひかり帆綱は鋼綱」。いずれも秋の湖辺(霞ヶ浦)の爽やかさを詠んでいて、心地よい。「赤き帆」は、彼方をゆくヨットのそれだろう。秋風を受けた帆のふくらみと袂(たもと)のふくらみとを掛けて、まるで自分がヨットにでもなったような気分。上機嫌で、湖べりの道を歩いている。読者に、すっと伝染する良質な機嫌のよさだ。遠くの帆の赤が、ひときわ鮮やかだ。恥ずかしながら私の俳号は「赤帆(せきはん)」なので、この句を見つけたときは嬉しかった。二句目と合わせて読むと、秋色と秋光のまばゆい土浦(茨城)の風土が、見事に浮かび上がってくる。作者にはこの他にも「色彩」と「光線」に鋭敏な感覚を示した佳句が多く、この季節では「紫は衣桁に昏し秋の寺」などが代表的な作品だろう。この「紫色」の重厚な深みのほどには、唸らされてしまう。作者・原裕(はら・ゆたか)は原石鼎(はら・せきてい)の後継者として長く「鹿火屋」の主宰者であったが、この十月二日に亡くなられた。享年六十七歳。今日が告別式と聞く。合掌。『風土』(1990)所収。(清水哲男)


November 07112002

 初冬のけはひにあそぶ竹と月

                           原 裕

冬。冬来たる。暦の上のことだけではなくて、今年は体感的にも納得できる。部屋に暖房を入れてから立冬を迎えるなど、何年ぶりだろうか。メモを見てみたら、昨年は11月19日に初暖房とあった。さて、これから本格的な冬に向かって、我ら人間族は日々かじかんでいくことになる。多くの動植物も、そうだ。そんななかで、むしろ寒ければ寒いほど元気な姿になるものといえば、たとえば掲句に詠まれた「竹と月」だろう。冬の月は皓々と冴えわたり、竹の緑はいっそう色鮮やかとなる。「初冬(はつふゆ)のけはひ(気配)」に「あそぶ」と見えて、当然なのだ。一見地味な句と写るけれど、これぞ自然をよく見つめた花鳥諷詠句のお手本、THE HAIKUだと思う。かじかむ自分の気持ちや様子をもって季節の移り行きをつかまえるのではなく、大きな自然を自然のままに語らせることにより、それを表現している。もとより「あそぶ」の措辞は作者の主観に属するが、これはそうした自然とともに「私があそぶ」の意が強いのであり、ことさらに月と竹を擬人化しているわけではない。白状すれば、私にはまったくと言ってよいほどに、掲句のような自然に対する感覚というのかセンスが欠けている。どこを叩いても、こうした発想を得ることができない。だから余計にTHE HAIKUだなあと、感心することしきりなのである。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)


March 0532003

 鳥雲に子の妻は子に選ばしめ

                           安住 敦

語は「鳥雲に」で春。春になって、北方に帰る鳥が空高く飛翔し、やがて雲に入って見えなくなることをいう。本来は「鳥雲に入る」だった。「鳥雲に入るおほかたは常の景」(原裕)。が、長すぎるので「鳥雲に」とつづめて用いることが多い。息子の嫁は、多く親が決めていた時代があった。そんなに昔のことじゃない。たしか私の叔父も親が決めた女性と結婚したはずだし、子供心にそんなものかと思った記憶がある。極端な例では、親が決めた人の写真も見ずに承知して、結婚した人もいたという。そんな社会的慣習のなかで、作者は「子の妻は子に選ばしめ」た。子供の意志を最大限に尊重してやったわけだが、しかし一抹の寂しさは拭いきれない。北に帰る鳥が雲に入って見えなくなるように、これで我が子も作者の庇護のもとから完全に脱して、手の届かないところに行ってしまうのだ……。「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立」するという日本国憲法の条文が、風習的にもすっかり根づいた現今では、考えられない哀感である。いまどきの親でも、むろん子供を巣立たせる寂しさは感じるのだけれど、作者の場合にはプラスして強固な旧習の網がかぶさっている。おそらく、あと半世紀も経たないうちに、この句の真意は理解不能になってしまうにちがいない。『俳諧歳時記・春』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)


June 2162003

 梅雨の月金ンのべて海はなやぎぬ

                           原 裕

語は「梅雨の月」。降りつづく雲間に隠れていた月が、ふっと顔を出した。すると、真っ暗だった海の表が「金(き)ン」の板を薄く延べ広げたように「はなや」いで見えたのだった。あくまでも青黒い波の色が金箔に透けて見えていて、想像するだに美しい。「はなやげり」とはあるが、束の間の寂しいはなやぎである。句を読んですぐに思い出したのは、小川未明の『赤いろうそくと人魚』の冒頭シーンだった。「人魚は、南の方の海にばかりすんでいるのではありません。北の海にもすんでいたのであります」。と、書き出しからして、寂しそうな設定だ。「北方の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色をながめながら休んでいました。/雲間からもれた月の光がさびしく、波の上を照らしていました。どちらを見てもかぎりない、ものすごい波が、うねうねと動いているのであります。……」。どこにも梅雨の月とは書いてないけれど、この物語の不思議で寂しい展開からして、梅雨の月こそが似つかわしい。そして、掲句の海の彼方のどこかから、こうして人魚がこちらを見ていると想像してみると、いかにも切ない。そんな想像を喚起する力が、句にそなわっているということだ。なお「金ン」としたのは、「金」と書いても「カネ」と誤解する読者はいないだろうが、やはり文字面からちらりとでも「カネ」と読まれることを排したかったのだろう。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)


January 0712007

 人日の雨青年をおびやかす

                           原 裕

も日も、どちらも深く、かけがえのない意味をもつ語ですが、それを組み合わせた言葉があるとは知りませんでした。「人日」とは、「ひとひ」ではなく「じんじつ」と読みます。不思議な響きをもった単語です。「1月7日」を意味します。手元の歳時記によりますと、「中国漢代に、6日までは獣畜を占い、7日に人を占ったことからの名」とあります。獣畜を先に置き、人をその後に置く順番には、やさしい手つきが感じられます。人を特別な存在と見ずに、生きとし生けるもののうちにふくめるという気配りを感じます。歳時記には、「この日は、人に対する刑罰を避けた」ともありました。「人」がことさらに「人」であることを意識する日なのかもしれません。その喜びと悲しみが同時に、人を襲ってくるのです。1月7日という歳の若い雨は、冷たく青年をぬらします。人の日に、青年は何におびえているのでしょうか。「人」であることの根源に向かった恐れなのでしょうか。さて、年が変わってもう7日が過ぎました。明後日からは通常の仕事に戻る方も多いことでしょう。「人の日」とは、正月気分から普通の自分に戻るための日なのかもしれません。温かなおかゆでも食べて、しゃきっとして、明日からの長い「人の日々」に備えましょう。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)




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