q句

August 0981996

 階下の人も寝る向き同じ蛙の夜

                           金子兜太

京で暮らすようになってから、蛙の声などほとんど耳にしたことがない。少年期には山口県の山奥で暮らしていたので、蛙はごく身近な生物だったというのに。作者は、客として二階に布団を敷いてもらったものの、なかなか寝つけない。蛙の声しきり……。そんななかで、ふと気づいたおかしみである。兜太の力業も魅力的だが、初期のこうした繊細な神経の使いようも面白い。『少年』所収。(清水哲男)


September 2991996

 霧の村石を投らば父母散らん

                           金子兜太

者のふるさと、秩父への思いをこめた一句です。石を投げれば父も母も、そして父祖の霊も散ってしまうだろう、というのです。ふるさとへの愛憎を読みとることができます。「投らば」は「ほうらば」。(酒井弘司)


October 26101996

 鰯雲故郷の竈火いま燃ゆらん

                           金子兜太

火は「かまどび」と読ませる。望郷の歌ではあるが、作者はまだ若い。だから、そんなに深刻ぶった内容ではない。私が特別にこの句に関心を持つのは、若き日の兜太の発想のありどころだ。何の企みもなく、明るい大空の様子から故郷の暗い土間の竈の火の色に、自然に思いが動くという、天性の資質に詩人を感じる。兜太の作品のなかでは、あまり論じられたことがない句のひとつであろうが、私に言わせれば、この句を抜いた兜太論など信用できない。ま、そんなことはどうでもいいけれど、故郷の竈火もなくなってしまったいま、私などには望郷の歌であると同時に「亡郷」の歌としても読めるようになってきた。時は過ぎ行く。『少年』所収。(清水哲男)


January 2511997

 冬旱眼鏡を置けば陽が集う

                           金子兜太

は「ひでり」。カラカラ天気。読書か書き物に少し疲れて、眼鏡を外して机上に置くと、低い冬の日差しが窓越しに眼鏡のレンズに集まってきた。暖かいのはありがたいが、そろそろ一雨ほしいところだ。そんな作者の心情だろうか。生まれつき目の良い人にとっては、わかりにくい感覚だろう。私も非常に良いほうだったので、目が不自由になってから、この句の味がようやくわかったような気がしたものだった。『金子兜太全句集』(昭和50年刊)所収。(清水哲男)


February 2721997

 愚図愚図と熟柿の息の春の霧

                           金子兜太

まには、こういう句と格闘する必要がある。読解力の切っ先が鈍らないように……。三十分ほどにらんでいるうちに、句意が二転三転してしまう。苦痛でもあるが、人間ならではの遊びの境地でもあるだろう。「春の霧」というからには「霞」にまでは至らない早春の大気のありようである。その清冽な大気のなかで、自分自身の息を「熟柿」のように感じるというのだから、体調がよろしくない、あるいは憂鬱な心のありさまを嘆いている。元気な人は、まず自分の息遣いなど意識することはない。以上、私なりの鑑賞ですが、いかがでしょうか。入学試験の答案だと、0点かもしれませんが。『皆之』所収。(清水哲男)


April 2841997

 人体冷えて東北白い花盛り

                           金子兜太

北の旅先での空気の冷たさと花の盛りを「人体冷えて」と「白い花盛り」でうまく表現した句。初心者だと叱られる上5の字余りも「人体」という言葉の選択により逆に効果的か?(本当はよくわからない。)俳句の「花」は桜であるが、多くの植物が一斉に花開く北国で作者がみた「花」はりんごや梨の白い花も含んでいただろう。なお、東北に住む人の感じる花は「冷えて」の「花」ではなく、暖かい土地の人以上に「心浮き浮きする花」である。その意味で掲載句はあくまでも旅の句である。(齋藤茂美)


May 0651997

 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく

                           金子兜太

ールデン・ウィークが終わって、オフィス街にも日常の顔が戻ってきた。すぐに慣れてしまう光景だが、朝のうちはまだ新鮮な感じを受ける。昨日までシャッターを下ろしていた銀行の内部を、見るともなく見ると、いつもと変わらぬ情景が認められ、なんとなくホッとする気分。作者は日本銀行に勤務していたから、これは内部者から見た銀行の姿だが、連休明けの街を行く市民の気持ちにも合うような気がする。人間が「烏賊(イカ)」のように蛍光するという独特な観察が、私にそんなことを連想させるのだろう。戦後俳句界を震撼させた話題作にして、兜太の代表作だ。『金子兜太句集』(1961)所収。(清水哲男)


February 1221998

 去勢の猫と去勢せぬ僧春の日に

                           金子兜太

の境内で、猫と僧侶が暖かい春の日差しを浴びている。一見、微笑を誘われるような長閑(のど)かな光景だ。この長閑かさをそのまま詠んでも句になるが、作者はもう一歩踏み込んでいる。長閑かさのレベルで満足せず、生臭さを嗅ぎ出している。これが兜太の詩人の目だ。一つの光景をどのように見るかは、もちろん人さまざまである。自由である。ただし、一般に長閑かさを見る目は、ほとんど何も見ようとはしていない。見ることを拒否することで、心の安定を保とうとする。一種の精神健康法だ。それはそれで、作者も否定はしないだろう。けれども、人には見えてしまうということが起きる。この場合は、自然の摂理という一点において、両者は全く異形の関係にある。理不尽にも生殖を禁じられた猫と、信仰の理から色欲をみずからに禁じた僧侶と……。そして、この取り合わせがこのように表現されたとき、私を含めて多くの読者は思わずも笑ってしまうのだ。だが、この黒い笑いは、いったいどこから来るのであろうか。『詩經國風』(1985)所収。(清水哲男)


September 1891998

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子

                           金子兜太

珠沙華(まんじゅしゃげ)は、別名「死人花」「捨子花」などとも言われており、墓場に群生したりしていて、少なくともおめでたい花ではないようだ。見るところ生命力は強そうだ(「死人花にてひとつだにうつむかず」金谷信夫)し、花の色が毒々しくも感じられるので、可憐な花を愛する上品な趣味の人たちが嫌ってきたのかもしれない。だが、それにしては昔から皇居の壕端に盛んに咲かせているのは何故なのか、よくわからない。ところで兜太は、そんな上品な趣味とは無関係に、故郷・秩父の子供たちの生き生きとした姿を曼珠沙華の生命力になぞらえている。けっして上品ではない洟垂れ小僧らの生命力への賛歌である。敗戦後まもなくの作品だから、腹を出して遊ぶ子供たちの姿に根源的な生きる力を強く感じさせられたのだろう。ここには、まだ白面の青年俳人であった兜太の「骨太にして繊細な感受性」がうかがえる。うつむいているばかりの「青白きインテリ」に対して一線を画していた、若き日の作者の意気軒昂ぶりが合わせて読み取れて心地よい。『少年』(1955)所収。(清水哲男)


October 19101998

 あきぐみに陽の匂う風吹き来たる

                           金子兜太

通には「ぐみ(茱萸)」と言う地方が多いと思うが、植物名としては句のように「あきぐみ(秋茱萸)」と呼ぶのが正式だ。私の田舎ではそこここに原生しており、学校帰りに枝ごと折り取っては食べながら歩いたものだ。赤くて小さな実は甘酸っぱく、少し渋い。茱萸の実の熟れる十月の半ばともなると、山国の風は冷たさを増してくる。が、ときに恩寵のように柔らかく暖かな風が吹く日もある。この句はそんな風をとらえているが、なんという優しいまなざしであろう。実はそれも道理で、前書に「姪百世(ももよ)結婚」とあって、祝婚句なのだ。たぶん色紙に記されて贈られたであろうこの句を、新婚夫婦はどこに飾ったのだろうか。むりやりに句から教訓を引き出す(これが俳句読みのいけないところだと、李御寧が『蛙はなぜ古池に飛びこんだのか』で叱っている)必要もないけれど、恩寵のようなおだやかな風に恵まれた若い二人の生活にも、どこかに渋い味が隠されていることを、作者は言っておきたかったのかもしれない。代表作とはならないにしても、兜太の抒情的才質をうかがわせるに十分参考になる美しい作品だ。『皆之』(1986)所収。(清水哲男)


September 0291999

 少年一人秋浜に空気銃打込む

                           金子兜太

の浜。誰もいなくなった浜辺。少年がひとり、空気銃を撃っている。何をねらうでもなく、プシュップシュッと、ただ砂浜に「打込んで」いる。ターゲットがないのだから、手ごたえもない。その空しい気持ちに、作者は共感を覚えている。無聊(ぶりょう)をかこつのは、何も大人の特権ではない。少女についてはいざ知らず、少年の無聊はむしろ大人のそれよりも深刻かもしれない。退屈のどん底にあるとき、彼はそこから脱出する術や手がかりを知らない。やみくもに苛立って、ときにこうした奇矯な行為に及んだりする。こんなことをしても、救われないこともわかっている。わかっているのに、止めることができないのだ。プシュップシュッと、いつまでつづけるのか。そうやって大人になっていくのだと、作者は自身の過去を振り返ってもいる。空気銃独特の空しいような発射音が、寂しい秋浜の情景に似合っている。まだ子供たちが、自由に空気銃を遊び道具にしていた頃の句である。中学時代、叔父に借りた空気銃で、私は野良猫を撃っていた。遠くから撃つと、当たっても猫どもは「ふーん」というような顔をしていた。『金子兜太句集』(1961)所収。(清水哲男)


December 14121999

 枯草にキャラメルの箱河あわれ

                           金子兜太

岸の枯草のなかに、キャラメルの白茶けた空き箱が捨てられている。よく見かける光景だ。もっと暖かい時季に、どこかの子供が遊びに来て捨てていったのだろう。ここで作者は「ポイ捨て」はいけないなどと、公衆道徳的な反応はしていない。荒涼たる冬の河岸に、元気な子供の走り回る姿を二重写しにして、「あわれ」と言っている。「あわれ」は「哀れ」ではなく、何かいとおしいような感情がにじみ出てくる状態を指している言葉だ。すべてのゴミは、かつては人間とともにあった物である。したがって、この物とともに確かに人間がいたという「存在証明」なのである。だから、ゴミは単に穢い物体ではありえない。何年か前に、ドイツ領内を流れるエルベ川のほとりに立ったとき、ひどく河岸がきれいなことに違和感を覚えた。聞いてみると、河岸は立ち入り禁止なのだという。なるほど、キャラメルの箱一つ落ちていない理屈だ。まことにクリーンな光景というのも、案外と薄気味が悪いなと思ったことを覚えている。だから、かなり日本語のできるドイツ人が読んでも、句の「あわれ」はおそらく「哀れ」としか理解できないだろう。『金子兜太全句集』(1975)所収。(清水哲男)


January 3112000

 雪の海底紅花積り蟹となるや

                           金子兜太

面を眺めているだけで、一気にゴージャスな気分になってくる。華麗な句だ。そしてよく読み込むと、繊細な感覚の生きた世界でもある。作者は「海底」を「うみそこ」と読ませている。自註が『兜太のつれづれ歳時記』(1992・創拓社)に載っているので、全文を引いておこう。「北陸海岸の宿に泊まって、蟹を食べた。夕方からまた雪がきて、私は雪降りそそぐ日本海の蒼暗を思いやっていた。すると、その昔、奥羽の地に花開いた紅花(べにばな)を積んで、木造船がこの海原を走っていたことを思い出したのである。紅花は船からこぼれ、海底に積もり、やがて蟹になった。いや、そうにちがいない、とまで思いつつ」。私が、これ以上、つけくわえることは何もない。このイリュージョンは壮大で、実に美しい。今夜の夢に、すぐにでも出てきそうな幻想の世界。金子兜太というと、なんとなく武骨で大振りな俳人と思っているムキもあるようだが、その見方はひどく一面的でしかない。彼の作品を初期から子細に見てくると、根底に一つあるのは、まごうかたなきリリシズムへの純粋な没頭だ。そこに誤解される要素があるとすれば、抒情のスケールが並外れて大きいことからだろう。ガラス細工じゃないということ。『早春展墓』(1974)所収。(清水哲男)


March 1232000

 猪が来て空気を食べる春の峠

                           金子兜太

(いのしし・句では「しし」と読ませている)というと、とくに昔の農家には天敵だった。夜間、こいつらに荒らされた山畑の無残な姿を、私も何度も見たことがある。農作物を食い荒らすだけではなく、土を掘り返して野ネズミやミミズなどを食うのだから、一晩にして畑はめちゃくちゃになってしまう。俳句で「猪」は秋の季語だが、もちろんそれはこうした彼らの悪行(?!)の頻発する季節にちなんだものだ。猪や鹿を撃退するために「鹿火屋(かびや)」と言って、夜通し火を焚いて寝ずの番をする小屋を設ける地方もあったようだが、零細な村の農家にはそんな人的経済的な余裕はなかった。せいぜいが、猟銃を持っているときに出くわしたら、それで仕留めるのが精いっぱい。仕留められた猪も何度も見たけれど、いつ見ても、とても可愛い顔をしているなという印象だった。日本種ではないようだが、いま近くの「東京都井の頭自然文化園」で飼われている猪族も、実に愛嬌のある顔や姿をしている。まともに見つめると、とても憎む気にはなれないキャラクターなのだ。だから、この句の猪の可愛らしさも素直に受け取れる。ましてや「春の空気」しか食べていないのだもの、私もいっしよになって口を開けたくなってくる……。『遊牧集』(1981)所収。(清水哲男)


May 0152000

 縄とびの純潔の額を組織すべし

                           金子兜太

心に縄とびをして遊んでいる女の子。飛ぶたびに、おかっぱの髪の毛が跳ね上がり、額(ぬか)があらわになる。この活発な女の子のおでこを、作者は「純潔」の象徴と見た。「純潔」は、いまだ社会の汚濁にさらされていない肉体と精神のありようだから、それ自体で力になりうる。「純真」でもなく「純情」でもなく「純潔」。一つ一つの力は弱かろうとも、かくのごとき「純潔」を「組織」することにより、世の不正義をただす力になりうると、作者は直覚している。このとき「すべし」は、他の誰に命令するのではなく、ほかならぬ自分自身に命令している。自分が自分に掲げたスローガンなのである。実は今日がメーデーということで、ふっとこの句を思い出した。メーデーのスローガンも数あれど、すべてが他への要求ばかり。もとよりそれが目的の祭典なので難癖をつける気などないけれど、句のようなスローガンがついに反映されることのない労働運動に、苛立ちを覚えたことはある。若き兜太の社会に対する怒りが、よく伝わってくる力作だ。無季句。『金子兜太全句集』(1975)所収。(清水哲男)


June 0662000

 白服にてゆるく橋越す思春期らし

                           金子兜太

葉仁に「若きらの白服北大練習船」がある。白服の若者たちはいかにも清々しく、力強く、そして軽快だ。ところが、掲句の少年(少女)は反対に、のろのろと重い足取りで橋を渡っている。作者との位置関係だが、同じ橋を渡っているのではないだろう。たぶん作者は橋を見上げる河辺の道にいて、気だるそうな少年(少女)の歩行が気になっているのだと思われる。橋上に、他の人影はない。じりじりと照りつける太陽。そこで作者は、その鈍重な歩みの原因を、「思春期」の悩みゆえと見てとった。もとより客観的な根拠などないわけだが、とっさに作者の心は、みずからの「思春期」のころに飛んでいったのである。その意味で、句は自分自身の過去を詠んだ歌とも言え、それゆえに橋上の若者に注ぐまなざしは慈しみに近い愛情に満ちている。辛いだろうが、乗り越えるんだよ……。なあに、君だったら、すぐに克服できるさ……。そんな慈眼が働いている。白服を歌って、異色の作品。しかも、何の衒いもないところに、作者の人柄がよくにじみ出ている。『金子兜太全句集』(1975)所収。(清水哲男)


April 2142001

 両手で顔被う朧月去りぬ

                           金子兜太

くはわからないけれど、しかし、印象に残る句がある。私にとっては、掲句もその一つになる。つまり、捨てがたい。この句が厄介なのは、まずどこで切って読むのかが不明な点だろう。二通りに読める。一つは「朧月」を季語として捉え「顔被う」で切る読み方。もう一つは「朧」で切って「月去りぬ」と止める読み方だ。ひとたび作者の手を離れた句を、読者がどのように読もうと自由である。だから逆に、読者は作者の意図を忖度しかねて、あがくことにもなる。あがきつつ私は、後者で読むことになった。前者では、世界が平板になりすぎる。幼児相手の「いないいない、ばあ」を思い出していただきたい。人間、顔を被うと、自分がこの世から消えたように感じる。むろん、錯覚だ。そこに「頭隠して尻隠さず」の皮肉も出てくるけれど、この錯覚は根深く深層心理と結びついているようだ。単に、目を閉じるのとは違う。みずからの意志で、みずからを無き者にするのだから……。掲句では、そうして被った両手の暖かい皮膚感覚に「朧」を感じ、短い時間にせよ、その心地よい自己滅却の世界に陶酔しているうちに「月去りぬ」となって、人が陶酔から覚醒したときの一抹の哀感に通じていく。私なりの理屈はこのようだが、句の本意はもっと違うところにあるのかもしれない。従来の「俳句的な」春月を、あえて見ようとしない作者多年の「俳句的な」姿勢に発していると読めば、また別の解釈も成立する。と、いま気がついて、それこそまた一あがき。『東風抄』(2001)所収。(清水哲男)


June 1862001

 おおかみに螢が一つ付いていた

                           金子兜太

の性(さが)、狷介にして獰猛。洋の東西を問わず、物語などでの「おおかみ」は悪役である。ただし、腐肉を食べるハイエナとは違って、心底からは嫌われてはいないようだ。恐いには恐いけれど、どこか間が抜けていて愛嬌もある。犬のご先祖なので、ハイエナ(こちらは猫の仲間)には気の毒だが、陰険を感じさせないからだろう。この句も、もちろんそうした物語の一つ。「螢が一つ付いて」いる「おおかみ」の困ったような顔が浮かんできて、ますます憎めない。と同時に感じられるのは、彼の存在の尋常ではない孤独感である。目撃談めかして書かれてはいるが、この「おおかみ」は作者自身だろう。みずからを狼に変身させて、おのれのありようをカリカチュアライズすると、たとえばこんな風だよと言っている。ここ二十年ほどの兜太句には、猪だの犀だの象だの狸だのと、動物が頻出する。このことを指して、坪内稔典は「老いの野生化」と言い(「俳句研究」2001年7月号)、それが「おそらく兜太の理想的な老いである」と占っている。となれば、人は老いて木石に近づくという「常識」ないしは「実感」は、逆転されることになる。死に際まで困った顔をするのが人なのであり、木石に同化しようとするのは気休め的なまやかしだと、掲句は実に恐いことを平然と言っていることになる。まさに「おおかみ」。句集で、この句の前に置かれた句は「おおかみに目合の家の人声」だ。こっちも、孤独の物語としてハッとさせられる。「目合」には「まぐわい」、「人声」には「ひとごえ」とルビがふられている。兜太、八十二歳。ダテに年くってない表現の力。『東国抄』(2001)所収。(清水哲男)


May 1152002

 夏落葉有髪も禿頭もゆくよ

                           金子兜太

語は「夏落葉」。常磐木落葉(ときわぎおちば)という季語もあるように、夏に落葉するのは椎や樫などの常緑樹。落葉樹は晩秋に葉を落とすが、これは寒くて日照時間の少ない冬を生きのびるために、なるべくエネルギーを使わないですむようにとの自然の自衛策だ。対するに、常緑樹の落葉は加齢にしたがっての老化現象による。葉の寿命は、一般的には二、三年だそうだ。したがって、人間の髪の毛が脱落する原因は、常緑樹のそれに似ていると言えるだろう。句は、ひっそりと葉の舞い落ちてくる道を大勢の人が歩いているという、何の変哲もない情景設定だ。その歩いている人たちを、あえて「有髪(うはつ)」と「禿頭(とくとう)」に着眼し分類してみせたところが面白い。有髪であれ禿頭であれ、常緑樹だってホラこのように葉を落とすのだから、五十歩百歩でたいした違いがあるわけじゃない。すでに禿頭の作者は、達観しているというのか居直っているというのか、なんだか愉快な気分にすらなっている。有髪の人だと、こういうことは思いつきもしないだろう。そこがまた、掲句が何がなしペーソスすら感じさせる所以でもあると思った。それにしても、兜太ほどに禿頭句を多産している俳人はいない。そのあたりを考え合わせると、達観からでも居直りからでもなく、もはや「愛」からであると言うべきか。『金子兜太集・第一巻』(2002・筑摩書房)所収。(清水哲男)


April 2742003

 藤房に山羊は白しと旅すぎゆく

                           金子兜太

語は「藤(の)房」で春。立夏の後に咲く地方も多いから、夏期としてもよさそうだ。掲句は「藤房・伯耆」連作十句の内。大山(だいせん)に近い鳥取県名和町には、「ふじ寺」として有名な住雲寺があるので、そこで詠んだのかもしれない。だとすれば、五月中旬頃の句だ。「旅すぎゆく」とあるけれど、むしろ「もう旅もおわるのか」という感傷が感じられる。見事な花房が垂れていて、その下に一頭の山羊がいた。このときに「山羊は白しと」の「と」は、自分で自分に言い聞かせるためで、藤の花と山羊とを単なる取りあわせとして掴んだのではないことがわかる。作者には藤の見事もさることながら、偶然にそこにいた山羊の白さのほうが目に沁みたのだ。すなわち、この山羊の白さが今度の旅の一収穫であり、ならばこの場できっちりと心に刻んでおこうとした「と」ということになる。そして、この「と」は、まだ先の長い旅ではなくて、おわりに近い感じを醸し出す。とくに最後の日ともなれば、いわば目の欲が活発になってきて、昨日までは見えなかったものが見えてきたりする。この山羊も、そういう目だからこそ見えたのだと思う。そうすると、なにか去りがたい想いにとらわれて、自然に感傷的になってしまう。今月の私は二度短い旅行をして、二度ともがそうだった。だから、兜太にしては大人しい作風の掲句が、普段以上に心に沁みるのだろう。『金子兜太集・第一巻』(2002)所収。(清水哲男)


January 2512004

 マッチの軸頭そろえて冬逞し

                           金子兜太

はや必需品とは言えなくなった「マッチ」。無いお宅もありそうだ。昔は、とくに冬場は、マッチが無くては暮しがはじまらなかった。朝一番の火起こしからはじまって、夜の風呂沸かしにいたるまで、その都度マッチを必要とした。昔といっても、ガスの点火などにマッチを使ったのは、そんなに遠い日のことではない。だからどの家でも、マッチを切らさないように用心した。経済を考えて、大箱の徳用マッチを買い置きしたものだ。句のマッチも、たぶん大箱だろう。まだ開封したてなのか、箱には「軸」が「頭(あたま)そろえて」ぎっしり、みっしりと詰まっている。この「ぎっしり、みっしり」の状態が作者に充実感満足感を与え、その充実感満足感が「冬逞し」の実感を呼び寄せたのだ。マッチごときでと、若い人は首をかしげそうだが、句のマッチを生活の冬への供え、その象徴みたいなものと考えてもらえれば、多少は理解しやすいだろうか。すなわち、この冬の備えは万全ゆえ、逞しい冬にはこちらも逞しく立ち向かっていけるのだ。供えがなければ、マッチが無くなりそうになっていれば、冬を逞しいと感じる気持ちは出てこないだろう。厳しかったり刺すようだったりと、情けないことになる。冬の句は総じて陰気になりがちだけれど、作者がマッチ一箱で明るく冬と対峙できているのは、やはり若い生命力のなせる業にちがいない。この若さが、実に羨ましい。兜太、三十歳ころの作品と思われる。『金子兜太』(1993・春陽堂俳句文庫)所収。(清水哲男)


April 0342004

 春あけぼの川舟に隕石が墜ちる

                           金子兜太

語は「春あけぼの」で「春暁(しゅんぎょう)」に分類。また、むろんご存知とは思いますが、いちおう「隕石(いんせき)」の定義を復習しておきましょう。「■隕石(meteorite)。地球外から地球に飛び込んできた固体惑星物質の総称。その大部分は、火星と木星の間に位置する小惑星帯から由来したものであり、45.5億年前の原始太陽系の中で形成された小天体の破片である。しかしその一部には、彗星(すいせい)の残骸(ざんがい)と考えられるもの、あるいは火星、月の表面物質が、なんらかの衝撃によって飛散したと思われるものも混在する・(C)小学館」。句は、東の空がほのぼのとしらみかける時分の川の情景だ。舫ってある「川舟」が、夜の闇の底から徐々に輪郭をあらわしはじめている。薄もやのかかった川辺に、人影や動くものは見られない。さながら一幅の日本画にでもなりそうな春暁の刻の静かな川景色だ。そしてもしも作者が日本画の描き手であれば、絵はここで止めておくだろう。せっかくの静寂な光景に、あたら波風を立てるようなことはしたくないだろう。つまり、「すべて世は事もなし」と満足するのである。もちろん、そのような抒情性も悪くはない。が、現代人の感覚からすると、何か物たらない恨みは残る。古くさいのだ。そこで作者は、はるかな宇宙空間から「隕石」をいくつか「墜」としてみた。と、パッと情景は新しいそれに切り替わった。といって、この隕石の落下が古い抒情性を少しも壊していないところに注目しよう。壊しているどころか、それを補強しリフレッシュし、厚みさえ加えている。気の遠くなるような時間をかけて暗黒空間を経由してきた隕石が、いま地球の川舟とともに春暁のなかに姿をあらわした。その新鮮で大きく張った抒情性こそは、すぐれて現代的と言うべきである。『東国抄』(2001)所収。(清水哲男)


April 1242004

 人体冷えて東北白い花盛り

                           金子兜太

語で「花」といえば桜を指すのが普通だ(当歳時記では便宜上「花」に分類)が、さて、この花はいったいなんの花だろうか。桜と解しても構わないとは思うけれど、「白い花」だから林檎か辛夷などの花かもしれない。戦後の岡本敦郎が歌った流行歌に「♪白い花が咲いてた……」というのがあって、詞からはなんの花かはわからないのだけれど、遠い日の故郷に咲いていた花としての情感がよく出ていたことを思い出す。掲句にあっても、花の種類はなんでもよいのである。注目すべきは「人体」で、「身体」でもなく「体」でもなく、生身の身体や体をあえて物自体として突き放した表現にしたところが句の命だ。つまり、作者自身や人々の寒くて冷えている身体や体に主情を入れずに、大いなる東北の風土のなかで「花」同様に点景化している。もう少し言えば、ここには春とは名のみの寒さにかじかんでいる主情的な自分と、そんな自分を含めた東北地方の人々と風土全体を客観的俯瞰的に眺めているもう一人の自分を設定したということだ。この、いわば複眼の視点が、句を大きくしている。と同時に、東北地方独特の春のありようのニュアンスを微細なところで押さえてもいる。一般的に俳句は徹底した客観写生を貫いた作品といえどもが、最後には主情に落とすと言おうか、主情に頼る作品が圧倒的多数であるなかで、句の複眼設定による方法はよほど異色である。読者は詠まれた景の主情的抒情的な解釈にも落ちるだろうが、それだけにとどまらず、直接的には何も詠まれていない東北の風土全体への思いを深く呼び起こされるのだ。発表時より注目を集めた句だが、けだし名句と言ってよいだろう。『蜿蜿』(1968)所収。(清水哲男)


September 0892006

 漁場の友と頭ぶつけて霧夜酔う

                           金子兜太

一次産業の労働者を描くことが、労働というものの本質を表現することになるという考え方は間違ってはいないが、一面的ではないかと僕は思う。漁場のエネルギーや「男」の友情は、それだけでは古いロマンの典型からは出られない。この句はそこに依拠しない。「頭ぶつけて」と「霧夜」が象徴するものは、時代そのものである。戦後、住宅地や工場用地への転用を目的とする埋め立てによって漁場は閉鎖を余儀なくされる。その結果、巨額の補償金が漁師の懐に入り、もとより漁しか知らず、宵越しの金をもたない主義の漁師たちは、我を忘れて遊興や賭博に走った。そこにヤクザが跋扈し、歓楽街が出現する。身包みはがれた漁師たちはまたその日暮しに戻る。しかし、そこにはもう海は無いのである。資本の巨大化即ち経済の高度成長に伴い人間の「労働」がスポイルされていく過程がそこにある。兜太の描く「社会性」が労働賛歌になったり、一定の党派性に収斂していかないのは、この句のように、揺れ動く時代にぶらさがり、振り落とされまいと必死でもがいている人間の在り方とその真実に思いが届いているからである。『少年』(1955)所収。(今井 聖)


October 20102006

 古仏より噴き出す千手 遠くでテロ

                           伊丹三樹彦

季の句。「仏」の持つ従来の俳句的情緒を逆手にとって、情況に対する危機感を詠じた。海の彼方の国のテロが、瞬時に我々の現実となり得る現代をこの句は描いている。作者は日野草城主宰誌「青玄」に参加、草城没年(1956)に主宰を継承。「青玄」は、2005年に創刊六百号を迎えたあと、本年一月に終刊した。草城の拓いた同時代詩としての俳句の在り方を継いで、作者は現代語による表記を標榜。現代語の多様性がもたらす切れの位置の複雑さを、作り手の側から明確に示すために「分かち書き」を提唱、雑誌全体で実践してきた。「千手」と「遠く」の間の空白の一マスがそれである。同じ無季の句でやはり状況を詠った「屋上に洗濯の妻空母海に」(金子兜太)と並べて置いてみると、日常に隣接している暴力即ち「政治」を描くに当って、まず視覚的な構成から入る兜太作品に比べ、この句は、「仏」の持つ聖性が、むしろ観念としてテロを相対化していることがわかる。いわゆる「人間探求派」と「新興俳句派」という、両者の出自に関わる違いと言えなくもない。観念派と目される「人間探求派」が実は視覚的現実に重きを置き、「新興俳句派」のイメージや言葉が実は従来の俳句的情緒を梃子にしていることがうかがえる。二人とも俳句の新しい可能性を拓くために固定的な手法と闘ってきた現代俳句の闘将である。『樹冠』(1985)所収。(今井 聖)


June 2562007

 涙について眼科医語る妙な熱気

                           金子兜太

日、大学時代の仲間が東京から京都に転居するというので、送別会をやった。そこに先月緑内障の手術を受けたばかりの大串章も来ていて、みんなで「とにかく目の病気はこわいな」と、にぎやかな「目談義」となった。大串君によると、手術前のひところには、悲しくもないのに「涙」が止まらなくなって困ったそうだ。最初にかかった眼科医は紫外線にやられたせいだという診断だったが、次の医者は緑内障だから即刻手術せよとのご託宣。度胸が良い彼は、ならばと両眼を一度に手術してもらい、すっきりした表情をしていた。よかった。で、その後で掲句を読んだものだから、なんだかヤケに生々しく感じた。作者の実感だろう。目の前の眼科医は、おそらく目にとっての涙の効用を語っているのだ。しきりに「涙」という言葉を連発して、だんだんと話に熱がこもってくる。それももとより物理的な効用の話で、寂しさや悲しさといった精神作用とは無縁なのである。相槌を打っているうちに、作者はこんなにも精神作用とは無関係な涙の話に熱を込められる人に、感心もしているが、どこかで呆気にとられてもいる。その感じを指して「妙な熱気」とは言い得て妙というよりも、こうでも言わないことには、二人の間に醸し出された雰囲気がよく伝わらないと思っての表現ではなかろうか。どことなく可笑しく、しかしどことなく身につまされもするような小世界だ。俳誌「海程」(2007年4月号)所載。(清水哲男)


August 2582008

 秋灯洩れるところ犬過ぎ赤児眠る

                           金子兜太

務からの帰宅時だろう。若い父親である作者はまだ外にいて、我が家の窓から燈火の光が洩れているのに気がついている。その薄暗い光のなかを犬が通りすぎていく。昔は犬は放し飼いが普通だったから、この犬に不気味な影はない。通行人と同じような印象である。この様子は実景だが、室内で「赤児眠る」姿は見えているはずもなく、こちらは想像というよりも「そのようにあるだろう」という確信である。あるいは「そのようにあれよ」という願望だ。一つの灯をはさんでの室外と室内の様子を一句にまとめたアイディアは斬新とも言えようが、しかしよく考えてみると、誰でもが本当は実際にこういうものの見方をしていることに気づかされる。そこを具体的に言ってみせたたところが、作者の非凡である。句が訴えてくる情感は、これまた誰にでも覚えのある「ホーム、スイート・ホーム」的なそれだ。帰宅時に家の灯がついているだけで心やすまる上に、新しい命の赤ん坊もすくすくと育っているのだから、ひとり幸福な感情にとらわれるのは人情というものである。ましてや、季節は秋。人恋しさ、家族へのいとしさの情感を、巧まずして「秋灯」が演出してくれている。そんな秋も間近となってきた。第一句集『少年』(1955)所収。(清水哲男)


September 1292008

 星がおちないおちないとおもう秋の宿

                           金子兜太

がおちない、で一息入れて下につづく。山国秩父の夜空だ。鳥取の夜の浜辺で寝ころんで空を見上げているとゆっくり巡っている人工衛星が見えた。海外ではもっとすごいらしい。星がおちてきそう、というのは俗な比喩。秋の宿の「秋の」もむしろおおざっぱなな言い方。ナマの実感の旗を掲げ、俗とおおざっぱを破調の中でエネルギーに転じてぐいぐい押してくる。それが兜太の「俳諧」。加藤楸邨、一茶、山頭火らに共通するところだ。「季題というものは腐臭ぷんぷんたり」とかつて兜太は言った。それは季題にこびりついている古いロマンを本意本情と称して詠うことを揶揄した言葉。兜太の「秋」は洗いざらしの褌のような趣。講談社版『新日本大歳時記』(1999)所載。(今井 聖)


March 0132009

 鳥の巣より高き人の巣留守勝ちに

                           金子兜太

語は「鳥の巣」、春です。命が産み出される場所が、そのまま季節に結びついているようです。作者は、散歩で通りすがった雑木林の中から、春の空を見上げてでもいるのでしょうか。数メートル先の空には、小さな鳥の巣が見えています。そしてその先に視線を伸ばせば、遠くには高層マンションが見えています。鳥の巣と、高層マンション。大きさも堅さも中に住むものも、全く違っているものを、同じものとして見据えたところに、この句のすぐれた視点があります。「人の巣」という言い方は、一見、それほど際立った表現とは思えません。それでも、こうして句の中に置かれてみると、思った以上に新鮮で、目を見開かせるものを持っています。どうしたらこんなふうに、効果的な言い回しが出来るのだろう。あるいは人とは違う見方というものは、どこまでが表現の中で許されてあるのだろう。そんなことをこの句は、考えさせてくれます。句は最後に、人の巣が「留守勝ち」であると、言っています。あんなに高いところに、人のいない空間がぽつんと置き去りにされている。確かに、鳥の巣よりもずっと深い寂しさが、こちらに押し寄せてきます。「俳句」(2009年2月号)所載。(松下育男)


June 2962009

 「夕べに白骨」などと冷や酒は飲まぬ

                           金子兜太

年の盟友であった原子公平(はらこ・こうへい)への追悼句五句のうち。命日は2004年7月18日、84歳だった。一句目は「黄揚羽寄り来原子公平が死んだ」だ。この口語体が兜太の死生観をよく表しており、掲句にもまたそれがくっきりと出ている。作者をして語らしめれば、死についての考えはこうである。「人の(いや生きものすべての)生命(いのち)を不滅と思い定めている小生には、これらの別れが一時の悲しみと思えていて、別のところに居所を移したかれらと、そんなに遠くなく再会できることを確信している。消滅ではなく他界。いまは悲しいが、そういつまでも悲しくはない」。だから「夕べに白骨」(蓮如)などと死を哀れみ悲しんで、冷や酒で一時の気持ちを紛らわすことを、オレはしないぞと言うのである。他者の死を、そのまま受け取り受け入れる潔い態度だ。年齢を重ねるにつれて、人は数々の死に出会う。出会ううちに、深く考えようと考えまいと、おのずからおのれの死生観は固まってくるものだろう。そこから宗教へとうながされる人もいるし、作者のようにいわば達観の境地に入ってゆく人もいる。おこがましいが、私は死を消滅と考える。麗句を使えば、死は「自然に還ること」なのだと思う。したがって、私もふわふわしていた若い頃とは違い、あえて冷や酒を飲んだりはしなくなった。死についての考えは違っても、この句の言わんとするところはよく理解できるつもりだ。『日常』(2009)所収。(清水哲男)


August 2882009

 子馬が街を走つていたよ夜明けのこと

                           金子兜太

由ということを思った。権力からの自由、反権力からの自由、季語からの、定型からの自由、あらゆる既成のものからの自由。好奇心と走る本能に衝き動かされて夜明けの都市を子馬は歓喜して走る。仔ではなくて子。いたよの「よ」。夜明けのことの「こと」。どれもが素朴荒削りなつくりで、繊細すぎる言葉の配慮を超えたエネルギーが溢れる。子馬が季語か否かなどは要らざる詮索。『日常』(2009)所収。(今井 聖)


January 1812010

 木葉髪馬鹿は死ななきや直らねえ

                           金子兜太

きだなあ、この句。若い頃には抜け毛など気にもかけないが、歳を重ねるうちに自然に気になるようになる。抜け毛にもだんだん若い日の勢いがなくなってくるので、まさに落ちてきた木の葉のごとしだ。見つめながら「オレもトシ取ったんだなあ」と嘆息の一つも漏れてこようというもの。しかし、この嘆息の落とし所は人さまざまである。草田男のように「木の葉髪文芸永く欺きぬ」と嘆息を深める人もいれば、掲句のようにそれを「ま、しょうがねえか」と磊落に突き放す人もいる。生来の気質の違いも大きかろうが、根底には長い間に培ってきた人生に対する態度の差のほうが大きいと思う。掲句を読んで「いかにも兜太らしいや」と微笑するのは簡単だが、その「兜太らしさ」を一般読者に認知させるまでの困難を、クリエーターならわかるはずである。嘆息の途中に、昔の子供なら誰でも知っていた廣澤虎造『石松代参』の名科白を無造作に放り込むなんてことは、やはり相当の大人でないとできることではない。この無技巧の技巧もまた、人生への向き合い方に拠っているだろう。金子兜太、九十歳。ますますの快進撃を。ああそして、久しぶりに虎造の名調子を聴きたくなってきた。例の「スシ食いねえ…」の件りである。「俳句界」(2009年1月号)所載。(清水哲男)


March 0532010

 山桜の家で児を産み銅色

                           たむらちせい

にはあかがねのルビあり。山桜が咲いている山間の家で児を産んで銅色の肉体をしている女。そういう設定である。山桜が咲いている家だからといって山間に在るとは限らないが作者の思いの中にはおそらくそういう土着の生活がある。銅色を、生まれてきた赤子の色と取る読み方もあろうが、そうすると、銅色の肌をして生まれてきた赤子には別の物語を被せなくてはならなくなる。赤子にとっては異様な色だからだ。産んだ側が銅色なら、それは日焼け、労働焼けの逞しさということで一般性を基盤に置いて考えることができる。リアルのためには一般性も大事なのだ。近似するテーマを持つ句として例えば金子兜太の「怒気の早さで飯食う一番鶏の土間」がある。山桜のある家で児を産んで育てている銅色の肌をした逞しい女が早朝どんぶりに山盛りに盛った飯を、その女の亭主が怒気を孕むかのような食いっぷりでがっついているという物語を考えてみれば、この二句の世界の共通性に納得がいく。俳誌「青群」(2010年春号)所載。(今井 聖)


December 08122010

 勘当の息子に会ひし火事見舞ひ

                           山遊亭金太郎

く知られているように、江戸の名物は「火事に喧嘩に中っ腹」と言われたという。火事で被災した家、または火元の近所の家に対して見舞いに伺う風習を「火事見舞い」とか「近火見舞い」と呼ぶ。私なども小さい頃、父が親戚へ近火見舞いに出かけて行った記憶があるけれど、今もやはり行われているようだ。日本酒かお金を包んで「お騒々しいことで…」と挨拶する。掲句の意味は、火事見舞いに行った先方の家で、勘当した息子にばったり出会ったというのではない。金太郎は落語家である。「火事息子」という落語があり、それによっている。ある日、神田の大きな質屋の近くから出火した。番頭が蔵に目塗りをする作業に取りかかるけれど、慣れない仕事で勝手がちがうからまごまごしている。そこへマシラのごとく屋根から屋根を伝ってやってきた若い火消し人足がいて、番頭に目塗りの指示をする。火事がおさまって(「しめって」と言う)その男を確かめると、なんと火事が好きで勘当になった質屋の若旦那。……それから父親と母親の情愛が屈折して展開するという、泣かせる人情話風の傑作落語である。この落語を知らない人には少々理解しにくい俳句かもしれない。金太郎は結社「百鳥」に属し、「秋の蠅八百屋に葱で追はれけり」がある。火事の句では金子兜太の「暗黒や関東平野に火事一つ」が忘れられない。「百鳥」2010年11月号所載。(八木忠栄)


March 1832011

 ひばり鳴け母は欺きやすきゆゑ

                           寺田京子

というものは欺きやすいものであろうか。女は弱しされど母は強しという。男からみると恋人や妻は強く恐い存在であり、母は無条件で許してくれる存在である。金子兜太の句に「夏の山国母いてわれを与太と言う」。与太と言われようと子は母の愛情を疑うことはない。この句は娘という立場から母をみている。同性から見た母は息子から見た母とはかなり違うのだろう。ひばり鳴けという命令調にその微妙な感じがうかがわれる。『冬の匙』(1956)所収。(今井 聖)


June 1562012

 鮭食う旅へ空の肛門となる夕陽

                           金子兜太

きな景を自身の旅への期待感で纏めた作品だ。加藤楸邨は隠岐への旅の直前に「さえざえと雪後の天の怒濤かな」と詠んだ。楸邨の句はまだ東京にあってこれから行く隠岐への期待感に満ちている。兜太の句も北海道に鮭を食いに行く旅への期待と欲望に満ちている。雪後の天に怒濤を感じるダイナミズムと夕焼け空の色と形に肛門を感じる兜太のそれにはやはり師弟の共通点を感じる。言うまでもなく肛門はシモネタとしての笑いや俳諧の味ではない。食うがあって肛門が出てくる。体全体で旅への憧れを詠った句だ。こういうのをほんとうの挨拶句というのではないか。『蜿蜿』(1968)所収。(今井 聖)


November 23112012

 珊太郎来てすぐ征くや寒に入る

                           加藤楸邨

澤珊太郎始めて来訪、の前書きがある。珊太郎は兜太の親友。楸邨宅には金子兜太が伴ってきたのだろう。兜太は熊谷中学を卒業したあと、昭和十二年に水戸高校文科に入学。一年先輩に珊太郎が居て誘われるままに校内句会に出たのが俳句との機縁である。その折作った「白梅や老子無心の旅に住む」が兜太初の句。珊太郎は作家星新一の異母兄。水戸高校俳句会を創設し、竹下しづの女と中村草田男の指導による「成層圏句会」の会員となりその後草田男の「萬緑」の立ち上げに関った。その後兜太たちと同人俳誌『青銅』を発刊。三十七年には『海程』創刊に発行人として参加。晩年は『すずかけ』の主宰者として活動した。この年、珊太郎二十五歳。兜太二十四歳。楸邨三十六歳。同じ号に「寒雷野球部第一回戦の記」と題して、寒雷軍(楸邨主将)対東京高師野球部(二軍)の対戦が府立八中の運動場で行われ寒雷軍が四対三で勝ったことが載っている。みんな若かった。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)


January 2212014

 二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり

                           金子兜太

の量販店のフロアーなら二十のテレビどころの数ではないから、これは街角の電気店の風景。ふと足を止めた視線の先に、スタートの位置に身を屈める黒人の姿が映し出された二十のテレビ画面がある。この句は俳句を作る上で一般的に避けるべきとされるさまざまなタブーを破っている。まず無季句であること。字余りであること。スタートダッシュという長い名詞を用い、しかもカタカナ語が二語出てくること。テレビを通して観る対象だから、間接的な把握になること等々。それら従来の作句方法の「要件」を歯牙にもかけず、(それら一つ一つに「挑戦する意識」があったらとてもこれだけまとめての掟破りはできない)とにかく作者の感じた「現在只今」が優先される。街角も、観ている側も、映し出されている画像も、二十のテレビそのものも、全てひっくるめて状況そのもの。このとき読むものはそこにまぎれもなく呼吸して動いている作者を見出すのである。『暗緑地誌』(1972)所収。(今井 聖)


March 1032014

 三月十日も十一日も鳥帰る

                           金子兜太

句で「厄日」といえば九月一日関東大震災の日を指すことになっているが、この日を厄日と呼んだのは、私たちはもうこれ以上の大きな災厄に見舞われることはないだろうという昔の人の気持ちからだったろう。そうでないと、いずれ歳時記は厄日だらけになってしまうし……。ところが、関東大震災以降にも、人災天災は打ち止めになることはなく、容赦なく人間に襲いかかってきた。掲句の「三月十日」は東京大空襲の日であり、「三月十一日」は三年前の東日本大震災の起きた日だ。残念ながら、厄日は確実に増えつづけている。しかし人間にとってのこうした厄日とは無関係のように、渡り鳥たちは何事もなかったかのごとく、遠い北国に帰って行く。彼らにはたぶん必死の旅であるはずだが、災禍の記憶のなかにある人間たちは、飛んでゆく鳥たちを眺めてその自由さを羨しく思ったりするのである。だが人間と自然との関係は、人間側の勝手な思い込みだけでは、上手に説明できないだろう。これは永遠の課題と言えようが、作者はそのことを人間の側に立ちながらも冷静に見つめている。「海程」(2011年10月号)所載。(清水哲男)


May 2152015

 シャツ干して五月は若い崖の艶

                           能村登四郎

子兜太のよく知られた句に「果樹園がシャツ一枚の俺の孤島」がある。揚句の「シャツ」もそうだけど、今の模様入りのカラフルなシャツではなく、薄い綿のランニングといった下着のシャツだろう。張り切った肉体の厚みをはっきりと浮き立たせるシャツは若い男性の色気を感じさせる。爽やかな風にたなびくシャツ、「若い」は五月と崖の艶、双方を形容するのだろう。なまなましい岩肌を露出させた崖の艶はシャツの持ち主である若者の張りきった肌をほうふつとさせる。若葉の萌え出る五月、美しく花の咲き乱れる五月はやはり生命感あふれる若者のものなのだろう。『能村登四郎句集 定本枯野の沖』(1996)所収。(三宅やよい)


September 2092015

 しんじつの草の根沈み蛇は穴へ

                           金子兜太

の彼岸の頃に蛇は穴を出る。秋の彼岸の頃に蛇は穴に入る。季語の上ではこのような習わしになっていますが、蛇が冬眠の準備を始めるのはもう少し先のことです。掲句は、『詩経國風』(1985)所収。「あとがき」によると、『詩経』は、孔子によって編まれた極東最古の詩集で、その中で「風」に分類された詩編は、恋を歌い、農事を歌い、暮らしの苦しさを訴え、為政者への反省をうながす歌謡です。ところで、小林一茶は41歳のとき、一年がかりで孔子の『詩経國風』と睨めっこをしながら俳句を作り俳諧 修行をしました。当代随一の一茶信奉者である金子兜太は、一茶の句を理解するためには原典を読まないわけにはいかないと考え、「読むほどにミイラ取りがミイラになってしまったのである。(略)古代中国の歌のことばをしゃぶりながら、私は歌の背後の現実と人々の哀歓愛憎にまで感応してゆき、俳句にことばを移しつつ同時にその感応を書き取ろうとした」とあります。句集は「麒麟の脚のごとき恵みよ夏の人」から始まり、所々に『詩経』の言葉が織り交ざる句が連なりますが、掲句は句集の終わりから二番目の位置です。この句は、孔子と一茶へのオマージュのようでもあり、あとがきでは自身を「盲蛇」に喩えているので『詩経』に対峙した自画像のようにも読みとれます。「しんじつ」とは、真の実 です。それは、言の葉から花が咲き、結実することです。そのためには、草の根を沈めて、盲蛇のような自分は『詩経』の穴の中に沈んで、沈潜して、ようやく真の実りを得られるのかもしれません。そんな寓意を読みとりました。(小笠原高志)




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