x句

August 2081996

 ぐんぐんと夕焼の濃くなりきたり

                           清崎敏郎

送(むさしのエフエム・78.2MHz)の仕事は4時で終る。帰りのバス停留所までの道では、いつも真正面から西日をうける。バスを降りてからも、しばらくは西日の道だ。「ぐんぐんと」夕焼けていく空を見るのは、これから深い秋にむかってからのことになる。なんだかとても幼い発想のようにも見えるが、ここまでぴしりと言い切るのは、なまなかな修練ではできないと思う。ちなみに清崎敏郎の師である富安風生には、こんなチョー幼げな作品がある。「秋晴の運動会をしてゐるよ」……という句だ。小学生にでもできそうだが、ここまでできる人はなかなかいない。嘘だと思ったら、ひとつつくってごらんになると、納得がいくはずです。『東葛飾』所収。(清水哲男)


October 10101996

 秋晴の運動会をしてゐるよ

                           富安風生

書に「北海道を縦断して、一日汽車に乗り通す」とある。子供みたいな句ですが、面白いですね。俳句は、短歌でも現代詩でもない。こうした句を読むと、つくづくこの世界の懐の深さが思われます。パソコンなんて捨てちゃって、それこそ秋晴れの下、一日中汽車に乗り通してみたくなってくる。窓際には、冷たい缶ビールと上等な乾き物を少々。こんなふうに思わせるところが、俳句の力だというべきでしょう。(清水哲男)


March 2831997

 まさをなる空よりしだれざくらかな

                           富安風生

さに至福の時。見上げると、快晴の空から、さながら神の手が降し給うたように満開の花が枝垂れている。私などは京都祇園の枝垂桜が頭にあるから、ついでに「祇園恋しや だらりの帯よ」という歌の文句も連想してしまう。垂れている現象に美を感じる心は、日本人独特といってもよさそうだ。上五から下五にかけて作者の目線がすっと下りているところに注目。漢字が一字という技巧にも。かくのごとく豪華絢爛に詠まれた花は、もとより以て瞑すべしというべきか。(清水哲男)


July 2871997

 熟れきつて裂け落つ李紫に

                           杉田久女

しすぎた李(すもも)が紫色に変色して落ちてしまった。よくある光景だが、久女という署名がつくと、どうしても深読みしたくなる。女人の哀しいエロティシズムを感じてしまう。李そのものが艶っぽい姿形をしていることもある。口にあてるときに、ちょっと緊張感を強いられる。蛇足ながら「スモモモモモモモモノウチ(李も桃も桃の内)」とは、新米アナウンサーが練習用に使う早口言葉のひとつだ。そういえば、富安風生に「わからぬ句好きなわかる句ももすもも」というのがある。(清水哲男)


April 0741998

 美しき冷えをうぐひす餅といふ

                           岡本 眸

菓子は美しい。食べるには惜しいと思うことすらある。作者の師である富安風生に「街の雨鴬餅がもう出たか」という有名な句があるが、味わいたいという気持ちよりも、その美しさが春待つ心に通い合っている。この名句がある以上、風生門としてはめったな鴬餅の句はつくれないという気持ちになるだろう。つくるのであれば、満を持した気合いのもとにつくるのでなければならない。で、この句は、見事に師のレベルに呼応していると見た。単なる美しさを越えて、美を体感的にとらえたところで、あるいは師を凌駕しているとも言えるだろう。野球に例えれば、師弟で決めた鮮やかなヒットエンドランというところか。それにしても、「鴬餅」とは名づけて妙だ。名前自体が春を呼び込んでいる。そんなこともあって、たまに私のような酒飲みでも食べてみたくなることがある。森澄雄の句に「うぐひす餅食ふやをみなをまじへずに」とある。『母系』(1983)所収。(清水哲男)


October 06101998

 はればれとたとへば野菊濃き如く

                           富安風生

ればれとした気持ちとは、どういうものか。作者は「たとへば」と例をあげている。わずか十五文字のなかに「たとへば」と四文字を使うのは、なかなかの冒険だ。下手をすると、そこで句の流れが止ってしまうからである。しかし、この句にはよどみがない。すらりと読める。句が詠まれた状況について、書き残された文章があるので引用しておこう。「……多摩川の稲田登戸……道の埃を被らない野菊の花は、晴れた空と同じやうに鮮かな色をして……山萩の蔭を、少女らの唱ふ透き通る声が下りて来た。少女らはわれわれと松の下の径を譲り合ふ時だけ唱ひやめたが、通り過ぎるとまた朗らかに唱ひはじめた。……ネクタイを胸のあたりにひるがへしながら……」。このとき(1937)、風生53歳。27年間に及んだ役人生活にピリオドを打った年である。青年のように純朴な感受性がまぶしい。『松籟』(1940)所収。(清水哲男)


May 1351999

 蝶低し葵の花の低ければ

                           富安風生

といえば、普通は「立葵(たちあおい)」のことを言う。句も、立葵を詠んでいる。成長すると人の背丈ほどになり、花色は白、赤、ピンクなど多様で、茎の下のほうから咲き上るのが特長。そんな葵の生態を詠んだ句で、すなわち花に来る「蝶低し」だから、いまだ葵の花が下の方に咲いている初夏の候と知れるのである。「なるほどねえ」と、読者を感心させる理詰めの句だ。浪花節の「ナニがナニしてナンとやら……」にも似ており、俳諧的にもとても面白い。詩は発見が命だから、この技法による句は富安風生の詩の命である。この句が出た後に、「なるほどねえ」と思った何人もの俳人が、同工異曲の句を書いているけれど、いずれもいただけない。他人の命に、いくら接近してみても、ついに命は共有不可能だからだ。風生には、一見のんびりとした境地の句が多く見られるが、その技法においては、すこぶる鋭意な発見と冒険に満ちている。誰か、富安風生の生涯斬新でありつづけた技法について、腰を入れた文章を書いてくれないものか。『草の花』所収。(清水哲男)


August 0181999

 柔かく女豹がふみて岩灼くる

                           富安風生

月。なお酷暑の日々がつづく。季語は「灼(や)く」で、言いえて妙。「焼く」よりも、もっと身体に刺し込んでくるような暑さが感じられる。昭和初期の新興俳句時代に、誓子や秋桜子などによってはじめられた比較的新しい季語だ。作者は動物園で着想を得たのだろうが、それを感じさせない奥行きを持つ。女豹(めひょう)のしなやかな姿態が、灼けた岩の上に、いとも楽々とある図は、どこかで現実を超えている神秘性すら感じさせる。灼けるような暑さのなかで、女豹のいる位置だけに、あたかも幻想の時が流れているようだ。同工の句に、中島斌雄の「灼くる宙に眼ひらき麒麟孤独なり」がある。こちらも動物園の世界の外を思わせはするけれど、「孤独」がいささか世界を狭くしてしまった。麒麟(きりん)を人間の「孤独」に引き寄せ過ぎている。つまり、麒麟の心を読者に解説したサービスによる失敗だ。見たままを言いっ放しにする度胸。言葉の直球を投げ込む度胸。俳句作りには、いつもこの度胸が問われている。(清水哲男)


February 0422000

 年の内に春立つといふ古歌のまま

                           富安風生

春。ところが、陰暦では今日が大晦日。暦の上では冬である年内に春が来たことになり、これを「年内立春」と言った。蕪村に「年の内の春ゆゆしきよ古暦」があり、暦にこだわれば、なるほど「ゆゆしき」事態ではある。陰暦の一年は、ふつう三五四日だから、立春は暦のずれにより十二月十五日から一月十五日の間を移動する。そのあたりのことを昔の人は面白いと思い、芭蕉も一茶も「年内立春」を詠んでいる。したがって、陽暦時代に入ってから(1872)の俳句にはほとんど見られない季題だ。風生はふと思い当たって、掲句をつぶやいてみたのだろう。「古歌」とは、言うまでもなく『古今集』巻頭を飾る在原元方の「年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはん今年とやいはん」だ。昨日までの一年を「去年(こぞ)」と言えばよいのか、いややはり暦通りに「今年」と呼べばよいのか。困っちゃったなアというわけで、子規が実にくだらない歌だと罵倒(『歌よみに与ふる書』)したことでも有名な一首である。事情は異るが、カレンダーに浮かれての当今の「ミレニアム」句を子規が読んだとしたら、何と言っただろう。少なくとも、肩を持つような物言いはしないはずである。(清水哲男)


July 0272000

 山百合の天に近きを折り呉るる

                           櫛原希伊子

誌「百鳥」が届くと、待ちかねて同人欄で最初に読むのが、櫛原希伊子の句だ。この人の句は、なによりも思い切りがよい。「天に近きを」と言ったのは、事実描写であると同時に、山百合のこの上ない美しさに「天」を感じたからだ。野生の山百合には、他の百合には及ばない気高さがある。この気高さは、たしかに「天」を思わせる。小学校の通学路(山道)に、山百合の乱れ咲く小高い山があった。たまに道草をして、山百合や小笹の群生する丘を分けのぼり、寝転がって空を眺めるのが好きだった。空からは、長閑な閑古鳥の声が聞こえ、細目で真下から見上げる花の美しさは、子供心にも強く訴えてくるものがあった。後に「山のあなたの空遠く、さいわい住むと人の言う」ではじまるカール・ブッセ(だったかしらん)の詩を習ったが、私にはとうてい外国人の詩とは思えなかった。なんだか、その頃の自分の気持ちを代弁してくれているように感じたからである。詩に山百合は出てこないが、私にははっきりと見えるような気がした。いまでも、この詩を思い出すと、まっさきに山百合の姿が浮かんでくる。山百合の句で人口に膾炙しているのは、富安風生の「山百合を捧げて泳ぎ来る子あり」だろう。風生の句もまた、事実描写であるとともに、その気品のある美しさへの思いを「捧げて」に込めている。やはり、「天」に通じているのだ。『櫛原希伊子集』(2000・俳人協会刊)所収。(清水哲男)


October 08102000

 はたおりの子を負ひたればあはれなり

                           山口青邨

ょっと待って……。ここから先を読む前に、もう一度掲句に戻っていただきたい。句に戻って、句に詠まれた情景をイメージしてから、ここに戻ってきてください。さて、どうですか。イメージは浮かびましたか。そのイメージは、とても大切です。赤ん坊をおんぶして、機織(はたおり)の仕事に励んでいる女性の姿が浮かんだと思います。子育てをしながら、なおかつ賃仕事を強いられる貧しい女性の姿でしょうね。だから、作者は「あはれ」だと……。しかし、賢明な諸兄姉が既にお気づきのように、だとすると、この句には季語が無い。有季定型俳人である青邨が、無季句を作るはずはない。はてな?? ところが、季語はあるのです。季語は「はたおり」。「ばった」のことです。「ばった」の異名は「機織虫」。仕草からの連想でしょう。「はたおり」は「きりぎりす」の異名でもあるけれど、この場合は「おんぶばった」を指しています。第一「きりぎりす」は遊び人ですしね(アリとキリギリス)。この「おんぶばった」の習性に、読者が最初にイメージした女性の姿を重ねての「あはれ」なのです。持って回った書き方をしてしまいましたが、作者もおそらくは、こう読んでもらいたかったのではないでしょうか。お口直しに(笑)、真っ当な「きちきちばった」の「あはれ」を、どうぞ。「きちきちといはねばとべぬあはれなり」(富安風生)。『合本俳句歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)


November 10112000

 よろこべばしきりに落つる木の実かな

                           富安風生

興吟だと思う。いいなあ、こういう句って。ほっとする。そんなわけはないのだが、作者が「よろこべば」、木の実も嬉しがって「しきりに」落ちてくれるのだ。双方で、はしゃぎあっている。幼いころの兄弟姉妹の関係には、誰にもこんな時間があっただろう。赤ちゃんがキャッキャッとよろこぶので、幼いお兄ちゃんやお姉ちゃんも嬉しくなって、いつまでも剽軽な振る舞いをつづける。作者は、そんな稚気の関係を赤ちゃんの側から詠んでおり、実にユニーク。無垢な心の明るさを失って久しい大人が、木の実相手に明るさを取り戻しているところに、いくばくかの哀感も伴う。発表当時には相当評判を呼んだ句らしく、「ホトトギス」を破門になったばかりの杉田久女がアタマに来て、「喜べど木の実もおちず鐘涼し」とヒステリックに反発した。「風生のバーカ」というわけだ。生真面目な久女の癇にさわったのだが、狭量に過ぎるのではないだろうか。俳句は、融通無碍。その日その日の出来心でも、いっこうに構わない。「オレがワタシが」の世界だけではない。そうした器の大きさが、魅力の源にある。バカみたいな表現でもゆったりと受け入れるところも、俳句の面白さである。しゃかりきになって「不朽の名作」とやらをひねり出そうとするアタマでっかちを、きっと俳句の神は苦笑して見ているのでしょう。『合本俳句歳時記第三版』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


February 2422001

 春の波見て献立のきまりけり

                           大木あまり

者がいるのは海辺だろうか、それとも川や池の畔だろうか。のどかな波の様子を眺めている。「ひらかなの柔らかさもて春の波」(富安風生)。見ているうちに、はたと「献立」を思いつき、それに決めた。「献立」の中身は何も書いてないけれど、どんな料理かをちょっと知りたくなる。想像するのは楽しいが、案外「春の波」のイメージとは遠くかけ離れた献立かもしれない。えてして「思いつき」は、思いがけないきっかけから生まれ、とんでもない方向に飛んでいく。揚句のテーマは、むろん献立の中身などではない。「きまりけり」の安心感、ほっとした気持ちそのことにある。こういう句を、昔の男はいささか差別的に「台所俳句」と称したが、台所にこそ俳句の素材がぎっしり詰まっていることを、浅薄にも見逃していたわけだ。反対に、たとえば画家は洋の東西を問わず、早くから台所に注目していた。私自身も、詩のテーマや素材に困ると、いまだに台所を見回す。料理の素材である野菜や魚、道具である鍋やフライパンの出てくる詩を、いくつ書いたか知れないほどだ。ただ私のように日常的に献立を考えない人間は、素材や道具には目が行き想像力を働かせても、揚句のような気持ちに届くことは適わない。作者は台所を、いわば戸外に持ちだしているのであり、つまり台所を自身に内蔵しているのでもあって、ここに私との大きな差がある。それにしても、主婦(とは限らぬが)の三度三度の「思いつき」能力には感心する。そこらへんのプロよりも、はるかに凄い。プロは答えの見えたジグソー・パズルを組むだけでよいのだが、主婦はそのたびに白紙に絵を描いていくのだから。『火球』(2001)所収。(清水哲男)


August 2082001

 とうすみはとぶよりとまること多き

                           富安風生

戦の年まで、東京の中野区鷺宮(現在の「若宮」)に住んでいた。当時の新興住宅地で、似たような形をした貸家がたくさんあり、我が家もそんな一軒を借りていた。近所にはまだあちこちに原っぱがあって、子供らには絶好の遊び場だった。そのころ(五歳くらいだったろう)に「とうすみ(糸蜻蛉)」を知った。夕方になると、空にはコウモリが乱舞し、赤とんぼも群れをなし、鬼やんまがすいすいと飛び交っていた。走り回っていたお兄ちゃんたちのお目当ては、むろん鬼やんまだ。思い出しても壮観であるが、一方で地べたに近い草の葉先などには「とうすみ」が静かにハネをたたんでとまっているのだった。しゃがんで見ていても、句の言うように、なかなか飛ばない。手を打って威かしても、動こうとはしない。子供心にも、なんて弱々しいトンボなんだろうと写り、つかまえるのがはばかられたほどだ。掲句の平仮名は、よくこのトンボの特性を伝えている。なお、多くの歳時記では夏の季語とされており、当歳時記でもそれに習うが、しかし風情としては初秋の少し寂しげな風景に似合うトンボである。それにしても最近はちっとも見かけないが、あのはかなげな様子からして、もしかしたら絶滅したのではないかと心配である。弱々しいと言えば、「おはぐろ(川蜻蛉)」もどうなっているのだろうか。『合本俳句歳時記』(1974・角川書店)所載。(清水哲男)


March 1132002

 春あかつき醒めても動悸をさまらず

                           真鍋呉夫

で、目が醒(さ)めた。よほど夢の中での出来事が、刺激的だったのだろう。醒めても、なかなか「動悸(どうき)」が「をさまら」ない。春夏秋冬、四季を問わずにこういうことは起きるが、寒からず暑からずの春暁のときであるだけに、夢と現(うつつ)の境界が、いまひとつ判然としないのである。平たく言えば、寝ぼけ状態が他の季節よりも長いので、「ああ、夢だったのか」と自己納得するのに、多少時間がかかるというわけだ。「春の夢」なる季語があるくらいで、この季節の心地よい睡眠はまた夢の温床でもあるらしい。富安風生に「春の夢心驚けば覚めやすし」があるように、動悸の激しくなる夢を見やすいのかもしれない。夢の心理学は知らねども、体験的には納得できるような気がする。つい昨夜も見たばかりで、気まぐれにそのあたりの樹に登り、ふと下を見て気を失いそうになった。いつの間にか、高層ビルの屋上ほどの高いところまで、登ってしまっていたのだ。高所恐怖症としては必死に幹にかじりついたものの、しかし、恐くて一歩も下りられない。「もう駄目だ」と思っているうちに、目が覚めた。覚めても、句のようにしばらくはドキドキしていた。……というような子供じみた夢を作者が見たと思ったのでは、面白くない。ここは、大人の夢から来た動悸だと読まねば。まことに危険で艶っぽい、真に迫った恋の夢から醒めたのだと。『定本雪女』(1998)所収。(清水哲男)


November 26112002

 すずかけ落葉ネオンパと赤くパと青く

                           富安風生

ずかけ(鈴懸・プラタナスの一種)は丈夫なので、よく街路樹に使われる。夜の街の情景だ。ネオンの色が変化するたびに、照らされて舞い落ちてくる「すずかけ落葉」の色も「パと」変化している。それだけのことで、他に含意も何もない句だろう。でも、どこか変な味のする句で記憶に残る。最初に読んだときには「ネオンパ」と一掴みにしてしまい、一瞬はてな、音楽の「ドドンパ」みたいなことなのかなと思ったが、次の「パと青く」で読み間違いに気がついた。途端に思い出したのが、内輪の話で恐縮だけれど、辻征夫(貨物船)が最後となった余白句会に提出した迷句「稲妻やあひかったとみんないふ」である。このときに、井川博年(騒々子)憮然として曰く。「これが問題でした。これなんだと思いますか。大半のひとはこれを『た』が抜けているけど、きっと『逢いたかった』のだと読んだ。騒々子一発でわかりました。これは『あっ、光った』なんですね。実にくだらない。……」。同様に、風生の掲句も実にくだらない。今となっては、御両人の句作の真意は確かめようもないけれど、とくに風生にあっては、このくだらなさは意図的なものと思われる。確信犯である。一言で言えば、とりすました現今の俳句に対する反発が、こういう稚拙を装った表現に込められているのだと、私は確信する。おすまし俳句に飽き飽きした風生が、句の背後でにやりとしている様子が透いて見えるようだ。辻は、この句を知っていたろうか。『新日本大歳時記・冬』(1999)所載。(清水哲男)


February 1122003

 退屈なガソリンガール柳の芽

                           富安風生

語は「柳の芽」で春。一項目別建ての季語であることから、古来、その美しさを愛でる人々の多かったことが知れる。さて、わからないのが「ガソリンガール」だ。なんとなくガソリンスタンドに派遣された石油会社のキャンペーン・ガールを想像して、調べてみたら、単なる可愛い娘ちゃん役だけではなかったようだ。新居格(にい・いたる)という人の昭和初期の文章に、こんな件りがある。「ガソリン・ガールには、わたし達は直接に何の交渉もない。汽船の給水におけると同様、ガソリン・ガールは自動車に活力を與へる重要な任務をもつ。/わたしは内幸町を歩いてゐた。そこへ一臺のオートバイがガソリンを詰替るべくかけつけた。生憎、ガソリン・ガールは休んでゐた。/「何だ、居ないのか」さういつて疲れ切つたオートバイを引張つて行つた青年のがつかりした姿が、ありゝゝと目に残つてゐる。/わたしは目じるしの、シエルと英字で書いた街頭のガソリン供給の小舎に近づいた。管理人×××子その人は休日でゐなかつた。/街頭のまん中に黄色のポンプ、その前に小舎。小舎は小さい交番にもたぐへられる。/ガソリン・ガールの居所らしい小舎だ。窓の小いのも女らしい小舎の表現である。屋根の色、小舎の色。思ひ做しか何となく物優しい色に思へる。それに春の夕日が照り添つてゐる。ほの白い薄明のなかに「火氣嚴禁」がハツキリと浮かんで見える。/管理人のガソリン・ガールの休みの日だ。どんな人だか知る由もなかつたけれど、どうも、その人が知的美の持主で聰明さうに思へてならなかつた」。看板娘の意味合いもあったかもしれないが、実質的には給油から管理までを担当する「職業婦人」だった。芽吹く柳のかげに、客待ちで退屈しきったモダンな職業の女。これはそのまま、昭和モダンの一景として絵になっている。ちなみに、新居格は左翼の評論家として出発し、戦後は杉並区長に当選したという変わった経歴を持つ。「モガ(モダンガール)」という言葉を流行させたのも、この人だったらしい。『十三夜』(1937)所収。(清水哲男)


August 3182003

 法師蝉煮炊といふも二人かな

                           富安風生

語は「法師蝉」で秋。我が家の近所でも、ようやく法師蝉が鳴くようになった。まだ油蝉のほうが優勢だが、短かった夏もそろそろおしまいだ。子供たちの夏休みも今日で終わり、明日からは新学期。これからは、日ごとに秋色が濃くなってゆく。ちょうど、そんな時期の感慨を詠んだ句だ。夏の盛りには独立した子供らが孫を連れて遊びに来たりして、「煮炊(にたき)」する妻は大忙しだった。みんなが帰ってしまったからといって、もとより煮炊の仕事が途切れるわけではないのだけれど、気がついてみたら、いつものように二人分の煮炊ですむようになっていた。毎年のことながら、法師蝉の鳴くころにはいささかの感傷を覚えるのである。揚句を印象深くしているのは、「煮炊」という言葉の巧みな 使い方だ。多くの人の感覚では、煮炊と聞くと、料理の素材の分量として「二人」分くらいの少量は思い浮かばないだろう。少なくとも、三、四人分か、もっと大量を想像する。作者もそのようなイメージで使っていて、だから「煮炊といふも」とことわってあり、それを「二人きり」と一息に縮小したことで、味が出た。すなわち、句には何も書かれてはいなくても、読者は作者宅の真夏のにぎわいを想像することができる仕掛けなのだ。俳句という装置でなければ、とてもこのような味は出ない。外国語に翻訳するとしても、外国人にも理解できる世界だとは思うが、ポエジーの質を落とさずに短く言い換えるのは不可能だろう。あくまでも、俳句でしか表現できない味なのである。『俳句歳時記・秋の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)


March 0132004

 三月の声のかかりし明るさよ

                           富安風生

あ「三月」だ。そんな「声のかか」っただけで、昨日とさして変わらぬ今日ではあるが、なんとなく四囲が明るんだように見えてくる。こういう気分は、確かにある。天気予報によれば、東京あたりの今日から三日間ほどは冬に逆戻りしたような寒さがつづくという。それでも、三月は三月だ。そう思うと、寒さもそんなには苦にならない。もうすぐ暖かくなって、月末ころには桜も咲くのである。むろん北国の春はまだまだ遠いけれど、三月の声を聞けば、やはり気持ちは明るいほうへと動いていくだろう。このあたりの人間の心理の綾を、大づかみにして巧みに捉えた句である。読んだだけで、自然に微笑が浮かんでくる読者も多いことだろう。これぞ、俳句なのだ。ただ近年では花粉症が猛威を振るいはじめる月でもあって、症状の出る人たちにとっての「三月の声」は、聞くだに不快かもしれない。まことにお気の毒だ。ご同情申し上げます。そうした自然界を離れて人事的に「三月」を見ると、年度末ということがあり、働く人たちにとっては苦労の多い月でもあって、花粉症とはまた別の意味で嘆息を漏らす人もいるだろう。現実は厳しいと、自然がどんどん明るくなっていくだけに、余計に骨身に沁みてくるのだ。それも、よくわかるつもりです。だんだん話が暗くなりそうなので、このへんで止めておきますが、ともあれ「三月」。自然的にも社会的人事的にも一年のうちで最も変化に富んでいるこの月を、私は生まれてはじめて意識的にどん欲にしゃぶりつくしてやろうかと思っています。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


June 1162004

 一生の楽しきころのソーダ水

                           富安風生

語は「ソーダ水」で夏。大正の頃から使われるようになった季語という。ラムネやサイダーとは違って、どういうわけか男はあまりソーダ水を飲まない。甘みが濃いことも一因だろうが、それよりも見かけが少女趣味的だからだろうか。いい年をした男が、ひとりでソーダ水を飲んでいる図はサマになるとは言いがたい。だからちょくちょく飲んだとすれば、句にあるように「一生の楽しきころ」のことだろう。まだ小さかった子供のころともとれるが、この場合は青春期と解しておきたい。女性とつきあってのソーダ水ならば、微笑ましい図となる。喫茶店でソーダ水を前にした若い男女の姿を目撃して、作者はあのころがいちばん楽しかったなあと若き日を懐古しているのだ。むろん、味などは覚えてはいない。ただそのころの甘酸っぱい思いがふっとよみがえり、やがてその淡い思いはほろ苦さに変わっていく。年をとるとは、そういうことでもある。ある程度の年齢に達した人ならば、この句に触れて、では自分の楽しかった時代はいつ頃のことだったかと想起しようとするだろう。私もあれこれ考えてみて、無粋な話だが、青春期よりも子供の頃という結論に達した。ソーダ水の存在すら知らなかった頃。赤貧洗うがごとしの暮らしだったけれど、力いっぱい全身で生きていたような感じがするからだ。その後の人生は、あの頃の付録みたいな気さえしてくる。強いて当時の思い出の飲み物をあげるとすれば、砂糖水くらいかなあ。「砂糖水まぜればけぶる月日かな」(岡本眸)。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 0992004

 一足の石の高きに登りけり

                           高浜虚子

暦九月九日(今年の陽暦では10月22日にあたる)は、陽数の「九」が重なるので「重陽」「重九」と呼び、めでたい日とする。その行事の一つが「高きに登る(登高)」ことで、秋の季語。グミを詰めた袋を下げて高いところに登り、菊の酒を飲むと齢が延びるなどとされた。したがって、「菊の節供」「菊の日」とも。元来は中国の古俗であり、今ではすっかり廃れてしまったが、この言い伝えを知っていた人は登山とまではいかずとも、この日には意識してちょっとした丘などの高いところに登っていたようだ。一種のおまじないである。「行く道のままに高きに登りけり」(富安風生)。掲句はその無精版(笑)とでも言おうか。用もないのにわざわざどこかに登りに行くのはおっくうだし、さりとて「登高」の日と知りながら登らないのも気持ちがすっきりしない。だったら、とりあえず一足で登れるこの石にでも登っておこうか。どこにも登らないよりはマシなはずである。というわけで、茶目っ気たっぷり、空とぼけた句になった。ただ、古来の習俗が形骸化していく過程には必ずこうした段階もあるのであって、その意味では虚子ひとりの無精とは言えないかもしれない。それが証拠に、たとえば草間時彦に「砂利山を高きに登るこころかな」の一句もある。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1292004

 地芝居のお軽に用や楽屋口

                           富安風生

語は「地芝居」で秋。「地」は「地ビール」の「地」。土地の芝居という意味で、土地の人々による素人芝居だ。「お軽」は言わずと知れた『仮名手本忠臣蔵』の有名な登場人物である。舞台では沈痛な顔をしていたお軽が、用事を告げにきた人と「おお、なんだなんだ」と気軽に応対しているところが、いかにも村芝居ならではの光景だ。これが「一力茶屋の場」の後だったりしたら、派手な衣装がますます芝居と現実との落差を感じさせて面白い。この稿を書いているいま、遠くから祭り太鼓の音が聞こえてくる。昨日今日と、三鷹や武蔵野など近隣八幡宮の秋祭なのだ。ひところは担ぎ手を集めるのに難渋した神輿人気も復活し、大勢の人出でにぎわうのだけれど、私などにはやはり「地芝居」の衰退は淋しいかぎり。子供の頃の秋祭最大の楽しみといえば、顔見知りの人たちが演ずる芝居であった。でも、難しい忠臣蔵なんて舞台はなかったと思う。たいていが国定忠次とか番場の忠太郎とかのいわゆるヤクザもので、まあ長谷川伸路線だったわけだが、その立ち回りは早速翌日にはチャンバラごっこに取り入れたものである。「ハナ(寄付金)の御礼申し上げまーす」。幕間には必ずこのアナウンスがあって、寄付した人たちの名前が読み上げられた。多くは地域共同体の義理で寄付していたようだが、しかし私の父親の名前は一度も読み上げられることはなかった。生活保護家庭で口惜しい思いをしたことはいろいろあるけれど、これもその一つである。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


December 03122004

 廚の灯おのづから点き暮早し

                           富安風生

語は「暮早し」で冬。年の暮れのことを言うのではなく、冬時の日暮れの早さを言う。「短日」の傍題。句のミソはむろん「おのづから点(つ)き」にある。いかにも言い得て妙。「廚(くりや)の灯」が「おのづから」点くことなどないわけだが、まだこんな時間なのにもう灯が点いているという小さな驚きが、それこそ「おのづから」口をついて出てきた恰好だ。昔の食事の仕度にはかなりの時間を要したので、どの家でもたいがいは台所から点灯されたものである。それに、台所自体が昼でも薄暗い構造の家が多かった。めったに使わない客間などを明るく作ったのは、いったいどんな考えからなのだろうかと、いまどきの若い人なら訝しく思うに違いない。が、現代的なダイニング・キッチンの意識が定着してから、かれこれ三十年くらいだろうか。こうした俳句の味が実感的にわかる人は、まだたくさんおられるけれど、いずれは難解句になってしまいそうだ。あたりがある程度の暗さになると、本当に電気が「おのづから」点く装置(我が西洋長屋の廊下には、何年も前から取り付けられている)も、そのうちに普及してくるだろうし、そんなことを考えると掲句の寿命も目の前である。古い日本の抒情の池も、急速に干上がってきつつあるということだろう。(清水哲男)


July 0772005

 瓜番へ闇を飛び来し礫かな

                           守能断腸花

語は「瓜番(うりばん)」で夏。マクワウリやスイカが熟する時期、夜陰に乗じて盗みに来る者がいた。これを防ぐための番人のことで、小屋の中で番をする。ウリ類が、今よりもずっと貴重だった頃にできた季語だ。瓜番を詠んだ句を調べてみると、おおかたは「まんまろき月のあがりし西瓜番」(富安風生)のように、平穏なものが多いようだ。瓜泥棒はこそ泥だから、誰かが見張っているとなれば、畑に近寄っても来ないからだろう。したがって、掲句のような例は珍しい。いつもは何事もなく過ぎてゆく瓜番小屋に、突然「礫(つぶて)」が「闇」の中から飛んできた。その鋭い勢いで、何か固い物が偶然に小屋に落ちてきたのではないと知れる。明らかに、誰かが小屋をめがけて投げたのである。単なるいたずらか、何かの挑発か、あるいは小屋に人がいるかどうかを探るために投げたのか。さっと緊張感が走った瞬間を言い止めた句で、こういう句は想像では作れない。現場にいた者ならではの臨場感に溢れている。この瓜番も近年ではすっかり姿を消してしまい、死語になった。が、サクランボの名産地で知られる山形などでは、夜間の見回りが欠かせないところもあると新聞で読んだ。世に盗人の種は尽きまじ……。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1892005

 今日の月すこしく欠けてありと思ふ

                           後藤夜半

語は「今日の月」で秋。陰暦八月十五日の月、中秋の名月のこと。「名月」に分類。昔は盗賊でも歌を詠んだという、今宵は名月。期待していたのに、満月と言うにはどうも物足りない。よくよく眺めてみるのだが、「すこしく欠けて」いるではないか。「すこしく」は「ちょっと」ではなく「かなり」の意だから、作者はそれこそ「すこしく」戸惑っている。おいおい、本当に今日が十五夜なのかと、誰かに確かめたくなる。天文学的なごちゃごちゃした話は置いて、名月に「真円」を期待するのは人情だから、作者の気持ちはよくわかる。この場合は、作者の「真円」のイメージが幾何学的にきつすぎたようだ。似たような思いを抱く人はいるもので、富安風生に「望月のふと歪みしと見しはいかに」がある。やはり「望月」は、たとえば盆のように真ん丸でないと、気分がよろしくないのだ。それが歪んで見えた。「ふと」とあるから、こちらの目の錯覚かなと、名月に対して風生は夜半よりも「すこしく」謙虚ではあるのだが……。工業の世界には真円度測定機なんてものもあるほどに、この世に全き円など具体的には存在しない。それを人間から名月は求められというわけで、月に心があるならば、今年は出るのをやめたいなと思うかもしれませんね。さて、今夜の月はどんなふうに見えるでしょうか。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 1122006

 机低過ぎ高過ぎて大試験

                           森田 峠

語は「大試験」で春。戦前は「大試験」というと、富安風生の「穂積文法最も苦手大試験」のように、学年試験や卒業試験のことだった。ちなみに「小試験」は学期末試験を言った。掲句の作者は戦後の高校教師だったから、句の情景は入学試験である。いつのころからか卒業試験は形骸化してしまった(ような)ので、現代で「大」の実感を伴うのは入学試験をおいて他にないだろう。作者は試験監督として教室を見渡しているわけだが、「机低過ぎ高過ぎて」とは言い得て妙だ。普段の教室ならば、背の高い順に後方から並ぶとか、生徒たちは何らかの規則的な配列で着席するので気にならないが、入試では受験番号順の着席になるから、背丈の凸凹が目立つのである。試験は試験の句でも、監督者の視点はやはり受験生のそれとはずいぶんと違っていて興味深い。ということは「大試験」の「大」の意識やニュアンスも、立場によって相当な差があることになる。受験生の「大」は合否の方向に絞られるが、監督者のそれは合否などは二の次で、とにかくトラブル無しに試験が終了することにあるということだ。いまの時期は、大試験の真っ最中。今年はとくに寒さが厳しいし、インフルエンザの流行もあって、受験生とその家族は大変だろう。月並みに、健闘を祈るとしか言いようがないけれど。『避暑散歩』(1973)所収。(清水哲男)


March 1032007

 古稀といふ春風にをる齢かな

                           富安風生

が子供の頃、二十一世紀は未来の代名詞だった。2003年生まれの鉄腕アトムに夢中になり、ある日ふと、その頃自分は何歳なんだろう、とそっと引き算してみると、2003−1954=49。四十九歳、親の年齢を上回る自分の姿を想像することは難しく、その遠い未来に漠然と不安を覚えた記憶がある。思えば、老いることを初めて意識した瞬間。ひたすら今を生きていた小学生の頃のことだ。「わたしの作品に“老”が出はじめたのは、長い俳歴のいつごろであったか。」雑文集『冬うらら』(富安風生著)のあとがきは、この一文で始まっている。作者は、まだ老の句を詠むには早すぎる頃から、「人間の、自分自身の、まだ遠い先の老ということに、趣味的な(といってもいいであろう)関心を抱いて」概念的な老の句を作っては、独り愉しんだり淋しがったりしていたという。「人生七十古来稀」を由来とする古稀は、最も古くからある長寿の賀である。そして、古稀を迎えてからは、それまで遊びであった老の句に実感が伴うようになり、「おのずからため息の匂いを帯びてきた。」のだと。春風にをる、の中七は、泰然自若、悠々と達観した印象を与える。しかし、老が思いの外実感となって来たことに対する、かすかな戸惑いをさらりと詠みたい、という心持ちも働いているのではないか。それは、人間的で正直な心持ちと思う。「この世に“思い残すことはない”などと語る人の言葉をきくと、何かそらぞらしく、ウソをついているなと思えてならんのです。(中略)自分自身のために、死ぬるまで、明日を待ち楽しむ気持で、一日一日の命を大事にしたいというだけの事です。」昭和五十四年、九十三歳で天寿を全うされた作者八十一歳の時の言葉である。引用も含めて『冬うらら』(1974・東京美術)所載。(今井肖子)


May 0452007

 しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る

                           富安風生

快なリズム、童心が微笑ましくも楽しい。こういう句はどうやったらできるかな。俳句に過剰な期待をかけないことかもしれない。「右手で自己の人間悪、左手で社会悪と闘う」そんな内容を楸邨は句集『野哭』の後記で述べている。そういう気張り方では、こういう句はできない。状況を見遣り自己を見つめ追いつめ、対象の実相に肉薄しようとする。この句は楸邨の作り方と対極に見える。僕は後者の方の傾向を選択したから、まずその伝でいくわけだけど、だからこそこういう傾向の魅力に憧れるところがある。求心的傾向がときにスベッテしまうのは、盛り込みたい内容がふくらみすぎてひとりよがりになってしまい、混沌とし過ぎて伝達性が失われてしまうから。逆にこういう句は類想陳腐の何百もの駄作の果てに得られる稀有の一句だろうと思う。平明と平凡は紙一重なのだ。眉間に皺を寄せて苦吟しても、口をぽかんと空けて小学校低学年になりきっても、秀句にいたる道はどっちもどっちなのだから俳句は難しい。ところでこの句の「来る」は「きたる」。最近は歴史的仮名遣い派でも「来たる」と表記する場合が多い。下の五音だから「来る」と書いても読者はかならず「きたる」と読んでくれる、という信頼感が無いんだろう。そういう点にも歴史的仮名遣いの崩壊は着実に進行していると思わざるを得ない。講談社『新日本大歳時記』(2000)所載。(今井 聖)


July 2072007

 工女帰る浴衣に赤い帯しめて

                           富安風生

前の結婚年齢を考えれば「工女」はまずハイティーンまで。十四、五歳くらいが多かったのかもしれぬ。これは、働く少女たちの可憐さを詠んだ句だ。連れ立った工女たちはどこへ帰るのか。工場のある町の夏祭などの風景なら、工場の寮に帰るのだろう。作者はそれをどういう心境で見ているのか。働く若い健康な肉体の美しさを讃えつつ、それに対する慈愛の眼差しがここにはある。作者は高級官僚だったから、ひょっとしたら、こういう少女たちのためにもいい社会をつくらなければならないと思ったかもしれない。現実の政治機構を肯定し、その機構の内部から大衆を啓蒙し導く立場に立った上での「工女帰る」の感慨である。同じ風景を小林多喜二や石川啄木が見たらどう詠むだろうか。啓蒙する側とされる側、管理する側とされる側の区分を、人は致し方なく受け入れるのか、無自覚に受け入れるのか、受け入れがたいとして抗うのか。「工女」という言葉をみるだけで、「女工哀史」を思ってしまう僕は、どうも明るい健康なロマンから離れた複雑な思いをこの風景に感じてしまう。講談社版『日本大歳時記』(1982)所載。(今井 聖)


June 0362009

 蛇の衣草の雫に染まりけり

                           巌谷小波

年ほど前に房総の山間を歩いていたとき、偶然に蛇の衣をまるごと見つけた。垣根にまだ脱ぎたてといった感じで、生なましく濡れて光っている衣に思わず息を呑んだ。まだ濡れている衣の生なましさと妖しい美しさ。おそるおそるそれを破れないように垣根からはずし、そっと持ち帰った。頭のてっぺんから尾の先まで60cm余りあった。乾いてから額縁に入れて今も部屋に飾ってある。掲出句の「雫に染まりけり」の息づいているような美しさに、思わず目がとまった。朝まだきだろうか、雨があがって間もない頃の実景だろうか。そのものは蛇の「かわ」ではなく、まさに「きぬ」としか呼びようのない繊細さである。「蛇の殻」とも呼ぶし、意味はその通りではあるけれど、「衣」のほうがあの実物にはふさわしい。「蛇皮」とは意味が違う。「蛇の衣」がもつ繊細さと「草の雫」の素朴な美しさ、その取り合わせが生きている。富安風生の句に「袈裟がけに花魁草に蛇の衣」があるが、私が発見したそれも「袈裟がけ」という状態だった。蛇の脱皮は年に五、六回くり返されるという。マムシもアオダイショウもヤマカガシも、蛇は夏の季語。小波は白人会を主催して、軽妙洒脱な俳句をたくさん残した。「月細く山の眠を守りけり」。句集『さゝら波』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 0952010

 縞馬の流るる縞に夏兆す

                           原田青児

て、シマウマの縞は縦だったか横だったかと、にわかにわからなくなり、さっそく調べてみれば、1頭の体の中には縦も横もあり、確かに「流れる」ように全身を覆っています。こんな模様はどこかで見たことがあるなと思い起こせば、両手の指に刻まれた指紋のようであります。同じ縞模様は二つとないのだと書いてあるネットの解説に、それではなおさら指紋と同じではないかと、再び感心してしまったわけです。シマウマを詠んだ句では、かつて今井聖さんがこの欄で採り上げた「しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る」(富安風生)が愉快に思い出されますが、どちらの句も、初夏を詠っています。緑鮮やかに生えそろった草を食むシマウマのゆったりとした姿が、夏の開放感を感じさせてくれるからなのでしょうか。それにしても、なんであんなにあざやかな模様がついているのだろうと、不思議でなりません。シマウマに限らず、複雑な模様のついた動植物を見るにつけ、地味な色で出来上がっている自分の体と人生に、なぜか思いは巡ってゆきます。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


April 1042011

 春の町帯のごとくに坂を垂れ

                           富安風生

ちろん、誰かに解説をしてもらってやっと言わんとしていることが理解できる句も、悪くはありません。でも、やっぱり一度読んだだけで理屈抜きにいいなと感じる句が好きです。ただ感じたままを無造作に放り投げてくれるような句を、ことに今は読みたいと思います。この原稿を書く机が、さきほども幾度かの強い余震で揺れていたせいもあるのかもしれません。まだまだ福島原発の放射能問題もはっきりとしない毎日に、どしんと落ちついて、しっかりと普通の春をよみあげた句に、もたれかかりたくもなります。ところで、「帯のごとく」と言って、さらに「垂れ」と結ぶのは、ちょっと工夫がないかなと思わないでもありませんが、でも、やはりこれでよいのです。無理に凝った表現をして利口ぶる必要なんか、たぶんどこにもないのです。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)


November 30112011

 昼火事に人走りゆく冬田かな

                           佐藤紅緑

間の火事にくらべて昼火事は、赤々と炎があがるという派手さは少ないけれど、おそろしく噴きあがる煙が一種独特な緊張感を喚起する。風景も人の動きもはっきりと目に見えるからだろうか。そしてなぜか火事だというと、警報に誘われるように人はどこからか遠巻きに物見高く集まってくる。不謹慎な言い方になるけれど、火事は冬か春先が似合う。火には寒気? 真夏の暑い盛りの火事はだらしないようで、私にはピンとこない。冬の田んぼにはもう水はないし、刈ったあとの稲株も枯れて腐ってしまっている。「スワ、火事だ!」というので、干あがった田の面か畔をバラバラと駆け出してゆく野次馬どももいよう。私にも昼火事の野次馬になったことが一度ならずあるが、妙に気持ちが昂揚するものだ。高校に入学して最初の授業中に起きた、校舎のすぐ隣にある大きなマッチ工場の火事のショックは忘れがたい。上級生たちは消火の手伝いに走ったが、とんでもない学校に来てしまったと、そのとき真剣に考えたっけ。冬田の句には鴉とか雨の取り合わせが目立つけれど、昼火事と冬田の取り合わせは鮮やかなダイナミズムを生み出している。富安風生に「家康公逃げ廻りたる冬田打つ」という傑作がある。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


December 12122011

 老いはいや死ぬこともいや年忘れ

                           富安風生

生、七十歳の作。まるで駄々っ子みたいな句だが、七十三歳の私には、微笑とともに受け止められる。老いは、身体から来る。加齢とともに、立ち居振る舞いに支障が出てくる。「こんなはずではなかったが……」という失敗が多くなり、そのたびに「我老いたり」の実感が胸を打つ。先日の私の失敗は、居眠りをしているうちに椅子から転げ落ちてしまったことだ。一瞬、何が我が身に起きたのかがわからなかった。こんなことは、むろん若いころには起きなかった。つくづく、老いはいやだなと思い、老いを呪いたくもなったが、致し方ないと思うしかなかった。かといって、こうした失敗は死んだほうがましという意識には、なかなかつながらない。まだ軽度なのだと、自分に言い聞かせるだけだ。しかし、老人にとって確実なのは、今日よりも明日のほうが失敗する率は高まるということだ。加齢による体験が、そのことを指し示している。おそらく死ぬまで、こうしたことが繰り返され、まだまだ軽度の失敗なのだという意識のなかで、最後の時を迎えるのだろう。私の「年忘れ」もまた、作者と同じように「年(齢)忘れ」に近くなってきたようだ。ちなみに風生は、このあと二十年以上も生きて九十三歳で没している。『古稀春風』(1957)所収。(清水哲男)


April 2642012

 春の雨街濡れSHELLと紅く濡れ

                           富安風生

を運転しなくなってからガソリンスタンドにとんと縁がなくなった。昔はガソリンの値段に一喜一憂したものだが、車を手放してからはガソリンスタンドがどこにあるのやら、道沿いの看板を気に留めることもない。この句は昭和18年に出された句集『冬霞』に収録されているが、当時は車を持っていること自体、珍しい時代。しかも日米開戦後、英語が敵国語として禁止されていく状況を思うと挟みこまれた英単語にモダンという以上に意味的なものを探ってしまう。しかしそうした背景を抜きにして読んでも春雨とSHELL石油の紅いロゴの配合はとてもお洒落だ。同じ作者の句に「ガソリンの真赤き天馬春の雨」があるが、こちらはガソリンと補足的な言葉が入るだけに説明的で、掲句の取り合わせの良さにはかなわないように思う。SHELL石油がなくなったとしても蕪村の「春雨や小磯の小貝濡るるほど」が遠く響いてくるこの句は長く残っていくのではないだろうか。「日本大歳時記」(1982)所載。(三宅やよい)


May 3152012

 銀座にて銀座なつかしソーダ水

                           井上じろ

正時代から昭和にかけて銀座は流行の最先端の町であった。地方都市の駅前繁華街にはその土地々の名前を冠した銀座が続出したという。そういえば転勤先の山口、鹿児島、愛知それぞれの町の銀座商店街を歩いた覚えがある。本家本元の銀座ではいつ行っても華やかな雰囲気にあふれている。電線のない広い空と石畳の舗道にお洒落な店の数々。だけど、私が知っているのはここ10年ばかり銀座で、古きよき銀座の記憶はない。「銀ブラ」という言葉が消えたように、この町を愛した人には外国のブランド店がずらりと並ぶ銀座には違和感があるかもしれない。ソーダ水には「一生の楽しきころのソーダ水」(富安風生)という名句があるが、昔なつかしいソーダ水を飲みながら、「銀座も変わったものね」と年配の婦人が話している様子を想像してしまった。『東京松山』(2012)所収。(三宅やよい)


March 0832013

 勝負せずして七十九年老の春

                           富安風生

、一度も「勝負!」と思ったこともしたこともなくて79歳に相成りましたという句。一高、東大法科を出て逓信省に入り、次官となって官僚の頂点に登りつめる。俳人としては虚子門の大幹部で「若葉」を創刊主宰そして芸術院会員だ。勝負してるじゃん。そんでちゃんと勝ってる。連戦連勝じゃんか。と思うのはこちらのひがみ根性。こういう人に限って勝負したという意識が無いんだな。自然体でなるべくしてなるところに落ち着いたんだと本人は思っていらっしゃる。あるいは、まあ可もなく不可もなくでございますくらいはおっしゃるのかもしれない。苦節何年とかいうのは歯を食いしばってるということだから勝負してるということ。風生さんには苦節の意識も無いんだと思います。あなたは風生を語るときにどうして彼の学歴とか社会的な地位とかを必ず言うのか、それは俳句の良し悪しと別のところで批評してることにならないかと問われたことがある。そうじゃないんだと僕は応える。風生俳句にはっきりと出ている余裕の風情、これは社会的な地位とも無縁ではない。そしてどこか俳句に対して「余技」の意識が感じられる。余技といってもいい加減に関っているという意味ではない。「たかが俳句、されど俳句」の両者の間合をよくわかっているということ。殊に主宰などと呼ばれる人には「されど俳句」の意識が強すぎてやたら肩に力が入ってる方がいらっしゃる。僕も気をつけなきゃ。どこかで「たかが俳句」の「謙虚」も大切なのだ。「別冊若葉の系譜・通巻一千号記念」(2012)所載。(今井 聖)


June 3062013

 富士にのみ富士の容に雲涼し

                           富安風生

士山が、世界遺産になりました。おめでとう。信仰の対象と芸術の源泉として文化的に評価されました。後者に関しては、万葉集以来、北斎、広重、太宰にいたるまで、各時代の文芸と美術のモチーフでありつづけています。信仰の対象としての富士講は、北口本宮富士浅間神社に近世から近代にかけての碑が多く残されていますが、「六根清浄」の杖をつきながら唱和する信仰登山は、今ではほとんど見られません。信仰を対象とする富士の場合は頂上を目指し、その霊験をいただきに行くという修験であり、芸術の源泉としての富士は、下界から見上げた憧憬ということでしょうか。掲句は、『自選自解』二百句の中の最後の句で、昭和四十四年、83歳の作。十数年来、夏に逗留する山中湖畔から見る富士山です。この年、ようやく『富士百句』という「体裁だけは分に過ぎた豪華本を作った」と云い、富士に関して、「数だけは人より多く詠みためたかも知れないが、あの程度でわたしはもう草臥れて敗退した感がある」と加え、掲句の自解では、「一天晴れて富士にだけ、稜線に沿って容(かたち)正しく富士をつつむ白い雲、こんなものでは駄目だ。今年ももう一踏張りとは思っている」と自嘲しています。しかし、作者が何と言おうとも、五七五の中に富士を二回出している掲句に魅かれます。なぜなら、上五「富士にのみ」には、三つの景が詠まれているからです。一つ目は、今は雲に隠れて見えない現在の富士、二つ目は、今は雲に隠れている所にいつも見えていた過去の富士、三つ目は、富士以外の麓や晴れ渡っている空の景色。そんな野暮な分析は脇に置いて、「富士にのみ富士の容に」を読むだけで、富士のかたちが立ち現れてきています。日本的伝統には、抽象的な唯一神はなかったけれど、具体的に目に見えて、拝み敬い描き語らう対象がありました。月にむら雲のように、雲につつまれた富士と遊ぶのは太宰の「富嶽百景」にもあり、掲句同様、横綱と大相撲をするちびっ子のような無邪気さがあります。日本の横綱が、世界の番付に入ったことを素直によろこびます。そういえば、北の富士、千代の富士、富士桜。富士を冠した力士はやはり魅せる相撲でした。『自選自解 富安風生句集』(1969)所収。(小笠原高志)


January 2712016

 寝返ればシーツに絡む冬銀河

                           高岡 修

なる「銀河」であれば秋の季語である。空気の澄みきった秋の銀河ならば、色鮮やかな夜空に大きく流れるイルミネーションであろうけれど、「冬銀河」となればしんしんと冴えわたって感じられる。色鮮やかさを超えた神秘的な存在感を夜空に広げて、読む者に迫ってくる。中七「シーツに絡む」という表現によって、この冬銀河はどこやらエロティックな響きを秘めることになった。寝返る人が見ている夢のなかでも、冬銀河は恐ろしくきらめきを増していて、冴えわたっている。そのくせどこかしらエロスを孕んでいるように思われる。身を包んでいるシーツも、もはや銀河そのものと化して、身に絡んでいるのではあるまいか。姿美しい句になっている。富安風生の句に「冬銀河らんらんたるを惧れけり」がある。修には“死”をテーマにした句が多いけれど、他に「死するまで谺を使う冬木立」「虹の屍(し)は石棺に容れ横たえる」などがある。『水の蝶』(2015)所収。(八木忠栄)




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