Nj句

August 2481996

 さらば夏の光よ男匙洗う

                           清水哲男

たちは氷菓を上品に「匙」でつつきながらおしゃべりに余念がない。男は黙って匙を洗う。その匙に「夏の光」が射している。こんな夏ももうおしまい。『匙洗う人』所収。(多田道太郎)


May 1451997

 女教師の眉間の傷も夏めけり

                           清水哲男

めく」は微妙な季語である。まだ春の雰囲気が残っているころ、なにげないものに夏の匂いを感じるというわけである。歳時記では「夏」。生と死のぎらぎらする夏。「女教師の眉間の傷」は短編小説に発展する素材でもある。作者は多分、その時中学生(高校生かな)。いずれにしろ微妙な年齢である。見てはならないものを見てしまったというより、それに魅せられ想像力をふくらませているとも言えるが、むしろ冷静に大人びた観察をしているように思える。その傷ははつかな汗に淡い光を帯びている。『匙洗う人』所収。(佐々木敏光)


June 2961997

 田の母よぼくはじゃがいもを煮ています

                           清水哲男

は少年に留守を任せて田に出ていった。少年は母の帰宅を待ちながら、母に命じられたじゃがいもを煮ている。時刻は家の外の青田に日ざしが溢れる昼時と思われる。たとえば句とは立場が逆の「田草とり終へてかへればうれしもよ魚を焼きて母は待ちをり」(結城哀草果)とは作品の空気の色が違う。暮らしは貧しくとも農業が信じられて、少年は少年なりに仕事を分担した時代の回想だろうか。作者は詩人、俳号赤帆。(草野比佐男)

[編者註]「日本農業新聞」(6月17日付)より転載。


February 1521998

 将来よグリコのおまけ赤い帆の

                           清水哲男

句自註など柄でもないが、六十回目の誕生日に免じてお許しいただきたい。子供の頃、なけなしの小遣いをはたいて、せっせとグリコを買っていた時期がある。告白すれば「おまけ」が欲しかっただけで、飴をなめたいわけではなかった。現代のグリコは知らないが、敗戦直後の本体はそれほど美味ではなかった。後に熱中した「紅梅キャラメル」(こちらの「おまけ」は巨人選手カード)も同様だった。「おまけ」の小箱にはさまざまなセルロイド製の玩具が入っており、取り出す瞬間のゾクゾクする気分がたまらなかった。「なあんだ」とがっかりしたり、「やったあ」と大満足したりと……。それだけのために、全財産(!)をはたいていた。そうした子供の熱中を思うにつけ、どんな子供にも「将来」があるのであり、でも「将来」にはグリコの「おまけ」ほどの保証もないことを思い合わせると、まことに切ない気分になってくる。本物の赤い帆が待ち受けている子供など、皆無に近いのだから。そんな思いから発した句なのであるが、飛躍し過ぎだろうか。……し過ぎでしょうね。なお、この句は筑摩書房『グリコのおまけ』に再録されている。掲載に当たって編集者が必死に「赤い帆」のおまけを探してくれたが、見つからなかった。したがって、句の写真には赤白模様の帆のヨットが使われている。「赤い帆」のおまけは実在しなかったのかもしれない。『匙洗う人』(1991)所収。(清水哲男)


April 0141998

 四月馬鹿傘さして魚買いに行く

                           有働 薫

イプリル・フールズ・デイ。この季題で詠むと、とかく馬鹿な行為を中心に置きがちだが、揚句はそんなこともなく、しかし、なんだかどこかでくすりと笑える。ちょいと切ない感じもある。平凡に生きることへの愛もある。この3月28日に東京は荻窪の大田黒公園(かつてのNHKラジオ番組「話の泉」でもお馴染みだった音楽評論家・大田黒元雄の豪邸跡)の茶室で開かれた「余白句会」での一句。ゲストで来てくれた岡田史乃さんがトップに推した作品だ。私は二位に選んだのだが、その後作者(詩人、俳号・みなと)と遠来の多田道太郎(俳号・道草)さんとのやりとりを聞いていたら、フランスでは「四月馬鹿」のことを「四月の魚(原語では複数)」というのだそうである。知らなかった。でも、なぜ「魚」なのだろう。物知りの八木幹夫(俳号・山羊)さんがすかさず「魚はキリストになぞらえられるから……」と推理してくれたが、正確なところはどうなのでしょうか。なお、当日の私の「馬鹿」な句は「馬鹿に陽気な薬屋にいて四月馬鹿」というものでした。お粗末。(清水哲男)


February 1521999

 雪降るとラジオが告げている酒場

                           清水哲男

に一度の自句自解。といって、解説するに足るような句ではない。読んだまま、そのまんま。なあんだ、で終わりです。新宿駅のごく近く(徒歩3分ほど)に「柚子」という酒場がある。「天麩羅」と難しい漢字で書いてある看板を見ると、物凄く高そうな店だ。正常な神経の持ち主ならば、ヤバイと敬遠するロケーションにある。が、ある夜とつぜんに、無謀にも辻征夫が(酔った勢いで)踏み込んで、めちゃくちゃに安いことを発見してきた。以来、この店は私たちの新宿での巣となった(みんな、安いなかでも高い売り物の天麩羅は食べずに、もっぱら鰯の丸干しを食べている)。その店で思いついた句だ。めちゃくちゃに安い店だけに、有線放送などという洒落れたメディアとは縁がない。開店中は、ずっとラジオをかけている。要するに、トランジスター・ラジオが出回りはじめたころの酒場と同じ雰囲気なのだ。飲んでいるうちにラジオなぞ耳に入らなくなるが、はたと音楽が止んでニュースや天気予報の時間になると、半分は職業病から、私の耳はそちらに引き寄せられる。で、句のような場面となり、別になんというわけでもないのだけれど、不意に昔の山陰の雪景色が明日にでも見られそうな気分になったという次第。『今はじめる人のための俳句歳時記・冬』(角川ミニ文庫・1997)所載(と、実は当ページの読者の方から教えていただいたのですが、本人は呑気にも未確認です)。(清水哲男)


February 1522000

 われら十二歳の夏にしあれば川鋭し

                           清水哲男

生日は自句自註の日。夏の句で申しわけないが、お許しあれ。十二歳は「じゅうに」と読んでください。山口県の寒村に暮らし、家はとても貧乏だったけれど、精神的にはこのころがいちばん充実していたような気がする。「21世紀まで生きられるかなあ」「無理だろうなあ」と、友だちと話したのも、このころだった。学校を出たての野稲先生から「自分の将来」という作文の題をもらって、銀行員になりたいと書いたのは、なればお金に不自由しないだろうという子供の浅智慧からだった。夏ともなれば、川での魚釣り。他には、することもなかった。かんかん照りのなかで釣り糸を垂らしていると、ぼおっとしてくる。そんな状況のなかでは、次第に川との共生感が生まれてくるのだった。川水はどこまでも清冽で、一分と手を漬けてはいられないほどの冷たさ。鋭いとしか言いようのない水の流れ。そんな川とともにあること(しかも、たったの十二歳で……)のプライドを詠んだつもりが、この句だ。たまにしか旅行できないが、見知らぬ土地へ行くと必ず川を見る。自然に見入ってしまう。川はいいな。いつだって、子供の心で眺められるから。『匙洗う人』(思潮社・1991)所収。(清水哲男)


February 1522001

 宿の灯や切々闇に芽吹くもの

                           清水哲男

うか「切々」は「きれぎれ」と読まずに「せつせつ」と読んでください。さて、年に一度の誕生日、したがって「増俳」も年に一度の無礼項なり(笑)。自註をくっつけるほど偉そうに振る舞える句でもないけれど、ちょっとコメント。なぜ、日本旅館にしても洋風のホテルにしても、部屋の燈火はあんなに薄暗いのだろうか。宿には夕暮れ以降に入ることが多いので、特にその印象が強い。玄関辺りの明るさにやれ嬉しやと思ったのも束の間、通された部屋の灯が薄らぼんやりしているのにはがっかりする。まともに新聞も読めやしない。仕方がないので点けられる電気はみんな点けて、ついでに見たくもないテレビまで点けてみるが、まだ暗い。こういう不満がわいてくるのは、むろん一人旅のときである。暗いから、いよいよ一人旅の侘びしさはつのってしまう。人間とは妙なもので、こういうときには、なんとなく窓を開けてみたりする。表にはボオッと水銀灯(もどき)が灯っていたりするけれど、ほとんど何も見えないことくらい、あらかじめ承知している。だけど、開けてみたくなる。開けてみて、あちこち見回したりする。なんにも見えっこないのにね。で、ここからが句のテーマ。外の様子は見えないが、四季それぞれの季節感は流れ込んでくる。春夏秋冬、窓を開ければその土地ならではの自然の「気」が風に乗ってくる。揚句では、そんな早春の「気」をつかまえたつもり。やがてはむせ返るような若葉の季節への予兆が、ここにある。そう思うと、やはり「芽吹き」は「切々」でなければなるまい。窓を閉めて薄暗い燈火の下に戻ると、ますますその感は深くなる。生命賛歌であると同時に、晩年に近いであろう自分の感傷的な切なさとを、それこそ「切々」と重ね合わせてみた次第。しょせん人生なんて「一人旅さ」の、つもりでもある。最近は、年間二百句ほど作っている。「自薦句」にしてはいやに古風なのだけれど、最新句なので、あえてお目汚しは承知の上で……。(清水哲男)


March 1832001

 野遊びやグリコのおまけのようなひと

                           小枝恵美子

語は「野遊び」。春の山野で日を浴び、青草の上で遊び楽しむこと。現代語では「ピクニック」にあたるだろう。さて「グリコのおまけのようなひと」とは、いったいどんな人なのだろうか。いろいろと想像してみた。「おまけ」なのだからメイン・ゲストではなく、いてもいなくても差し支えないような人とも解せるが、しかしこの解釈では「グリコのおまけ」の本義(!?)からは外れてしまう。多くの子供たちにとって、グリコは本体よりも「おまけ」のほうが大事だったはずだからだ。少なくとも私は、「おまけ」目当てでグリコを買っていた。本体の飴の味は、森永ミルクキャラメルや古谷のウィンター・キャラメル(これがいちばん好きだった)に比べると、明らかに格下だった。となれば、あの「おまけ」の箱を開けるときのような期待感を持たせる楽しげな人という意味だろうか。でも、開けてみると大概は「なあんだ」というのが「グリコのおまけ」なので、期待は持たせるが中身は知れているような人なのか。あるいは女の子用の「おまけ」の箱の柄は華やかだったので、花柄プリントでも着ている女性を指しているのか。本物の野の花のなかで、人工的な花柄プリントは、むしろ似合わない。結局は、よくわからなかつた。が、わからなくても気になる句はある。「野遊び」の子供の菓子にグリコがあって不自然ではないし、作者の発想もそのあたりから来ているのだろう。とにかく、なんとなく読者の機嫌をよくさせる句だ。だいぶ前に、筑摩書房が『グリコのおまけ』という酔狂な本を作ったことがある。過去の「おまけ」のカタログ集みたいな本だが、そこに拙句「将来よグリコのおまけ赤い帆の」が載っている。編集者の話では、この句に写真を添えるために「赤い帆」の舟を探すべく、グリコの倉庫を必死に探索したそうだけれど、ついに発見できなかったという。代わりに「白地に赤のストライプの帆」の舟の写真が掲載された。白状すると、私は実景を詠んだのではない。「赤い帆」くらいなら必ずあるだろうと、確かめもせずに作ってしまった(元々はこの本のために作った句ではないが)のだった。罪深いことをしました。『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)


February 1522002

 春いくたび我に不落の魔方陣

                           清水哲男

生日には、自作を載せるならわし。と言っても、自分勝手に決めたこと。お目汚しですみません。「魔方陣(まほうじん)」は、n×n個の升目に数を入れて、縦、横、斜め、どの一列のn個の数の和も一定になるようにしたもの。nが3なら三方陣、nが4なら四方陣というように呼ぶ。三方陣には、「憎し(294)と思う七五三(753)、六一八(618)は十五(15)なりけり」などの覚え歌がある。中学生の頃、このnをどんどん増やして解くのに夢中になった。n方陣では「n(n自乗+1)/2」が答えだなんてことは知らないので、憎しも憎し、ひたすら勘を頼りに解いていくのだから大変だ。それだけに、解けたときの心地よさったらなかった。そんなことをふと思い出して、二年前の誕生日を迎えるにあたって作った句。紙の上の魔方陣ならいずれ何とかなるけれど、「春いくたび」馬齢を重ねてみても、人生の魔方陣ってやつはどうにもならないなあ……と。自嘲気味。「不落」は難攻不落のそれのつもりだ。物心がついたときには、空爆が日常という世代である。死なないで、今日誕生日を迎えられたのは偶然だ。私という存在は、神様が気まぐれに解く魔方陣の片隅に入れていただいた一つの数字のようなものかもしれない。「64」。(清水哲男)


February 1522003

 汗くさき青年歌集明日ありや

                           清水哲男

青年歌集
年に一度の自句自戒(!?)の日。いったい、あのただならぬ熱気は何だったのか。私がもぞもぞと学生運動に関わった1950年代後半ころの「歌声運動」のフィーバーぶりは……。いまでも鮮かに思い出すのは、一回生の初夏に、奈良での闘争を支援すべく、京都府学連が大挙して電車で向かったときのことだ。一般乗客は我々を避けて、他の車両に移動したのだったろう。貸し切り状態の車内で、私たちは歌いっぱなしであった。各国の革命歌をはじめ、「原爆許すまじ」「国際学連の歌」などの反戦歌やロシア民謡はわかるとして、不思議なことに日本民謡やシャンソンなども。がり版刷りの歌詞も用意されていたが、気のきいた奴は『青年歌集』を携帯していた。表紙に名前の見える関鑑子は、いまの東京芸大を出て、戦前には日本プロレタリア音楽家同盟で活躍した人。戦後はじめて開催されたメーデーの中央壇上で歌唱指導をし、「三十万人の群衆に対しては、どんな優れた音楽家でも一人よりは百人の合唱隊の方が必要だ」と述べている。表紙は、普通の農家の人々が楽しそうに歌っている写真だ。これは今で言うヤラセの図だとは思うけれど、当時の雰囲気としては、ありえない光景だなどとは言えないほどに、歌声運動は浸透していたのだ。告白しておけば、私は歌声運動が好きじゃなかった。デモの先導車でマイクを通して歌ったこともあるけれど、みんなで声を合わせるのが性に合わないのだった。「革命」運動に歌なんていらない……という気持ちもあった。それでも必要なので、何冊かの『青年歌集』は持っていた。京都を離れるときに、歌声喫茶の歌集とともに、みんな捨ててしまった。それにしても、あの頃の歌へのすさまじい熱気は、何だったのだろうか。『匙洗う人』(1991)所収。(清水哲男)


April 0742003

 寂しきは鉄腕アトム我指すとき

                           清水哲男

アトム
うとう「鉄腕アトム」の誕生日が来てしまった。半世紀前に雑誌「少年」でアトムの未来の誕生日に立ちあったときには、とんでもない先の話だと思っていた。まず生きてはいられないと思ったのに、今日、こうしてその日を迎えている。とりあえず、めでたいことには違いない。アトムが誌面に誕生したときには、漫画は悪だった。教育の害になるというのが、世間の常識だった。だから、私(たち)はいわば隠れて熱中した。むろん、作者には憧れた。それが、どうだろう、今の変わりようは。マスコミはもてはやし、企業は一儲けを企み、みんながアトムにすり寄っている。なにしろ「正義の味方」なんだから、どのようにすり寄ろうとも、どこからも文句は出ないもんね。でも、初期のいくつかの作品を除いて、私はアトムが好きじゃない。手塚治虫の私的なアトムは、いつしか作者にもどうにもならない公的な存在に変わっていったからだ。それに連れて、アトムの正義も極めて薄っぺらな公的正義に陥ってしまっている。この公的正義ゆえに、現今のマスコミや企業も乗りやすいのだ。むろん手塚も気づいていて、ヤケ気味に書いたことがある。「ぼくはアトムをぼく自身最大の駄作の一つとみているし、あれは名声欲と、金儲けの為に書いているのだ」(「話の特集」1966年8月号)。当時の本音であり、深く寂しい苛立ちだ。その寂しさが、どんどん格好良くなっていくアトムの外見に具現されているというのが、私の見方である。TVアニメのアトムは、しばしば格好よく指をさす。何かの行動を決断したときだ。その決断の根拠は、しかし公的な正義にもとづくもので、アトムの(いや手塚の)心からのものではない。だから、指さす表情はとても悲しげであり、寂しく写る。「週刊現代」の取材で、一度だけお会いしたことがある。憧れの漫画家はまことに多忙で、インタビューは事務所から車の中、車の中から喫茶店へと移動しながらだつた。喫茶店で話していると、何人かの女子高生がサインをねだりに割り込んできた。話を中断した漫画家は、彼女らの紙切れやノートに実にていねいに署名し、一人が通学用のズックのカバンを差し出すと「ホントにいいの」と言ってから、マジックインキで五分くらいもかけて「リボンの騎士」を描き上げたのだった。私も便乗しようかと思ったのだが、止めにした。あまりにも、彼は疲れているように見えた。『匙洗う人』(1991)所収。(清水哲男)

[ おまけ ]現在、JR高田馬場駅で流れている発車ベルにはアトムの主題曲が使われています。お聞き下さい。22秒、動画はありません。要QuickTime。


February 1522004

 弁当を分けぬ友情雲に鳥

                           清水哲男

こかに書いたことだが、もう一度書いておきたい。三十代の半ばころ、久しぶりに田舎の小学校の同窓会に出席した。にぎやかに飲んでいるうちに、隣りの男が低い声でぼそっと言った。「君の弁当ね……」と、ちょっと口ごもってから「見たんだよ、俺。イモが一つ、ごろんと入ってた」。はっとして、そいつの横顔をまじまじと見てしまった。彼は私から目をそらしたままで、つづけた。「あのときね、俺のをよっぽど分けてやろうかと思ったけど、でも、やめたんだ。そんなことしたら、君がどんな気持ちになるかと思ってね。……つまんないこと言って、ごめんな」。食料難の時代だった。私も含めて、農家の子供でも満足に弁当を持たせてもらえない子が、クラスに何人かいた。イモがごろんみたいな弁当は、私一人じゃなかったはずだ。当時の子供はみな弁当箱の蓋を立て、覆いかぶさるよにして、周囲から中身が見えないように食べたものである。粗末な弁当の子はそれを恥じ、そうでない子は逆に自分だけが良いものを食べることを恥じたのである。だから、弁当の時間はちっとも楽しくなく、むしろ重苦しかった。食欲が無いとか腹痛だとかと言って、さっさと校庭に出てしまう子もいた。私も、ときどきそうした。粗末な弁当どころか、食べるものを何も持ってこられなかったからだ。何人かで校庭に出て、お互いに弁当の無いことを知りながら、知らん顔をして鉄棒にぶら下がったりしていたっけ。そんなときに、北に帰る渡り鳥が雲に入っていった様子が見えていたのかもしれないが、実は知らない。でも、私の弁当のことを気遣ってくれた彼の友情を知ったときに、ふっと見えていたような気になったのである。『打つや太鼓』(2003)所収。(清水哲男)


February 1522005

 生き死にや湯ざめのような酔い心地

                           清水哲男

生日ゆえ自作を。季語は「湯ざめ」で冬。誕生日が来ると、子供のころからあと何年くらい生きられるかなと思ってきた。平均寿命など知らなかった小学生のころには、人生およそ六十年を目安にして勘定したものだった。周囲の人たちの寿命が尽きるのは、だいたいそんな年齢だったからである。それが、いつしか昔の目安の六十歳を越えてしまった。この間に平均寿命の知識も得たが、これはその年に零歳の赤ん坊があと何年生きるかの目安なのであって、大人の余命とは直接には関係がない。今では男女ともに八十歳を越えたとはいっても、私の年代の平均余命をそこまで保証しているわけではないのだ。で、目安を失った六十歳以降からは、なんとなく「あと十年くらいかな」と勘定している。昨年も一昨年も、そして今年も「あと十年」と思うのは、数字的に減っていないので妙な話なのだけれど、まだ生命に未練たらたらな証拠のようなものだろう。常識では、これを希望的観測と言う。ただ、このところ毎年のように同世代の友人知己の死に見舞われていることからして、他方ではもういつ死んでもおかしくはない年齢に達したことを否応なく自覚させられてもいる。だから、掲句のように内向的になることもしばしばだ。でも、とにもかくにも今日で六十七歳になった。せめて今宵は楽天的に「あと十年は」と決めつけて、心地よい酔いのなかで眠りたい。(清水哲男)


November 16112005

 水風呂に戸尻の風や冬の月

                           十 丈

語は「冬の月」。この寒いのに「水風呂」に入るとは、なんと剛胆な人かと驚いたが、いわゆる「みずぶろ」ではなかった。柴田宵曲の解説を聞こう。「水風呂というのはもと蒸風呂に対した言葉だ、という説を聞いたことがある。橋本経亮などは、塩浴場に対する水浴場ということから起こったので、居風呂(すえふろ)という名は誤だろうといっている。いずれにしても現在われわれの入るのは水風呂のわけである。この句もスイフロで、ミズブロではない」。そうだろうなあ、いくらなんでもねえ。だとしても、寒そうな入浴だ。たてつけが悪いのか、風呂場の「戸尻(とじり)」が細く透けている。そこから冷たい冬の風が吹き込んできて、煌煌と照る月も見えている。冬の月は秋のそれよりも美しいとはいうけれど、この場合に風流心などは湧いてこないだろう。寒い思いが、いや増すだけである。昔の冬の入浴は、楽ではなかったということだ。と言いつつも、実は私の心には、この程度ではまだ極楽だなという思いはある。というのも、田舎にいたころの我が家の風呂には、戸尻の隙間どころか、屋根も壁もなかったからだ。まさに、野天風呂であった。夏など気温の高い季節ならともかく、冬には往生した。雪の降るなか、傘をさして入ったこともある。寒風に吹きさらされての入浴などはしょっちゅうで、あれでよく風邪をひかなかったものだと、我がことながら感心してしまう。「あおぎ見る星の高さや野天風呂」。当時の拙句であるが、まったく切迫感がない。温泉にでもつかっている爺さんの句のようで、いやお恥ずかしい。柴田宵曲『古句を観る』(1984・岩波文庫)所載。(清水哲男)


February 1522006

 馬鹿に陽気な薬屋にいて四月馬鹿

                           清水哲男

生日特権(笑)で、ご迷惑は承知の助で拙句をお読みいただく。新しい句にしたかったのだけれど、何も浮かんでこない。「68歳かあ……」と、何度も陰気につぶやくばかり。仕方がないので、時期外れながら掲句を。八年前の余白句会(1998年3月)に持っていった句だ。自注をつけるほどの句じゃないし、幸い騒々子(井川博年)のレポートがあるので、あわせて読んでください。「巷児の天。騒々子の人。マツモトキヨシのような今風な薬屋でとまどっている男。バカとバカが重なってさらに馬鹿。新しい、面白い。巷児師が天に入れた訳です。バカは東京人の口癖だ、と京都人の道草がぽつり。この句よりも点の入った『砂を吐く浅蜊のごとく猫ねむる』は貨物船、裏通、青蛙の地。うるさ方が点入れている。選後、作者の、猫ってぐしゃっとした感じで眠ってるじゃない、との説明あり。猫に詳しい訳はあとでわかる。/赤帆・清水哲男、2月に地元の吉祥寺に新しく生まれた出版社・出窓社より詩の本『詩に踏まれた猫』を出す。帯にある「ネコとマゴの詩にロクなものはない」には笑ってしまった。巻末の「猫と現代」という猫好き女性との座談会が傑作。この本で4月12日の「朝日新聞」の読書欄「著者に会いたい」コーナーに登場。それにしても、顔写真の下にある 〔清水哲男さん(60)〕とは! 清水哲男、還暦なり」。ああ、八年前は還暦だったのか、それにまだ貨物船(辻征夫)が元気にしゃべってたんだ。などと思うと、八年前でももはや茫々の感がある。トシを取るのが嫌になってくる。時間よ、止まれ。『打つや太鼓』(2003)所収。(清水哲男)


February 1522007

 薄氷をひらりと飛んで不登校

                           清水哲男

水さん、お誕生日おめでとうございます。一年に一度、清水さんの自句自解を毎年とても楽しみにしていたのですが、残念ながら今日は木曜日(笑)。後日の自句自解を期待して私の好きな清水さんの句を採り上げさせていただきます。薄氷(うすらい)は寒気のもどりに薄々と張る氷。「はくひょう」と読めば、極めて危険な状況にのぞむ「薄氷をふむ」へと繋がってゆきます。季語の「うすらい」とともに、その意も踏まえられているのでしょうね。学校へ行ってもクラスになじめない。いじめやからかいも怖い。そんな重苦しい思いを抱えたまま登校して自分を追い込むより、ひらりと身をかわして好きな場所を見つけなよ。と掲句は「不登校のススメ」のように思えます。清水さんは学校がきらいだったようで「十数年前、娘の学校のPTA役員をおおせつかったときも、会合のための教室へ入ったとたん吐き気をもよおしたほどだ」(『現代詩つれづれ草』より引用)と、書き留めていらっしゃいます。そういえば、公立学校は黒板の位置。天井の蛍光灯の明るさ、教卓の高さにいたるまで文部省の通達で決められているらしいですね。そんなに学校が嫌だったのに一日も休まなかったとか。負けん気の強い清水さんのこと。嫌いだからこそ意地でも通い続けたのかもしれませんね。去年から学校をめぐる暗いニュースが続いています。学校が世知辛い場所になればなるほど、清水さんのこの句が優しい呼びかけのように思えます。『打つや太鼓』(2003)所収。(三宅やよい)


January 1412009

 サラリーマン寒いね東スポ大切に

                           清水哲男

年からの世界的な不景気のことを、新年早々からくり返したくもない。けれどもサラリーマンに限らず、自営、新卒の人たちも含めて、このところのニッポンの寒さは一段と厳しい。何年も前に作られた哲男の句がピッタリするような世の中に相成りました。もっとも景気の良し悪しにかかわらず、通勤するサラリーマンがスポーツ紙に見入っている図は、どこかしら寒々として見える。私もサラリーマン時代には、電車のなかや昼休みの喫茶店でよく「東スポ」や「スポニチ」を広げて読んでいた。売らんかなのオーバーでバカでかい見出し文字や大胆な報道が、サラリーマンの鬱屈をしばし晴らしてくれる効果があった。掲出句の場合、いきなり「サラリーマン」ときて「寒いね」の受けがピシリと決まっている。せつなくもやさしく同病(?)相憐れんでいるのかもしれない。この場合、冬の「寒さ」ばかりではあるまい。かつて「♪サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・・・」とも歌われたけれど、私の経験から言えば気楽な反面、憐れな稼業でもあることは骨身にしみている。おそらく若いサラリーマンであろう。広げている新聞が日経でも朝日でもなく、東スポであるところが哀しくもうれしいではないか。若いうちから日経新聞(恨みはございませんが)に真剣に見入っているようでは、なんとも・・・・。下五の「大切に」に作者の毒を含んだやさしい心がこめられている。憐れというよりもユーモラスで暖かい響きが残された。『打つや太鼓』(2003)所収。(八木忠栄)


February 1522009

 春の宵レジに文庫の伏せてあり

                           清水哲男

日は清水さんの誕生日ということで、清水さんの句です。思い出せば昨年の今頃には、清水さんの古希をお祝いして後楽園でボウリング大会をしたのでした。幸いにもわたしは3位に入賞し、記念のメダルをいただきました。今もそのメダルは、大切に会社の引き出しにしまってあります。ところで、この句のポイントは、「春の宵」の一語と、そのあとに描かれている内容との、ちょっとした食い違いにあるのではないのでしょうか。というのも、「春の宵」といえば、思いつくのはロマンチックな思いであったり、センチメンタルな感情であったりするわけです。ところが、そんな当たり前な感じ方を、清水さんの感性は許すはずもなく、そこはそこ、読者を驚かすようなものを、きちんと差し出してくれるのです。その食い違いや驚かすものは、これ見よがしではなくて、あくまでも物静かで、自然な形でわたしたちに与えられるのです。それでいて、ああそうだな、そんなこともあるなという、合点(がてん)のゆく食い違いなのです。レジの上に、不安定な格好で伏せられた文庫本が、まざまざと目に見えるようです。その文庫本を手にする人の思いの揺れさえ、じかに感じられてくるから不思議です。なんとうまくこの世は、表現されてしまったものかと、思うわけです。『打つや太鼓』(2003)所収。(松下育男)


October 19102009

 草の実のはじけ還らぬ人多し

                           酒井弘司

書きに「神代植物公園」とある。四句のうちの一句。我が家からバスで十五分ほどのところなので、よく出かけて行く。年間パスというものも持っている。秋のこの公園といえば、薔薇で有名だ。広場に絢爛と咲き誇るさまは、とにかく壮観である。しかし、作者は四句ともに薔薇を詠み込んではいない。目がいかなかったはずはないのだけれど、それよりも名もない雑草の実などに惹かれている。作者は私と同年齢だから、この気持ちはよくわかるような気がする。華麗な薔薇よりも草の実。それらがはじけている様子を見るにつけ、人間もしょせんは草の実と同じような存在と感じられてきて、これらの草の実とおなじように土に還っていった友人知己のことが思い出される。そんな人々の数も、もうこの年齢にまでなると決して少なくはない。そこで作者は彼らを懐かしむというよりも、むしろ彼らと同じように自身の還らぬときの来ることに心が動いているようだ。自分もまた、いずれは「多し」のひとりになるのである。この句を読んだときに、私は半世紀も前に「草の実」を詠んでいることを思い出した。「ポケットにナイフ草の実はぜつづく」。この私も、なんと若かったことか。掲句との時間差による心の移ろいを、いやでも思い知らされることになったのだった。『谷風』(2009)所収。(清水哲男)


February 1522010

 さわやかに我なきあとの歩道かな

                           清水哲男

節外れの句で失礼。「さわやか(爽やか)」は秋の季語。今と違ってこのページをひとりでやっていたときに、毎年の誕生日には、自分の句のことを書いていた。自句自解なんて、大それた気持ちからではない。言うならば、自己紹介みたいな位置づけだった。今年はたまたま今日に当番が回ってきたので、同じ気持ちで……。自分の死後のことを漠然と思うことが、たまにある。べつに突き詰めた思いではないのだけれど、死は自分が物質に帰ることなのだから、実にあっけらかんとした現象だ。そこに残る当人の感情なんてあるわけはないし、すべては無と化してしまう。その無化を「さわやか」と詠んだつもりなのだが、こう詠むことは、どこかにまだ無化する自分に抗いたいという未練も含まれているようで、句そのものにはまだ覚悟の定まらない自分が明滅しているようである。この句を同人詩誌「小酒館」に載せたとき、辻征夫が「辞世の句ができたじゃん」と言った。ならば「オレは秋に死ぬ運命だな」と応えたのだったが、その辻が先に逝ってもう十年を越す歳月が流れてしまった。この初夏、余白の仲間を中心に、辻の愛した町・浅草で偲ぶ会がもたれることになっている。『打つや太鼓』(書肆山田・2003)所収。(清水哲男)


September 0792011

 片なびくビールの泡や秋の風

                           会津八一

夏に飲むビールのうまさ・ありがたさは言うまでもない。また冬に、暖房が効いた部屋で飲む冷たいビールもうれしい。いつの間にか秋風が生まれて、ちょっと涼しくなった時季に飲むビールの味わいも捨てがたい。(もっとも呑んベえにとって、ビールは四季を通じて常にありがたいわけだが)屋外で飲もうとしているジョッキの表面を満たした泡が、秋風の加減で片方へそれとなく吹き寄せられているというのが、掲句の風情である。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども…」と古歌には詠まれているが、この歌人はビールの泡のかすかななびき方を目にして、敏感に秋を感じているのである。ビールの泡の動きと白さが、おいしい秋の到来を告げている。八一は十八歳で俳句結社に所属して句作を始め、その後「ホトトギス」「日本」などを愛読して投句し、数年ほどつづけた。一茶の研究をしたり、俳論をたくさん書いたが、奈良へ旅してのち次第に和歌のほうに傾斜して行った。他に「川ふたつわたれば伊勢の秋の風」がある。ビール党の清水哲男には「ビールも俺も電球の影生きている」の句がある。「新潟日報」2011年8月22日所載。(八木忠栄)


March 1332013

 鍋釜を逆さに干せば春景色

                           清水哲男

ろんな「春景色」がある。目の付け方にもいろいろある。寒さからようやく解放されて、さまざまなものが活性化しはじめる春。そんなに激しくはなく、むしろやわらかな活性化と言ったほうがふさわしい。掲句に接して、すっかり忘れていた昔のある光景を思い出した。ーー春の昼下がり、食事が済んだあとの鍋釜を母が家の裏を流れている小川で洗って、お天気がいいから川べりの大きな石か何かの上に、逆さにして干しておくことがあった。そんな様子を目にして、いかにも春だなあと子ども心にもウキウキしていたものである。鍋釜でも食器でも、洗ったものは伏せて乾かす。農村暮らしも経験している哲男が詠んだのは、おそらくそれに近い景色だったかもしれない。庶民のつつましい生活が、天日に無造作に干してある鍋釜からも感じとることができる。その光景は庶民のしばしの平穏を語っているようでもある。掲句について、金子兜太は「軽い微笑みを誘い、春の麗らかな景色を引立てています。諧謔の持ち込み方がうまいですね」と評価している。哲男の鍋の句に「鍋底に豚肉淡く春の雨」がある。いずれも余計な力がこめられていないところに注目。『兜太の俳句塾』(2011)所載。(八木忠栄)


July 1672016

 夜の青葉声無く我ら生き急ぐ

                           清水哲男

事の都合等で伺えなくなりずっとご無沙汰となってしまっている余白句会だが、句会記録だけは拝読している。今回久しぶりに過去の記録を読み返した中にあった掲出句、2013.6.15、第107回の余白句会で筆者が「天」とさせていただいた一句である。「青」が題だったので他にも青葉の句はあったのだが一読して、くっとつかまれるような感じがしたのを思い出す。今を盛りの青葉も思えばあとは枯れゆくのみなのだが、移ろう季節の中で長い年月を繰り返し生きる木々と違い、人は短い一生を駆け抜けて終わる。闇の中に満ちている青葉の生気を感じながら、作者の中にふと浮かんだ見知らぬ闇のようなものが、三年前よりずっと身近に思えてくる。(今井肖子)


July 2472016

 夕立を写生している子供かな

                           清水哲男

情があります。子供は、夕立を選んで写生しているのか。それとも、写生をしていたら天気が急変したのか。いずれにしても、子供は夕立を写生し続けています。この時、降る雨つぶはどのように描かれているのでしょう。その目の先には、いつもと違う街の質感があります。雨つぶに打たれている舗道の影はゆらいでいて、樹は濡れて黒く、雨に洗われた葉は鮮明です。いつもの街が、初めての街に見えてくる。絵筆を握っていた手は、いつしか情景を前にして止まっています。同じ色はなく、同じ形はなく、同じくり返しはない。夕立は、子供を急速に成長させている。もしかしたら、これは、うつろいつづける自然と事象を肉眼で受けとめてきた清水さんの自画像なのかもしれません。『打つや太鼓』(2003)所収。(小笠原高志)


July 3172016

 雲湧いて夏を引っ張る左腕なり

                           清水哲男

緑色の球場の向こうには、入道雲が湧いている。真夏の甲子園。エースの左腕は、予選から数えれば10試合以上、投球数は1000球を超えて夏のチームを引っ張ってきた。そればかりではない。地元からは、何十台ものバスを連ねた応援団を呼び寄せ、高校野球ファンたちを球場に誘い込み、全国津々浦々の食堂・床屋・お茶の間のTVの前に人々を釘付けにし、スポーツ紙の売り上げを伸ばしている。酒場では男たちが、金田正一・鈴木啓示・江夏豊・工藤公康といった往年の左腕を語り、「山本昌は甲子園に出られへんかったから肩を消耗せずに50歳まで投げられたんや」とか、「それに引きかえ近藤真一は甲子園で投げ過ぎて入団の時には肘の反りがなかったんやで」とか、「それ 考えると工藤はええ野球人生やな」など、野球になると口数が多くなる男たちの夏の話題も引っ張る左腕。今年の甲子園では、そんな左腕が現れるだろうか。ところで、野球は左利きに有利なスポーツだ。バッターなら、右利きより一歩分一塁ベースに近い。イチローが右打者だったら、大リーグ3000本安打は無理だっただろう。足で稼いだ安打が多いですから。では、投手はどうだろうか。詳しいところはわからない。右も左も投球の質そのものに違いはないだろう。ただし、打撃有利な左打者に対する左腕は、球の出所が見えにくいのは周知の通り。そう考えると、左腕はやはり有利であるようだ。そんなことよりも、事はもっと単純で、左腕はかっこいいのである。私が少年野球をやっていた時、チームは全員右利きだった。左腕は、TVでしか見られない憧れだったのだ。さて、もう一度、掲句を読んでみて下さい。この五七五は、「振りかぶって、第一球を、投げました」のリズムに重なります。『打つや太鼓』(2003)所収。(小笠原高志)


August 0282016

 香水に思い出す人なくもなし

                           清水哲男

俳満了まであと6日。今日が最後の火曜日です。読者であった10年と、書き手となった10年の思い出が錯綜します。パソコンにはショートカットキーなるものがあります。ことによく使われているのがundo(アンドゥ)と呼ばれる復活のコマンドです。左隅のCtrlキー(macだとコマンドキー)を押しながらZを押すと、ひとつ前の動作に戻ります。これを覚えておくと、うっかり消してしまった画面や、誤った選択をしたとき元に戻ることができるのです。人生にはたびたびこの復活のコマンドが使えたらどんなによいかと思う瞬間が訪れます。掲句で思い出される人とは、遠い過去の知り合いでしょう。香りの記憶はさまざまな思い出を引き連れて、やや強引に迫ってきます。下5の言い回しは作者特有の恥じらいと、すべて思い出すことへのためらいを感じさせます。作者はふっと横切る香りのなかで、復活のコマンドを使うことなく、おそらく固有名詞さえ思い出すことを封じて「なくもなし」と完結します。清水さんの俳句作品には〈四股踏んで雀の学校二学期へ〉〈だるまさんがころんだ春もやってきた〉のような相好が崩れる愛らしいものと、掲句や〈釣忍指輪はずして女住む〉〈糸の月人に生まれて糸切り歯〉のような臈長けた色香が混在することも特徴です。ときに甘やかに、ときにクールに、絶妙な匙加減で読者を楽しませてくれるのです。『打つや太鼓』(2003)所収。(土肥あき子)


August 0382016

 凡句よし駄句よし宇治に赤とんぼ

                           清水哲男

りずに相変わらず凡句・駄句を生産している者にとって、心強い句である。句会で高得点を目指して、五・七・五の指を折っている初心者に向けて、哲男は慰めの言葉をかけているわけでは必ずしもない。ここで言われている凡句・駄句というのは、箸にも棒にもかからないような句のことを言っているわけではなかろう。それらを「よし」として、だからと言って、うまい句をいたずらに期待しているわけでもあるまい。「良い句」を作ろうとして、そんなにムキになるなよ、ムキになったところで「良い句」ができるわけではない、という哲男の精神が言っていると理解したい。当方の本欄担当は今朝で最終回だが、これまでずっと取りあげてきた「文人俳句」は、シャカリキになっていわゆる名句を毎回物色していたわけではない。名句は夥しい数の俳人諸兄姉にまかせておけばよろしい、と考えてきたつもりである。句会でも同じことが言えよう。掲出句には哲男らしい俳句観が裏打ちされている。「宇治」といえば、哲男は学生時代に宇治に下宿していたことがあった。学生時代には俳句を作っていた、それが凡句・駄句であってもかまわない、という意味合いも含めているのであろう。当時の宇治では、赤とんぼがたくさん見られたにちがいない。秋には少し早い時季だが、今朝はあえて掲出句を選んだ。哲男が宇治を詠んだ句に「宇治や昔オルグ哀しも新茶汲む」がある。『打つや太鼓』(2003)所収。(八木忠栄)


August 0582016

 田の母よぼくはじゃがいもを煮ています

                           清水哲男

母が農作業している。家族の生活を一身に引き受けている様を子が見ている。何か手助けをしたいのだが子に出来る事はそんなに多くない。母に言われたじゃがいもを煮る事が精一杯である。母さんぼくは一生懸命心を込めて煮ていますよ。男性には母を思慕する傾向があると聴く。父親が外で奮闘努力しても子の目に留まることが少ないのかも知れぬ。子が真近かで見る母の姿は究極の優しさに満ち、子は命ごと委ねて頼ってゆく。私世代の多くは戦禍を掻い潜って生き延びてきた。皆貧しかった。命の支えとなった母はそれこそ慈母観音の如きと思慕されるのであった。ゲーテが人生の最後に「もっと光を」と言ったとか。もしそんな時に小生だったら何と言うか、多分「お母さん」だろうな。『家族の俳句』(2003)所収。(藤嶋 務)


August 0782016

 さようなら秋雲浮かべ麹町

                           清水哲男

日、立秋です。秋の始まるこの日、日曜の増俳もさようならとなりました。長い間、拙文をお読み頂き、ありがとうございました。さて、先週日曜の午後、清水さんにお電話しました。「この句は、麹町にあるFM東京のパーソナリティーをお辞めになった時の句ですか」「そうそう」「何年の何月ですか」「忘れたなあ」「1980年の半ばくらいまででしたよね」「うん」「何年続けられたんですか」「12年半」「朝の9時頃までの放送だったと思いますが、スタートは何時からでしたか」「7時から9時まで」「その頃は相当な早起きですよね」「4時に起きていた」「始発で出勤ですか」「家の近くはバスも通っていないんで、タクシーと契約してたんだ」「その頃は就寝も早かったでしょうね」「うん。9時とかね」「私は、坂本冬美さんがゲストだった放送のことをよく覚えているんですが」「坂本冬美は、アマチュアのコンクールに出ていた時から注目してたんだ。それに優勝して、まだ、新人の頃だね」「他に印象に残っているゲストはいますか」「うーん、、、マスゾエさんかなぁ。新進気鋭の国際政治学者で切れ味がよかったね」「あの時代としてはかなり右寄りの発言を堂々と喋っていましたね」「そうそう。政治のコメンテーターとして、番組のレギュラーだったんだ」「ところで、ラジオのパーソナリティーになられたきっかけは何だったんですか」「ラジオに原稿を書いていたんだけど、ディレクターから、書くより喋る方が手っ取り早いからやってみないかって言われてね」「では、この句に解説を加えるとすればいかがでしょう」「そのまま。自分のために作った句だよ」「もう一句教えて下さい。私の好きな句に〈ラーメンに星降る夜の高円寺〉があって、何人かでこの句を話題にした時、この句は秋か冬の句だろうねということに落ち着いたのですが、句集の配列では〈さらば夏の光よ男匙洗う〉の次にあるので、夏の句かなとも思うんですがいかがですか」「忘れた」「無季ということでいいですか」「うん。」「それでは最後に、今年の阪神タイガースについてどう思われますか」「過渡期だね。いろいろ動かしているんじゃないかな」「たしかに全球団の中で一番選手の入れ替えが激しいですよね」「金本がフロントから言われてるんじゃないの?」「昔のストーブリーグのフロントとは大違いですね」「フロントも若くなったんじゃないの?何年後かを見据えた長期の展望を持つようになったんじゃないかな」。学生時代、ラジオから聞いていた声を受話器で聞けたしあわせな通話でした。以下、恐縮ですが私事のお知らせをお許しください。10月15日(土)から11月18日(金)まで、ユジク阿佐ヶ谷という小さな映画館で、『映像歳時記 鳥居をくぐり抜けて風』(池田将監督)を公開します。私の企画・脚本・プロデュースです。増俳を執筆しているうちに、観る歳時記を作りたくなり、三年かけて完成しました。イギリス生まれの少女が、熊野に住んでいる祖父と神社を旅する映画で、南方熊楠が、鎮守の杜の中で見つけた粘菌類のはたらきについて考えています。映画を観た後に、俳句を投句してもらおうと思っています。それらをHPに掲載させていただきます。また、映画館内吟行句会も計画しています。映画を観て、俳句を作る。ユジク阿佐ヶ谷の館長には、30年間上映させてほしいとお願いしましたが、とりあえずひと月という事になっています。みなさんが、銭湯に通うようにこの映画にひたっていただければ、長期上映となり、ユジク阿佐ヶ谷を俳句仲間のサロンにすることも可能になります。これに関しては、館長さんの了承を得ていますので、どうかみなさん、お越しください。詳しくは、『映像歳時記 鳥居をくぐり抜けて風』をご覧下さい。最後に、俳句を読み、文章を書く機会を与えてくださった清水哲男さんに感謝申し上げます。さようなら。『匙洗う人』(1991)所収。(小笠原高志)


August 0882016

 被爆後の広島駅の闇に降りる

                           清水哲男

「増殖する俳句歳時記」は当初の予定通りに、20年が経過したので、本日をもって終了します。最後を飾るという意味では、明るくない自句で申し訳ないような気分でもありますが、他方ではこの20年の自分の心境はこんなところに落ち着くのかなと、納得はしています。戦後半年を経た夜の広島駅を列車で通ったときの記憶では、なんという深い闇のありようだろうと、いまでも思い出すたびに一種の戦慄を覚えることがあります。あの深い闇の中を歩いてきたのだと、民主主義の子供世代にあたる我が身を振り返り、歴史に翻弄される人間という存在に思いを深くしてきた人生だったような気もしております。みなさまの長い間のご愛読に感謝するとともに、この間ページを支えつづけてくれた友人諸兄姉の厚い友情にお礼を申し上げます。ありがとうございました。(清水哲男)




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