X@T句

August 2581996

 初秋の伊那の谷間のまんじゅう屋

                           森 慎一

那には行ったことがない。ただ子供の頃から、流行歌の「勘太郎月夜唄」で「伊那は七谷……」と、谷間の地であることは知っている。そんなことはどうでもよろしいが、読んだ途端に、このまんじゅう屋の饅頭を食べたくなった。饅頭なんて、ここ二、三年も食べた記憶はないけれど、この店の饅頭だけは食べてみたい。そんな気がしてきませんか。もっとも、作者はなにせ坪内稔典ひきいる「船団」のクルーなので、この店が現実には存在しないことも、十二分に考えられますが。だとしても、おいしそうな句であることに変わりはないでしょう。『風のしっぽ』所収。(清水哲男)


May 3051997

 花石榴生きるヒントの二つ三つ

                           森 慎一

とこころが瞬間にぶつかって句が成る。よくあることなのだろうか。人事句でありながら、花石榴(はなざくろ)の実が一樹にぽつりぽつりとあるのを、永年見つづけてきた人の句。花はたくさん咲くが、実は少ない。やはり、二つ三つ。『風のしっぽ』所収。(八木幹夫)


August 2882000

 秋日傘風と腕くむ女あり

                           森 慎一

ずやかな白い風を感じる。まだ残暑は厳しいが、まるで風と腕を組むように軽やかに歩いている日傘の女。その軽快な足取りが、もうそこまで来ている秋を告げている。「風と腕くむ」とは、卓抜な発見だ。これが雨傘だと、身をすぼめるようにして歩くので、「風」とも誰とも「腕くむ」わけにはまいらない。「日傘」でなければならない。句を読んで、妙なことに気がついた。いつのころからか、実際に腕を組んで歩くカップルの姿を、あまり見かけなくなった。手を握りあっている男女は多いけれど、なぜなのだろう。昔の銀座通りなどには、これ見よがしに腕を組んで歩くアベックなど、いくらでもいたというのに……。基地の街・立川や福生では、米兵と腕くむ女たちが「くむ」というよりも「ぶら下がっている」ように見えたっけ。そこで、屁理屈。「腕をくむ」行為は、お互いに支え合う気持ちがあり、建設的な連帯感がある。未来性を含んでいる。比べて、手を握りあう行為には、未来性が感じられない。「ただいま現在」が大切なのであって、時間的にも空間的にも、視野の狭い関係のように写る。どっちだろうと、知ったこっちゃない(笑)。が、恋人たちの生態にも、やはり時代の影というものは落ちてくる。いまは、刹那が大切なのだ。男から三歩下がって、女が歩いた時代もあった。いまでは、腕をくむ相手も「風」とだけになっちまったということか。立てよ、秋風。白い風。『風のしっぽ』(1996)所収。(清水哲男)


October 29102002

 月明の毘沙門坂を猪いそぐ

                           森 慎一

句碑
名的には正式な呼称ではないようだが、「毘沙門坂(びしゃもんざか)」は愛媛県松山市にある。松山城の鬼門にあたる東北の方角に、鎮めのために毘沙門天を祀ったことから、この名がついた。さて、掲句はおそらく子規の「牛行くや毘沙門坂の秋の暮」を受けたものだろう。写真(愛媛大学図書館のHPより借用)のように、現地には句碑が建っている。百年前の秋の日暮れ時に牛が行ったのであれば、月夜の晩には何が行ったのだろうか。そう空想して、作者は「猪(い・いのしし)」を歩かせてみた。子規の牛は暢気にゆっくり歩いているが、この句の猪はやけに早足だ。「い・いそぐ」の「い」の畳み掛けが、猪突猛進ほどではないが、そのスピードをおのずと物語っている。何を急いでいるのかは知らねども、誰もいない深夜の「月明」の坂をひた急ぐ猪の姿は、なるほど絵になる。さらに伊予松山には、狸伝説がこれでもかと言うくらいに多いことを知る人ならば、この猪サマのお通りを、狸たちが息を殺して暗い所からうかがっている様子も浮かんでくるだろう。月夜の晩は狸の専有時間みたいなものだけれど、猪がやって来たとなれば、一時撤退も止むを得ないところだ。いたずら好きの狸も、猪は生真面目すぎるので、苦手なのである。そんなことをいろいろと想像させられて、楽しい句だ。こういう空想句も、いいなあ。『風丁記』(2002)所収。(清水哲男)


November 24112002

 つはぶきや二階の窓に鉄格子

                           森 慎一

キップ
語は「つはぶき(石蕗の花)」で冬。学名を「Farfugium japonicum」と言うそうだから、原日本的な植物なのかもしれない。しかし、いつ見ても寂しい花だと思う。蕗の葉に似た暗緑色と花の黄色との取り合わせが、いかにも陰気なのである。一茶が「ちまちまとした海もちぬ石蕗の花」と詠んでいるように、元来が海辺の野草だ。昨冬、静岡の海岸で見かけたけれど、寒い海辺に点々と黄が散らばっている様子は、なんとも侘しい風情であった。そんな暗い感じの石蕗を庭に植えるようになったのは、花の少ない冬季に咲く花だからだろう。よく、旅館の庭の片隅などで咲いている。これは四季を通じて花を絶やさぬサービス精神の発露とはわかるが、だが、何でも咲いていればよいというものでもあるまい。仕事での一人旅だったりすると、かえって気が滅入ってしまう。掲句は、そんな「つはぶき」の舞台にぴったりの情景を伝えている。「二階の窓に鉄格子」とはただならないが、かつての座敷牢の名残りでもあろうか。だとすれば、この家にはどんな暗い歴史があったのだろう。などと、通りすがりの作者は空想している。それもこれも、陰気な「つはぶき」が空想させているのである。写真は青木繁伸氏のHP「Botanical Garden」より縮小して借用した。この花の雰囲気が、よく出ている。『風丁記』(2002)所収。(清水哲男)




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