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August 2781996

 欠伸して鳴る頬骨や秋の風

                           内田百鬼園

聊をかこつ男の顔が浮ぶ。作者は夏目漱石門下の異色、ユニークな随筆、小説で知られる。俳句は岡山六高在学中から始め、「夕焼けに馬光りゐる野分かな」など本格的な作品が多い。上掲作は「秋の風」が効果的。序でと言ってはなんだが、師漱石の秋風の句を一句、「秋風や屠られに行く牛の尻」。文豪夏目漱石が痔の手術で入院した時の作である(大串章)

[編者の弁解]ついに出ました内田ヒャッケン。編者としては、内心この日を怖れていたのです。というのも、百鬼園の「鬼園」は、本当は門構えの中に「月」と表記しなければならないのですが、悲しいかな、私のワープロEGWORD 6.0には外字作成機能がありません。で、とりあえずこの表記としました。ヒャッケンが、ひところ実際に「百鬼園」と号していたこともありましたので。


October 05101996

 龍天に昇りしあとの田螺かな

                           内田百鬼園

学が亡くなって二年になる。その通夜の席に刷りあがったばかりの佃の新詩集『ネワァーン・ネウェイン洗脳塔』(砂子屋書房)が届いたことを思い出す。佃の最初の詩集は昭和40年に刊行された『精神劇』(私家版)であるが、私の所持するそれには古い手紙が挟んであって、「やっとできた、という気持だ。売れない詩集作りの仲間入りということか云々……」と書いてある。そうか、佃学は売れない詩集を十二冊も作ったのか。ところで、この「龍天に」の一句は、『ネワァーン・ネウェイン洗脳塔』の"あとがき"に引用されている。佃学はこの句のことを「まことに大らかないい句だ」と言っている。その言葉に私は慰められる。佃よ!(大串章)

[編者註]佃学(つくだ・まなぶ)は1939年高松市生まれ。詩人。高松高校を経て1958年京都大学文学部入学。その春に農学部の宮本武士(大阪・北野高)の呼びかけに応じて、経済学部の大串章(佐賀・鹿島高)や文学部の清水哲男(東京・立川高)らとともに同人誌「青炎」に参加。初期は短歌もよくしたが、やがて詩作に専念。現役詩人では江森國友氏を尊敬していた。1994年秋分の日に没。享年55歳。上掲の句の「田螺(たにし)」はもとより春の季語であるが、大串君や私たち仲間にとっては秋になると思いだす季節を超えたそれでもある。


November 02111998

 夜寒さの買物に行く近所かな

                           内田百鬼園

和九年(1934)の作。句作年代を知らないと、味わいが薄くなってしまう。煙草だろうか、薬だろうか。いずれにしても、ちょっとした買い物があって近所の店に出かけていく。もちろん、普段着のままである。句作年代が重要というのは、この普段着が「和服」だったことだ。かなり洋服が普及していたとはいっても、家の中でも洋服を着ている人はまだ少なかった。戦前の男も女も、くつろぐときは和服である。和服だから、夜道に出ると肩や胸、袖口のあたりにうそ寒さを感じる。これで素足に下駄だとすれば、なおさらのこと。ほんの「近所」までなのだけれど、季節の確実な移り行きが実感されるのである。もちろんコンビニなどなかった時代だから、店もはやく閉まってしまう。自然と急ぎ足になるので、いっそう夜風も身にしみるというわけだ。なんということもない句であるが、「買物」や「近所」という日常語が新鮮にひびいてくる。昭和初期の都会生活の機微が、さりげない詠みぶりのなかにも、よく認められる。『百鬼園俳句帖』(1934)所収。(清水哲男)


December 13122006

 滾々と水湧き出でぬ海鼠切る

                           内田百鬼園

鼠(なまこ)から滾々(こんこん)と水が湧き出る――というとらえ方はあっぱれと舌を巻くしかない。晩酌をおいしくいただくために、午後からは甘いものをはじめ余分なものは摂らずに過ごそうと、涙ぐましい努力をしていたことを、百鬼園はどこかで書いていた。本当の酒呑みとはそうしたものであろう。午後の時間に茶菓を人に勧められて断わるのも失礼だし、かといって・・・・と嘆く。そんな百鬼園が冬の晩酌の膳に載せんとして海鼠に庖丁を入れた途端に、たっぷり含まれた冷たい水がドッと湧き出る。イキがいいからである。冬は海鼠をはじめ牡蠣や蟹など、海の幸がうまい時季。海鼠酢はコリコリした食感で酒が進む。百鬼園先生のニンマリとしてご満悦な表情が目に見えるようだ。この句は明治四十二年「六高会誌」に発表された。「滾々」とはいささかオーバーな表現だが、ここでは句の勢いを作り出していて嫌味がない。冴えていながら、どこかしら滑稽感も感じられる。最初から「滾々・・・」という句ではなかった。初案は「わき出づる様に水出ぬ海鼠切る」だった。「わき出づる様に水出ぬ」では説明であり、「水」は死んでしまっているから、海鼠もイキがよろしくない。しかも「出づる」「出ぬ」の重なりは無神経だ。思案の後「滾々」という言葉を探り当てて、百鬼園先生思わず膝を打ったそうである。志田素琴らと句会「一夜会」をやりながら、独自のおおらかな句境を展開した。しかし、本人は当時の文壇人の俳句隆盛に対しては懐疑的で、「文壇人の俳句は、殆ど駄目だと言って差支えないであろう」と言い、「余り流行しないうちに下火になる事を私は祈っている」とも言い切るあたりは、まあ、いかにもこのご仁らしい。ちなみに漱石や龍之介の俳句に対する百鬼園の評価は高くはなかった。『百鬼園俳句帖』(ちくま文庫)所収。(八木忠栄)


September 1792008

 教官の帽子の上や秋の雲

                           内田百鬼園

鬼園の小説や随筆は、時々フッと読みたい衝動に駆られる。その俳句もまた然りである。たとえ傑作であれ、月並み句であれ、そこには百鬼園先生独自のまなざしが生き、風が吹いている。こちらの気持ちが広がってくる。掲出句の「教官」は、帽子をかぶって幾分いかめしく、古いタイプの典型的な教官であろうか。その頭上に秋の雲を浮べたことにより、この人物のいかめしさに滑稽味が加味され、どこかしら親しみを覚えたくなる教官像になった。すましこんで秋空の下に直立しているといった図が見えてくる。事実はともかく、さて、この教官を少々乱暴に百鬼園の自画像としてしまってはどうか。そう飛躍して解釈してみると、一段と味わいに趣きが加わってくる。「教官」にはどうしても固い響きがあり、辞書には「文部教官・司法研修所教官など」とある。教員・教師などといったニュアンスとは別である。この教官はのんびりとした秋の雲になど気づいていないのかもしれない。百鬼園は芭蕉の句「荒海や佐渡に横たふ天の川」を「壮大」とした上で、「暗い荒海の上に天の川が光っていると云うのは、滑稽な景色である」と評している。されば掲出句を「教官の帽子の上に秋の雲が浮いていると云うのは、滑稽な景色である」と言えないだろうか。明治四十一年に「六高会誌」に発表された。つまり岡山の六高に入学した翌年の作だから、私の解釈「自画像」は事実とちがう。けれども、今はあえて「自画像」という解釈も残しておきたい。『百鬼園俳句帖』(2004)所収。(八木忠栄)


November 04112009

 汽車道と国道と並ぶ寒さ哉

                           内田百鬼園

車道とはレトロな呼び方である。今なら「鉄道」とか、せいぜい「電車道」だろう。私などは幼い頃から呼びなれた「汽車道」という言葉が、ついつい口をついて出ることがある。だって高校通学では「汽車通(つう)」という言い方をしていたのだから。汽車ではなく、車輛不揃いな田舎の電車で通う「汽車通」だった。掲出句における作者内田百鬼園先生の位置は国道にいてもいいわけだが、ここは電車ではなくて汽車に乗っていると思われる。旅を頻繁にして「阿房列車」シリーズの傑作がある内田百鬼園であり、しかも明治四十二年の作だから、ここは汽車に乗っているとしたほうが妥当であろう。車内は暖房が少々きいていたか否か、いずれにせよ外の寒さに比べればましである。鉄道と国道が不意に寄り添う場所があるものだ。あれは妙におかしさを覚える。国道を寒そうに身を縮めて歩いている人を、車窓から眺めているのだろうか。あるいは人影はまったくないのかもしれない。車中の人は旅の途中であり、寒々とした田舎の風景が広がっているのだろう。汽車道と国道とが身を寄せ合っていることで、いっそう寒さが強く感じられる。「汽車道」という響きも寒さをいや増してくる。内田百鬼園は岡山一中(第六高等学校)時代に、国語教師・志田素琴に俳句を学んだ。掲出句は「六高会誌」に発表された。同年同誌に発表された句に「この郷の色壁や旅しぐれつつ」「埋火や子規の句さがす古雑誌」などがある。『百鬼園句帖』(2004)所収。(八木忠栄)


July 2472013

 河童忌に食ひ残したる魚骨かな

                           内田百鬼園

日七月二十四日は河童忌。芥川龍之介は昭和二年のこの日に自殺した。龍之介の俳号が「我鬼」だったところから「我鬼忌」とも呼ばれる。百鬼園(百けん)は漱石の門下だったけれども、俳句は虚子に師事した。「自分が文壇人かどうか疑わしい」としたうえで、「文壇人の俳句は、殆ど駄目だと言って差支えない」と書いており、漱石の俳句については「そう高く買っていない事は、明言し得る」としている。また龍之介の句についても「あまりいいと思っていない」と率直に書いている。もっとも「文壇人の俳句」に限らず「俳人の俳句」にも、ピンからキリまであることは言うまでもない。龍之介の俳句に対しては厳しいけれど、それはそれとして昭和九年から十三年にかけて、毎年「河童忌」の句を六句作り、『百鬼園俳句』(1943)に収めている。「河童忌の夜風鳴りたる端居かな」(昭九)、「河童忌の夕明りに乱鶯啼けり」(昭十三)、それらに先がけて、昭和七年に田端の自笑軒で「膳景」と前書きして詠まれたのが掲句である。膳のものをすべてたいらげたわけではなく、食べ残した魚の骨にふと心をとらわれ、改めて故人を偲んだということだろう。魚は何であってもかまわない。美食家の百けん先生といえども、すべてけろりと食べ尽したのでは、龍之介への気持ちは届かなかったかもしれない。龍之介に対する深い心がこめられている。『内田百けん俳句帖』(2004)所収。※「百けん」のけんは門に月です。機種依存文字につき表示できません。(八木忠栄)




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