纉。髞シ句

September 0491996

 大阪はこのへん柳散るところ

                           後藤夜半

句もいいけれど、技巧的に優れた作品ばかり読んでいると、だんだん疲れてくる。飽きてしまう。そのようなときに、夜半はいい。ホッとさせられる。夜半は、生涯「都会の人」ではなく「町の人」(日野草城)だったから、一時期をのぞいて、ごちゃごちゃしんきくさいことを言うことを嫌った。芸術家ではなく、芸人だった。生まれた大阪の土地や文化をこよなく愛した。自筆の短冊を写真で見たことがあるが、いまどきの女の子の丸字の先駆けのようにも思える。ちっとも偉そうな字ではないのである。昭和51年初秋、柳の散り初めるころに没。享年81歳。『底紅』所収。(清水哲男)


September 2391996

 ひらきたる秋の扇の花鳥かな

                           後藤夜半

鳥は花鳥図。中国的な派手な図柄が多い。秋にしては暑い日、目の前の女性が扇をひらいた。見るともなく目にうつったのは、見事な花と鳥の絵。ただそれだけのこと。と、受け取りたいところだが、ちょっと違う。ポイントは、扇をひらいた女性が、その華麗な花鳥図の雰囲気にマッチしていないというところにある。「秋の扇」には「盛りを過ぎた女性」の意味もあるのだという。といって、作者が意地悪なのではない。抗うことのできない残酷な現実を哀しんでいるのだ。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)


December 13121996

 クリスマスカード消印までも讀む

                           後藤夜半

半、晩年の句。外国にいる知人から届いたカードだろう。クリスマスカード自体も珍しかったころだから、感に入って、消印までを読んでしまったのだ。しかし夜半ならずとも、またクリスマスのメッセージならずとも、誰しもがたまさかの外国からの便りに接すると、消印までを読みたくなるのではなかろうか。消印の日付などから、出してくれた相手の心配りのありがたさを読み取るのである。『底紅』所収。(清水哲男)


January 0811997

 薄日とは美しきもの帰り花

                           後藤夜半

でも暖かい日がつづくと、草木が時ならぬ花を咲かせることがある。これが「帰り花」。「忘れ花」ともいう。梅や桜に多いが、この場合は何であろうか。もっと小さな草花のほうが、句には似合いそうだ。しかし、作者は「花」ではなくて「薄日」の美しさを述べているところに注目。まことに冬の日の薄日には、なにか神々しい雰囲気をすら感じることがある。芸の人・夜半ならではの着眼であり表出である。花々の咲き初める季節までには、まだまだ遠い。『底紅』所収。(清水哲男)


February 0421997

 春立つと古き言葉の韻よし

                           後藤夜半

は「ひびき」と読ませる。昔から、立春の句や歌は数多い。それだけに、後代になるほどひねくりまわし過ぎた作品が目立つようになってきた。止むを得ないところではあるけれど、だからこそ、逆に立春という題材をどう扱うかは、俳人や歌人の腕の見せどころでもある。「芸の人」夜半としては、そこでしばらく考えた。考えた結果、立春のあれやこれやの情景を捨て去って、一見すると素朴な発想のこの一句に落ち着かせることにした。さすが、である。つまり、この句には古今の名句や名歌のひびきが、すべて収まってしまっているからだ。さりげなく「他人のフンドシで相撲をとる」のも、立派な芸というべきだろう。脱帽。(清水哲男)


June 0961997

 つく息にわづかに遅れ滴れり

                           後藤夜半

ったき静寂のなか、水の滴る音だけがしている。ふと気がつくと、自分の呼吸に正確に少し遅れて滴っている。それだけのことだが、身体の弱かった作者ならではの鋭い感覚が刻みつけられていて、さすがだと思う。病者に特有な神経のありようだ。ところで、これはどのような水の滴りなのだろうか。雨漏りだろうと、私は読んでおきたい。いまでこそ雨漏りするのはナゴヤドームくらいのものだが(笑)、昔はたいていの家で一箇所くらいは雨漏りがした。漏ってくる畳の上などに洗面器や鍋を置いて水滴を受けているとき、病者ならずとも、その音は気になった。単調なリズムの繰り返しに、ときに眠気を誘われることもあった。それだけに、雨がやんだときの嬉しさは格別だった。『青き獅子』所収。(清水哲男)


July 0271997

 瀧の上に水現れて落ちにけり

                           後藤夜半

れぞ夜半の代表句。出世作。力強い滝の様子が、簡潔に描かれている。昭和初期の「ホトトギス」巻頭に選ばれた作品だ。私は好きだが、この句については昔から毀誉褒貶がある。たとえば作家・高橋治は「さして感動もしなければ、後藤夜半という一人の俳人の真骨頂がうかがえる句とも思わない」と言い、「虚子の流した客観写生の説の弊が典型的に見えるようで、余り好きになれない」(「並々ならぬ捨象」ふらんす堂文庫『破れ傘』栞)と酷評している。そうだろうか。そうだとしても、これ以上にパワフルな滝の姿を正確に詠んだ句が他にあるだろうか。私は好きだ。『青き獅子』所収。(清水哲男)


July 2271997

 鰻の日なりし見知らぬ出前持

                           後藤夜半

つものようにいつもの店から出前をとったら、見知らぬ出前持が届けに来た。思わずいぶかしげな顔をすると、察した相手が「臨時なんですよ。丑の日なもんで」と言った。なんでもない日常の一こまを捉えているだけだが、その底に庶民の粋が感じられる佳い句だ。『底紅』所収。(清水哲男)


December 22121997

 古暦とはいつよりぞ掛けしまま

                           後藤夜半

暦とは、本来は不要になった去年の暦をのことをいうのだが、俳句では、新しい来年の暦が用意された頃の今年の暦をいう。日めくりだと、残り数枚というところか。いや、十数枚かもしれない。そのあたりがはっきりしないので、作者は疑問をそのまま句にしてしまった。トボけた味があって面白い。作者はおそらく、今年の暦と新しい年の暦とを並べて掛けているのだろう。新しい暦もよいが、使い慣れた暦には愛着がある。私などは、年末最後のゴミの日には捨てきれず、新年になってから処分する。何年か前に香港で買った暦は、いまだにちゃんと仕舞ってあるという具合。しかし、なかにはそうでない人もいるようで、柴田白葉女に「古暦おろかに壁に影おけり」がある。(清水哲男)


May 2551998

 香水やまぬがれがたく老けたまひ

                           後藤夜半

水の句といえば、すぐに草田男の「香水の香ぞ鉄壁をなせりける」を思い出すが、誇り高き女性への近寄り難さを巧みに捉えている。草田男は少々鼻白みつつも、彼女の圧倒的な存在感を賛嘆するかたちで詠んだわけだが、夜半のこの句になると、もはや女性からのプレッシャーは微塵も感じられない。香水の香があるだけに、余計に相手の老いを意識してしまい、名状しがたい気持ちになっているのだ。ところで、この女性は作者よりも年上と読むのが普通だろうが、私のような年回りになると、そうでなくともよいような気もしてくる。同年代か、あるいは少し年下でも、十分に通用するというのが実感である。だったら「老けたまひ」は変じゃないかというムキもあるだろうが、そんなことはないのであって、生きとし生ける物すべてに、自然に敬意をはらうようになる年齢というものはあると思う。ただし、それは悟りでもなければ解脱でもない。乱暴に聞こえるかもしれないが、それは人間としての成り行きというものである。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


December 28121998

 掛けかへし暦めでたし用納

                           佐藤眉峰

納は、その年の仕事を終わること。民間会社では「仕事納」と言い、官庁では「御用納」と言う。この日は残務を処理したり、机上などを片付けたりしてから、年末の挨拶をかわして早めに帰宅する。私が雑誌社に勤めていたころには、会社に歳暮で届いたビールや酒で昼前に乾杯するのが習慣だった。で、さっとすぐに引き上げていくのは故郷に帰る人や旅行に出かける人たちで、いつまでもグズグズしているのは、帰ったところで何もすることがない独身組だった。もちろん、私は後者。それはともかく、よく気がつく人のいる会社では、句のように、この日、暦が来年のものに掛けかえられる。新年初出社のときに古いカレンダーがぶら下がっていたのでは、興醒めだからだ。そして、新しい暦に掛けかえられると、年内にもかかわらず、たしかに一瞬「めでたし」という気分になるものだ。平凡なようだが、情緒の機微に敏感な作者ならではの句である。そしてまた、このときに捨てられる今年の暦は「古暦」と言われ、冬の季語にもなっている。正確に言えばまだ使える暦なのに「古暦」とは、面白い。ではいったい、年内のいつごろから「今年の暦」は「古暦」となるのかと悩んだ(?)句が、後藤夜半にある。「古暦とはいつよりぞ掛けしまま」。(清水哲男)


January 1011999

 抵抗を感ずる熱き煖炉あり

                           後藤夜半

のもてなしとは難しいものだ。寒い日に作者を迎えたので、この家では暖炉に盛大に薪を投じてもてなしたのだろう。ところが、作者は熱くてかなわないと抵抗を感じている。かといって、せっかくの好意なので口に出すわけにもいかず、小さな苛立ちを覚えている。いまや暖炉でのもてなしは贅沢な感じになってしまったが、ガスや電気器具での暖房でも、こういうことはちょくちょく起きる。困ってしまう。ところで、句の「抵抗を感ずる」という表現に、それこそ抵抗を感じる読者もいるにちがいない。あまりにもナマな言葉だからだ。はじめて読んだときには、私もそう感じたけれど、だんだんこのほうが面白いと思うようになってきた。ナマな言葉でズバリと不快感をあらわしているだけに、かえってそのことを口に出せない作者の焦燥が、客観的にユーモラスに読者に伝わってくると思えるからである。内心で大いに怒り力んでいるわりには、表面は懸命にとりつくろっている。この本音とたてまえの落差を導きだしているのは、やはり「抵抗を感ずる」というナマな言葉の力であろう。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


April 2841999

 睡るとはやさしきしぐさ萩若葉

                           後藤夜半

んという「やさしい」句境だろう。このトゲトゲしい世相のなかに置いてみるとき、この句そのものが、さながら「萩若葉」のようである。「萩若葉」から人の寝姿を連想したところも非凡だが、作者の眼目はむしろ「睡る」姿を「しぐさ(仕草)」と捉えた点にありそうだ。「睡る」姿(動作)も、言われてみればたしかに仕草のうちではあるけれど、普通に言うところの「しぐさ」は、もう少し何らかのモーションを伴っている。「じっとしている動作」に、あまり「しぐさ」という言葉は使わないはずだ。そこにあえて「しぐさ」と言葉を当ててみたわけで、流線の枝にさみどり色の若葉を散らして微風に揺れる萩の姿形に、ぴたりと合致したのだった。「仕草」ではなく「しぐさ」としたのは、むろん「萩若葉」のやわらかさに照応させるためである。まさに名人・夜半の、静かなる得意の顔が浮かんでくるような句ではないか。作者の意識のなかにある「睡る」人は、もちろん女人だろう。古来、萩は若葉の頃から、男には悩ましい植物として詠まれてきた。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


June 2961999

 見て覺え見て覺え今日沙羅の花

                           後藤夜半

羅(さら)の花は椿のそれに似ていることから、別名を「夏椿」とも言う。「沙羅双樹」は別種。花の名前を覚えるのは、なかなか大変だ。結局は、作者のように何度も見て記憶するしか方法がないわけだが、なにせ季節物なので、次の年に開花したときには忘れていたりする。その反面、めったに咲かない「月下美人」などの珍花(?!)は、一度見ると、もう忘れない。しかし、なかには何故か自分だけに覚えにくい花の種類もあるようで、一所懸命に何度も覚えるのだが、いつの間にか記憶が失せてしまうのだ。作者にとっての沙羅は、そういう花だったのかもしれない。句の「今日」を、今日こそは覚えるぞという「今日」ととらえると、作者の気合いが伝わってきて好もしい。若い女性的に言うと「カッワイイー」というニュアンスもある。句作当時の夜半の年齢は、八十歳くらいか。そのことを思うと、おのずからまた別の感慨もわいてくる。比べれば、私などはまだ小僧の年齢だ。負けてはいられない。よく見て、ちゃんと見て、しっかりと覚えよう。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


October 22101999

 落栗をよべ栗の木を今朝見たり

                           後藤夜半

くあることだが、この句の前でも立ち往生してしまった。さあ、わからない。三十分ほど考えたところで出かける時間となり、バスのなかで反芻し、仕事場に着いてからも頭に引っ掛かったままだった。原因は、最初に「よべ」を「呼べ」と思い込んでしまったところにある。どうも「呼べ」ではないらしいと思い直したのは、放送中だった(こういうことも、よくあります)。スタジオから出て来て、「よべ」「よべ」と二三度となえているうちに、パッと「昨夜」を「よべ」と読むことに気がついた(これまた、よくあること)。なあんだ。で、後は簡単。作者は、旅先にあるのだろう。昨夜、道ばたで落栗を見かけ、「おや、こんなところに、なぜ栗が」と思っていたのだが、今朝明るくなって見てみると、そこにはちゃんと栗の木があったよ。……というわけだ。考えてみれば、作者もこの句を得るのに夜から朝まで、半日という時間をかけている。読者の私も、理解するのにほぼ半日を費やした。おあいこだ。と言うのも、なんか変だけど。『彩色』(1968)所収。(清水哲男)


February 0122000

 或日あり或日ありつつ春を待つ

                           後藤夜半

半、晩年の一句。うっかりすると読み過ごしてしまうほどに地味だが、鋭い感性がなければできない句だ。「或日(あるひ)」とは、特筆すべき出来事など何もないような平凡な日の意だろう。「或日」のリフレインは、そうした日々を重ねている時間についての写生である。句の面白さは、そんな平々凡々としか言いようのない時間を過ごしているなかで、しかし、いつしか「春待つ」心が芽生えていることの不思議に気がついたところだ。「春よ、来い」などと大仰に歌っているわけではなくて、自分の心のなかに自然に春を待つ感情が湧いてきている。そのことに気づいたときの、じわりと滲み出てくるような嬉しさ。それがそのまま、読者の「春待つ」心に染み入ってくる。月並みな比喩で恐縮だが、燻し銀の魅力を思わせる句だ。そこにたまたま「今日の客娘盛りの冬籠」となれば、もはや言うことなしか。ただし、俳句の出来からすれば、掲句のほうが格段に上等であることは、読者諸兄姉がご明察のとおりである。今日から二月。明後日は節分。そして四日は、暦の上での「春」となる。遺句集『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


April 0942000

 夜櫻のぼんぼりの字の粟おこし

                           後藤夜半

たまんま、そのまんま。だが、なぜか心に残る。夜半の初期(二十代だろう)には、このような小粋な句が多かった。「見たまんま、そのまんま」だが、目のつけどころに天賦の才を感じる。夜桜見物。誰でもぼんぼりにまでは目がゆくが、書かれている広告文字にまでは気が及ばない。ぼんぼりの「粟おこし」は単なる文字でしかないけれど、こうやって句に拾い上げてやると、春の宵闇のやわらかな感覚に実によくマッチしてくるから不思議だ。ここは、やはり「粟おこし」でなければならないのであって、他の宣伝文字のつけ入る余地はあるまい。ここらあたりが、短い詩型をあやつる醍醐味である。夜半は明治生まれで、生粋の大阪人。生涯、大阪の地を離れることはなかった。だから、掲句はよき時代の大阪の情緒を代表している。いつもながらの蛇足になるが、「桜」の旧字の「櫻」というややこしい漢字を、昔の人は「二階(二貝)の女が気(木)にかかる」と覚えた。こう教わると、女性の場合は知らねども、男だったら一度で覚えられる。いや、忘れられなくなる。庶民の小粋な知恵というものだろう。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)


June 2562000

 さし招く團扇の情にしたがひぬ

                           後藤夜半

人数の会合。宴席だろうか。とくに座る場所が定められていない場合、部屋に入ったときにどこに座ろうかと、一瞬戸惑ってしまう。見知らぬ人が多いときには、なおさらだ。ぐるりと見渡していると、向こうの方から「さし招く」団扇に気がついた。顔見知りではあるが、そんなに親しい人でもない。でも、その人のさし招きように何かとても暖かいものを感じたので、その「情」にしたがったというのである。一般的に「さし招く」など他人に合図を送る場合、手に持った物を使っての合図は失礼とされる。よほど親しい間柄であれば、箸を振り回して呼んだりもするが、これは例外。かつてボールペンだかシャープペンシルだかで記者を指名した首相もいたけれど、当人は格好よいつもりでも、この国のマナーとしては最低の部類に属する。したがって、掲句のシチュエーションを四角四面にとらえれば、やはり失礼なことには違いない。しかし「さし招く團扇」の様子に、そんなことは別と言わんばかりの「情」がこもっていたので、気持ち良くしたがえた。だから、あえて作者はこういう句を詠んだというわけだ。このとき、夜半は七十代か。本物の「情」の味が、身にしみてわかってくる年齢だろう。その点で、私などはまだまだほんの小僧でしかない。蛇足ながら、最近は、とんとこの「情」という言葉を聞かなくなった。「情」で「IT革命」はできないからね。『彩色』(1968)所収。(清水哲男)


August 0282000

 まくなぎをはらひ男をはらふべし

                           仙田洋子

川版歳時記による「まくなぎ」の説明。「糠蚊の一種で、ひと固まりになって上下にせわしく飛んでいる。夏の野道などで、目の前につきまとい、はなはだ小うるさい。黒色をしていることはわかるが、あまり近くで飛ぶため、はっきり見定めがたい」。また河出版には「俗に糠蚊という虫で、種類が多い。夏の夕方、野道で人の顔の高さぐらいのところに微細な虫が群れ飛んでいて、顔につきまとい、目に入ったりして、うるさい。払っても離れない。ときには人の血を吸うものもいる」とある。この「糠蚊」の部分を「男」に入れ替えると、掲句の「はらふべし」の必然性が明瞭になる。それにしても、こうはっきりと言われては、どんな男だって引き下がるしかないだろう。まいりました、失礼しました。そんな女心に気がついてかつかないでか、後藤夜半に「まくなぎのまとふ眦美しや」がある。「眦」は「まなじり」。この男もまた、即刻「はらふべし」か、どうか(笑)。なお、掲句の原文は最初から平仮名表記だが、「まくなぎ」の漢字はひどくややこしい。夜半は漢字を使っているのだけれど、第二水準漢字にも入っていないので表示できなかった。この漢字も、我が辞書から打ち「はらふべし」。『今はじめる人のための俳句歳時記・夏』(1997)所載。(清水哲男)


September 1392000

 木瓜の實をはなさぬ枝のか細さよ

                           後藤夜半

目は「はなさぬ」にあるのだろう。「はなさぬ」だから、木瓜(ぼけ)の枝は我とわが身の一部を「にぎっている」のである。木瓜の木を、擬人化しているわけだ。数日前にこの句を読んで、つくづくと「木瓜の實」がなっている姿をみつめることになった。近所にあるので、何度か見に行った。たしかに「か細い」枝である。直径三センチくらいの球形の実が、さながらサクランボのように、あちこちにかたまってなっている。物理的な必然から、当然に「か細い」枝はしなっている。夜半の書いたとおりだ。私は一度も、木瓜の枝など注視したことはなかったので、さすがに俳句の人は凄いもんだと感心した。でも、いくら熱心に見ても「はなさぬ」という見立てには通じなかった。この擬人化は何のためなのだろうかと、逆に疑念がわいてきてしまった。よく、わからない。悩んだあげくの(いまのところの)結論として、「か細さよ」を強調するためのテクニックだろうと決めてみた。しなった枝に、人間並みの「健気さ」を見ているのだと……。好意的にこれをとって、作者の身近に「擬木瓜化」したいような健気な「人」が存在していたのだろうと……。「木瓜」を詠んで「人」を詠んだのだと。実は私は、たいした理由根拠もないけれど、どうも動植物の擬人化が好きになれない。チャーリー・ブラウンは好きですが、スヌーピーはそんなに好きじゃないのです。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


October 24102000

 懸崖に菊見るといふ遠さあり

                           後藤夜半

ろそろ菊花展のシーズンだ。昨秋は、神代植物園(東京・調布)に見に行った。ああいうところに、花の盛りを揃えて出展する人は、さぞや神経を使うのだろう。花を見ていると、そんなことが思われて、ただ見事だなというだけではすまない。花の真横に、育てた人が心配げに立っているような雰囲気がある。生花ではあるが、造花なのだ。「懸崖(けんがい)」は「幹または茎が根よりも低く垂れ下がるように作った盆栽[広辞苑第五版]」。たしかに懸崖の菊を見るには、ある程度の「遠さ」が必要となる。近くでは、全体像をつかめない。敷衍すれば、何かを見るときには見るための「遠さ」が必要ということであり、これは菊花のような実像だけではなく、虚像においても幻像においても同様だろう。当たり前と言えば当たり前。だが、この当たり前に感じ入る心は、俳句という装置の生みだしたものだ。俳句でなければ、この「遠さ」に着目するチャンスはなかなかないだろう。三島由紀夫の小説の叙景には「遠近感」がない。その位置からは遠くて見えないはずの景色のディテールを、目の前で見ているように書く。そう言ったのは磯田光一だったと記憶するが、小説家には案外遠近の意識は薄いのかもしれない。だとすれば、小説という装置がそうさせるのだと思う。『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


January 0312001

 羽子板の重きが嬉し突かで立つ

                           長谷川かな女

子板は女の子の世界のもの。後藤夜半に「羽子板の冩楽うつしやわれも欲し」があって、自分が女の子でないことを残念がっている。この気持ちは、よくわかる。買って買えないことはないのだけれど、買ったからといってどうにもならない。結局は、持て余すだけだろうからだ。もっとも「冩楽うつし」というのであれば、羽子板市で売っているような飾り物としての豪華な羽子板かもしれない。だとすると、なおさらだ。ところで、揚句の羽子板はそうした飾り物ではない。ちゃんとそれで遊べるのだが、安物ではない上等な羽子板なのだ。だから、手に重い。こんなに立派な羽子板を手にしたのははじめてなので、嬉しくて仕方がないという風情。表では、友だちの羽根つきが賑やかにはじまっている。いっしょに遊ぼうと飛び出していって、しかし、すぐには加わらず、しばらくは羽子板の重さを楽しんで立っている。そしておそらく、羽子板は友だちからは見えないようにして持っているのだと思う。ちょっと後ろ手気味にして……。みんなが見たら、きっと「いいなあ」と言うだろう。その一瞬が恥ずかしくもありまぶしくもあって、すっと仲間の輪に入れない気持ちも込められている。ここに夜半のような人が通りかかれば、たちまちに「突かで立つ」女の子の気持ちを見抜いて、そのいじらしさ可愛らしさに微笑を浮かべるにちがいない。この句は、虚子に「女でなければ感じ得ない情緒の句」と推奨された。かな女初期の代表作である。『龍膽』(1910-29)所収。(清水哲男)


May 1152001

 破れ傘一境涯と眺めやる

                           後藤夜半

破れ傘
井の頭自然文化園
の句を、長い間誤解していた。「破れ傘」を、植物の名前だとは露知らなかったからだ。破れた唐傘を眺めて、作者が「まるで俺の人生のようなものだ」と感じ入っている図だとばかり思っていた。大阪の市井に生き抜いた人の感慨であり、いかにも夜半らしい巧みにして真摯な句だと……。それでも、有季定型の人にしては季語がないのは変だとは感じたのだが、「傘」だから梅雨期だろうと勝手に読んでいた。それが皆さま、大笑い。あるとき、井の頭自然文化園の猫の額ほどの野草園を見るともなく見ていたら、写真の立て札が目に飛び込んできて愕然、驚愕。実は笑うどころではなく、目の前がすうっと暗くなるようなショックを受けた。帰宅して早速二、三の歳時記を開くと、どれにも夏の項目にちゃんと出ていた。「山地の薄暗い林下に生えるキク科の多年草。高さ六十から九十センチ。若葉は傘を半開きにした姿だが、生長するに従い破れた傘を広げたように見える。花よりも草の形がおもしろい」。花は未見だが、なるほどおもしろい形をしている。「破れ傘」としか、命名の仕様がないだろう。さて、こんな具合に正体を知ってしまうと、句の解釈は多少変わってくる。「境涯」への感慨には相違ないが、薄暗い林下に生えているのだから、日陰の人生であり、必ずしも作者自身のそれでなくともよくなってくる。たとえば廓に生きた薄幸の女を想う心が、このように現われたとも読めてくるのである。『破れ傘』(ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


September 2292001

 いなづまの花櫛に憑く舞子かな

                           後藤夜半

語は「いなづま(稲妻)」で秋。女性讃句。一瞬、遠くで光った「いなづま」が、眼前の「舞子(舞妓)」の「花櫛(はなぐし)」に「憑く(つく)」ように見えたと言うのである。このときに稲妻は花櫛に同化して花櫛そのものなのであり、間接的にはおそらく彼女の気性の強さを表していて、その気性を作者は好ましく思っているということだろう。稲妻が消えた後でも、花櫛はなお稲妻に憑かれて異彩を放っている。「ウツクシい」な。夜半はこのときに、まだ二十代か。大阪の商人で、遊里に入門したばかりと推定する。そんな初々しさが感じられる句だ。さて、「舞子」の定義。私は京都に住みながら、祇園の女性たちとは当たり前に無縁だった。たまたま、表で見かけるだけ。テレビで観るのと、さして変わりはない異次元世界の存在。したがって、どなたが「舞子」やら「芸子」やらの区別も、いまだにつかないでいる。で、以下はMacに仕込んである小学館の『スーパー・ニッポニカ2001』の丸写しだ。「京阪地方以西における半玉(はんぎょく)の名称。12〜16歳で芸子(げいこ)(芸者)に昇格するのは半玉と同じだが、座敷の余興に舞踊のほか下方(したかた)とよばれる鼓や太鼓の伴奏を勤めるなど独特の風習をもつ。玉代も芸者と同額で、半玉が芸者より低い地位にあるのに対し、芸者と同格に待遇された。座敷に出る盛装は、髪を割信夫(わりしのぶ)に結い、針打・花簪(はなかんざし)などで飾り、大振袖(ふりそで)の友禅を裾(すそ)を引いて着、襦袢(じゅばん)には赤衿を用い、厚板などの帯を「だらり」(猫じゃらし)に結び、戸外は高い木履(おこぼ)(ぽっくり)を履いて高く褄(つま)をとって歩くのを典型とする。1947年(昭和22)以後は年少女子の酒席接待が禁じられたので、年齢が引き上げられるとともに風俗も変化している。〈原島陽一〉」。ふうん、と思うだけ。でも、句の女性の美しさはわかるなあと思うのである。こんなふうに女性を讃めるのは、なかなか難しいんだよ。『青き獅子』(1962)所収。(清水哲男)


May 3152002

 雷落ちて八十年を顧る

                           後藤夜半

語は「雷(らい)」。日本海側では冬にも多いが、全国的には夏に最も多いことから、夏季としている。句は、落雷後の束の間に働いた心の動きをそのまま述べている。よほど近くに落ちたのだろう。有無を言わせぬ雷鳴と轟音で、その後しばらくの間は、頭のなかが真っ白になった感じがする。助かってよかっただとか、どこに落ちたのだろうなどと思う以前に、限りなく一瞬に近い束の間の空白が生じる。その空白のなかで、作者は「八十年を顧(かえり)」みたと言う。むろん、束の間のことだから、長く生きてきた人生のあれこれのことを具体的に回想できたわけではない。瞬間、何かがさあっと頭のなかを通り過ぎていった。それが自分の歴史からは抜き難いエッセンスだったような気がして、「八十年を顧る」と書き留めたのである。したがって、掲句には顧みた感慨は何も含まれていない。「夢のごとし」のような諦観もない。ただ、自然に心がそう働いたことへの不思議な充実感を述べている。人は死ぬときに、一生のことを走馬灯のように思い出すものだとは、よく聞く話だ。死んだことがないのでわからないけれど、死に際の回想も、もしかすると句のような性質のものかもしれない。と、これはついでに思えたことである。遺句集『底紅』(1978)所収。(清水哲男)


November 27112002

 揚りたる千鳥に波の置きにけり

                           後藤夜半

語は「千鳥」で冬。『万葉集』の「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けばこころもしのにいにしへ思ほゆ」以来の昔より、詩歌や絵画の素材として愛されてきた。この句には様式化された花鳥画を見るような趣があり、非常に雅で美しい。ここで注目すべきは、「波の」の「の」の用法だろう。「波が」でもなく「波を」でもなく、「波の」としたことにより、絵が動いている。千鳥たちが揚がった後に、新しい波が寄せてくる。その動きが、何度もリフレインされている。この「波の」の「の」という言葉の働きをあえて分解するとすれば、「波が」と「波を」の「が」と「を」の機能が、「の」一文字に重ね合わされているとでも言うべきか。少しややこしいが、つまり読者は「の」一文字に「が」と「を」の機能を同時に感じ取るので、絵が動いて見えるというわけだろう。ああ、日本語は難しい。話は変わるが、鳥の専門家でこんなことを指摘している人がいたので、紹介しておく。「『千鳥』は俳句の季語としては冬に入れられているが、日本のチドリ類の生態をみると、かならずしもあたってはいないので注意を要する。また、海岸にたくさんの鳥が集まっているようすから『千鳥』とよぶこともありうるが、この場合はチドリ類のみでなく、同様の環境でみられるシギ類をもさしていると思われる。シギ・チドリ類の群れは冬にもみられるが、春と秋の渡りの時期に大きな群れがみられる」(柳澤紀夫)。掲句は『青き獅子』(1962)に所収。(清水哲男)


July 1172004

 學徒劇暑し解説つづきをり

                           後藤夜半

十数年ほど前の句。ちょうど私が「學徒(学生)」だったころの話だから、思わず苦笑させられた。たしかに理屈っぽかったなあ、あのころの学生は……。演劇のことはよく知らないが、スタニスラフスキー・システムがどうのと、演劇部の連中はよく議論してたっけ。チケットを売りつけられてたまに見に行ったけど、能書きばかりが先に立って、よくわからない芝居が多かった。作者もまた、そんな演劇を見ている。はじまる前に解説があって、それがヤケに長いのだ。当時のことゆえ、学生が借りられるような会場に冷房装置はないのだろう。長く七面倒くさい解説にはうんざりさせられるし、暑さはますます厳しいし、何の因果でこんなものを見に来る羽目になったのかと、我が身が恨めしい。どうやら、まだまだ解説はつづくようだ。やれやれ、である。いまどきの学生演劇でこんなことはないと思うが、演劇に限らず、昔の学生の文化活動には、どこか啓蒙臭がつきまとっていた。無知なる大衆の蒙を啓こうとばかりに、ときには明らかな政治的プロパガンダの意図を持って、さまざまなイベントが展開されていた。傲慢といえば傲慢な姿勢ではあるが、しかし一方で自分たちの活動に純粋な信念を持っていたのも確かだ。このことの是非は置くとして、作者ならずとも、心のうちでは文句を言い、大汗たらたら、団扇ぱたぱたで、しかし大人しく(!!)開幕を待つ人たちの姿が彷彿と浮かんでくる一句だ。『彩色』(1968)所収。(清水哲男)


August 0182005

 麦の穂を描きて白き団扇かな

                           後藤夜半

語は「団扇(うちわ)」で夏。真っ白な地に,すっと一本か二本の「麦の穂」が淡く描いてある。水彩画タッチか、あるいは墨一色の絵かもしれない。いずれにしても、いかにも涼しそうな絵柄の団扇だ。その素朴な絵柄によって,ますます背景の白地が白く見えると言うのである。作者、お気に入りの団扇なのだろう。この句に目が止まったのは,私がいま使っている団扇のあまりに暑苦しい図柄の反動による。街頭で宣伝物として配られていたのをもらってきたのだから、あまり文句も言えないのだが,それにしてもひどすぎる。まずは、色調。パッと見て,目に飛び込んでくる色は、赤色,橙色,黄色だ。これって、みんな暖色って言うんじゃなかったっけ。「うへえっ」と図柄をよく見ると,どうやら夏祭りを描いているらしい。それは結構としても,最上部の太陽からは、幼稚園児の絵のように,太い橙色の光線が地上を照らしている。その地上には祭りの屋台が二軒出ていて、これがなんと「たいやき屋」と「たこやき屋」なのである。普通の感覚なら,氷屋なんかを出しそうなところに,選りに選って汗が吹き出る店が二軒も、左右にぱーんと大きく描かれているのだ。そして、客のつもりなのだろう。店の前には、ムーミンもどきの黄色と緑色の大きなお化け状の人物(?!)が二人……。そして絵のあちこちには、めらめらと燃え上がる真っ赤な炎みたいなものも配されていて,もうここまでやられると、力なく笑ってしまうしかないデザインである。あきれ果ててはいるのだけれど、でも時々,どういうつもりなのかと眺め入ってしまうのだから、宣伝物としては成功しているのかもしれない。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1892005

 今日の月すこしく欠けてありと思ふ

                           後藤夜半

語は「今日の月」で秋。陰暦八月十五日の月、中秋の名月のこと。「名月」に分類。昔は盗賊でも歌を詠んだという、今宵は名月。期待していたのに、満月と言うにはどうも物足りない。よくよく眺めてみるのだが、「すこしく欠けて」いるではないか。「すこしく」は「ちょっと」ではなく「かなり」の意だから、作者はそれこそ「すこしく」戸惑っている。おいおい、本当に今日が十五夜なのかと、誰かに確かめたくなる。天文学的なごちゃごちゃした話は置いて、名月に「真円」を期待するのは人情だから、作者の気持ちはよくわかる。この場合は、作者の「真円」のイメージが幾何学的にきつすぎたようだ。似たような思いを抱く人はいるもので、富安風生に「望月のふと歪みしと見しはいかに」がある。やはり「望月」は、たとえば盆のように真ん丸でないと、気分がよろしくないのだ。それが歪んで見えた。「ふと」とあるから、こちらの目の錯覚かなと、名月に対して風生は夜半よりも「すこしく」謙虚ではあるのだが……。工業の世界には真円度測定機なんてものもあるほどに、この世に全き円など具体的には存在しない。それを人間から名月は求められというわけで、月に心があるならば、今年は出るのをやめたいなと思うかもしれませんね。さて、今夜の月はどんなふうに見えるでしょうか。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


August 0282008

 涼しやとおもひ涼しとおもひけり

                           後藤夜半

し。暑い夏だからこそ、涼しさを感じることもまたひとしお、と歳時記にある。朝涼、夕涼、晩涼、夜涼から、風涼し、星涼し、灯涼し、鐘涼しなど、さまざまなものに、ひとときの涼しさを詠んだ句は多い。涼し、は、読むものにわかりやすく心地よい言葉であり、詠み手にとっても、使いやすく作りやすい。それにしてもこの句は、さまざまな小道具や場面設定がいっさい無い。暑さの中を来て木陰に入ったのか、あ、涼しい、とまず思う瞬間があり、それから深く息を吐きながら、やれやれ本当に涼しいな、と実感しているのだろう。その、短い時間の経過を、涼しや、と、涼し、で表現することで、そこに感じられるのはぎらぎらとした真夏であり、涼し、という季題の本質はそこにあるのかとも思えてくる。作られたのは昭和三十九年、東京オリンピックが開催された年の七月。炎天下、新幹線を始めさまざまな工事は最終段階、暑さと熱さでむせかえるような夏だったことだろう。『脚注シリーズ後藤夜半集』(1984)所収。(今井肖子)


July 2172010

 楽屋着も替えて中日や夏芝居

                           中村伸郎

者は夏の稽古場では、たいてい浴衣を着ている。からだにゆるくて動きやすいからである。若い役者はTシャツだったりする。掲句は本公演中での楽屋着である。こちらも趣味のいい柄の浴衣を、ゆったりと着こなしていたりする。公演も中日(なかび)頃になれば、楽屋着も替えるのは当然である。舞台ではどんな役を演じているにしても、楽屋ではがらりとちがった楽屋着にとり替えて、楽屋仲間や訪問客と気のおけない会話をかわすひとときでもある。楽屋着をとり替えて、さて、気分も新たに後半の公演にそなえようというわけである。舞台とはちがった楽屋のゆったりとした雰囲気が、それとなく感じられるような句である。江戸時代、夏は山王や神田をはじめ祭が盛んで、芝居興行は不振だったことから、若手や地位の低い役者が一座を組んで、力試しに興行したのが夏芝居や夏狂言だった。掲句の「夏芝居」は、もちろん現代の夏興行の芝居を指している。後藤夜半に「祀りある四谷稲荷や夏芝居」がある。伸郎(のぶお)は文学座から最後は劇団「円」の代表となった。この役者の冷たいまでに端正な風貌とねじ込んだようなセリフまわしは、小津映画や黒澤映画でもお馴染みだった。随筆・俳句集『おれのことなら放っといて』がある。平井照敏編『俳句歳時記・夏』(1969)所載。(八木忠栄)




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