Oc句

September 1291996

 大空の雲はちぎれて秋祭

                           前田普羅

月のこの国は、お祭りでいっぱい。毎日、日本のどこかで祭がある。なんの変哲もない句であるが、まっすぐに秋祭の気分をとらえていて、心に残る。敗戦直後の句であり、しかも富山在住の普羅が空襲で一切を失ったことを知る者にとっては、悲しいくらいに美しい詩心が感じられよう。以後、普羅は漂白の人となる。妻無く(昭和18年に死別)、子無し。といっても、映画「寅さん」の呑気な放浪とは違うのである。門人を頼っての苦しい「旅」の連続であったという。『雪山』(ふらんす堂文庫)所収。(清水哲男)


January 2511998

 この雪に昨日はありし声音かな

                           前田普羅

訣の句。前書に「昭和十八年一月二十三日夕妻とき死す、二十四日朝」とある。ときに普羅五十九歳。死と雪といえば、なんといっても宮沢賢治の「永訣の朝」が有名だ。「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ/みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ……」。賢治は二十七歳だった。賢治の詩がパセティックなのに比して、普羅の句は静謐な心境を写している。別れた対象の違いもあるが、やはり年輪から来る覚悟の差であろう。「家にも盛りがある」と書いたのは現代詩人の以倉紘平だが、普羅の境涯は妻の死を契機にするようにして、雪崩れのように下降していった。二年後には富山空襲で一切を失い、老いの身に漂泊の日々がつづくことになる。もとより誰にも自分を待ち受けている運命はわからぬが、家人の「声音」や物音が聞こえる状態にあれば、それをもって、まずは幸福な時期と言うべきなのであろう。『春寒浅間山』(1946)所収。(清水哲男)


September 2091998

 虫なくや我れと湯を呑む影法師

                           前田普羅

んでいるのは「茶」ではなく「白湯」。健康上の理由からだろうか、この頃の普羅は「白湯」を呑むことに努めていたようだ。「がぶがぶと白湯呑みなれて冬籠」の句もある。白湯だから味わって呑むのではなく、一気のガブ呑みだ。ふと見ると、壁に写った影法師も同じ姿で一生懸命に付き合ってくれている。外では、虫の音しきり。わびしいような滑稽なような、作者の文字通りの微苦笑が目に見えるようだ。ところで「影法師」であるが、光源は電灯だろうか、それともランプだろうか。大正も初期の句だから、このあたりは問題だ。どちらの可能性もある。私の好みとしてはランプの光にゆらゆらと揺れているほうが面白いのだが、実際のところはわからない。普羅の略歴を読んでも、そんなことは書いてない。古い作品は、これだから厄介だ。ただ、光源が何であれ、一つ言えることは、当時の人たちはみな、現代の私たち以上に灯りには敏感だったということである。句のように影法師に着目するのも、そのあらわれだろう。光あるところには必ず影があるというわけだ。いまは、光の氾濫が影の存在を希薄にしている。精神のありように影響しないはずはない。中西舗士編『雪山』(1992)所収。(清水哲男)


October 22101998

 秋霧のしづく落して晴れにけり

                           前田普羅

辞麗句という言い方がある。もちろん俳句の「句」を指しているわけではなく、よい意味に使われることのない言い方だが、この句を読んだ途端に、私はこれぞ文字通りに率直な意味での「美辞麗句」だと思った。とにかく、しばし身がしびれるくらいに美しい句だからである。光景としては、濃い秋の霧がはれてくるにつれて、上空の見事に真青な空が見えてきた。周囲の霧に濡れた草や木々はいまだ雫を落としており、そこにさんさんと朝日があたりはじめたというところだろう。この句が美しくあるのは、なんといっても「秋霧の」の「の」が利いているからだ。「秋霧のしづく」を落としている主体は草や木々であることに疑いはないが、しかし、この「の」はかすかに「秋霧」そのものが主体となっている趣きも含んでいる。つまり、この「秋霧」はどこか人格的なのであり、くだいていえば「山の精」のような響きをそなえている。そのような「山の精」が雫を落としている……のだ。舞台の山も登山などのための山ではなく、山国で山に向き合って生活している人ならではの山なのであり、山に暮らしている人ならではの微妙な、そして俳句ならではの絶妙な言葉使いが、ここに「美麗」に結晶している。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)


January 2411999

 この雪に昨日はありし声音かな

                           前田普羅

書に「昭和十八年一月二十三日夕妻とき死す、二十四日」とある。戦争中だった。当時、富山在住の作者は五十九歳。妻を亡くした翌日の吟だから、ほとんど自然に口をついて出てきた一句であろう。身構えもなければ、熟慮の跡もない。それだけに、つい昨日まで作者に話しかけていた妻の声が、私たち読者にも聞こえるような、そんな臨場感が伝わってくる。何事もなかったかのように降る雪の、昨日とかわらぬ白さが、いまさらながら目にしみるようだ。幸運なことに、私にはこの喪失感を真に味わえる体験はないのだけれど、この淡々とした句のなかに、しかし男のうろたえた気配というものだけは知覚できる気がする。句のどこにそれを感じるかと問われると困ってしまうが、一気に、しかし静かに吐き出された感慨のなかの皮膚感覚の欠落ぶりにおいて、そんな気がするということである。茫然の感覚には、生きながら死んでいるような無自覚さがあるだろうからだ。したがってこの句は、亡き妻を追悼しているというよりも、みずからの気を確かに保つためのそれのように写るのである。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)


September 2591999

 秋出水乾かんとして花赤し

                           前田普羅

風や集中豪雨のために洪水となる。それが「秋出水(あきでみず)」。句は、洪水がおさまって一段落したころの様子を詠んでいる。信じられないような青い空が戻ってきて、人々は後片づけに忙しい。出水にやられると、何もかもが泥だらけになってしまうので、とにかく始末が悪いのだ。もちろん、水に漬かった花々も泥にまみれている。赤い花というのだから、曼珠沙華だろうか、それとも鶏頭の類だろうか。ふと目をやると、いつもよりひときわ花の赤い色彩が鮮やかに映えて見えた。そういう情景だ。出水の灰色に慣れた目で見るのだから、泥のついた花であろうと鮮やかに見える理屈だが、普羅の意識はもっと先へと自然に進み、「乾かんとして」と、いわば「花の意志」を詠み込んでいる。俳句の素人と玄人を識別する物差しがあるとすれば、このあたりの詠み込み具合が基準の一つになるのだろう。同じような情景を詠んだ句は他にもたくさんあると思うが、「乾かんとして」と花に意志があるように自然に詠むのは、普羅ひとりである。しかもこの場合に、「乾かんとして」という表現は奇態なそれでもなんでもなく、言われてみれば「そうだなあ」というところが、実に技巧的でもあり、技巧を感じさせない技巧の妙でもある。「かなわねえなア」と、私などはうなだれてしまう。(清水哲男)


April 1142000

 山吹や根雪の上の飛騨の径

                           前田普羅

羅は、こよなく雪を愛惜した俳人だ。根雪の径は、さぞや歩きにくいことだろう。春とはいえ、まだ寒気も厳しい。「道」でも「路」でもない、飛騨の細く曲がりくねった山「径」である。黙々と歩いていくうちに、作者は咲きそめたばかりの可憐な山吹の花を認めた。根雪の白と山吹の花の黄。目に染みる。まさに「山吹や」の感慨が、ひとりでに胸中に湧いてくるではないか。心が洗われる美しい句だ。飛騨の土地を、私はよく知らない。一度だけ飛騨高山を訪れたことがあるが、季節は初秋であった。高山で「オーク・ヴィレッジ」という木工工房を開設したばかりのIさんに会うためだった。数えてみたら、もう二十年も前のことになる。Iさんは早稲田の理工を出てから、途中で一念発起して木工の世界に飛び込んだ人。「脱サラ」のはしりと言ってもよかろうが、彼のさわやかな人柄ともあいまって、飛騨高山の自然も人情も、とても好ましかった。その折りに、百年はもつ木机を、いつか私に経済的な余裕ができたら作ってもらう約束をしたような覚えがある。でも、いまだに私はぺなぺなの既製品の机にしがみついている体たらくで、注文をする余裕を持ちえていない。句には無関係だが、以来、そんなわけで飛騨と聞くとどきりとする。『雪山』(1992)所収。(清水哲男)


December 09122000

 遅参なき忘年会の始まれり

                           前田普羅

日あたりから、忘年会ありという読者も多いだろう。暮れの繁忙期を前に、早いうちにすませておこうというわけだ。放送業界では、押し詰まってくると忘年会どころではなくなる。「疑似新春番組」作りに追われてしまう。忘年会の良さは、結婚祝いやら厄落としやらのような集会理由が何もないところだ。一応は「一年の無事を祝し……」などと言ったりするが、そんなことは誰も真剣に思っちゃいない。無目的に集まって、飲んだり食ったりするだけ。考えてみれば、こんな集いはめったにあるものではない。だから、逆に嫌う人も出てくるけれど、おおかたの人の気分はなんとなく浮き浮きしている。無目的は、束の間にせよ、芭蕉に「半日は神を友にや年忘れ」があるように、世間のあれこれを忘れさせてくれる。掲句は、そのなんとなく浮き浮きした気分を詠んだ句だ。みんな浮き浮きしているから、他の会合とはちがって「遅参(ちさん)」もない。「遅参」のないことが、また嬉しくなる。何でもない句のようだが、忘年会のはじまるときの、いわば「気合い」を描いて妙である。ところで、急に別のことを思い出した。田舎にいたころは、学校に遅れることを「遅参」と言っていた。「遅刻」とは、言わなかった。たしか「通知表」にも「遅参」とあったような……。「刻」を相手の「遅刻」よりも、「参(集)」を相手の「遅参」のほうに、人間臭さを感じる。さて、今夜は二つの忘年会が重なっている。必然的に、片方は「遅参」となる。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)


April 2342001

 春尽きて山みな甲斐に走りけり

                           前田普羅

正期の句。大型で颯爽としていて、気持ちの良い句だ。ちょこまかと技巧を凝らしていないところが、惜春という一種あまやかに流れやすい感傷を越えて、初夏へと向かう季節の勢いにぴったりである。雄渾の風を感じる。甲斐の隣国は、信濃あたりでの作句だろうか。この季節に縦走する山々の尾根を眺めていると、青葉若葉を引き連れて、なるほど一心に走っていくように見える。動かぬ山の疾走感。「ああ、いよいよ夏がやってくるのだ」と、作者は登山好きだったというから、さぞや心躍ったことだろう。こういう句を読むと、気持ちが晴れて、今日一日がとても良い日になりそうな気がしてくる。ちょこまかとした世間とのしがらみも、一瞬忘れてしまう。エーリッヒ・ケストナーの詩集『人生処方詩集』じゃないけれど、私には一服の清涼剤だ。ケストナーが皮肉めかして書いているように、「精神的浄化作用はその発見者(アリストテレス)より古く、その注釈者たちよりも有効である」。すなわち、太古から人間の心の霧を払うものは不変だと言うことである。自然とともに歩んできた俳句には、だから精神浄化の力もある。現代俳句も、もう一度、ここらあたりのことをよく考えてみるべきではないか。自然が失われたなどと、嘆いてみてもはじまらない。掲句の自然なら、いまだって不変じゃないか。『雪山』(1992・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


December 21122001

 旅人に机定まり年暮るゝ

                           前田普羅

後間もなくの作。作者は年末年始にかけて、よんどころない事情から、旅をつづけなければならなかった。「旅人」に「机」が定まらないのは当たり前で、普段なら何とも思わないが、年の暮ともなると、しばし落ち着きたくなる。幸い長逗留できるところが見つかり、ほっと安堵している図だ。これで、ゆっくりした気持ちで年を越せる。おそらくは、その「机」で掲句を書いたのだろう。かりそめにもせよ、自分用の机があってはじめて安心できるとは、やはり言葉の人ならではの心境である。机があっても、一向に落ち着かない人も大勢いるはずだ。私だと、何が定まると安心できるだろうか。いまだったら、机よりもパソコンかなア……。しかし、実はこのときの作者は、尋常な事情からの「旅人」ではなかった。弟子だった中西舗土の文章を引いておく。「普羅の生涯と作品について特に見逃してはならないのは戦後の漂泊時代である。妻に先立たれ、家や家財を消失し、一人娘も嫁いで全くの孤独となり、門弟を訪ねて北伊勢の禅寺や大和関屋の門弟家に長逗留することもあった」。このことを知らなくても掲句は観賞できるが、知ってしまうと、普羅の安堵のいっそうの深さが思われる。戦後六年目にしてようやく東京都大田区に居を定めることのできた普羅だったが、やがて病臥の身となり、定住三年目(1954)の立秋の日に、ひっそりと世を去った。享年七十一歳。『雪山』(1992)所収。(清水哲男)


June 2262002

 向日葵の月に遊ぶや漁師達

                           前田普羅

語は「向日葵」で夏。若き日に、大正初期の九十九里浜で詠んだ句。ここは昔からイワシ漁の盛んな土地で、明治以後、二隻の船が沖合いでイワシ網を巻く揚繰(あぐり)網が取り入れられたが、砂浜に漁船を出し入れするのに多大の人力を要した。集落をあげて船を押し出す仕事を「おっぺし」と言い、1950年代までつづいたという。老若男女、みんなが働いていた時代だった。そんな労働から解放されて、集落全体にやすらぎの時が戻ってきた月夜に、なお元気な「漁師達」が浜で遊んでいる。酒でも酌み交わしているのか。「向日葵の月」とは、月光に照らされた向日葵が、また小さな月そのものでもあるかのように見えているということだろう。この措辞によって、現実の世界が幻想的なそれに切り替わっている。加藤まさおが書いた童謡「月の砂漠」の発想を得たのも九十九里浜だったそうだが、見渡すかぎりの砂浜と海にかかる月は、さぞや見事であるにちがいない。月と向日葵と漁師達。その光と影が力強い抒情を生んで、詠む者の胸に焼き付けられる。少年期の普羅はしばしば九十九里浜に遊んでおり、愛着の深い土地であった。臨終の床で「月出でゝかくかく照らす月見草」と詠み、死んだ。『定本普羅句集』(1972)所収。(清水哲男)


September 2592004

 稲架かけて飛騨は隠れぬ渡り鳥

                           前田普羅

語は「稲架(はざ)」で秋。「渡り鳥」も季語だが、掲句では「稲架」のほうが主役だろう。刈り取った稲を干すためのもので、地方によって「稲木(いなぎ)」や「田母木(たもぎ)」など呼び方はいろいろだし、組み方も違う。私の田舎では洗濯物を干すように、木の竿を両端の支えに渡して干していた。この句の場合も、似たような稲架ではなかろうか。びっしりと稲を掛け終わると、それまでは見えていた前方が見えなくなる。すなわち「飛騨は隠れぬ」というわけだ。一日の労働が終わった安堵の気持ちで空を振り仰げば、折しも鳥たちが渡ってくるところだった。涼しく爽やかな風が吹き抜けて行く秋の夕暮れ、その田園風景が目に見えるようではないか。「落ち穂拾い」などを描いたミレーの農民讃歌を思わせる佳句である。この稲架も、最近ではほとんど見かけなくなった。ほとんどが機械干しに変わったからだ。昨年田舎を訪ねたときに農家の友人に聞いてみると、田植えや稲刈りと同様に、機械化されたことでずいぶんと仕事は楽になったと言った。「でもなあ、機械で干した米はやっぱり不味いな。稲架に掛けて天日で干すのが一番なんじゃが、手間を思うとついつい機械に頼ってしまう……」。自宅用の米だけでもとしばらくは頑張ったそうだが、いつしか止めてしまったという。そうぼそぼそと話す友人は、決して文学的な修辞ではなく、どこか遠いところを見るようなまなざしになっていった。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


February 0222005

 面体をつゝめど二月役者かな

                           前田普羅

月は生まれ月なので、今月の句はいろいろと気になる。この句もその一つで、長い間気にかかっていた。多くの歳時記に載っているのだけれど、意味不明のままにやり過ごしてきた。「二月役者」の役者は歌舞伎のそれだろうが、その役者が何をしている情景かがわからなかったからである。で、昨日たまたま河出文庫版の歳時記を読んでいたら、季語の「二月礼者(にがつれいじゃ)」の項にこうあった。「正月には芝居関係、料理屋関係の人々は年始の礼にまわれないので、二月一日に回礼する風習があった。この日を一日(ひとひ)正月、二月正月、迎え朔日、初朔日といった。正月のやり直しをする日と考えるのである」(平井照敏)。例句としては「出稽古の帰りの二月礼者かな」(五所平之助)など。読んだ途端に、あっ、これだなと思った。つまり「礼者」を「役者」に入れ替えたのだ。そういうことだったのかと、やっと合点がいった次第。積年の謎がするすると解けた。いくら人に正体を悟られないように「面体を」頬かむりしてつつんではいても、そこは役者のことだから、立居振る舞いを通じて自然に周囲にそれと知れてしまう。ああ名のある役者も大変だなあと思いつつ、しかし作者は微笑しているのだろう。大正初期の句だが、私などにはもっと昔の江戸の情景が浮かんでくる。なお、「二月」は春の季語。中西舗土編『雪山』(1992・ふらんす堂)所収。(清水哲男)


August 2282008

 新涼や豆腐驚く唐辛子

                           前田普羅

句で擬人法はいけないと習う。いつしか自分も人にそう説いている。なぜいけないか。表現がそのものの在りようから離れて安易に喩えられてしまうからだ。「ような」や「ごとく」を用いた安易な直喩がいけないと教わるのと同じ理屈である。しかしよく考えてみると罪は「擬人法」や「直喩」にあるのではなくて「安易な」点にある。両者は安易になりがちなので避けた方がいいという技術のノウハウがいつしか禁忌に変わる。「良い句をつくる効率的で無難な条件」からはねられた用法が「悪しき」というレッテルを貼られるのである。豆腐が、添えられた唐辛子に驚いているという把握は実に新鮮で素朴な感動を呼ぶ。俳句の原初の感動が「驚き」にあるということを改めて思わせてくれる。こういう句は造りが素朴なので、類型を生みやすい。そうか、このデンで行けばいいのかなどと思って、パスタ驚く烏賊の墨などと作るとそれこそが安易で悪しき例証となる。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)


February 2822016

 山吹にしぶきたかぶる雪解滝

                           前田普羅

月末に、正津勉著『山水の飄客 前田普羅』(アーツアンドクラフツ)が上梓されました。大正初期に頭角を現してきた虚子門四天王に、村上鬼城、飯田蛇笏、原石鼎、そして、前田普羅がいます。しかし、他の三人が著名なのに比べて普羅の名は知られておらず、また、秀句が多いのにもかかわらず手に入りやすい句集がなく、その句業や生涯についても謎めいたところのある人です。この本は、俳壇において日陰者の境涯に追いやられてきた普羅の生涯に光を当て、また、年代順に取りあげられた句には普羅自身の自解も多くほどこされており、しばしば膝を打ちながら読みました。たとえば、句作に日が浅い29歳(大正1)の作に「面体をつつめど二月役者かな」があって、これなどは自解があってようやく腑に落ちます。「町を宗十郎頭巾をかぶつた男が通る。幾ら頭巾で面体を隠しても、隠せないのは体から滲み出る艶つぽさだ。役者が通る、役者が通る。見つけた人から人に町の人はささやく。暖かさ、艶やかさを押しかくした二月と、人に見られるのを嫌つて面体をつつんだ役者の中に、一脈の通ずるものを見た」と説明されて、ここの舞台は横浜ですが、江戸と文明開化がさほど遠くないご時世をも伝えてくれています。この小粋な中に屈折した句作は、渓谷をめぐり始めることによって「静かに静かに、心ゆくままに、降りかかる大自然に身を打ちつけて得た句があると云ふのみである」(『普羅句集』序・昭和5)と宣言して、山水に全身で入り込む飄客となっていきます。掲句はその中の一つ。「山吹/しぶき/たかぶる」の三つのbu音が、「雪解滝」のgeとdaに連なって、早春の滝のしぶきの冷たい飛沫を轟音の濁音で過剰に描出しつつも、山吹を定点に据えることによって画角がぶれていません。動には静がなければ落ちが着かないということでしょう。掲句を、肌と耳の嘱目ととりました。この本から、普羅は山吹に思い入れのある俳人であることも知り、その佳句は多く、「鷹と鳶闘ひ落ちぬ濃山吹」「山吹の黄葉ひらひら山眠る」「青々と山吹冬を越さんとす」がつづきます。(小笠原高志)




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