cjT句

September 2891996

 霧よりも上で朝餉の菜を洗ふ

                           岡田史乃

代ならではの抒情。人が高いところ(高層住宅)で暮らしはじめてから、さほどの年月は経っていないが、なるほど、このように実感している人もいるわけだ。朝食を終えると、作者は霧の中へと出て行く。ここで霧は幻想の世界ではなく、むしろややこしい人間関係などを含んだ現実界の象徴である。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


March 1431997

 春光へすべり落ちたる領収書

                           岡田史乃

スにでも乗ろうとしたときだろうか。財布から小銭を取り出そうとして、中の領収書がひらひらと滑り落ちてしまった。他人から見ればほほえましい光景だが、領収書というものは、当人にとってはけっこう生々しかったりする。それが明るい春の日差しのなかに舞うということになると、生々しさが一瞬気恥ずかしさに転化する。束の間の微妙な心の揺れを描いていて、味わい深い句だ。作者には、この種の繊細な神経に触発された作品が多い。「繃帯の指を離れよしゃぼん玉」「ぼたん雪机の上のオブラート」など。『浮いてこい』所収。(清水哲男)


January 1011998

 風邪声で亭主留守です分りませぬ

                           岡田史乃

かを至急に知りたくて、作者は知り合いの男性に電話をかけたのだろう。ところが、電話口に出てきたのは彼の奥さんで、応対はきわめてつっけんどんだった。どうやら、無愛想な相手は風邪を引いているらしい。途端に、作者も不愉快な気分になってしまった。この句から読み取れるのは、風邪声をダシにしての女性同士の一瞬の確執である。電話がかかってきた側は、風邪を引いているという理由におぶさって冷たい態度に出ているわけだが、かけた作者としてはたかが風邪ごときで大げさなことだと腹を立てている。お互いが彼をめぐって、ちょっとした鞘あての格好になってしまったのだ。たぶん、日頃から好感を持てないでいる同士なのだろう。電話はときに暴力にもなるが、ときには故なき暴力を受けているフリを、相手にアピールできるメディアでもある。作者は敏感に、そこに着目している。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


February 1621998

 見にもどる雛の売場の雛の顔

                           岡田史乃

ういうことって、時々ありますね。買い求めたいというのではなく、もう一度よく見て、記憶にとどめておきたい衝動にかられることが……。このように、誰もが「思い当たる」世界を描くのは、俳句ならではの表現法でしょう。自由詩は多く説得する文学ですが、俳句は多くしゃらくさい説得など拒否する文学とも言えるかと思います。現実の事物や現象に取材して、自らの感性を読者の「心当たり」の方向に開いていくのですから、簡単にできることではありません。それこそしゃらくさい個性とやらを、いかに消すか。あるいは、いかに隠すか。誰にでも一応は可能な文学の、もっとも困難なポイントはここでしょう。妙なことを言うようですが、俳人は、その意味でジャーナリスト感覚がないと大成できないような気がします。たとえば正岡子規を「寝たきりジャーナリスト」、富田木歩を「座りっぱなしジャーナリスト」などと考えてみると、それこそ「心当たり」がいろいろと出てきそうです。あと半月ほどで雛祭。娘たちが小さかった頃は、テレビの上に学年雑誌の付録のお雛様を飾っていました。小学館よ、ありがとう。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)


March 2131998

 前略と書いてより先囀れり

                           岡田史乃

無精なので、私にはこういうことがよく起きる。「前略」と書きはじめたまではよいのだが、さて中身をどう書いたらよいものか。「前略」なのだから、簡潔な用向きだけを書けばすむ。しかし、この簡潔が曲者であって、なかなかまとまらない。思案しているうちに、春の鳥たちの囀(さえず)りが耳に入ってきた。で、しばし、手紙のつづきは思案の外に出てしまうのである。この句では、気に染まぬ相手宛の手紙だったのかもしれない。ところで手紙の作法では、「前略」と書きだした場合、男は「早々」などと締め、女は「かしこ」ないしは「あらあらかしこ」と挨拶して終る。最近まで知らなかったのだが、この「あらあら」とは「粗粗」、つまり「十分に意を尽くせませんで……」という意味なのだそうである。手紙の粗略を詫びているのだ。私はまた、女性らしい間投詞か何かの転用かと思っていた。もっとも、これまでに「かしこ」つきの手紙はもらったことがあるが、残念なことに「あらあらかしこ」はない。当方が、粗略な性質の故であろうか。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)


July 1271998

 かなしみの芯とり出して浮いてこい

                           岡田史乃

語は「浮いてこい」。「ええっ」と思う読者のほうが、もはや多数派だろう。かくいう私も、書物のなかだけの知識しかなく、江戸時代の玩具から発した季語のようだ。「浮人形」ともいい、要するに夏の水遊びで、いまの幼児も遊ぶ〔と思うけど〕金魚だとか舟や鳥の形をしたおもちゃだと思えばいいらしい。昔、縁日でよく見かけた樟脳などを利用して水面を走らせるセルロイド製の船も、「浮いてこい」の仲間だと、書物には書いてある。むろん作者は実物を知っているわけだが、この句を読むと、そうした玩具のイメージよりも「浮いてこい」という言葉のほうに発想の力点がかかっていると思える。たかが玩具なのだけれど、その名前を知っている作者にしてみれば、そのちっぽけな姿にすら声援を送りたい何か悲しい事情があったのだろう。芯を取り出したいのは、作者のほうなのだ。それにしても「浮いてこい」とは、面白いネーミングではある。たぶん昔の親は、この玩具を水の中に沈めては、浮いてこないのではないかと心配顔の子供に「浮いてこい」と唱えさせたのだろう。さて、「浮いてこい」がいまの縁日にあるかどうか、機会があったら探してみることにしよう。『浮いてこい』〔1983〕所収。(清水哲男)


December 03121998

 寒柝や長き手紙の封をせり

                           岡田史乃

柝(かんたく)は、寒い冬の夜に打ちならされる拍子木の音のこと。「火の用心」と声を上げながらの拍子木の音は、どこか物悲しさを感じさせる。長い手紙を書き終えてほっと安堵した作者の耳に、遠くの方から寒柝が聞こえてきた。しっかりと封をしながら、時計を見るまでもなく、夜も相当に更けてきたことを知るのである。長い手紙なのだから、時間を忘れて書くことに没頭していた。書き終えて、ふと我に帰った状態を巧みに捉えた句だ。そして、この情感を伝える季節としては、やはり冬がふさわしい。他の季節では、きっぱりと書き終えた気分が曖昧になってしまうからだ。余談になるが、昨今の東京の出火原因は、圧倒的に放火が多いのだそうだ。三鷹市あたりでは、昼の放火も増えてきたという。ならば、人はなぜ火を放つのか。有名な「八百屋お七」事件以来のこの謎にいどんだのが、多田道太郎さんの『変身放火論』(講談社・1998)である。これからの夜長の読み物として、お薦めしておきたい。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


January 2712000

 狐着て狸のごとく待ちをりぬ

                           岡田史乃

も狸も冬の季語。句の場合は、表に現れているのが狐であり、狸は心理的な産物なので、いわゆる季重なりではないと見たい。当歳時記では「襟巻」に分類した。さて、作者は狐の襟巻きをして、人を待っている。でも、待っている心持ちは狸のようだと言うのである。狐は人を「化かし」、狸は自分で「化ける」。だから、作者の気分は、これから会う人を「化かす」というのではなくて、「化けて」待っているというわけだ。めったにしない狐の襟巻きなので、自然にそんな気持ちになっている。心理的にもそうだし、首筋や肩のあたりの触感も、狸みたいな気分に加わっている。「くくっ」と一人笑いももれているようだ。最近は、とんと狐の襟巻き姿にお目にかからない。持っている人はあっても、動物愛護団体などの目が気になって、着て歩く勇気が出ないこともあるのだろうか。それとも、もうファッションとして時代遅れということなのか。面白いもので、そんな襟巻き姿の女性を見かけると、必ず反射的に、狐とご当人の顔とを見比べたものだった。見比べて、べつに何を思うというのではなく、同じ場所に顔が二つあることへの、軽いショックからだったのだろう。我が家にも、母の狐があった。しかし、母がして出かける姿を一度も見たことはない。そんなご時世じゃなかった。蛇足ながら「狐の手袋」はジキタリスの別称。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)


April 1042000

 そんなことよく思ひつく春の水

                           岡田史乃

て、「そんなこと」とは、どんなことなのか。「そんなこと」は、書いてないのでわからない。 わかることは、「そんなこと」が「そんな馬鹿なこと、どうでもよいこと」に近い中身であろうということだけ。もしも「そんなこと」が、心より賛嘆すべき内容を持っていたとしたら、「春の水」と照応させたりはしないはずだ。水温む候、作者の機嫌はすこぶるよろしく、「そんなこと」にも立腹せずに微笑して応えている。また、あなたの馬鹿話がはじまった。それにしても、次から次へと、よく「そんなこと」を思いつく人であることよ。わずらわしい時もあるけれど、今日はむしろ楽しい感じだ。目の前には、豊かな春の日差しを受けてキラキラと輝く水が流れている。全て世は事もなし。束の間ではあるかもしれないが、至福の時なのだ。ところで、句の成り立ちを作者の立場になって考えてみると、上中の十二文字は素直にすらりと出てきたはずだが、さあ、下五字をどうつけるかには少なからず腐心したにちがいない。それこそ「春の水」を「思ひつく」までには、相当に呻吟したと推察される。すなわち、突然口を突くように出てきた上中のフレーズを、簡単に捨てるには忍びなかったということ。反対に、実は一切そんな苦労はなかったのかもしれないが、長年俳句を読んでいると、つい「そんなこと」までをも気にかけてしまう。ビョーキである。史乃さん、間違ってたらごめんなさい。『ぽつぺん』(1998)所収。(清水哲男)


June 2462000

 篠の子と万年筆を並べ置く

                           岡田史乃

語は「篠(すず)の子」。篠竹(しのたけ)の筍のことだ。小指ほどの細さで、風味がよいことから山菜として親しまれている。「篠の子の果して出でし膳の上」(細川加賀)。さて、俳句ではよく「取り合わせの妙」ということを言う。短い詩型だから、読者の思いも及ばぬ物や事象を取り合わせて並べると、その意外な組み合わせが独特の世界を築き上げる。なかにはウナギと梅干しなどのように「食いあわせ」みたいな句もある(笑)が、俳句の重要な作法の一つだ。掲句も、一見すると「取り合わせ」句に思えるかもしれないけれど、そうではないところが面白い。「篠の子」と「万年筆」を取り合わせているのは句の外なのであって、句の内側はまったくの写生句である。客観描写だ。俳句を読み慣れている読者なら、「あっ、やられた」と微苦笑するにちがいない。細くてシックな女性用の万年筆の横に、同じくらいの細さの篠の子を「並べ置く」。その行為自体にさしたる意味はないにしても、並べてみると万年筆も篠の子も、そして机上の雰囲気もが、いつもと違って見えてくるだろう。つまり、作者は日常の世界で具体的に俳句を実践し、それをレポートしたのが掲句ということになる。ちなみに、作者は俳誌「篠(すず)」の主宰者である。「史乃」を「篠」に読み替え、もう一度ひねったわけだ。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


December 11122001

 あばずれと人がつぶやく桜鍋

                           岡田史乃

語は「桜鍋」で冬。馬肉を味噌仕立て、またはすき焼き風にする鍋料理のこと。馬肉は牛肉などとは違い紅みが濃いので、「桜」という異称が生まれた。さて、また「あばずれ」とは懐かしいような言葉だ。辞書的に言うと、悪く人ずれがして厚かましいこと。また、そのような者、および、そのさま。古くは男女ともに言ったが、現在では女性に限って言う。いわゆる「すれっからし」である。鍋の席で、いささかはしゃいで声高に誰かれとしゃべっていたら、少し離れた席で「人」が「あばずれ」と低くつぶやくのが聞こえてしまった。つぶやきだから、誰に向けられたものでもないかもしれない。が、つぶやいた「人」と作者との関係において、直感的に自分に向けられた気がしたのだ。途端に、すっと楽しさが醒めてしまった。「人」とぼかしているのは、その「人」の名前を隠そうというのではなく、もっと広がりのある「人々」を暗示させたかったのだと思う。「人」は、ここで「人々」であり「みんな」なのであり、もっと言えば「世間」なのである。ああ、この席で談笑している「みんな」は、腹の中では私のことをそう思っているのか……。単なる妄想に過ぎないと、そんな気持ちを打ち消そうとはするのだが、打ち消せない自分がいる。どうにもならない。境遇的に、あるいは身体的に弱っているとき、誰にでもこういうことは起きるだろう。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


March 0632002

 官女雛納め癖なるころび癖

                           岡田史乃

語は「雛納め」で春。飾りつけた日から奇数にあたる日を選ぶというが、そこまで神経を働かせる人がいるのかどうか。蕎麦をそなえ、食べてから納めるとも、ものの本には書いてある。例年のように納めながら、作者ははたと気がついた。どうもこの「官女」は不安定でころびやすいと思っていたら、長年の納め方に無理があって、妙な癖がついてしまっていたのだ。といって、納め癖を強引に直して納めようとするると、今度はどこかがねじ曲がったりするかもしれない。最悪の場合には、身体が損傷してしまうかもしれない。おそらく作者はそう考えて、納め癖のついたままに、いつものように箱に収めたのだろう。情景としては、それだけの話だ。が、句はそれだけの話に終わらせてくれない。作者自身に「ころび癖」があるかどうかは知らないが、もしかすると、あるのかもしれない。だとすれば、ここで作者は苦笑しているはずだ。同様に、掲句は読者に対しても自分ならではの癖について、ちょっと関心を引っ張ってくるようなところがある。悪癖というのではなく、たとえばよく何でもないところでつまずいたり、あちこちに肘や膝をぶつけたりと、不注意からというよりも癖としか言いようのない習性について、読者が苦笑するところまで引っ張ってくる。少なくとも、私は引っ張られてしまった。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


October 07102002

 とつぜんに嘘と気づいて薮虱

                           岡田史乃

薮虱
語は「薮虱(やぶじらみ)」で秋。名前は知らなくても、写真から思い当たる方も多いだろう。山道や野原を歩いていると、いつの間にか薮虱の実が衣服についていることがある。動物にも付着し、この植物が種をばらまくための知恵と言ってよい。そんな薮虱がついていることに「とつぜん」気づくように、誰かに騙されていたことに気づいたというのである。こういうことは、よく起きる。笑い話程度の嘘のこともあれば、深刻な中身をはらんだ嘘のこともある。とにかく、とつぜんに「ふっ」と気がつくのだ。嘘ばかりではなく、なかなか思い出せなかった人の名前や地名など、これはいったい如何なる脳の仕組みから来るものなのだろうか。句に戻れば、嘘の中身は薮虱の実が簡単には払い落とせないことからすると、笑ってすませられるようなものではないことがうかがえる。不愉快を覚えて力任せに払い落としてみるが、たとえ実だけは落ちたとしても、何本かのトゲが残ってしまう薮虱のように後を引く嘘なのだ。嘘と薮虱。取り合わせの妙に、作者の感度の良さを称賛しないわけにはいかない。写真は、青木繁伸(群馬県前橋市)氏の撮影によるが、部分を使わせていただいた。薮虱の花の写真は多いのだけれど、命名の所以である実の写真は意外に少ない。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


April 2942003

 飛ばさるは事故かそれとも春泥か

                           岡田史乃

通事故にあった句。一瞬、何が自分の身に起きたのかがわからなくなる。私の場合は、こうだった。もう深夜に近い人影もまばらな吉祥寺駅前の交差点で、信号はむろん青だったが、普通の足取りで渡っていたら、前方の道から走ってきた右折車が有無を言わせぬ調子で突っ込んできた。あっと思ったとたんに、私の身体は嘘のように軽々とボンネットに乗っており、次の瞬間には激しく路上に叩きつけられていた。ボンネットに乗ったところまでは意識があったけれど、下に落ちてからは、掲句のように頭が真っ白になった。何が何だかわからない。したたかに腰を打って、しかし懸命に立ち上がったところに運転者が降りてきた。「大丈夫ですか」。こんなときにはそんなセリフくらいしか吐けないのだろうが、大丈夫もくそも、こっちの頭は大いに混乱している。とにかく歩道にあがって、そやつの顔を街灯で見てみると、こっちよりもよほど若く、よほど顔面蒼白という感じだった。私が黒いコートを着ていたので、まったく見えなかったと弁解し、「すみません、すみません」と繰り返すばかり。名刺はないけれど、近所の中華料理店で働いていると店の名前と場所と電話番号をメモして渡してくれたので、こちらもとにかく立ててはいられるのだからと、警察沙汰にするのも可哀想になってきて、今後は気をつけるようにと放免してやった。ところで最近、この句の「飛ばさるは」について、「飛ばさるるは」ないしは「飛ばされしは」でないと表現上まずいという人たちの話を雑誌で読んだ。事が事故でなければ、たしかにまずい。しかし、文法的な整合性に外れていると知りつつも、あえて作者は「飛ばさるは」として、交通事故にあった切迫感を出しているのだと思う。そのへんの機微がわからないとなると、俳句の読者としてはかなりまずいのではなかろうか。「俳句」(2000年3月号)所載。(清水哲男)


December 23122003

 落日をしばらく見ざり十二月

                           五味 靖

二月の特性を、物理的な面と心理的な側面の両面から浮き上がらせた佳句だ。十二月は冬至を含む月だから、一年中で最も日照時間が短い。夜明けも、そして日没も早い。だから、オフィスなど室内で仕事をしていると、仕事が終わるころにはもう日が暮れていて、「落日」は物理的に見られない理屈だ。加えてこの月は多忙なので、たとえ日没時間に戸外にいたとしても、悠長につきあう心理的なゆとりのないときが多い。したがって「しばらく見ざりし」いう思いが、たとえば今日のような休日にぽっとわいてくるわけだ。なんでもないような句だけれど、会社勤めの読者には大いに共感できる世界だろう。十二月の句には多忙を詠んだ心理的主観的かつ人事的なものが多いなかで、ちゃんと物理的な根拠も踏まえているところが気に入った。ちなみに、今日の東京地方の入日は四時三十二分だ。暗くなってから「まだこんな時間なのか」と、あらためて実感する人もいるだろう。そのものずばりの句が、岡田史乃にある。「日没は四時三十二分薮柑子」。季語である「薮柑子(やぶこうじ)」の赤い実は正月飾りに使われるから、これまた物理的心理的に押し詰まった感じをよく描き出している。『武蔵』(2001)所収。(清水哲男)


April 0242004

 別々に拾ふタクシー花の雨

                           岡田史乃

語は「花の雨」。せっかくの花見だったのに、雨が降ってきたので早々に切り上げてバラバラにタクシーで帰る。散々だ。とも読めなくはないけれど、そう読んだのでは面白くない。むしろ作者は多忙ゆえか他の何かへの関心事のせいで、花のことなどあまり頭になかったと解すべきではなかろうか。誰かと会って話し込み、表に出てみたらあいにくの雨になっていた。傘を持ってこなかったから仕方なくタクシーで帰らざるをえず、お互い別方向なので「別々に拾ふ」ことになった。そこでその人とは別れ、タクシーを探す目で街路をあちこち見つめているうちに、遠くの方に咲いた桜が雨に煙っている様子がうかがわれたのだろう。そこで、ああ今年も花の季節が来ているのだと、作者はいまさらのように気づいたのだった。さすれば、この雨は「花の雨」だとも……。このとき、タクシーを別々に拾うという日常的な散文的行為に舞い降りたような季節感は、はからずも作者の気持ちを淡い抒情性でくるむことになったのである。そしてまた、その照り返しのようにして、つい先ほどまで会っていた相手との関係に散文性を越えた何かを感じたような気がする。シチュエーションは違うにしても、こういう感じは誰にもしばしば起きることだろう。たいていはその場かぎりで忘れてしまう感情だが、掲句のように詠み止めてみるとなかなかに味わい深いものとなる。とはいえ、この種の感情をもたらしたシーンを、的確に詠み込むシャッター・チャンスを掴まえるのは非常に難しい。だからこの句には、苦もなく詠まれているようでいて、いざ真似をして作ってみると四苦八苦してしまうような句のサンプルみたいなところもある。『浮いてこい』(1983)所収。(清水哲男)


March 2332008

 鉛筆を短くもちて春の風邪

                           岡田史乃

年は、我が家には受験生がいたため、家族全員風邪を引かないようにと、例年よりも注意をしていました。昨年末の予防接種はもちろん受け、手洗い、うがいを欠かしませんでした。一年間努力してきた結果が、父親の不摂生で台無しにしてしまってはと、気をつかいながら冬の日々をすごしていたのです。この句の、「春の風邪」という言葉を見てまず思ったのは、ですから、緊張から開放されて、ほっとしたところに風邪を引いてしまった人の姿でした。風邪による体のだるさと、陽気の暖かさによるだるさ、さらには緊張の解けた精神的なだるさも加わって、今日は家でゆっくりと休んでいるしかないのだというところなのでしょうか。それでも、どうしても今日中に連絡しなければならない事柄はあり、手紙を書き始めたのです。文字を書きながらも体はだるく、前へ前へと傾いて行きます。鉛筆の持ち方もいつもよりしっかりと、根元のところを持って、一文字一文字力を込めなければ、きちんとしたことが書けません。「春の風邪」と、「鉛筆を短く持つ」という動作の関係が、無理なく、ほどよい距離で繋がっています。『四季の詞』(1988・角川書店)所載。(松下育男)




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