ニ敏句

October 02101996

 秋の日の老齢ねむりつづけたり

                           平井照敏

新作。「槙」(1996年8月号)所載。涼しくなって実に良く眠れることよ、特に老人は……。しかし、眠りつづけられると少し不気味。同じ号に「病人と老人の町秋ふかむ」あり。とすればこれは病院の句? 最近の映画にも『眠る男』というのがあった。(井川博年)


December 19121997

 金色の老人と逢ふ暮れの町

                           平井照敏

和50年代の句でしょう。不思議な感触の句である。この金色の老人は何者なのであろうか。怪人二十面相の黄金仮面か、それとも単なる夕日に頬を輝かせているホームレスの年寄りか、あるいはこの庶民の難局の救済にあらわれた菩薩のたぐいなのだろうか。謎が謎を呼ぶのである。初期の石川淳の小説には、よくこうした不思議な人物が現れたが、それらは終戦直後の焼け跡、闇市によく似合っていた。この句の作られた50年代には、本当の金色老人があちこちにいたのであるが、バブル崩壊後のいま、彼等はどこにいったのであろうか。『天上大風』所収。(井川博年)


November 15111998

 ふと咲けば山茶花の散りはじめかな

                           平井照敏

ことに句の言う通りであって、山茶花ほどにせわしない花はない。「ふと」咲いたかと思うと、すぐに散りはじめる。散ったかと思う暇もなく、すぐに次々と咲きはじめる。したがって、いつも咲いているが、いつも散っている。桜花のように、散るのを惜しまれる花ではなくて、散るのをむしろアキレられる花だと言ってもよいだろう。古来、この花についてだけは、異常なほどに散る様子を詠んだ句が多いのもうなずける。作者の編纂した『新歳時記』(河出文庫・1989)にも、たとえば寒川鼠骨の「無始無終山茶花たゞに開落す」というせわしなさの極地のような句があげられており、他にも「山茶花の散るにまかせて晴れ渡り」(永井龍男)が載っている。我が家の庭にもコイツが一本あって、この時間にもしきりに咲き、しきりに散っているはずだ。散り敷かれた淡紅色のはなびらのおかげで、庭はにぎやかなこと限りなし。どこにでもあるさりげない存在の植物ながら、この時季の賑やかな山茶花には、毎年大いに楽しませてもらっている。「俳句文芸」(1998年11月号)所載。(清水哲男)


May 0752000

 遠足をしてゐて遠足したくなる

                           平井照敏

読、膝を打った。こういう思いは、私にも時々わいてくる。こんな気持ちには、何度もなった覚えがある。映画を見ているのに映画が見たくなったり、酒の席で無性に酒が飲みたくなったりするのだ。実際にはその行為のなかにあるというのに、なおその行為の別のありように魅かれてしまう。そう言えば、恋愛中には必ず恋愛をしたくなるという友人の話を聞いたこともある。どういうことだろうか。図式的に言えば、現実と理想とのギャップのしからしむるところなのだろう。楽しみにしていた遠足にいざ出かけてみると、こんなはずじゃなかった、もっと楽しいはずなのにと思ううちに、現実の行為が空虚になっていく。空虚になった分だけ、現実を認めたくなくなる。だんだん、こんなのは遠足じゃないと自己説得にかかりはじめる。そして、ああ(本当の)遠足に行きたいなあと思ってしまうのだ。「旅行の楽しさは準備段階にある」と言ったりする。準備段階にあるうちの理想は、実行段階での現実に裏切られることはないからだ。この種の思いは、現実をまるごと受け入れたくない気質の人に、多くわいてくるのだろう。いわゆる「気の若い人」に、特に多いのではあるまいか。「俳句研究」(2000年5月号)所載。(清水哲男)


January 0212009

 手を入れて水の厚しよ冬泉

                           小川軽舟

体に対してふつうは「厚し」とは言わない。「深し」なら言うけれど。水を固体のように見立てているところにこの句の感興はかかっている。思うにこれは近年の若手伝統派の俳人たちのひとつの流行である。長谷川櫂さんの「春の水とは濡れてゐるみづのこと」、田中裕明さんの「ひやひやと瀬にありし手をもちあるく」、大木あまりさんの「花びらをながして水のとどまれる」。水が濡れていたり、自分が自分の手を持ち歩いたり、水を主語とする擬人法を用いて上だけ流して下にとどまるという見立て。「寒雷」系でも平井照敏さんが、三十年ほど前からさかんに主客の錯綜や転倒を効果として使った。「山一つ夏鶯の声を出す」「薺咲く道は土橋を渡りけり」「秋山の退りつづけてゐたりけり」「野の川が翡翠を追ひとぶことも」等々。山が老鶯の声で鳴き、道が土橋を渡り、山が退きつづけ、川が翡翠を追う。その意図するところは、「もの」の持つ意味を、転倒させた関係を通して新しく再認識すること。五感を通しての直接把握を表現するための機智的試みとでも言おうか。『近所』(2001)所収。(今井 聖)




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