ヤ薩句

October 06101996

 畳屋の肘が働く秋日和

                           草間時彦

が畳で爪を研ぎたがるのは納得がゆく。爪のひっかけ具合、弾力具合。お尻を引いて反り上げ、前足でバリバリ。先日、近所の畳屋さんに三匹の仔猫がいるのにはちょっと驚いた。天敵を置くようなものじゃないか。三匹は、前足を揃えリヤカーの畳の上。主人の仕事ぶりを見ていた。商売物には手を出すな、の教訓は守られているようだった。(木坂涼)


August 3081997

 冷え過ぎしビールよ友の栄進よ

                           草間時彦

人が栄進した。異例の出世である。そこで、とりあえずのお祝いにと、作者は友人を誘って一杯やりに出かけた。たぶん、二人の馴染みの小さな店だろう。と、出されたビールが、今夜にかぎって冷え過ぎている。生温いビールもまずいが、あまりに冷え過ぎたのも美味くはない。「なんだい、冷え過ぎだよ」と、思わずも口走ってしまう。つまり、自分はあくまでも素直に友の出世を祝福するつもりでいたのだが、冷え過ぎのビールに当たるという形で、どこかに隠れていた妬みの感情が露出してしまったということなのである。サラリーマンの哀しみ。(清水哲男)


October 25101997

 秋鯖や上司罵るために酔ふ

                           草間時彦

鯖は嫁に食わすな。それほどに秋の鯖は脂がのってうまいというわけだが、作者は出てきた秋鯖をそっちのけにして、酒に集中している。上司への日頃の不満が積もり積もって、一言なかるべからずの勢い。いくら美味だといっても、今夜は鯖なんぞを呑気に味わっている心の余裕などはないのだ。会社は選べるとしても、上司は選べない。サラリーマンに共通する哀感を、庶民の魚である鯖を引き合いに出して披瀝しているところが、この句のミソだろう。句の鯖は味噌煮でなければならない。(清水哲男)


May 2251998

 初松魚燈が入りて胸しづまりぬ

                           草間時彦

会の人が初松魚(はつがつお)に出会うのは、たいていが小料理屋か酒場だろう。この季節、どこの店に寄っても、天下を取ったように「初松魚(初鰹)」の文字が品書きに踊っている。私などもその一人だが、さしたる好物でもないのに、つい注文してしまったりする客は多い。初物の魔力だ。ところで、作者は顔馴染みか常連のよしみで、開店前の酒場に入れてもらったのである。鰹が入ったという店主のすすめに注文したまではよかったが、まだ入口に燈の入っていない店内というものは、どうも落ち着かない。このあたり、酒飲みの人にはよくわかるだろうが、いつもとは違う肴を前にすればなおさらに落ち着かない気分である。そうこうするうちに、やっと表に燈が点った。やれやれ、という心持ちの句。間もなくだんだんと、見知った顔も入ってくるだろう。そして、みんなが「初松魚」に一瞬顔を輝かせるだろう。(清水哲男)


July 2971998

 薮から棒に土用鰻丼はこばれて

                           横溝養三

日は、この夏の土用丑の日。鰻たちの厄日。毎年日付が変わるので、忘れていることが多い。作者も、そうだったのだろう。だから「薮から棒に」なのである。夕飯時のちょっとした出来事、いや事件だ。こういう事件は、しかし嬉しいものである。作者は「おいおい、どうしたんだ」と言いかけて、はたと今日が丑の日だったことに気がついたというところか。この句は、何種類もの歳時記に登場している。作者の嬉しさが素直に伝わってくるので、人気があるのだろう。ところで、真夏に鰻を食べる効用については、うんざりするほどの情報があるから、ここには書かない。ただ、『万葉集』の大伴家持の歌に「石麻呂(いはまろ)に吾れ物申す夏痩によしと云ふものぞ鰻とり召せ」とあり、これは覚えておいて損はないと思う。もしかすると、今夜の食事時に使えるかもしれない。草間時彦で、もう一句。「土用鰻息子を呼んで食はせけり」。息子にとってこの親心はむろん嬉しいだろうが、本当は、息子の健啖ぶりを傍で眺める親のほうがもっと嬉しいのである。(清水哲男)


December 21121998

 冬薔薇や賞与劣りし一詩人

                           草間時彦

書に「勤めの身は」とある。自嘲ではない。あきらめの境地というのでもない。ひっそりと咲く冬薔薇に託した嘆息である。会社の勤務実績査定で「詩人(俳人)」であることがマイナスに働いたようだ。そうとしか思えない。そんな馬鹿な話があるものか。……とまで作者は言っていないが、こういうことは実際にないとは言い切れない。たとえば俳人の富安風生は逓信次官にまで出世したエリート官僚だったが、上司から句作りについて遠回しに非難されたことがあるという。査定にまで影響はしないにしても、職場で「詩人だからなあ」と言われれば、それは「仕事ができない変わり者」と言われたのと同義なのだ。ゴルフや釣に凝っていても、決してそんなニュアンスでは言われない。ゴルフや釣は道楽だけれど、詩は道楽のうちに入らないと思われているらしい。道楽を超えて、四六時中(したがって仕事中も)とてつもない非常識なことばかり考えているのが詩人なのである。こうした頑迷な「会社常識」に出会うたびに、私は「詩」も随分とかいかぶられたものだと思ってきた。と同時に、この種の「会社常識」がもっとも恐れるのが「言葉の働き」だということに、内心ニヤリともしてきたのである。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


May 2951999

 休日は老後に似たり砂糖水

                           草間時彦

だ「老後」というにはほど遠い、作者四十代後半の句。だから「老後に似たり」なのであるが、休日が老後に似ているのは、ふと思いついて砂糖水を飲んでみたりする心持ちが、老後の所在なさを連想させたからだろう。今日「砂糖水」と言っても若い人には通じないけれど、なんのことはない、砂糖を水に溶かしただけの飲み物だ。砂糖が貴重だった時代、氷水にして客などにふるまったことから「砂糖水」は立派に夏の季語の仲間入りを遂げている。でも、どことなく頼りないのが砂糖水の味だ。それが休日のように時間だけはあっても、なんだか薄味でつまらなそうな「老後」のありようとして、作者の視野には写っている。もとより、自分の「老後」のイメージは人さまざまであり、どんなふうに想像するのも自由だけれど、いずれは老後をむかえる人間として、句の連想に異議をとなえる人は少ないだろう。そんなところかも知れないな、というわけだ。しかし、この句を「老後」の人が読んだとしたら、どう思うだろうか。かつて詩人の天野忠が七十代のころ、老人でもない人間が、たとえ自分のことにせよ、「老後」や「老人」などと気安く言うでないと書いていたことを思いだす。「ぬるま湯につかったような老人言説」に、まぎれもない老人として、おだやかな筆致ながら猛反発していた怒りが忘れられない。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)


July 0971999

 キャベツ買へり団地の妊婦三人来て

                           草間時彦

腹の丸い女性三人が、丸いキャベツを買って抱えている。微笑を誘われる光景だ。句集の成立年代から推察して、1960年代前半か、あるいはもう少し以前の句だろう。しきりに「団地族」などという言葉が言われはじめたころ(1958)があって、各地に建設された2DKの団地には大勢の新婚夫婦が入居し、新しいライフスタイルの登場として、世間の耳目を集めた。その後「団地妻」という言い方も現われたが、これは日活ロマンポルノのタイトル上だけ。とにかく、当時の団地住まいは若いサラリーマンの憧れだった。そんなわけで、団地族の出産期はみな同じ。一挙に妊婦が目立つようになり、しばらくすると、今度は赤ん坊連れの奥さんが目立つようになった。そして現在はといえば、東京の多摩ニュータウンあたりで問題になっている、住民の高齢化が進んでいる。句の時期に生まれた赤ちゃんは、もうとっくに成人して団地から去ってしまったからだ。もとより当時の作者は、団地の未来像など気にもかけていなかったろうが、いま読み返すと、セピア色の写真を見るような、一抹の寂しさを含んだ句にも写る。誰でも、歳を取る。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


September 1091999

 秋風や昼餉に出でしビルの谷

                           草間時彦

フィス街の昼時である。山の谷間に秋風が吹くように、ビルの谷にも季節を感じさせる風は吹く。秋だなアと風に吹かれながら、なじみの定食屋の暖簾をくぐると、おやじさんが「今日は鯖がうまいよっ。秋はやっぱりサバだねエ」などと声をかけてくる。そこで、ひょっとすると冷凍物かもしれない格安の「秋鯖の味噌煮」なんてものを注文する羽目になったりする。九月初旬、安い秋刀魚を出す店も大いにアヤしい。定食屋の多くは、しょせん舌の肥えていない、量ばかり要求する客を相手に商売をしているのだから、それでいいのである。仕事が順調であれば、それも楽しいのだ。が、そうでないときには、少々イヤミを言って引き上げる。そんなこんなで、春夏秋冬の過ぎていくサラリーマン生活。その哀歓が、さりげなく描かれている句だ。「昼餉」時という設定が、多くのサラリーマンの共感を呼ぶだろう。勤めた人にしかわからないが、なんでもないような昼餉時に、あれで結構ドラマは起きているのだ。珍しく上司に鰻屋にでも誘われようものなら、サア大変。社に戻るまでの秋風の身にしみることったら……。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


October 13101999

 老い母は噂の泉柿の秋

                           草間時彦

が実るのは秋にきまっているが、あえて「柿の秋」としたのは、たわわに実る柿の姿を強調したかったのだと思う。「泉」と照応して、おのずと自然の豊穣な雰囲気が出ている。ただ、豊穣といっても、この場合は噂話しのそれだ。老いた母が、泉の水のようにとめどなくくり出してくる他人の噂。老いても元気なのはなによりだけれど、聞かされる身としては、いささか辟易しているという図だろう。「柿の秋」ならぬ「噂の秋」だ。女性一般の噂話し好きは、いったい、どこから来るものなのか。むろん例外の女性もいるが、総じて女性はぺちゃくちゃと他人の動静についてしゃべることを好む。それこそ「泉」だとしか言いようのない人もいる。私などがじっと聞いていると、究極のところ、彼女は自分のする噂話しを自分自身に言い聞かせているような気がしてくる。聞いてくれる他人を媒介にして、自己説得しているように思えてくるのだ。となると、彼女にとっての噂話しとは、いわばアイデンティティを確認するための生活の知恵なのだろうか。このあたりのことを考えてみるのも面白そうだが、そんなヒマはない。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


December 22121999

 立ちどまり顔を上げたる冬至かな

                           草間時彦

がラジオ局のスタジオは、西向きだ。毎年この季節になると、低く運行する太陽の光が、まともにさしこんできて眩しい。本日「冬至」は、北半球での太陽の高度がもっとも低くなるので、眩しさも最高となる。そんなふうに「冬至」を感じる人間もいるかと思えば、作者のように「もう日が暮れていくのか」と立ちどまって西の空を眺めやり、「そういえば……」と納得する人もいる。どうということもない所作ではあるが、時計にかかわらぬ時間認識の味とは、なべてこういうものだろう。この句をさして「飽きがこない」と言った人がいた。飽きがこないのは、この時間認識が、生きとし生けるもの本来のそれであるからだ。時計といえば、放送局には腕時計を嫌う人間が意外に多い。それでなくとも分秒に追いまくられる仕事なので、自分の腕にまでわざわざ分秒を表示したくはないということである。そういう立場から読むと、この句の抒情性はさらに胸の奥にまで染み入ってくるはずだ。それはそれとして、今日の東京地方の日出時刻は6時47分、日入は16時32分。野暮だったかな。月は真ん丸。『朝粥』(1978)所収。(清水哲男)


March 0632000

 月曜は銀座で飲む日おぼろかな

                           草間時彦

暦を過ぎたあたりの句。当時の作者は講談社版『日本大歳時記』の編集に携わっていたはずなので、定期的な仕事のために、月曜日が東京に出てくる日だったのかもしれない。事情はともかくとしても、「月曜日」に飲むというのが、いかにも年齢的にふさわしい。銀座の夜が、いちばん空いている日。若いサラリーマンたちは、体力温存のためにさっさと家路をたどる曜日だからだ。仕事を終えて、気のおけない友人の待っている銀座の酒房へと向かうときは、気持ちそのものが楽しき春「おぼろ」なのである。ほぼ同時期の「しろがねのやがてむらさき春の暮」は伊豆での作句だが、銀座の夕景だとて、春は「むらさき」に暮れていく。酒飲みならではのワクワクする気分が、よく伝わってくる。酒房での会話は、とくに何を話すというわけでもない。「ああ…」だとか「うん…」だとかと、言葉少なだ。それでも何かが確実に通じ合うのは、積年の友人のありがたさというものである。なんだか、さながらに小津安二郎の映画のなかにいるようではないか。ひるがえって私などは、いまだにあくせくしていて、飲むとなると「金曜日」。人生は、なかなか映画のようには運んでくれない。『夜咄』(1986)所収。(清水哲男)


April 1942000

 木蓮や母の声音の若さ憂し

                           草間時彦

ぶん、これは男の心だけに起きる「憂し」だろう。木蓮が咲いた。木蓮は、大きな蕾を得てからも、なかなか簡単には花開かない。今日か明日かと待ちかねていた母が、庭から「ねえ、咲いたわよ。見にきなさいよ」と、はしゃいだ声で作者に呼びかけてきた。彼女の声音は妙に若々しく、そこで作者の気持ちに微妙な憂鬱の影が走る。老いた母に、未だ残っている若い女の性。敏感にそれをかぎ当てて、一瞬「いやだな」と思ったのだ。大袈裟に言えば、母の声に母子相姦への誘いのようなニュアンスを聞き取った……。もとより、母は無意識だ。その無意識がたまらない。たいていの男は、幼時から母を性の外に置いて聖化して生きていく。嘘か誠かは知らねども、よく若い娘が「父親のような人と結婚したい」などと公言したりするけれど、嘘でも男はそういうことは口にできない生き物である。だから、母の側にも一瞬たりとも性的な存在であられては困惑してしまうのだ。どう反応したらよいのか、うろたえることになる。「木蓮」といういささか官能的な感じのする花を配して、句は見事に男の精神的な性の秩序のありようを描いてみせている。深読みではない、と思う。それ以外に「憂し」の根拠は思い当たらぬ。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


June 0562000

 葛切やすこし剩りし旅の刻

                           草間時彦

車が出る時刻までには、まだ少し時間が剰(あま)っている。そこで小休止も兼ねて、駅近くの茶店で名物の葛切(くずきり)を賞味している。口あたりのよい葛切と旅心がマッチした粋な一刻。誰しも覚えがあるように、旅先ではこのように、ちょこちょこと時間があまってしまう。この少しあまった時間をどう使うのかも、旅を楽しむ重要なポイントだろう。土産を買いに走り回っている人、待合室で所在なげに新聞を読んでいる人。さらには私のように、どこにでもある雑誌を本屋で漫然と立ち読みする人など……。そんな時間に、旅の名人だと句のように、ちゃんとその土地ならではのものを味わっていたりするのだから敵わない。そのことが身にしみてわかるのは、帰りの列車の中だ。いままで旅してきたところの印象を語り合っているうちに、私が気がつきもしなかった数々の見聞や体験話が披露されてきて、いつも打ちひしがれる思いになる。同じように動いていても、同行のそれぞれが吸収したものは大きく違っているというわけだ。ことさらに教訓めかすつもりはないけれど、このことはおそらく、人生という旅にも当てはまりそうである。『夜咄』(1986)所収。(清水哲男)


July 3072000

 百日草芯よごれたり凡詩人

                           草間時彦

日草(ひゃくにちそう)はメキシコ原産。その名のとおりに、花期が長い。小学生の時に名前を教わって、なるほどねと感嘆した覚えがある。とにかく、暑い間はずうっと咲いている。原色に近い花なので、いつも埃ッぽい感じがする。べつに花の責任ではないけれど、あまりに生命力が強すぎるのも、うとましく思われる要素の一つとなる。そのうとましさを、みずからの非才になぞらえたのが掲句だ。一読して自嘲句とわかるが、長い間詩を書いてきた私などには切なすぎる。どんなに心を沈め集中しようとしても、詩心が澄んでくれないときがある。心の「芯」のよごれが振り払えないのだ。平たく言うと、アタリの感覚に至らないのである。こういうときには焦りますね。そんな作者の目の先に、うっとうしくも百日草が元気に咲いている。百日草には気の毒ながら、思わずもなぞらえたくなる発想は、よくわかる気がします。みずからを「凡詩人」と言い捨てて何かが解決するのならばともかく、何もはじまらないのだし、何も終わらない。わかっちゃいるけど、言わざるをえなかった。身も心も暑苦しい夏のひととき……。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


September 1592000

 老人の日喪服作らむと妻が言へり

                           草間時彦

じめは「としよりの日」だった。1951年(昭和26年制定)。それが1964年(昭和39年)に「老人の日」と変わり、その二年後には現在の「敬老の日」となる。かくして戦後の「としより」は、国家から三段階で祭り上げられてきたわけだ、言葉の上だけで……。掲句は、たった二度しかなかった珍重すべき「老人の日」に詠まれている。「老人の日」と聞いて抽象的に「敬老」を思う人もいるだろうが、多くの人があらためて思うのは、身近にいる老人のことだろう。老人を自覚している人はもちろん、そうでない人も「老人」につづけて連想するのは「死」だ。今度の冬が越えられるか。そういうことを、誰もがちらりと思う。で、いざというときに必要なのは「喪服」であり、そのことを妻がずばりと切り出したことに、作者は驚いている。身内の葬儀ともなれば、ちゃんとした喪服が必要なことくらい作者にもわかってはいるのだけれど、まだまだ時間的な余裕があると思いたいし、なかなか作る気にはなれないでいた。その優柔不断を、正面から突かれた。国家の押しつけた「老人の日」にも、こんな実効性があった。喪服は、多くの夫婦がおそろい(ペア・ルック)で作る最初にして最後の衣服だ。そう思うと、可笑しくもあり物悲しくもある。『淡酒』(1971)所収。(清水哲男)


October 02102000

 朝寒のベーコン炒めゐたりけり

                           草間時彦

間時彦の句に出てくる食べ物は、いつも美味しそうだ。食の歳時記といった著書もあると記憶するが、いわゆる「食通」ではなく、舌のよさを誇示するようなところはない。むしろ誰もが食べている普通の食材、普通の料理から、それぞれの美味しい味を引き出す名人とでも言うべきか。掲句のベーコンにしても、然り。炒められているベーコンは、寒くなってきた朝という設定のなかにあってこそ、まことに香ばしい美味を思わせる。「朝寒(あささむ)」に襟を掻きあわせたい気分で起きてくると、台所では妻がベーコンを炒めていた。とても嬉しい気分になった。その妻の様子を「炒めゐたりけり」と大きく捉えることで、気の利く妻への無言の感謝の念と、間もなくカリカリに揚がって食卓に出てくるベーコンへの期待感を詠み込んでいる。もちろんベーコンでなくてもよいのだが、寒くなりかけた朝の透明な空気にベーコンとは洒落ているのだ。私はベーコン好きだから、余計にそう感じるのだろうが……。ともかく句をパッと読んだとたんに、パッと食べたくなる。誰にも作れそうでいて、作ろうと思うとなかなかに難しそうな句だ。芸の力を思う。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)


January 1712001

 味噌汁におとすいやしさ寒卵

                           草間時彦

嘲だろう。他人の「いやしさ」を言ったのでは、それこそ句が卑しくなる。句品が落ちる。おそらくは、旅館での朝餉である。生卵はつきものだけれど、作者はそんなに好きではないのだろう。飯にかけて食べる気などは、さらさらない。かといって、残すのももったいない。というよりも、この卵も宿泊費の一部だと思うと、食べないのが癪なのだ。そこで生の状態を避けるべく、味噌汁に割って落とした。途端に、なんたる貧乏人根性かと、なんだか自分の「いやしさ」そのものを落としたような気がした……。食べる前から、後味の悪いことよ。鶏卵は、寒の内がもっとも安価だ。それを知っていての、作者の自嘲なのである。鶏の産卵期にあたるからで、昔から栄養補給のためには、庶民にとってありがたい食材だった。だから、盛んに食べてきた。栄養を全部吸い取れるようにと、生のままで飲むことが多かった。したがって俳句で「寒卵」と特別視するのは、べつに寒卵の姿に特別な情緒などがあるからではなく、多く用いられるという実用面からの発想だ。ところで、私の「いやしさ」は酒席で出る。お開きになって立ち上がりながら、未練がましくも、グラスに残っているビールをちょっとだけ飲まずにはいられない。『朝粥』(1979)所収。(清水哲男)

[紹介]上記をアップしてすぐに、当方の掲示板に次のような感想が寄せられました。「歳時記に『寒の卵は栄養分に富み・・・』とあるのを読みました。ですので、なんだか壮年を過ぎようとする男の人のあらがいと、戦中戦後の卵が貴重だった時代を経てきた己が身とをまとめて、習い性を、ちょっと露悪的に『いやしさ』と言ってみたような句の気がしました」(とびお)。考えてみて、とびおさんの解釈のほうが自然だと思いました。私のは牽強付会に過ぎますね。ま、自戒記念にそのままにしてはおきますが(苦笑)。とびおさん、ありがとうございました。


June 2362001

 金魚赤し賞与もて人量らるる

                           草間時彦

の賞与(ボーナス)。季語としての「賞与」は、冬期に分類されている。昔の「賞与」は、正月のお餅代の意味合いが濃かったからだろう。欧米のbonusと言うと、能率給制度のもとで標準作業量以上の成果をあげた場合に支払われる賃金の割増し分のことのようだが、日本ではお餅代のように、長く慰労的・恩恵的な慣習的給与のニュアンスが強かった。そこに、だんだん会社への貢献度を加味すべく「査定」なる物差しが当てはじめられたから、掲句のようなやるせなさも鬱積することになった。私はサラリーマン生活が短かったので、作者の鬱屈とはほぼ無縁だったけれど、外部から見ていて、スパイ情報を集めて査定をするような会社は、やはりイヤだった。いまどきの能率を言いたてる会社に勤める人には、作者以上の憤懣を抱く人が多いだろう。でも、出ないよりはマシというもの。出ない人は、この夏もたくさんいる。それはさておき、人を能率や効率の物差しで「量(はか)る」とは、どういうことなのか。そんなことで、安易に人の価値なんて決められるものか。そう叫びたくても、叫べない。叫べない気持ちのままに、金魚鉢の赤い金魚を見る。その鮮やかな赤さに、しかし、おのれの愚痴に似た口惜しさなどは跳ね返されてしまうのだ。人に飼われる「金魚」ほどにも、みずからの会社人間としての旗色が鮮明ではないという自嘲だろう。作者が三十代にして、やっと定職を得たころの作品。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


August 2282001

 台風や四肢いきいきと雨合羽

                           草間時彦

風圏にある人たちは、たいていが身を寄せ合うようにして家の内に籠もる。が、防災のために完全武装の「雨合羽(あまがっぱ)」姿で川や崖を見回る男たちだけは別だ。むしろ、日頃よりも敏捷で活気があり「いきいき」として見える。火事場に向かう消防団の男らも同様で、それは災厄に立ち向かい、大切な人命を守るべしという使命感とプライドから来るものだろう。そして私などは、子供の頃に台風が来るたびに自然に血が騒いだ覚えがあるが、そういうことも彼らの身のうちでは起きていて、一種の無邪気な興奮状態がますます「四肢いきいき」とさせているのだと思う。皮肉というほどではないけれど、そんな人間の本性がちらりと介間見えるような句だ。また一方では磯貝碧蹄館に、こんな句もある。「台風圏飛ばさぬ葉書飛ばさぬ帽」。郵便配達だ。こちらもむろん「雨合羽」姿だろうが、少なくとも「いきいき」と、と詠める状態ではない。むしろ、配達夫の「四肢」は縮こまっているのだ。前者が猛威に立ち向かう攻めの姿勢なのに対して、後者は徹底した守りのそれだからだろう。別の言い方をすれば、雨合羽がいわば「衣装」である者と「普段着」である者との違いである。郵便配達のみなさま、そして防災に尽力されるみなさま、ご苦労様です。くれぐれも、お気をつけて。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


September 1792001

 茹栗を食べて世帯の言葉かな

                           草間時彦

表を突かれた。言われてみれば、なるほど家族間だけで使う「世帯の言葉」というものがある。家族で「茹栗(ゆでぐり・うでぐり)」を食べながら、作者がどういう言葉を口にしたのかはわからない。が、その言葉は、およそ他人の前では使わない(使えない)ものだった。他人には意味不明に聞こえるような言葉か、あるいは聞かれて気恥ずかしくなるような言葉か。そのことにハッと気がついて、すうっと句になった。栗を茹でるのは、焼いたりするのとはちがって、極めて家庭的な行為なので、「世帯の言葉」に抵抗なくつながっていく。さて、この「世帯の言葉」に対するのが「世間の言葉」だろう。私たちはほとんど無意識のうちに使い分けているが、たまに両者がぶつかりあう現場に遭遇することがある。たとえば、客に招かれたときなどがそうだ。このときに招かれた客は「世間」であり、招いた側は「世帯」である。客は当然「世間の言葉」を使うわけだが、招いた側の家族は客には「世間」で応対し、家族同士では「世帯」で応接しなければならない。「世間」に出たことのない子供でもいると、使い分けが明らかにこんがらがってくる。客には意味不明の言葉を使わざるをえなくなって、照れ笑いを浮かべたりする。そんなシチュエーションではないのに、揚句の作者は「世帯の言葉」に気がついた。「世間」では幼児言葉とされているそれでも使ったのだろうか。『櫻山』(1974)所収。(清水哲男)


February 0922002

 借財や干鱈を焙る日に三度

                           秋元不死男

語は「干鱈(ひだら)」で春。助宗鱈(スケソウダラ、スケトウダラとも)をひらき、薄く振り塩をして干したもの。軽く焙(あぶ)って裂き、醤油をつけて食べる。草間時彦に「塩の香のまず立つて干鱈あぶりをり」の句があって、いかにも美味そうだ。酒の肴にするのだろう。が、掲句はそんなに粋な情景ではない。酒肴というものは、だいたいが一寸ずつつまむから美味いのであって、掲句のように三度三度の食卓に乗せるとなると、誰だって辟易してしまうだろう。スケソウダラは、昔はマイワシと同じくらいに大量に獲れたので、安い魚の代表格だった。敗戦直後のニュース映画で、女性代議士が「毎週スケソウダラの配給ばかりでは、庶民はたまったものではない」と政府に詰め寄っているシーンがあったのを覚えている。一方のマイワシについては、穫れすぎて、北海道では道路の補修工事に使っていたほどだったという。そんな背景があっての掲句である。「借財」の重さを思いながら、三度三度干鱈を焙る男の姿は、やけに哀しく切ない。しかし、その干鱈さえ満足に口にできなかった人々もたくさんいた。我が家だけではなかった。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0152002

 磯に遊べリメーデーくずれの若者たち

                           草間時彦

語は「メーデー」で春。労働者の祭典だ。1958年(昭和三十三年)の句。私はこの年に大学に入り、多くの同級生がデモ行進に参加したが、私は行かなかった。いまと違って当時の行進は、あちこちで警官隊と小競り合いを起こす戦闘的なデモだったので、二の足を踏んでしまったわけだ。皇居前広場の「血のメーデー」事件から、六年しか経っていない。句に登場する若者たちは、デモに参加した後で、屈託なくも「磯遊び」に興じている。近所の工場労働者だろう。メーデーに参加すれば出勤扱いとなるので、午前中の行進が終われば後の時間はヒマになる。おそらく、ビアホールなどに繰り出す金もないのだろう。赤い鉢巻姿のままで磯に来て、無邪気にふざけあっている。ほえましいような哀しいような情景だ。この年は、年明けから教師の勤務評定反対闘争が全国的に吹き荒れ、岸信介内閣のきな臭い政策が用心深く布石され、しかも日本全体がまだ貧乏だったから、人々の気持ちはどこか荒れていた。鬱屈していた。「メーデーくずれ」の「くずれ」には、メーデーの隊列から抜け出てきたという物理的な意味もあるが、「若者よ、もっと真面目に今日という日を考えろ。未来を担う君らが、こんなところで何をやっているのか」という作者の内心の苛立ちも含められている。苛立っても、しかし、どうにもらぬ。「そう言うお前こそ、何をやってるんだ」。そんな作者の自嘲的な自問自答が聞こえてきそうな、苦い味のする句だ。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


December 14122002

 水洟や仏観るたび銭奪られ

                           草間時彦

語は「水洟(みずばな)」で冬。「奈良玄冬」連作のうち。せっかく奈良まで来たのだからと、寒さをおしての仏閣巡り。あまりの寒さに鼻水は出るわ、先々で銭は奪(と)られるわで、散々である。作者の心持ちは、さしずめメールなどでよく使われる「(泣)」といったところか(笑)。「銭奪られ」で思い出したが、十年ほど前の京都は某有名寺院でのこと。拝観受付窓口のおっさんに「いくらですか」と尋ねたら、ムッとした顔でこう言った。「ここは映画館やないんやから、そういうシツレーな質問には答えられまへんな」。「は?」と、おっさんに聞き直した。すると、ますます不機嫌な声で「『いくら』も何もありまへん。ここは、訪ねてくださる方々のお気持ちを受け取るところですから」と言う。さすがに私もムッとしかけたが、なるほど、おっさんの言うことにはスジが通っている。「ああ、そうでしたね。失礼しました。では、どうやって気持ちを表せばよいのでしょうか」と聞くと、おっさんはプイと横を向いてしまった。とりつくしまもない態度。で、ふっと窓口の上のほうを見たら「拝観料○○○円」と墨書してあった。「ナニ体裁の良いこと言ってやがるんだ、このヤロー。これじゃあ映画館と同じじゃねえか」。そう怒鳴りつけたかったが、そこはそれ、ぐっとこらえて○○○円を差し出すと、おっさんはソッポを向きながらもしっかりと「銭」を受け取り、なにやらぺなぺなのパンフレットを放り投げるように寄越したことでした。ありがたいことです(泣)。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


April 0342003

 花冷の百人町といふところ

                           草間時彦

古屋などにも「百人町」の地名はあるが、前書に「俳句文学館成る」とあるから、東京は新宿区の百人町だ。JR山手線と中央線に挟まれた一帯で、新宿から電車で二分ほど。戦前は、戸山ケ原と呼ばれていた淋しい場所だったという。町名の由来は、寛永年間に幕府鉄砲百人組が近辺に居住していたことから。その名のとおり百人を一組とする鉄砲隊で、江戸には四組あり、この町には伊賀組の同心屋敷があった。さて、現代の百人町を詠むのはたいへんに難しい。というのも、あまりにも雑然とした構造の町だからである。町を象徴するような建物やモニュメントもなければ、とりたてた名産品があるわけでもない。俳句愛好者なら、それこそ俳句文学館を思い浮かべるかもしれないけれど、地元の人の大半は、何のための建物なのかも知らないのではあるまいか。要するに、つかみどころがないのである。掲句は、そんなつかみどころのなさを、そのまま句にしている。「百人町といふところ」は、どんなところなのか。それは、読者におまかせだと言っている。だから逆に「花冷(え)」という漠然たる情趣には、似合う町だと言えようか。「花冷(え)」の「花」はむろん桜だが、この町には実は「つつじ」の花のほうが多い。百人組の給料は安く、彼らは遊んでいる土地を分け合って、内職に「つつじ」を栽培したのだという。その名残が、いまだに残っているというわけだ。ちなみに、俳句文学館の創立は1976年(昭和五十一年)。作者は俳人協会事務局長として、設立運動に専従で奔走した。『朝粥』(1979)所収。(清水哲男)


April 1142004

 パンジーや父の死以後の小平和

                           草間時彦

語は「パンジー」で春。「菫(すみれ)」に分類。自筆年譜の三十九歳の項に「父時光逝去。生涯、身辺から女性の香りが絶えなかった人である。没後、乱れに乱れた家庭の始末に追われる」(1959年11月)とある。いわゆる遊び人だったのだろう。借財も多かったようだ。それでも「菊の香や父の屍へささやく母」「南天や妻の涙はこぼるるまま」と、家族はみな優しかった。句は、そんな迷惑をかけられどおしの父親が逝き、ようやく静かな暮らしを得ての感懐だ。春光を浴びて庭先に咲くパンジーが、ことのほか目に沁みる。どこにでもあるような花だけれど、作者はしみじみと見つめている。心がすさんでいた日々には、こんなにも小さな花に見入ったことはなかっただろう。このときに「パンジー」と「小平和」とはつき過ぎかもしれないが、こういう句ではむしろつき過ぎのほうが効果的だろう。こねくりまわした取りあわせよりも、このほうが安堵した気持ちが素朴に滲み出てくる。つき過ぎも、一概には否定できないのである。それにしても、花の表情とは面白いものだ。我が家の近所には花好きのお宅が多く、それぞれが四季折々に色々な花を咲かせては楽しませてくれる。パンジーなどの小さな花が好きなお宅、辛夷や木蓮など木の花が好きなお宅、あるいは薔薇しか咲かせないお宅や黄色い花にこだわるお宅もあったりする。通りがかりの庭にそうした花々を見かけると、咲かせたお宅の暮らしぶりまでがなんとなく伺えるような気がして微笑ましい。間もなく、いつも通る道のお宅に、私の大好きな小手毬の花が咲く。毎年、楽しみにしている。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


April 3042004

 妻ふくれふくれゴールデンウィーク過ぐ

                           草間時彦

くれている理由は、夫婦で(あるいは家族で)どこにも出かけないでいるからだろう。この時期、新聞やテレビを見ても、行楽地で楽しそうにしている人たちの様子が写っている。みんなあんなに楽しんでいるのにと思うと、出かけない我が身がみじめに思えてきて、ついついふくれっ面になってしまう。作者の事情は知らないが、せっかくの連休を家でゆっくり過ごしたいと思ったのかもしれないし、手元不如意だったのかもしれない。いずれにしても世間並みのことを妻にしてやれない負い目のようなものはあるから、妻の不機嫌が余計に目立つのだ。こんなことなら、無理してでも出かけておけばよかった……。なんとも愉快ではない忸怩たる思いのうちに、ゴールデンウィークが過ぎていったというのである。思い当たる読者もおられるだろう。戦後経済の高度成長とともに、連休と旅が結びついてきて、連休前には「どこにお出かけですか」が挨拶代わりまでになってゆく。だから、ニッポンのお父さんたちは大変なことになったのだった。仕事からは解放されても、家族サービスという名の労働が待ち受けるようになったからだ。バブル崩壊後には少しはこの風潮にも翳りが出てきたが、しかし依然としてどこかに出かける人は少なくない。海外へは無理でも、近隣への小旅行は可能だというわけか。そんな人たちで、今年も行楽地はにぎわっている。ということは、逆にどこかには「ふくれふくれ」ている妻たちも存在する理屈だ。そしてもちろんその蔭には、居心地悪く家の中で小さくなっている夫たちも……。やれやれ、である。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 0992004

 一足の石の高きに登りけり

                           高浜虚子

暦九月九日(今年の陽暦では10月22日にあたる)は、陽数の「九」が重なるので「重陽」「重九」と呼び、めでたい日とする。その行事の一つが「高きに登る(登高)」ことで、秋の季語。グミを詰めた袋を下げて高いところに登り、菊の酒を飲むと齢が延びるなどとされた。したがって、「菊の節供」「菊の日」とも。元来は中国の古俗であり、今ではすっかり廃れてしまったが、この言い伝えを知っていた人は登山とまではいかずとも、この日には意識してちょっとした丘などの高いところに登っていたようだ。一種のおまじないである。「行く道のままに高きに登りけり」(富安風生)。掲句はその無精版(笑)とでも言おうか。用もないのにわざわざどこかに登りに行くのはおっくうだし、さりとて「登高」の日と知りながら登らないのも気持ちがすっきりしない。だったら、とりあえず一足で登れるこの石にでも登っておこうか。どこにも登らないよりはマシなはずである。というわけで、茶目っ気たっぷり、空とぼけた句になった。ただ、古来の習俗が形骸化していく過程には必ずこうした段階もあるのであって、その意味では虚子ひとりの無精とは言えないかもしれない。それが証拠に、たとえば草間時彦に「砂利山を高きに登るこころかな」の一句もある。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 1492004

 障子貼る母の手さばき妻の敵

                           草間時彦

語は「障子貼る」で秋。といっても障子貼りは冬支度だから、もう少し先、晩秋の季語だ。当歳時記では便宜上、紙を貼る前の「障子洗ふ」に分類しておく。これはまた、言いにくいことをずばりと言ってのけた句だ。二世代同居の家庭では、嫁と姑の微妙な心理的確執はなかなか避けられまい。両者とも表面的には仲が良さそうに見えても、内実は大変なのだという句である。障子を貼る母には、おそらく何の屈託も無いだろう。見事な「手さばき」で手際よく次々に貼っていく。息子の作者としても、見惚れるほどの巧みさなのだ。だがしかし、妻には欠けているこうした見事な技術が、実は「妻の敵」として「母」を位置づけてしまう哀しさがある。障子貼りに限らず、気にしはじめればキリがないほどに、こういうことが日常的にいろいろと起きている。妻がまさか義母を「敵」などと言うはずもないのだけれど、はっきり言えばそういうことだと、作者は憮然としているのである。しかも上手な解決法などありはしないから、一つ一つをやり過ごしてゆくしかないのだ。子供の頃から母は自分の「味方」であり、現在は妻もむろん「味方」である。だからといって気楽なものだと言えないところに、この句の苦さがある。ぼんやりしているようでいて、男だってけっこう細かいところを見て感じているということだ。『中年』(1965)所収。(清水哲男)


April 1242006

 とろけるまで鶏煮つつ八重ざくらかな

                           草間時彦

語は「八重ざくら(八重桜)」で春。サトザクラの八重咲き品種の総称。桜のうちでは咲くのが最も遅く、満開になると枝が見えないほど重く垂れ下がって咲く。この句は、櫂未知子『食の一句』(2005・ふらんす堂)で知った。一年間、毎日「食」にちなんだ句を紹介解説した本で、なかなかに楽しい。「こういう句を読むと、毎日ばたばたして暮らしている自分の情けなさを痛感する」と書いてあって、同感だ。ゆっくりと時間をかけて「鶏(とり)」を煮込む。誰にでもできそうだが、そういうわけにはいかない。料理ばかりではなく、諸事に時間をかけるには日ごろの生活ペースによるのもさることながら、その上に一種の才能が必要だと、私などには思われる。「のろのろ」に才能は不要だが、「ゆっくり」「ゆったり」には、持って生まれた資質が相当に影響するようだ。同じことをほとんど同じ時間でこなしたとしても、「せかせか」と見える人もいれば、逆の人もいる。時間の使い方が上手く見える人は、たいていが後者のタイプである。それはともかく、とろとろとろとろと鶏肉を煮ていると、とろとろとろとろと甘い匂いが漂ってきて、窓外の「八重ざくら」もまたとろとろとろとろと作者を春の底に誘うがごとくである。少年時代に囲炉裏の火で、とろとろとろとろとジャガイモと鯨肉を煮ていたことを思い出した。物事にゆったりする才能はなかったけれど、ヒマだけはあったからである。(清水哲男)


August 1682008

 ぼろぼろな花野に雨の降りつづけ 

                           草間時彦

野というと、子供の頃夏休みの何日かを過ごした山中湖を思い出す。早朝、赤富士を見ようと眠い目をこすりながら窓を開けると、高原の朝の匂いが目の前に広がる花野から飛び込んで来た。それは草と土と朝露の匂いで、今でも夕立の後などに、それに近い匂いがすると懐かしい心持ちになる。花野は、自然に草花が群生したものなので、夏の間は草いきれに満ちているだろう。そこに少しずつ、秋の七草を始め、吾亦紅や野菊などが咲き、草色の中に、白、黄色、赤、紫と色が散らばって花野となってゆく。この句の花野は、那須野の広々とした花野であるという。そこに、ただただ雨が降っている。雨は、草の匂いとこまごまとした花の色を濃くしながら降り続き、止む気配もない。降りつづけ、の已然止めが、そんな高原の蕭々とした様を思わせ、ぼろぼろな、という措辞からするともう終わりかけている花野かもしれないが、その語感とは逆に逞しい千草をも感じさせる。同じ花野で〈花野より虻来る朝の目玉焼〉とあり、いずれもイメージに囚われない作者自身の花野である。『淡酒』(1971)所収。(今井肖子)


November 21112010

 柔道着で歩む四五人神田に冬

                           草間時彦

とさら作者のことを調べなくても、句を読んでいれば、草間さんはサラリーマンをしていたのだろうなということが想像されます。俳人にしろ、詩人にしろ、作品からその人のことが思い浮かべられる場合と、そうでない場合があります。つまり、作品を人生に添わせている人と、引き離している人の2種類。もちろんどちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、でも、僕は年をとってくるにつれ、前者の作品に心が動かされる場合が多くなってきたように感じます。本日の句は、まさに俳句でしか作品になりえない内容になっています。神田という地名から、やはり柔道着を着ているのは大学生なのかなと、感じます。ランニング練習のあとで、ほっとして校舎にもどる途中ででもあるのでしょうか。四五人分の汗のにおいと呼吸の白い色が、すぐそばに感じられる、そんな句になっています。『合本 俳句歳時記 第三版』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1482013

 金魚売りの声昔は涼しかりし

                           正宗白鳥

在でも下町では金魚売りがやってくるのだろうか? 若いときに聞いた「キンギョエー、キンギョー」という昼下がりのあの売り声は妙に眠気を誘われた。今も耳の奥に残っているけれど、もう過去の風物詩になってしまった。クーラーのない時代の市井では、騒音も猛暑日も熱中症も関係なく、金魚売りののんびりとした声がまだ涼しく感じられたように思う。そう言えば、少年時代の夏、昼過ぎ時分になると自転車で鈴を鳴らしながら、アイスキャンデー売りのおじさんがやって来た。おじさんは立ち小便した手をそのまま洗うことなく、アイスボックスの中からとり出して、愛想笑いをしながら渡してくれた。それはおいしい一本五円也だった。風鈴売りもやって来たなあ。さて、車谷弘の『わが俳句交遊記』(1976)によると、昭和二十九年八月の暑い日、向島で催された作家たち(久保田万太郎、吉屋信子、永井龍男他)の句会に誘われた白鳥は、佃の渡しから隅田川を遡って出かけ、初めてのぞむ句会で一句だけ投じた。それが掲句である。披講のとき、小さな声で「白鳥……それはぼくだよ」と名乗った。林房雄が「うん、おもしろいな」と言ったという。「金魚売り」の句と言えば、草間時彦に「団地の道はどこも直角金魚売」がある。(八木忠栄)


November 09112013

 白湯一椀しみじみと冬来たりけり

                           草間時彦

起きて水を一杯飲むと良い、という話をしていたら、お湯の方がいいですよ、と言われた。その人は夏は常温、冬でもほどほどに温かいものしか口にしないのだと言う。え、冷たい麦酒は、と思わず聞くと、麦酒の味は好きなんですよ、でも冷やしません、麦酒によっては美味しいんですよ・・・ちょっと調べるとそれは本当だった。さらに、白湯健康法なるものもにも行き当たる。50℃位の白湯を少しずつ啜るのが良いという。掲出句、まさにお椀を両てのひらで包んで、ゆっくりと啜りながら味わっている風情。もちろん、今の私のようにちょこちょこ検索しては生半可な知識を得ているのではなく、体がすこし熱めの白湯を欲してその甘さに、しみじみ冬の到来を実感しているのだ。八冊の句集から三七九句を収めた句集『池畔』(2003)の最後のページには〈年よりが白湯を所望やお元日〉の一句もある。(今井肖子)


May 1452014

 地球儀のあをきひかりの五月来ぬ

                           木下夕爾

の開花→満開→花吹雪、桜前線北上などと、誰もが桜にすっかり追いまわされた四月。その花騒動がようやくおさまると、追いかけるように若葉と新緑が萌える五月到来である。俳句には多く「五月かな」とか「五月来ぬ」「五月来る」と詠まれてきた。世間には一部「五月病」なる病いもあるけれど、まあ、誰にとっても気持ちが晴ればれとする、うれしい季節と言っていいだろう。「少年の素足吸ひつく五月の巌」(草間時彦)という句が思い出される。最近の新聞のアンケート結果で、「青」が最も好まれる色としてランクされていた。「知的で神秘的なイメージがあり、理性や洗練を表現できる」という。世界初の宇宙飛行士ガガーリンの「地球は青かった」という名文句があったけれど、地球儀だって見方によって、風薫る五月には青く輝いて見えるにちがいない。地球儀が青い光を発しているというわけではないが、外の青葉若葉が地球儀に映っているのかも知れない。ここは作者の五月の清新な心が、知的な青い光を発見しているのであろう。夕爾は他にも、地球儀をこんなふうに繊細に詠んでいる。「地球儀のうしろの夜の秋の闇」。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)




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