dM句

November 05111996

 此の世に開く柩の小窓といふものよ

                           高柳重信

老孟司の「死体はヒトである」という言説は、多くのことを考えさせる。他方で「死体はモノである」という人もいる。「ゴミである」という人もいる。このとき、柩の小窓は何を意味するのだろうか。なんのために、あの小窓は開けられているのだろう。「死体はヒト」なのだから、此の世との交通をなおも保つためなのか。それにしては、すぐに火をかけてしまう残酷な行為を、どう解釈すればよいのか。まだ、確実に内蔵の一部は生きているというのに。俳人とともに、私もまた小窓にたじろぐ者である。『山川蝉夫句集』所収。(清水哲男)


March 2832000

 マダムX美しく病む春の風邪

                           高柳重信

きつけの酒場の「マダム」だろう。春の風邪は、いつまでもぐずぐずと治らない。「治らないねえ。風邪は万病の元と言うから、気をつけたほうがいいよ」。などと、客である作者は気をつかいながらも、少しやつれたマダムも美しいものだなと満足している。「マダムX」の「X」が謎めいており、いっそう読者の想像力をかき立てる。泰平楽な春の宵なのだ。ご存知のように「マダム(madame)」はフランス語。この国の知識人たちが、猫も杓子もフランスに憧れた時代があり、そのころに発した流行語である。しかし、最近では酒場の女主人のことを「ママ」と呼ぶのが一般的で、「マダム」はいつしかすたれてしまった。貴婦人の意味もある「マダム」を使うには、いささかそぐわない女主人が増えてきたせいだろうか。たまに年配者が「マダム」と話しかけていると、なにやらこそばゆい感じを受けてしまう。「マダム」という言葉はまだ長持ちしたほうなのだろうが、流行語の命ははかない。それにしても現在の「ママ」とは、どういうつもりで誰が言いだしたのか。戦後に進駐してきたアメリカ兵の影響だろうか。私も使うけれど、なんだか母親コンプレックス丸だしの甘えん坊みたいな気もして、後でシラフになってから顔が赤くなったりする。『俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)


August 2682001

 夜霧ああそこより「ねえ」と歌謡曲

                           高柳重信

戦後一年目(1946年)の句。戦時の抑圧から解放されて、「歌謡曲」がさながらウンカのごとく涌いて出てきた時期だ。並木路子の「リンゴの歌」は前年だが、この年には岡晴夫「東京の花売り娘」、二葉あき子「別れても」、池真理子「愛のスゥイング」、田端義夫「かえり船」、奈良光枝・近江俊郎「悲しき竹笛」などがヒットした。これらの歌詞に「ねえ」はないと思うが、戦前からの歌謡曲の王道の一つにはマドロス物があり、とりあえず港や波止場に夜霧が立ちこめ、そこに悲恋をからませれば一丁上がりってなもんだった。実際の夜霧のなかで、作者は「そこより」聞こえてきたそんな「歌謡曲」を耳にして、「ああ」と言っている。この「ああ」は、これまた歌詞の決まり文句に掛けられてはいるが、それまで絵空事として聞いていた歌が、妙にリアリティを伴って聞こえてきたことへの感嘆詞だ。「ねえ」と女の甘えた声が、ぎくりとするほどに胸に染み込んできたのである。通俗的な抒情詞も、何かの拍子にこのように働く。その不思議を、不思議そうに捉えた佳句と言ってよい。ところで、最近は温暖化の影響からか、都会では深い夜霧も見られなくなった。この句自体も、戦後の深い霧の中から「ねえ」と呼びかけているような。『昭和俳句選集』(1977)所載。(清水哲男)


November 26112003

 飛騨
大嘴の啼き鴉
風花淡の
みことかな

                           高柳重信

語は「風花」で冬。晴れていながら、今日の「飛騨」は、どこからか風に乗ってきた雪がちらちらと舞っている。寒くて静かだ。ときおり聞こえてくるのは、ゆったりとした「大嘴(おおはし)」(ハシブトガラス)の啼き声だけだ。日本中のどこにでもいる普通の「鴉」にすぎないが、このような静寂にして歴史ある土地で啼く声を聞いていると、何か神々しい響きに感じられてくる。まるで古代の「みこと(神)」のようだと、作者は素直に詠んでいる。かりそめに名づけて「風花淡(かざはなあわ)の/みこと」とは見事だ。地霊の力とでも言うべきか、古くにひらけた土地に立つと、私のような俗物でも身が引き締まり心の洗われるような思いになることがある。ところで、見られるように句は多行形式で書かれている。作者は戦後に多行形式を用いた先駆者だが、一行で書く句とどこがどう違うのだろうか。これには長い論考が必要で、しかもまだ私は多行の必然性を充分に理解しているという自信はない。だからここでは、おぼろげに考えた範囲でのことを簡単に記しておくことにしよう。必然性の根拠には、大きく分けておそらく二つある。一つには、一行書きだと、どうしても旧来の俳句伝統の文脈のなかに安住してしまいがちになるという創作上のジレンマから。もう一つは、行分けすることにより、一語一語の曖昧な使い方は許されなくなるという語法上の問題からだと考える。この考えが正しいとすれば、作者は昔ながらの俳句様式を嫌ったのではない。それを一度形の上でこわしてみることにより、俳句で表現できることとできないことをつぶさに検証しつつ、同時に新しい俳句表現の可能性を模索したと解すべきだろう。掲句の形は、連句から独立したてのころの一行俳句作者の意識下の形に似ていないだろうか。同じ十七音といっても、発句独立当時の作者たちがそう簡単に棒のような一行句に移行できたわけはない。心のうちでは、掲句のように形はばらけていたに違いないからだ。前後につくべき句をいわば恋うて、見た目とは別に多行的なベクトルを内包していたと思う。したがって、高柳重信の形は奇を衒ったものでも独善的なものでもないのである。むしろ、一句独立時の初心に帰ろうとした方法であると、いまの私には感じられる。『山海集』(1976)所収。(清水哲男)


October 10102008

 夜昼夜と九度の熱でて聴く野分

                           高柳重信

信は「もの」を写してつくる手法をとらない。現実や風景がそこに在るように写すことの意義を認めない。五感を通して把握した「実感」を第一義に優先して言葉にすることの意義も認めない。俳句に用いる言葉は詩語であるから、言葉自体から発するイメージを紡いでいくのが本質だと思っている。だから彼が伝統俳句を読み解くときも詩語としての働きが言葉にあるかどうかの角度から始める。飯田龍太の「一月の川一月の谷の中」も最初にこの人が取り上げて毀誉褒貶の論議が起こった。その角度に対する賛否はここでは言わない。ただ、この句、「夜昼夜」の畳み掛けに驚きとリアリティがあり「九度」もまた作者にとっての「真実」を援護する。たとえ、それが仕掛けだろうと伝統的書き方に対する揶揄だろうと。と、これは自分の実感を第一義に考える側に立った角度からの鑑賞である。朝日文庫『金子兜太・高柳重信集』(1984)所収。(今井 聖)


February 2022011

 夕風 絶交 運河・ガレージ 十九の春

                           高柳重信

詞だけを置いてゆくこの句から、どこか北園克衛の詩を連想しました。詩ならこの後で、どんな展開も可能だし、名詞だけが選ばれた理由を含めて書き継いでゆくこともできます。しかし、句ではそうはいきません。助詞や副詞や形容詞や動詞が、句にとってはどうして必要なのかを、逆に考えさせてもくれます。途中に開けられた空白と、中黒の違いはあるのでしょうか。選ばれた言葉から連想されるのは、バイクに乗って運河沿いを走っていた若者が、友と別れ、肩を落としてガレージに帰ってきたと、そんなところでしょうか。しかし、意味をつなげて解釈してしまうと、句の魅力に迫ることができません。たぶんそうではなく、夕風は夕風そのものであり、絶交は絶交という言葉でしかないのです。全体に逃げ場のない悲しみを感じますが、あるいはそうではなく、ただ単にしりとりを、一人でしているだけなのかもしれません。『新日本大歳時記 春』(2000・講談社)所載。(松下育男)




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