uq句

November 22111996

 夕焼は全裸となりし鉄路かな

                           あざ蓉子

あ、わからない。いや、わかるようでわからない。実は、この句。この夏の「余白句会」に蓉子さんが熊本から引っ提げてきた句のひとつで、結構好評であった。その後「俳句研究」9月号に掲載され、「俳句」11月号の鼎談(阿部完市・土生重次・青柳志解樹)でも話題になった。ポイントは「夕焼は」の「は」だろう。これを「に」にするとわかりやすいが凡庸となる。鼎談で阿部氏が述べているように、切字に近い「は」だと思う。そう理解すると、夕焼も鉄路もひっくるめての全裸という趣き。大いなる輝き。無季句と読みたいところだが……。(清水哲男)


February 2821997

 上京や春は傷みしミルク膜

                           あざ蓉子

である。「上京」という言葉を聞くだけで胸が疼く。多くの地方の少年少女が、今年もまた故郷を離れて行くことであろう。東京へ東京へ……。かつて谷川雁に「東京へ行くな」という名詩あり、寺山修司には『家出のすすめ』があった。古くは尾崎士郎の『人生劇場』、近くは五木寛之の『青春の門』。評者また急に読みたくなり『青春の門・自立編』を買ってしまった。この本の主人公は筑豊出身。この句の作者また同じ九州の熊本・玉名である。本来結びつかない上京とミルクの膜が、かくも見事に結びついている青春の不思議さよ。『ミロの鳥』所収。(井川博年)


April 1341997

 人間へ塩振るあそび桃の花

                           あざ蓉子

からない。蓉子には、不可解句が多い。だが、どこか気になる。作者は言う。「言葉は概念である。その概念を俳句定型内で組み合わせると、その組み合わせによっては、言葉が別の意味に移ろうとして立往生することがある。このもどかしい像は、これからの俳句の一つの可能性かもしれない」(『21世紀俳句ガイダンス』現代俳句協会青年部編)。すなわち、俳句の伝統を破るのではなく、そのなかで遊んでしまおうという考えだ。餅を搗く臼で、たとえば金魚を飼うがごとくにである(古道具屋で聞いた話だが、実際にそうしているアメリカ人がいるという)。つまり作者は、それほどに俳句という頑丈な様式を信頼しているということだろう。「人間」と「塩」と「桃の花」。それこそもどかしくも、気になる一句ではある。『ミロの鳥』所収。(清水哲男)


July 2371999

 傘さしてやや屋根裏となるキューリ

                           あざ蓉子

のことやら、よくわからない。が、あざ蓉子の句はそれでよいのである。彼女は、いわば「言葉の衝突」からポエジーを生み出す作家だから、句に理屈を求めても無駄である。日常的な次元で「意味」の成立するすれすれのところで、ひょいと体をかわすのが特長。その面白さを、感覚的に味わうのがいちばんだ。かといって、もちろん目茶苦茶というのではない。ちゃんと、効果は計算されている。上五中七までは、実に巧みで理屈的にもよくわかる。誰だって傘をさしたときには、屋根裏めいたように感じるときはあるだろう。問題は「キューリ」だ。句をストレートに読み下せば、傘をさしているのは「キューリ」になるけれど、それはあまりに無理な読みようなので、下七は上中十二との「衝突」をねらった企みと見た。いささか陰欝な屋根裏気分のなかに、すうっと一本のキューリが故なく差し込まれた感じ。このとき、途端に人は何を感じるだろうか。これで何も感じない読者がいるとすれば、作者の負けである。でも、そんなはずはないと、作者はキューリをぬっと突き出している。上中の巧みさよりも、結局はキューリのほうに心が残ってしまう不思議な句だ。俳誌「花組」(1999年・夏号)所載。(清水哲男)


April 1442000

 針のとぶレコード川のあざみかな

                           あざ蓉子

ざ蓉子の句のほとんどは、字面で追ってもつかめない。イメージや感覚の接続や断裂、衝突を特徴としている。この場合は、感覚的に味わうべきなのだろう。すなわち、レコード(もちろんSP版、蓄音機で聞く)の針とびのときに感じる「あ、イタッ」という感覚と薊(あざみ)のトゲに触った感触とが照応しているのだ。この感覚的な理解からひっくりかえってきて、はじめて句は作者がレコードを聞いている光景を想起させるというメカニズム。窓から春の川辺が見えている部屋の光景も、浮かんでくる。戦後大ヒットした流行歌に「あざみの歌」というのがあった。「山には山の憂いあり」と歌い出し、「まして心の花園に咲きしあざみの花ならば」で終わる。恋の悩みを歌っているが、素朴なあざみの花をあしらったところに、この歌の戦後性が見て取れよう。身も心も疲れ果てていた若者の胸に咲くのだから、たとえば薔薇のような豪華な花では耐えられない。薊ほどの地味な野の花が、ちょうどよかったのだ。俳句でいえば「深山薊は黙して居れば色濃くなる」(加藤知世子)と、こんな感覚につながっていた。『ミロの鳥』所収。(清水哲男)


January 2412001

 梅林やこの世にすこし声を出す

                           あざ蓉子

まりに寒いので何か暖かそうな句はないかと、南国(熊本県玉名市)の俳人・あざ蓉子の句集をめくっていたら、この句に出会った。いつも不思議な句を作る人だが、この句も例外ではない。不思議な印象を受けるのは、「この世にすこし声を出す」の主語が不明だからだろう。「声を出す」のは作者なのか、梅林そのものなのか。あるいは、遠い天の声やあの世のそれのようなものなのだろうか。書かれていないので、一切わからない。わからないけれど、一読、寒中にぽっと暖かい光の泡粒が生まれたような気配がする。となれば、発語の主は梅の花なのか。でも、こんなふうにして、この句にあまりぎりぎりと主語を求めてみても仕方がないだろう。丸ごとすっぽりと句に包まれて、そこで何かを感じ取ればよいのだという気がする。多くあざ蓉子の句は、そんなふうにできている。作ってある。広い意味で言えば、取り合わせの妙を提出する句法だ。普通に取り合わせと言えば、名詞には名詞、あるいは形容詞には形容詞などと同一階層の言葉を取り合わせるが、作者の場合には、名詞(梅林)には動詞(「声を」出す)という具合である。だから、うっかりすると取り合わせの企みを見逃してしまう。うっかりして、動詞「出す」とあるので、冒頭に置かれた名詞(梅林)に、一瞬主語を求めてしまったりするのである。作者は、そんな混乱や錯覚を読者に起こさせることで、自身もまた楽しんでいる。まっこと「危険な俳人」だ。と、これはおそらく「天の声」なり(笑)。『猿楽』(2000)所収。(清水哲男)


April 3042002

 落球と藤の長さを思いけり

                           あざ蓉子

語は「藤」で春。作者は、意表を突く取り合わせを得意とする。したがって、あまり句の意味や理屈を考えないほうがよい。作者のなかで感覚的にパッとひらめいたイメージを、楽しめるかどうか。そこが、読者のポイントとなる。はじめ私は「落球」を、フライを捕りそこなってポロリとやるプレーのことかと読んで、どうにもイメージが結ばなかった。野球好きの人ならたいていそう読んでしまうと思うけれど、そうではなくて、単に落下してくる球のことと素直に読めばよいのだと気がついた。上空に打ち上げられた球が、すうっと落下してくる。その軌跡を、まるで長く垂れ下がった「藤」蔓のようだと「思いけり」ということだろう。一個の落球は一つの軌跡しか描かないが、野球場ではたくさんの飛球が上がるから、それらが落下してくる残像をいちどきに思い出すと、さながら天の藤棚からたくさんの蔓が流れ落ちているようにイメージされる。それも一試合の残像ではなく、何十何百のゲームのそれを想起すれば、まことに豪華絢爛な像を思い浮かべることもできる。作者がそこまでは言っていないとしても、私のなかではそんなふうに幻の藤蔓がどんどん増殖していって、大いに楽しめた。俳誌「花組」[第57回現代俳句協会賞受賞作品50句](2002年春号)所載。(清水哲男)


February 0822004

 梅林やこの世にすこし声を出す

                           あざ蓉子

思議な後味を残す句だ。空気がひんやりしていて静かな「梅林」に、作者はひとり佇んでいる。一読、そんな光景が浮かんでくる。さて、このときに「すこし声を出す」のは誰だろうか。作者その人だろうか。いや、人間ではなくて、梅林自体かもしれないし、「この世」のものではない何かかもしれない。いろいろと連想をたくましくさせるが、私はつまるところ、声を出す主体がどこにも存在しないところに、掲句の味が醸し出されるのだと考える。思いつくかぎりの具体的な主体をいくら連ねてみても、どれにも句にぴったりと来るイメージは無いように感じられる。すなわち、この句はそうした連想を拒否しているのではあるまいか。何だってよいようだけれど、何だってよろしくない。そういうことだろう。すなわち、無の主体が声を出しているのだ。これを強いて名づければ「虚無」ということにもなろうが、それもちょっと違う。俳句は読者に連想をうながし、解釈鑑賞をゆだねるところの大きい文芸だ。だからその文法に添って、私たちは掲句を読んでしまう。主体は何かと自然に考えさせられてしまう。そこが作者の作句上のねらい目で、はじめから主体無しとして発想し、読者を梅林の空間に迷わせようという寸法だ。そして、その迷いそのものが、梅林の静寂な空間にフィットするであろうと企んでいる。むろん、その前に句の発想を得る段階で、まずは作者自身が迷ったわけであり、そのときにわいてきた不思議な世界をぽんと提示して、効果のほどを読者に問いかけてみたと言うべきか。作者はしばしば「取りあわせによって生じる未知のイメージ」に出会いたいと述べている。句は具体的な梅林と無の主体の発する声を取りあわせることで、さらには俳句の読みの文法をずらすことで、たしかに未知のイメージを生みだしている。梅林に入れば、誰にもこの声が聞こえるだろう。『猿楽』(2000)所収。(清水哲男)


October 22102004

 にわとりも昼の真下で紅葉す

                           あざ蓉子

て、「にわとり」は「紅葉」しない。「昼間」には「真下」も真上もない。それを承知で、作者は詠んでいる。あえて言うのだが、こうした句を受け入れるかどうかは、読者の「好み」によるだろう。わからないからといって悲観することはないし、わかったからといって格別に句を読む才に長けているわけでもあるまい。何度も書いてきたように、俳句は説得しない文芸だ。だから、読みの半分くらいは読者にゆだねられている。そこがまた俳句の面白いところであり、どのような俳人もそれを免れることはできない。従って、掲句が読者に門前払いされても、致し方はないのである。でも、私はこの句が好きだし、理由はこうだ。まず浮かんでくるのは、しんとした田舎の昼の情景である。すなわち「昼の真下」とは、天高くして晴朗の気がみなぎる地上(空の「下」)の光景だろう。そこに一羽の老いた「にわとり」がいる。このときにこの鶏は、間もなく死に行く運命にあるのだが、その前に消えてゆく蝋燭の火が一瞬鮮やかな光芒を放つように、生き生きと生命の炎を燃やしているように見えた。その様子を周囲の鮮やかにしてやがて散り行く「紅葉」になぞらえたところが、私には作者の手柄だと写る。くどいようだが、この読みも当然私の好みのなかでの話であり、作者の作句意図がどうであれ、このように私は受け取ったまでで、俳句の読みはそれでよいのだと思う。俳誌「花組」(第24号・2004年10月刊)所載。(清水哲男)


March 2932007

 手枕は艪の音となる桜かな

                           あざ蓉子

(ろ)の水音と桜の取り合わせが素敵だ。広辞苑によると、舟を漕ぎ出すときに使う艪の掌に握って押す部分を「腕」水をかく部分を「羽」と呼ぶらしい。そういえば艪を左右に広げて舟を漕ぎ進む格好は羽根を広げて空をゆく鳥の姿を思わせる。とはいっても左右均等に力を入れて艪を扱うのはなかなか難しく、非力な漕ぎ手が艪を漕ぐと前には進まず、ぐるぐる同じ場所を回りかねない。公園のボートであろうと、思い通りに進むのは難しい。掲句は桜の木の下に手枕をして寝転がって桜を見ているうち、夢うつつの不思議な気分になっている状態を表しているのだろう。もしくは桜を見ているうちに眠くなって人声が遠くなっていく様子を表しているのかもしれない。いずれにしても居眠りをする「舟を漕ぐ」や熟睡の状態の「白川夜船」といった眠りにまつわる言葉が句の発想の下敷きにあるかもしれないが、そんな痕跡はきれいに消されている。むしろ「手枕」が「艪の音」になるという、一見唐突な成り行きを感覚的に納得させる手がかりとして、これらの言葉への連想を読み手へ誘いかけてくるようである。肘を曲げて頭の下に置く手枕が艪になり、夢心地の不思議な場所へと連れ出されてゆく。最後に「桜かな」と大きな切れで打ちとめたことで、夢は具体的な景となって立ち現れる。艪の水音と桜と夢。青空に光る桜は虚と実が交差する異界への入り口なのかもしれない。『ミロの鳥』(1995)所収。(三宅やよい)


June 3062011

 七月の天気雨から姉の出て

                           あざ蓉子

めじめした梅雨が去ると天気予報に「晴れ」マークの続く本格的な夏の訪れとなる。明日から七月。この夏、東京は15パーセントの削減目標で節電を実施することになっている。昨年の酷暑を思うと本格的な夏の訪れが恐ろしい。どうか手加減してください。と、」空に向かって祈りたい気持ちになる。「天気雨」は日が照っているのに細かい雨が降る現象。沖縄県鳩間島では「天泣」という言葉もあるらしい。仰ぐ空に雲らしきものは見えないのに雨が降る不思議、七月の明るい陽射しに細かい雨脚がきらきらと光っている。その天気雨の中から姉が出てくるのだろうか。「キツネの嫁入り」という天気雨の別の呼称が立ちあがってくるせいか、白い横顔をちらと見せる女の姿が思われる。天気雨が通過するたび遠くへ去った姉の面影が帰ってくるのかもしれない。『天気雨』(2010)所収。(三宅やよい)


January 2812013

 寒天を震るわせている大太鼓

                           あざ蓉子

時記で「寒天」を調べると、いわゆる傍題として「冬の空」の項目に添えられている。これに従えば、句意は「大太鼓の重低音が勇壮に、寒々とした冬の空を震わせるように響いている」となる。ところが「寒天」にはもう一つの意味があって、言わずと知れた食べ物としてのそれだ。こちらの寒天は厳冬期に製造されるから、冬空と区別するために、歳時記には「寒天製す」などの別項目が立てられている。この食べ物のほうの命名者は隠元和尚だそうで、彼は「寒空」や「冬の空」を意味する漢語の寒天に「寒晒心太(かんざらしところてん)」の意味を込めて、寒天と命名したという。明らかに掲句はこの二つの「寒天」を意識していて、実景としてはゼリー状に濁った冬空をぷるぷると震わせて大太鼓の音が響く情景を詠んでいる。寒々とした曇天の冬空を震わせて太鼓が打ち鳴らされる情景は、身の引き締まる思いがわいてくるのと同時に、鬱屈した思いを解きほぐすような効果を生む。「花組」(57号・2013年1月刊)所載。(清水哲男)




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