1997N121句(前日までの二句を含む)

January 2111997

 妻の手のいつもわが邊に胼きれて

                           日野草城

聞で、盥で洗濯をするペルー女性の写真を見た。三十数年前までの日本女性の姿と同じだった。洗濯板も、ほぼ同型。下宿時代の私にも経験があるが、冬場の洗濯はつらい。主婦には、その他にも水仕事がいろいろとある。したがって、どうしても冬は手があれてしまう。よほど経済的に恵まれた家庭の主婦でないかぎり、きれいな手は望むべくもなかった。そんな妻の手へのいとおしみ。敗戦直後の作品である。あと半世紀も経ないうちに、この句の意味はわからなくなってしまうだろう。『旦暮』所収。(清水哲男)


January 2011997

 居酒屋の灯に佇める雪だるま

                           阿波野青畝

華街に近い裏小路の光景だろうか。とある居酒屋の前で、雪だるまが人待ち顔にたたずんでいる。昼間の雪かきのついでに、この店の主人がつくったのだろう。一度ものぞいたことのない店ではあるが、なんとなく主人の人柄が感じられて、微笑がこぼれてくる。雪だるまをこしらえた人はもちろんだけれど、その雪だるまを見て、こういう句をつくる俳人も、きっといい人にちがいないと思う。読後、ちょっとハッピーな気分になった。『春の鳶』所収。(清水哲男)


January 1911997

 にんげんの重さ失せゆく日向ぼこ

                           小倉涌史

供のころ、遊びに行くと、友人の祖母はいつも縁側の同じ場所に坐って日向ぼこをしていた。何も言わず、無表情に遠くを見ているだけだった。その決まりきった姿は、ほとんど彫塑さながらだったが、そういえば、この句のように体重というものが感じられなかった。拙詩「チャーリー・ブラウン」に出てくる老婆「羽月野かめ」は、彼女がモデルになっている。後年、彼女の死を伝えられたとき、いつもの縁側からふわりと天上に浮き上がる姿を、とっさに連想した。作者が暗示しているように、日向ぼこの世界は天上のそれに近いものがあるようだ。日の下で気持ちがよいとは、つまり、死の気配に近しいということ……。『落紅』所収。(清水哲男)




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