゚子句

February 0121997

 暮色もて人とつながる坂二月

                           野沢節子

月。春も間近だ。気分はそうであっても、まだまだ寒い日がつづく。この句は、そのあたりの人の心の機微を、実に巧みにとらえている。すなわち、夕暮れの坂を歩いている作者は、そこここの光景から春の間近を感じてはいるのだが、風の坂道はかなり寒い。ふと前を行く人や擦れ違う見知らぬ人に、故なく親和の情を覚えてしまうというのである。これが花咲く春の夕刻であれば、どうだろうか。決して、心はこのようには動かない。浮き浮きした心は、むしろ手前勝手に孤立する。自己愛に傾きがちだ。(清水哲男)


April 2441997

 太陽を探しに遠足坂また丘

                           野沢節子

り日の遠足。いまにも降ってきそうだ。もうひとつ心が弾まない。自然に足どりも重くなる。坂道を登ったと思ったら、また前方に小高い丘が見えてきた。ヤレヤレ。なんだか、みんなで苦労して太陽を探しに来ているみたい。お弁当の時間まで、もう少しだ。ちょっとでいいから、晴れてほしいな……。と、曇天下の遠足を詠んだ句は珍しい。日本のどこかでは、今日もこんな遠足が行なわれていそうだ。(清水哲男)


March 2832001

 春昼の指とどまれば琴も止む

                           野沢節子

とに知られた句。あったりまえじゃん。若年のころは、この句の良さがわからなかった。琴はおろか、何の楽器も弾けないせいもあって、楽曲を演奏する楽しさや充実感がわからなかったからだ。句は、演奏を終えた直後の気持ちを詠んでいる。まだ弾き終えた曲の余韻が身体や周辺に漂っており、その余韻が暖かい春の午後のなかに溶け出していくような気持ち……。琴の音は血をざわめかすようなところがあり、終わると、そのざわめきが静かに波が引くようにおさまっていく。弾いているときとは別に、弾き終えた後の血のおさまりにも、演奏者にはまた新しい充実感が涌くのだろう。まことに「春昼」のおぼろな雰囲気にフィットする句だ。ちなみに、このとき作者が弾いたのは「千鳥の曲」後段だった。三十代のころに住んでいたマンションの近所に、琴を教える家があった。坂の途中に石垣を組んで建てられたその家は、うっそうたる樹木に覆われていて、見上げてもほとんど家のかたちも見えないほどであった。日曜日などに通りかかると、よく音色が聞こえてきたものだ。どういう人が教えていて、どういう人が習っているのか。一度も、出入りする人を見たことはない。そのあたりも神秘的で、私は勝手に弾いている人を想像しては楽しんでいた。上手いか下手かは、問題じゃない。ピアノ全盛時代にあって、琴の音が流れてくるだけで新鮮な感じがした。「深窓の令嬢」なんて言葉を思い出したりもした。掲句から誰もが容易に連想するのは、これまたつとに知られた蕪村の「ゆく春やおもたき琵琶の抱ごゝろ」だろう。こちらは、これから弾くところだろうか。なんとなくだが、蕪村は琵琶を弾けない人だったような気がする。演奏云々よりも、気持ちが楽器の質感に傾き過ぎている。それはよいとしても、演奏者なら楽器を取り上げたとき、こんな気持ちにならないのではないだろうか。つまり、想像句だということ。『未明音』(1955)所収。(清水哲男)


December 04122003

 マラソンの余す白息働きたし

                           野沢節子

語は「白息(しらいき)・息白し」で冬。そろそろ、連日のように吐く息が白く見えるようになる。いわゆるリストラの憂き目にあった人の句ではない。「余す白息」から、作者の健康状態のよくないことがすぐに読み取れる。健康な人であれば、「余す」の措辞はなかなか出てこないだろう。せいぜいが「吐く白息」くらいだろうか。ところが作者には、走りすぎるマラソン・ランナーの吐く白い息が、羨ましくも生きていくエネルギーの余剰と写ったのだ。自分には到底、あんなふうに「白息」を「余す」ようなエネルギーはない。いくら働きたくても、私には余すエネルギー、体力などないのだから無理だろう。しかし、みんなと同じように私も身体を使って働きたいのだ。切実にそう思う作者の目に、ランナーの白息がどこまでもまぶしい……。このように、句は作者の境遇を何も知らなくても読むことができるが、少し付言しておく。句は、作者の二十数年来の宿痾であったカリエスがやっと治癒した後に書かれたものだ。一応名目的な健康は取り戻したものの、むろんそう簡単に体力がつくわけのものではない。病気から解放された信じられないような嬉しさと、しかし人並みの体力を持ちえない哀しみとの交錯する日常がつづいていた。このとき、作者は既に三十八歳。一度も働いたことはなく、あいかわらず両親の庇護の下にあった。焦るなと言うほうが無理だろう。なりたくて、病気になる人は一人もいない。しかし不運としか言いようのない境遇のなかにあって、作者と同じく多くの病者が俳句をよすがとし、その世界を更に豊饒なものとしてきた。俳句が今日あるのは、社会的弱者の目に拠るところが実に大きいのである。『雪しろ』(1960)所収。(清水哲男)


May 1452004

 夏未明音のそくばく遠からぬ

                           野沢節子

の夜明けは早い。この時期でも、もう四時半頃には空が白んでくる。「未明」とはあるが、早朝のそんな時間帯だろう(季語「夏の暁」に分類)。早起きの鳥たちは鳴きはじめ、新聞配達の人の足音もする。一日がはじまりつつあるのだ。「そくばく」は「若干」の意の古語だ。「そこばく」と言ったほうが、思い当たる人は多いだろうか。そして、この「音のそくばく」のなかには、「遠からぬ」それも混じっている。朝食の支度のために起きだした母親の気配は、誰にも懐かしく思い出される身近な音のひとつだ。むろん、作者はまだ布団の中にいて、夢か現かの状態でそれらの音を耳にしている。そういうときには、いまの自分が大人なのか子供なのかというような意識はない。聞こえてくる音も、現実のそれかか昔のそれなのかの区別もない。だから、ふと目覚めた作者の耳には、現実の音と記憶の中の音とがないまぜになって聞こえている。すなわち距離的にも時間的にも「遠からぬ」と詠んだわけで、かつての音もまたいまの音ですら、とても懐かしい響きをもって蘇ってきたと言うのである。うとうととろとろとした心地よい状態のなかで、こみあげてくる懐かしさ。これぞ至福のときと呼んでよいのではあるまいか。残念なことに私は早起きだから、あまりこうした体験はない。たまには、すっかり明るくなるまで寝ていたいとも思うけれど、ついつい起き上がってしまう。遅寝をすると、なんだかソンをしたような気になる。貧乏性なのである。『未明音』(1955)所収。(清水哲男)


July 2372004

 天を航く緑濃き地に母を置き

                           野沢節子

語は「緑」で夏。はじめて飛行機に乗ったときの句だという。飛び立って上昇中に眼下を見渡すと、一面の「緑の地」がどこまでも広がっていた。緊急の用事か仕事での旅だろう。はじめて見る美しい眺めにも関わらず、ああ、あの緑の地のどこかに「母」を置いてきたのだという感懐が胸をかすめる。作者は長く病床にあり、いつも面倒をかけてきた母だったから、「置き」は「置き去り」に通じるところがあって切ない。この見事なランドスケープを、母にも見せてやりたかった。いっしよに見たかった……。どこかに書いたことだが、私は高所恐怖症なので、はじめての飛行機は怖かった。でも、仕事だったのでしかたがない。同乗者は作家の開高健で、奄美大島に住んでいた島尾敏雄を訪ねる旅だった。開高さんは私の恐怖症を知っていたから、窓側に座ってくれ、いよいよ出発という時に例の大音声でささやいた。「清水よ、下見たらあかん。絶対見たらあかんで」。言われなくとも下を見る度胸はなかったが、言われるとますます怖くなってきて、おそらく真っ青になっていたにちがいない。開高さんが、なにやかやと面白い話で気を紛らわせてくれようとしていたのは覚えているけれど、ろくに相づちも打てないほどに、私はカチンカチンなのだった。優しい人だったなあ。『飛泉』(1976)所収。(清水哲男)


October 14102004

 秋の山遠祖ほどの星の数

                           野沢節子

語は「秋の山」。星が見えているのだから、夕暮れ時だろう。そろそろ山を下りようかというときに、澄んだ空を仰ぐと星が瞬きはじめていた。はじめのうちはぽつりぽつりと光っていたのが、時間が経つに連れてだんだんに数を増してくる。それらの星を「遠祖(とおおや)」、すなわち祖先のようだととらえた感受性を私は好きだ。そこらあたりは人それぞれで、なかには「金平糖」みたいだと感じたり「金貨」みたいだと思ったりとさまざまだし、さまざまで良いのである。が、黄昏時から徐々に数を増やしてゆく星たちの動的なありようは、私たちが祖先を思うというときに、まず両親の二人からだんだんに遡ってゆく過程に似ていて、句想の動きは的確だ。そして、遠祖の存在は確かに宇宙の星のように時間的空間的に遠いのである。いったい、私の祖先の数はどれくらいなのだろうか。この句を読んだ誰しもが、立ち止まって考えたくなるだろう。私たちはみな、太古の祖先から生き代わり死に代わりして、しかし脈々と血はつながって、いま、ここ現代の時空間に立っている。それは偶然の存在だし、また必然の存在でもある。澄んだ「秋の山」の大気のなかで、作者は遠い祖先の「数」に想いを馳せながら、粛然たる気分を得たにちがいない。『花季』(1966)所収。(清水哲男)


June 1162005

 闇よりも暁くるさびしさ水無月は

                           野沢節子

朝8時15分に、義母が横浜の病院で亡くなりました。関東地方に、しとしとと雨の降りはじめた時間でした。八十五歳。元来は社交的で明るい女性でしたが、連れ合いに先立たれてからは急激に元気を失って……。句の季語は「水無月」で夏。旧暦六月のことですから、まだ皐月のいまの候にはマッチしません。しかも作者の「さびしさ」の内容もわかりません。が、義母の訃報に接して、自然に追悼の心情と重なってきましたので、ここに掲載して哀悼の意を表することにしました。個人的なことで、読者諸兄姉には申しわけありません。なお、明日の当欄は、もしかすると句のみの掲載となる可能性があります。鑑賞はのちほど埋め合わせて書きますので、その際にはなにとぞ当方の事情ご拝察の上、ご寛容のほどを。(清水哲男)


May 0952008

 生れ月につづく花季それも過ぐ

                           野沢節子

季は、はなどきとルビがある。一九九五年に七五歳で亡くなられる三年前の作。自分の生れた月が来て、ひとつ歳を取り、つづいて桜の季節が来てそれも過ぎて行く。無常迅速の思いか。実作者としての立場から言えば、「それも」の難しさを思う。こんな短い詩形の中で一度出した名詞をさらに指示してみせそこに生じる重複感を逆に効果に転ずる技術。晩春の空気の気だるさにこの重複表現がぴったり合う。森澄雄の「妻がゐて夜長を言へりさう思ふ」の「さう思ふ」も同様。こんな「高度」な技術はその作者だけのもの。誰かが、「それも過ぐ」や「さう思ふ」を使えば剽窃の謗りをまぬがれないだろう。野澤節子は三月二三日に生まれ、四月九日に逝去。没後編まれた句集『駿河蘭』の帯には「野澤節子は花に生れ花に死んだ」とある。『駿河蘭』(1996)所収。(今井 聖)


June 0662010

 読まず書かぬ月日俄に夏祭

                           野沢節子

段は行かないのですが、今年は友人が朗読をするというので、5月末の日曜日に、「日本の詩祭」に行ってきました。会場に入ってまず驚いたのが、広い場内のほとんどの席がすでに埋まっており、その人たちがたぶん皆、詩人であることでした。日本にはこれほど多くの詩人がいるものかと思った後で、しかし「詩人」なるものの定義も、どこか曖昧だなと、あらためて思いもしました。わたしも、ものを書いて発表するときには、ほかにぴったりする呼び名もないので、名前のあとに(詩人)とつけられることがあります。しかし、言うまでもなく詩を書いて生活をしているわけでもなく、また、毎日毎日詩を書いているわけでもありません。では、読むほうはどうかといえば、これも、通勤電車で読む日経新聞と会社の書類以外には、まったく何も読まない日々もあり、月日はそれでも詩人を過ぎてゆくわけです。とはいうものの、心のどこかには、自分にはもっとすごい詩が書けるのではないのか、そのためにはきちんとした勉強を怠ってはいけないのだという気持ちはしっかりともっており、だからいつも焦っているわけです。焦って見上げる夕暮れの空からは、遠い祭囃子の音が風に乗って聞こえてきます。ああ、今年ももう夏祭の季節になってしまったのだなと、さらに人生に、焦りの心が増してくるのです。『俳句のたのしさ』(1976・講談社)所載。(松下育男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます