ホ季句

February 0821997

 春暁の我が吐くものゝ光り澄む

                           石橋秀野

暁(しゅんぎょう)。春の明け方。『枕草紙』冒頭の「春は曙。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて……」の朝まだき。つめたい薄明かりのなかに見る「我が吐くもの」の、意外な透明感。むしろそれが美しく神々しくさえ感じられる不思議。ここで、人が「吐く」苦しさは「生きる」美しさに通じている。いわゆる「つわり」かもしれず、結核などによる血液の嘔吐なのかもしれない。が、この際は何だってよいだろう。作者については、波郷門であったこと以外は何も知らないけれど、おのれの吐瀉物を、このように気高く詠んだ力には圧倒されてしまう。俳句ならではの表現の凄さを感じさせられる作品のひとつだ。(清水哲男)


April 2541997

 緑なす松や金欲し命欲し

                           石橋秀野

にでも、季節は平等にめぐりくる。が、受け取り方は人さまざまだ。病者にとっては、とくに春のつらい人が多い。中途半端な気温、中途半端な自然の色彩。あるいはそこここでの生命の息吹きが、衰えていく身には息苦しいからである。そんな心境を強く表白すれば、この句のようになる。この句を読んで、誰も「あさましい」などとは思わないだろう。今年も、元気者だけのための「ゴールデン・ウィーク」がやってくる。(清水哲男)


March 1631998

 緑なす松や金欲し命欲し

                           石橋秀野

は常緑樹であるが、花の後で蕊が長くのび、若々しい新緑の芽を吹き出す。生命の勢いを感じさせられる。そんな松の様子を、俳句では「若緑」と言ってきた。この季語は「松」に限定されているのだ。ところで、この句をポンと見せられた読者は、何を感じ取るだろうか。金も欲しいし、命もほしい。……だなんて、ずいぶんとムシのいい作品だと思うのが普通かもしれない。だが、実は作者が幼な子を抱えて余命いくばくもない主婦だと知れば、おのずから感想は異なってくるはずである。人生の悲しみ、ここに極まれりと感じるだろう。どちらにでも受け取れる句だ。俳句には、作者の人生がからみつく。句が独立したテキストとして立つというのではなく、人生や時代背景の大きなテキストのフラグメントとして機能する。このとき、俳句は芸術なのだろうか。そう問題提起したのが桑原武夫であったし、いわゆる現代詩の成立する根拠の一つともなっている。実はこの句は、死の予感のなかで詠まれたものだ。芸術であろうがなかろうが、作者は発語せざるを得なかったのである。それが「俳句」だ。石橋秀野は山本健吉夫人だった。彼女の生涯については、上野さち子『女性俳句の世界』(岩波新書)に簡潔的確に描かれている。『桜濃く』(1949)所収。(清水哲男)


October 17101998

 星降るや秋刀魚の脂燃えたぎる

                           石橋秀野

く晴れた秋の夜、作者は戸外で秋刀魚を焼いている。第三者としてそんな主婦の姿を見かけたら、微笑を浮かべたくなるシーンであるが、作者当人の気持ちは切迫している。秋刀魚にボッと火がついて、火だるまになった様子を「燃えたぎる」と表現する作者は、名状しがたい自分の心の炎をそこに見ていると思われる。単なる生活句ではないのである。いや、作者が生活句として書こうとしても、どうしてもそこを逸脱してしまう気性が、彼女には生来そなわっていたというべきなのかもしれない。浅薄な言い方かもしれないが、火だるまになれる気性は男よりも数段、女のほうにあらわれるようだ。だから「生来」と、私としては言うしかないのである。上野さち子の名著『女性俳句の世界』(岩波新書)より、秀野の俳句観を孫引きしておく。敗戦直後の1947年の俳誌「風」に載った文章である。「俳句なんどなんのためにつくるのか。飯の足しになる訳ではなし、色気のあるものでもなし、阿呆の一念やむにやまれずひたすらに行ずると云ふより他に答へやうのないものである」。このとき、秀野三十九歳。掲句は1939年、三十一歳の作品だ。『桜濃く』(1959)所収。(清水哲男)


February 1621999

 道ばたに旧正月の人立てる

                           中村草田男

陽暦の採用で、明治五年(1872)の12月3日が明治六年の元日となった。このときから陰暦の正月は「旧正月」となったわけだが、当時の人々は長年親しんできた陰暦正月を祝う風習を、簡単に止める気にはなれなかったろう。季節感がよほど違うので、梅も咲かない新正月などはピンとこなかったはずである。私が八歳から移り住んだ山口県の田舎では、戦後しばらくまでは「旧正月」を祝う家もあった。大人たちが集まって酒を飲んでいたような記憶があるし、「隣りより旧正月の餅くれぬ」(石橋秀野)ということもあった。祝うのは、たいていが旧家といわれる大きな家だった。作者は、そんな家の人が晴れ着を着て「道ばた」にたたずんでいる光景を目撃している。そして、今が旧正月であることを思い出したのだ。「旧正月」という季語は、非常に新しい季語でありながら、歳月とともにどんどん色褪せていったはかない季語でもある。句の「旧正月の人」とは、だから私には「旧正月」という季語を体現しているような、どこか「はかない人」のように思われてならない。(清水哲男)


June 0962001

 薫風に膝たゞすさへ夢なれや

                           石橋秀野

書に「山本元帥戦死の報に」とある。大戦中の連合艦隊司令長官であり、国民的に人気のあった山本五十六がソロモン諸島上空で戦死したのは、1943年(昭和十八年)四月十八日のことだった。八十八夜のずっと前だから、いまだ「薫風」の季節ではありえない。では何故、句では「薫風」なのか。時の政府が山本の戦死を、一ヶ月ほど隠していたからである。すぐに発表すれば、あまりにも国民の動揺が大きすぎるとの判断から、事実が自然に漏れ出るぎりぎりまで延ばしたのだった。発表されたのは五月も下旬、国葬は六月に行われている。しかし、これで多くの人たちが否応なく戦局不利を実感してしまう。戦死の報に触れたときに、作者は思わずも「膝をたゞ」した。「こんなことがあって、よいものか」。いまこうして自分が居住まいを正していることさえ「夢なれや」、信じられない。すがすがしい「薫風」との取り合わせで、鮮やかに悲嘆落胆の度合いが強まった。時局におもねっているのではなく、作者は本心で五十六の死に呆然としている。当時世論調査が行われていれば、山本元帥の支持率は限りなく100パーセントに近かったろう。最近の小泉首相高支持率の中身が気にかかるので、いささか季節外れ(時節外れ)の掲句を扱ってみたくなった。『定本 石橋秀野句文集』(2000)所収。(清水哲男)


September 3092002

 鐘鳴れば秋はなやかに傘のうち

                           石橋秀野

書に「東大寺」とある。句の生まれた状況は、夫であった山本健吉によれば、次のようである。「昭和二十一年九月、彼女は三鬼・多佳子・影夫・辺水楼等が開いた奈良句会に招かれて遊んだ。大和の産である彼女は数年ぶりに故国の土を踏むことに感動を押しかくすことが出来なかった」。この「傘」が日傘であったことも記されている。秋の日が、さんさんと照り映えている上天気のなか、久しぶりに故郷に戻ることができた。それだけでも嬉しいのに、すっかり忘れていた東大寺の鐘の音までもが出迎えてくれた。喜びが「傘のうち」にある私に溢れ、それも色彩豊かな秋の景色とともに「はなやかに」日傘を透かして溢れてくる……。「傘のうち」は、すなわち自分にだけということであり、同行者にはわからないであろう無上の喜びを、一人で噛みしめている気持ちが込められている。このときに作者は、日常の生活苦のことも、それに伴う寂寥感も、何もかも忘れてしまっているのだ。故郷の力と言うべきだろう。再度、山本健吉を引いておけば「そしてこの束の間の輝きを最後として、その後の彼女の句には、流離の翳に加うるに病苦の翳が深くさして来るのである」と、これはもう哀悼の辞そのものであるが。『桜濃く』(1959)所収。(清水哲男)


November 03112012

 ゆく秋やふくみて水のやはらかき

                           石橋秀野

起きてまず水をコップ一杯飲むことにしている。ここしばらくは、冷蔵庫で冷やしておいた水を飲んでいたが今朝、蛇口から直接注いで飲んだ。あらためて指先の冷えに気づいて冬が近づいていることを実感したが、中途半端に冷え冷えし始める今頃が一番気が沈む。そんな気分で開いた歳時記にあった掲出句、朝の感覚が蘇った。そうか行く秋か、中途半端で気が沈むなどと勝手な主観である。井戸水なのだろう、口に含んだ瞬間、昨日までとどこか違う気がしたのだ。思ったより冷たく感じなかったのは冷えこんで来たから、という理屈抜きで、ふとした一瞬がなめらかな調べの一句となっている。ひらがなの中の、秋と水、も効果的だ。三十九歳で病没したという作者、『女性俳句集成』(1999・立風書房)には掲出句を挟んで〈ひとり言子は父に似て小六月〉〈朝寒の硯たひらに乾きけり〉とあり、もっと先を見てみたかったとあらためて思う。『図説俳句大歳時記 秋』(1964)所載。(今井肖子)




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