H龍V句

February 1421997

 薄曇る水動かずよ芹の中

                           芥川龍之介

かにも龍之介らしい鋭い着眼。この句は、芹を詠んでいるようでいて、詠んではいない。芹という清澄な植物に囲まれた水のよどみを詠むことによって、おのが心の屈折した水模様を描き出している。ただし「上手な句」ではあるけれども、芹(自然)とともに生きている感覚はない。同じ「芹の中」を詠んだ作品でも、蕪村の「これきりに径尽きたり芹の中」の圧倒的な自然感からは、遠く隔たっている。まったくもって「うめえもんだ」けれど、どこかで読者を拒んでいる雰囲気を感じるのは、私だけであろうか。(清水哲男)


June 0761997

 庭土に皐月の蝿の親しさよ

                           芥川龍之介

(はえ)などという虫は、普段はただ疎ましいだけだが、陰暦・皐月(さつき)のいまごろに出始めの蠅を見かけたりすると、思いがけない親愛感がわいてきたりする。しかも、作者が機嫌よく庭に出ているとなれば、頃合いは梅雨の晴れ間か。だとすればますます、疎ましい虫に対しても親しい目つきになろうというものだ。自然の持つ素朴な輝きとしての庭土や蠅に、天才的小説家は素直な親しみを覚えている。が、一方で、この感性はかなりオジン臭い。言い換えれば、芥川は俳句表現においてもまた、若くして老成した目の持ち主であったということになる。しかし、作者が芥川だから油断はならない。あえてオジン的発想をねらった句とも考えられる。才気煥発な人の俳句は、いつも裏がありそうで、読むのがしんどい。(清水哲男)


December 14121997

 木がらしや目刺にのこる海のいろ

                           芥川龍之介

句には違いない。木枯らしの音と目刺しの青い色とが響きあう。巧みなものである。ただ、生活臭はまったく感じられない。このことは、実は作者が最も気にしているところで、平仮名の神経質な用い方にそれがうかがえる。句の光景に、なんとか人間の匂いを入れようと苦心している。ちなみに「凩や目刺に残る海の色」と漢字を多用してみると、そのことがよくわかるだろう。ここで芥川の最初の発想は、木枯らしと目刺しの取り合わせの妙を面白がりすぎていて、その面白がりようはモダニズムのそれに近いものだと思う。つまり、木枯らしや目刺しの本源的なありようよりも、関心は別のところにあったというわけだ。だから、これではならじと必死に本源へ引き戻している姿が、平仮名の用い方に滲み出ている。が、そのような苦闘にもかかわらず、この句は一枚のしゃれた絵なのであって、現実には届いていないと読んでおく。(清水哲男)


October 30101998

 たんたんの咳を出したる夜寒かな

                           芥川龍之介

書に「越後より来れる嫂、当歳の児を『たんたん』と云ふ」とある。「たんたん」は、当歳(数え年一歳)というのだから、まだ生まれて間もない赤ん坊の愛称だ。その赤ん坊が、夜中に咳をした。風邪をひかしてしまったのではないかと、ひとり机に向かっていた父親は「ひやり」としたのである。晩秋。龍之介の手元には、おそらくはもう火鉢があっただろう。同じ内容の句に「咳一つ赤子のしたる夜寒かな」があって、こちらの前書には「妻子はつとに眠り、われひとり机に向ひつつ」とある。どちらの句も、新米の父親像が飾り気なく書かれていて好感が持てる。いずれの句が優れているかは判定しがたいところだが、「たんたん」のほうに俳諧的な面白みは出ているように思う。実際、新米の父親というものは仕様がない。赤ん坊の咳一つにも、こんなふうにうろたえてしまい、おろおろするばかりなのである。この句を読むと、我が身のそんな日々のことを懐しく思い出してしまう。龍之介もまた、しばらくの間は原稿を書くどころじゃない気分だったろう。『澄江堂句集』(1927)所収。(清水哲男)


January 0111999

 元日や手を洗ひをる夕ごころ

                           芥川龍之介

日に晴朗の気を感ぜずに、むしろ人生的な淋しさを感じている。近代的憂愁とでも言うべき境地を詠んでおり、名句の誉れ高い作品だ。世間から身をずらした個としての自己の、いわば西洋的な感覚を「夕ごころ」に巧みに溶かし込んでいて、日本的なそれと融和させたところが最高の手柄である。芭蕉や一茶などには、思いも及ばなかったであろう世界だ。ただし、芥川の手柄は手柄として素晴らしいが、この句の後に続々と詠まれてきた「夕ごころ」的ワールドの氾濫には、いささか辟易させられる。はっきり言えば、この句以降、元日の句にはひねくれたものが相当に増えてきたと言ってもよさそうだ。たとえば、よく知られた西東三鬼の「元日を白く寒しと昼寝たり」などが典型だろう。芥川の作品にこれでもかと十倍ほど塩だの胡椒だのを振りかけたような味で、三鬼の大向こう受けねらいは、なんともしつこすぎて困ったものである。「勝手に寝れば……」と思ってしまう。そこへいくと、もとより近代の憂いの味など知らなかったにせよ、一茶の「家なしも江戸の元日したりけり」のさらりと哀楽を詠みこんだ骨太い句のほうが数段優れている。つまり、一茶のほうがよほど大人だったということ。(清水哲男)


May 1151999

 笋の皮の流るる薄暑かな

                           芥川龍之介

(たかんな)は筍(たけのこ)。「たかんな」なんて漢字がワープロに仕込まれているはずはないと思いつつ、試しに打ってみたら一発で出てきた。びっくりした。俳人以外の誰が、いまどき「たかんな」の漢字を必要とするのだろう。よほどの「筍」好きが作ったワープロ辞書なのだろうか。どうもワープロ・ソフト製作者の意図には不分明なところがある。……と書いて、アップして約9時間後、読んでくださった坂入啓子さんから「たかんな」の漢字が間違っているのではとの指摘があった。あわててよくよく見たら、たしかに大間違い。一発で出てきたのは、「笋」ならぬ「箏」という字だった。辞書の間違いであると同時に、気がつかなかった私の失策でした。ごめんなさい。ちなみに使用辞書はEDWORD6.0版。というわけで、以下が昨日と同じ本文となります。……句意は簡単明瞭。笋の皮が小川を流れていく様子が、ちょうど少し汗ばむような陽気にマッチしたというのである。筍は成長につれて皮を脱ぐが、それが流れてきたというのではなく、誰かが上流で食べるために剥がした皮が流れてきたと解すべきだろう。夏めいてきた気分が、見えない上流の人の食事の用意によって、鮮やかにとらえられている。昔の川は、文字通りの生活用水でもあったので、このような情感も流れてきたというわけだ。川を意識するということは、単に眼前のそれを意識することではなかった。見えない上流も下流も、自然に同時に意識したということで、この句は、読者にもそのような昔の生活者の目がないと、理解はできない。現代の川は、この意味では、もはや川ではありえないと言うこともできそうだ。『我鬼全句』所収。(清水哲男)


November 01112006

 酒となる間の手もちなき寒さ哉 

                           井上井月

月(せいげつ)は文政五年(1822)越後高田藩に生まれ、のち長岡藩で養子になった。三十代後半に信州伊那谷に入り、亡くなる明治二十年(1887)まで放浪漂泊の生涯を送った。酒が大好きだった。掲句は伊那で放浪中のもので、どこぞの家に厄介にでもなって酒を待つ間(ま)の手持ち無沙汰。招じあげられ、一人ぽつねんとして酒を静かに待っているのだろう。申しわけなさそうな様子ではあるが、主人との酒席をじいっと辛抱強く待っている、そんな図である。そのあたりにいる女子衆(おなごし)に愛想を振りまくわけでも、世辞を言ったりするわけでもあるまい。寒さに耐えて酒を待つ無愛想。伊那谷の冬の寒さが、読むほうにもことさら身にしみてくる。ついでに酒が待ち遠しくもなる。ある時、井月は「何云はん言の葉もなき寒さかな」の一句も短冊にしたためている。穏かなご隠居が「井月さん、来たか、来たか」と座敷にあげて酒をふるまうこともあったと、『井上井月伝説』(江宮隆之)にある。山頭火が心酔していたというが、さもありなん。室生犀星が高く評価した。傑出した句ではないが、左党には無視しがたい一句。芥川龍之介はこう詠んでいる、「井月ぢや酒もて参れ鮎の鮨」。落語「夢の酒」では、酒好きのご隠居が夢のなかで酒の燗がつくのを待っているうちに嫁に起こされてしまって、「冷やで飲めばよかった!」とサゲる。井月句はおよそ1680句と言われる。蝸牛俳句文庫『井上井月』(1992)所収。(八木忠栄)


November 08112006

 据ゑ風呂に犀星のゐる夜寒かな

                           芥川龍之介

書で「すえふろ」は「桶の下部に竈を据え付けた風呂」と説明されている。昔、家庭の風呂はたいていそういう構造だった。子供の頃、わが家では「せえふろ」と呼んでいた。香り高い檜桶の「せえふろ」が懐かしい。犀星はもちろん室生犀星。龍之介よりも3歳年上。龍之介には俳人顔負けの秀句がじつに多いが、私はこの句がいちばん好きだ。俳句も多い犀星は、芥川氏を知って「発句道に打込むことの真実を感じた」と自著『魚眠洞発句集』に書いている。ゴツゴツと骨張った表情の犀星が、龍之介の家に遊びに来て風呂に浸かっているのか、自宅の風呂に浸かっている犀星を想像し、深夜の寒さをひしひしと実感しているのか。あるいは、旅先の宿で一緒に浸かっているのか(そんな二次的考察は研究者にまかせておこう)。風呂桶と犀星という取り合わせで、夜の寒さと静けさとがいっそう色濃く感じられる。熱い湯に犀星は瞑目しながら身を沈め、龍之介は細々と尖ったまま瞑想しているのだろうか。男同士の関係がベタつかず、さっぱりとして気持ちがいい。冴えわたっていながら、どこかしら滑稽味がにじみ出ている点も見逃せない。掲句は龍之介が自殺する三年前、大正十三年の作。犀星は龍之介の自殺直後の八月に、追悼句を「新竹のそよぎも聴きてねむりしか」と詠んだ。『芥川龍之介句集 我鬼全句』(1976)には1,014句がおさめられている。ふらんす堂『芥川龍之介句集』(1993)所収。(八木忠栄)


November 07112007

 秋風や甲羅をあます膳の蟹

                           芥川龍之介

書に「室生犀星金沢の蟹を贈る」とある。龍之介と仲良しだった犀星が越前蟹でも贈ったものと思われる。夏の蟹のおいしさも侮れないけれども、秋風が吹く向寒の季節になると、蟹の身が一段とひきしまっておいしさを増す。食膳にのった蟹は大きいから、皿からはみ出してワンザとのっている。越前蟹は脚が長いので、甲羅が大きければなおのこと大きい。蟹の姿がいかにも豪快な句である。外は秋の風が吹きつのっているのだろうが、視線は膳の上にのった蟹に注がれて釘付けになり、思わず「おお!」と感嘆の声をあげているにちがいない。北陸の秋の厳しい海のうねりが、膳の上にまで押し寄せてきているようだ。贈り主に対する感謝の思いもそこに広がっている様子が、「甲羅をあます」に見てとれる。同時に「・・・・あます」の一語によって、まだ生きているかのように蟹のイキのよさも感じられる。蟹をていねいにほじりながら、犀星のことを思ったりして、酒も静かに進む秋の夕餉であろう。私事で恐縮だが、新潟の寺泊へ出かけると、必ず蟹ラーメンを好んで食べる。ズワイガニがまたがる姿で、ワンザとのったラーメンが運ばれてくる。食べる前にしばし目を細めて堪能する一時はたまらない。龍之介の句も、まずは堪能しているのだろう。秋風といえば「秋風や秤にかゝる鯉の丈」という一句もならんでいる。いずれも、食べる前に目でじっくり味わって、「さあて、食うぞ!」という気持ちが伝わってくる。『芥川龍之介句集 我鬼全句』(1976)所収。(八木忠栄)


February 2522009

 幇間の道化窶れやみづっぱな

                           太宰 治

の場合、幇間は「ほうかん」と読む。通常はやはり「たいこもち」のほうがふさわしいように思われる。現役の幇間は、今やもう四人ほどしかいない。(故悠玄亭玉介師からは、いろいろおもしろい話を伺った。)言うまでもなく、宴席をにぎやかに盛りあげる芸人“男芸者”である。いくら仕事だとはいえ、座持ちにくたびれて窶(やつ)れ、風邪気味なのか水洟さえすすりあげている様子は、いかにも哀れを催す。幇間は落語ではお馴染みのキャラクターである。「鰻の幇間(たいこ)」「愛宕山」「富久」「幇間腹(たいこばら)」等々。どうも調子がいいだけで旦那にはからかわれ、もちろん立派な幇間など登場しない。こういう句を太宰治が詠んだところに、いかにも道化じみた哀れさとおかしさがいっそう感じられてならない。考えてみれば、太宰の作品にも生き方にも、道化た幇間みたいな影がちらつく。お座敷で「みづっぱな」の幇間を目にして詠んだというよりも、自画像ではないかとも思われる。「みづっぱな」と言えば、芥川龍之介の「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」がよく知られているし、俳句としてもこちらのほうがずっと秀逸である。二つの「水洟」は両者を反映して、だいぶ違うものとして読める。太宰治の俳句は数少ないし、お世辞にもうまいとは言えないけれど、珍しいのでここに敢えてとりあげてみた。ほかに「春服の色 教えてよ 揚雲雀」という句がある。今年は生誕百年。彼の小説が近年かなり読まれているという。何十年ぶり、読みなおしてみようか。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 0892010

 秋風や人なき道の草の丈

                           芥川龍之介

正九年、二十八歳のときの作。詞書に「大地茫茫愁殺人」とある。「愁殺(しゅうさい)人」とは、甚だしく人を悲しませるという意味である。先々週水曜日の本欄で初秋の風の句(平賀源内)をとりあげたが、掲句の風はもっと秋色を濃厚にしている時季である。寒いくらいの秋風が吹いている道だから、人通りも無いのだろう。ただ道ばたの雑草が我がもの顔に丈高く繁って風に騒いでいるという、まさしく茫々たる景色である。どこか物悲しくもある。それはまた、やがて自死にいたる芥川のこころをその裏に潜ませていた、と早とちりしたくもなる句ではないか。(もっとも自死は七年後だった)そのように牽強付会ぬきにしても、いずれにせよ単に秋風の道のスケッチにとどまっていないのは確かであろう。八月に岩波文庫版『芥川竜之介俳句集』が刊行された。編者の加藤郁乎が解説で、「ぼくが死んだら句集を出しておくれよ」と芥川が言っていたことを紹介している。さらに、芥川が「俳壇のことなどはとんと知らず。又格別知らんとも思はず。(略)この俳壇の門外漢たることだけは今後も永久に変らざらん乎」と書いていた言葉を紹介している。生前、確かに俳人たちとの接点はまだ少なかったようだが、「その俳気英邁を最初に認めた俳人は飯田蛇笏であろう」と郁乎氏。芥川には秋風を詠んだ句が目につく。「秋風や秤にかかる鯉の丈」「秋風や甲羅をあます膳の蟹」など。『芥川竜之介俳句集』(2010)所収。(八木忠栄)


December 01122010

 凩や何処ガラスの割るる音

                           梶井基次郎

内を吹き抜けて行く凩が、家々の窓ガラスを容赦なくガタピシと揺らす。その時代のガラスは粗製でーーというか、庶民の家で使われていたガラスは、それほど上等ではなかっただろうし、窓の開け閉めの具合もあまりしっかりしていなかったから、強風に揺さぶられたら割れやすかったにちがいない。聞こえてくるガラスの割れる音が「何処(いづこ)」という一言によって、情景の広がりを生み出していて一段と寒々しい。目の前ではなく、どこぞでガラスの割れる音だけ聞こえてハッとさせられたのだ。同じ凩でも、芥川龍之介の「凩や東京の日のありどころ」とはまたちがった趣きをもつパースペクティブを感じさせる。三好達治がこんなエピソードを残している。あるとき基次郎に呼ばれて部屋へ行ったら、「美しいだろう」と言ってコップに入った赤葡萄酒をかかげて見せられた。なるほど美しかった。しかし後刻、それは今しがた基次郎が吐いたばかりの喀血だったとわかったという。「ガラスの割るる音」にも、基次郎の病的世界を読みとることができる。他に「梅咲きぬ温泉(いでゆ)は爪の伸び易き」がある。この句も繊細で基次郎らしい着眼である。三十一歳の若さで亡くなったゆえ、残された小説は代表作「檸檬」など二十編ほどで、俳句も多くはない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


July 2572012

 年毎の二十四日のあつさ哉

                           菊池 寛

句が俳句として高い評価を受けるに値するか否か、今は措いておこう。さはさりながら、俳句をあまり残した形跡がない菊池寛の、珍しい俳句として採りあげてみたい。この「二十四日」とは七月二十四日、つまり「河童忌」の暑さを詠んでいる。昭和二年のその日、芥川龍之介は服毒自殺した。三十六歳。「年毎の……あつさ」、それもそのはず、一日前の二十三日頃は「大暑」である。昔も今も毎年、暑さが最高に達する時季なのだ。昭和の初めも、すでに猛烈な暑さがつづいていたのである。「節電」だの「計画停電」だのと世間を騒がせ・世間が騒ぎ立てる現今こそ、発電送電体制が愚かしいというか……その原因こそが愚策であり、腹立たしいのだが。夏はもともと暑いのだ。季節は別だが、子規の句「毎年よ彼岸の入に寒いのは」をなぜか連想した。芥川自身にも大暑を詠んだ可愛い句がある。「兎も片耳垂るる大暑かな」。また万太郎には「芥川龍之介仏大暑かな」がある。そう言えば、嵯峨信之さんは当時文春社員として、芥川の葬儀の当日受付を担当した、とご本人から聞かされたことがあった。芥川の友人菊池寛が、直木賞とともに芥川賞を創設したのは昭和十年だった。さまざまなことを想起させてくれる一句である。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 0742013

 鯛よりも目刺のうまさ知らざるや

                           鈴木真砂女

のある真砂女の声が届いています。「知らざるや」という言い切りに、軽い怒り、あるいは戒めを聞き取ります。店主をつとめた銀座「卯浪」の常連客に向けた本音のようでもあります。たしかに鯛は、お造りにしてよし、握り、かぶら蒸し、鯛茶漬という贅沢もあり、晴れがましい和食の席には欠かせない食材です。しかし、それらは華美な器に盛られる料理でもあり、実よりも名が勝っているのだ、という声を聞き取ります。ちなみに、食材としてのタイ科の魚はマダイ、クロダイですが、タイの名を冠された別種魚は、ブダイ、スズメダイをはじめとして、数十種類をこえ、これは全国にある○○銀座と同じあやかり方でしょう。ところで、目刺の句といえば、芥川龍之介の「こがらしや目刺しにのこるうみのいろ」が有名です。ただし、芥川の場合は目刺を見ている句なのに対し、真砂女は目刺を食っている。九十六歳まで生きた糧です。目刺は、小イワシを塩水に漬けたあと天日で干したもの。これを頭から骨ごと尾まで食い尽くす。真砂女の気丈はここで養われ、同時に、目刺のように白日に身をさらしてきた天然の塩辛い生きざまと重なります。鯛には養殖物も多く出ていますが、目刺にそれはありません。ほかに「目刺焼くくらし可もなく不可もなく」「目刺焼く火は強からず弱からず」「目刺し焼けば消えてしまひし海の色」「目刺し焼くここ東京のド真中」「海の色連れて目刺のとどきけり」「締切りの迫る目刺を焦がしけり」。いよいよ真砂女が、目刺の化身に見えてきました。『鈴木真砂女全句集』(2010)所収(小笠原高志)


November 06112013

 モカ飲んでしぐれの舗道別れけり

                           丸山 薫

ごろの時季にサッと降ってサッとあがる雨が「しぐれ(時雨)」である。「小夜時雨」「月時雨」「山めぐり」他、歳時記には多くの傍題が載っている。それだけ日本人にとって身近な天候であり、親しまれている季語であるということ。しぐれは古書にもあるように「いかにももの寂しく曇りがちにして、軒にも雫の絶えぬ体……」(『滑稽雑談』)といった風情が、俳句ではひろく好まれるようで、数多く詠まれている。丸山薫には俳句は少ないようだが、「モカ」にはじまって「しぐれ」「舗道」とくるあたり、どこかロマンを感じさせる道具立てである。詠まれている通り、何やら長時間モカコーヒーを飲みながら話しこみ、しぐれで濡れている舗道で淋しく別れたのである。若い男女であろう。題材も詠み方もとりたてて変哲がある句とは言えないけれど、これはこれでさらりと詠まれていてよろしいではないか。「モカ」というと、どうしても寺山修司の歌「ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし」を避けて通れない。芥川龍之介の句に「柚落ちて明るき土や夕時雨」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 1642014

 凧三角、四角、六角、空、硝子

                           芥川龍之介

は正月に揚げられることが多いことから、古くから春の行事とされてきた。三角凧、四角凧、六角凧、奴凧、セミ凧、鳥凧……洋の東西を含めて種類も形も多種多様だが、この時代のこの句、晴れあがった春の空いっぱいにさまざまな凧があがっているのだろう。名詞を五つならべて「、」を付した珍しい句だが、「硝子」とはこの場合何だろうか? 空にあがったさまざまな形の凧が、陽をあびてキラキラして見えるさまを、あたかも空に硝子がはめこまれているように眺めている、というふうに私は解釈する。また凧合戦で相手の凧の糸を切るために、糸に硝子の粉を塗って競う地方があるというけれど、その硝子の粉を指しているとまでは考えられない。私が生まれ育った雪国では、雪のある正月の凧揚げは無理で4、5月頃の遊びだった。上杉謙信などの武者絵の六角凧がさかんに使われていた。私の部屋の壁には森蘭丸を手描きした六角凧が四十年近く前から飾ってあり、今も鋭い目をむいて私を見下ろしている。掲句は大正5年、龍之介25歳のときの句だが、同じころの句に「したたらす脂(やに)も松とぞ春の山」がある。『芥川龍之介俳句集』(2010)所収。(八木忠栄)


January 1412015

 まゆ玉や一度こじれし夫婦仲

                           久保田万太郎

が子どもだった頃の正月の行事として、1月15日・小正月の頃には、居間にまゆ玉を飾った。手頃な漆の木の枝を裏山から切ってくる。漆の木の枝は樹皮が濃い赤色でつややかできれいだった。その枝に餅や宝船、大判小判、稲穂、俵や団子のお菓子など、色も形もとりどりの飾りをぶらさげた。だから頭上で部屋はしばし華やいだ。豊作と幸運を祈願する行事だったが、今やこの風習は家庭では廃れてしまった。掲出句の前書に「昭和三十一年を迎ふ」とある。万太郎夫婦は前年に鎌倉から東京湯島に戻り住んだ。当時、万太郎の女性問題で、夫婦仲は良くなかったという。部屋に飾られて多幸を祈念するまゆ玉は新年にふさわしい風情だが、そこに住む夫婦仲は正月早々しっくりしていない。部屋を飾る縁起物と、スムーズにいかない夫婦関係の対比的皮肉を自ら詠んでいる。万太郎の新年の句に「元日の句の龍之介なつかしき」がある。これは言うまでもなく龍之介の「元日や手を洗ひをる夕ごころ」を踏まえている。関森勝夫『文人たちの句境』(1991)所載。(八木忠栄)




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