G句

February 2321997

 春風や恥より赤きドレスを着て

                           中烏健二

て、どんな色だろう、「恥より赤き」色とは……。などと考えてみても、もちろんわかりっこない。そもそもが「赤恥」というときの「赤」それ自体が色彩ではないからだ。これは、作者のちょっとした思いつきで書かれた句。書いてみたら、作者にはなんだかとんでもなくトンチンカンな色彩が現出してきたようで、面白い味が出たというところか。春風のおおらかな気分ともマッチしている。言葉遊びの句には飽きてしまうものが多いが、少なくとも私のなかでは、この句、けっこう長生きなのである。『愛のフランケンシュタイン』所収。(清水哲男)


June 0262002

 夏蓬ふぁうる・ふらいを兄が追い

                           中烏健二

語は「夏蓬(なつよもぎ)」。蓬餅にするころの蓬はやわらかくて可愛げがあるが、成長した蓬には荒々しい感じすら受ける。夏には丈が一メートルほどにも伸びるものがあり、引っこ抜こうにも根が頑強で始末におえない。「さながらに河原蓬は木となりぬ」(中村草田男)。となれば、句の情景は典型的な草野球だ。ここで、注目すべきは「ファウル・フライ」ではなく「ふぁうる・ふらい」の平仮名表記。夏蓬に足を取られてたどたどしく追いかける「兄」の姿を、直接的にではなく間接的に見事に表現しえている。フライそのものもひょろひょろっと上がったのだろうが、兄の様子もひょろひょろしていて心もとない。たしかに夏蓬は群生しており、兄の頼りなさも多くそのせいではあるのだが、なんだか兄のとても弱くて脆い面、見てはいけない姿を見てしまったような気分なのだ。整備されたグラウンドでは、いかにひょろひょろしようとも、平仮名表記にはならないだろう。そんな頼りない兄の姿は、まず日頃の生活ではお目にかかれない。他人であれば句にならない場面を、こうして書き留める作者には、おそらく近親憎悪の心も働いているのではあるまいか。すらっと読めばほほ笑ましいようなシーンだけれど、私にはこんなふうに思えてならない。草野球にも、さまざまな心理の綾が飛び交っている。『愛のフランケンシュタイン』(1989)所収。(清水哲男)


May 0852008

 今生のラジオの上のイボコロリ

                           中烏健二

が子供の頃ラジオは生活を彩る大事な電化製品だった。夕暮れ時の商店街のあちこちからは相撲や野球の中継が流れてきたし、中学になると深夜ラジオのポップな音楽やおしゃべりにうつつを抜かした。掲句のラジオは寝床で気軽に聞けるトランジスタラジオではなく、茶の間に置かれた旧式の箱型ラジオだろうか。ラジオの上にひょいと置かれたまま忘れられているクスリ類としては、常備薬として出番の多い「正露丸」や「メンソレータム」でなく、痛い魚の目やイボができたときだけ集中的に使う「イボコロリ」を選んだのは絶妙の選択と言っていい。ラジオの上に「イボコロリ」がある風景は、たとえその事実がなくとも、ああ、そうなんだよねぇ。と自分が住んでいた家に重ねて共感を呼び起こす説得力を持っている。たまたまそこに置いた家族の誰かがいなくなったとしても、片付けられずにそこにあるものがどの家庭にもあるだろう。埃をかぶったラジオもイボコロリも家族の視界にありながら半ば存在しないものとして、四季を通じてそこに在り続ける。些細で具体的なものに焦点を絞ることで、「今生」の生活の内部にありながら生活の外側で持続する時間を感じさせる無季句だと思った。「ぶるうまりん」(2007/11/25発行 第7号)所載。(三宅やよい)




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