1997N34句(前日までの二句を含む)

March 0431997

 春暁や眠りのいろに哺乳瓶

                           河野友人

このどなたの眼力によるものかは知らねども、「味の味」(アイデア刊)という月刊PR誌に毎号掲載されている作品の選句センスは、なかなかのものだ。当方も、うかうかしてはいられない。この句は、今年の3月号に載っていた。早朝に目覚めた若い作者の目に、ぼんやりと見えてくる哺乳瓶。そっと赤ん坊に目をやると、まだすやすやと眠っている。はじめて父親になった実感が、じわりと涌いてくる時なのである。「眠りのいろに」という表現が、作者の幸福感を見事に裏づけている。私にも、そんな時期がたしかにあった。(清水哲男)


March 0331997

 裏店やたんすの上の雛祭り

                           高井几菫

店(うらだな)の「店」は家屋の意味。落語などでお馴染みの裏通りの小さな住居である。段飾りなど飾るスペースもなく、経済的にもそんな余裕はない。したがって、小さな一対の雛がたんすの上に置かれているだけの、質素な雛祭りだ。でも、作者は「これでいいではないか、立派なものだ」と、貧しい庶民の親心を称揚している。現代であれば、さしずめ「テレビの上の雛祭り」といったところだ。すなわち、かつての我が家の雛祭り。学習雑誌の付録を組み立てては、毎年飾っていた。作者の几菫(きとう)は十八世紀の京の人。蕪村門。(清水哲男)


March 0231997

 手をかけて人の顔見て梅の花

                           小林一茶

い男が高い柵の上にのぼって、連れの女のために梅の枝を折ろうとしている。そんな浮世絵を見たことがある。この句も、同じように微苦笑を誘われる情景だ。が、一茶の研究者のなかには深読みをする人もいる。一茶には少し年上の花嬌という女弟子がいてひそかに思慕しつづけた美女であった。彼女は未亡人だったけれど、名家の嫁であり子供もある身だ。どうすることもできない。片思い。すなわち、世の中には手折ってはならぬ花があるということか……。そうした煩悶が、この句に託されているというのである。どんなものでしょうか。(清水哲男)




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