1997N310句(前日までの二句を含む)

March 1031997

 手を拍つて小鮒追ひこむ春の暮

                           大串 章

ずは作者自註より。「小川に鮒の群を見つけると、手を打ち鳴らして石垣の穴に追い込む。ころあいをみて、その穴の中に手をつっこんで鮒を捕る」。学校帰りだろうか。私も、よく小川で遊んだ。唱歌の文句のように川水はサラサラと流れており、水の中を覗いているだけでも飽きることはなかった。小さな魚と小さな植物たち……。なかでも、私は岩蔭に住む蟹たちの剽軽な動きが好きだった。ただ、残念なことに、この句のような鮒の捕獲法があることは知らなかった。ずいぶんと楽しそうだ。なお「春の暮」は春の夕刻の意。春の終りを言う「暮春」などとは区別する。(清水哲男)


March 0931997

 蝶が来てしらじらしくも絵にとまる

                           安田くにえ

れからの季節。戸外にイーゼルを立てて、絵を描く人が増えてくる。我が家の近所では、井の頭公園、神代植物公園など。見かけると、ほほえましい気分になる。通りがかりの人は、たいていひょいと絵をのぞいていく。なかには、立ち止ってしばし筆使いをみつめる人もいる。そんな折りに、たまさか蝶が飛んできて、絵にとまったというのである。すなわち、絵に描いたような出来事が起きた……。「こいつは出来過ぎだなあ」と、作者は苦笑している。「蝶よ、そこまでやるのかよ、しらじらしいぞ」と、絵の外の偶然の絵画的光景の発見に目を細めている。これぞ、俳句の楽しさ。俳諧の妙。(清水哲男)


March 0831997

 耕人は立てりしんかんたる否定

                           加藤郁乎

とともに生きるのは容易なことではない。農家の子供だった私には、よくわかる。いかに農業が機械化されても、同じことだ。春先、田畑をすき返す仕事はおのれの命運をかけるのだから、厳粛な気持ちを抱かざるを得ない。春の風物詩だなんて、とんでもないことである。この句は、土とともに生きてはいない作者が、土とともに生きる人の厳粛な一瞬と切り結んだ詩。かつての父母など百姓の姿も、まさに「しんかんたる否定」そのものとして、田畑に立っていたことを思い出す。いまどきの人の安易な農業嗜好をも、句はきっぱりと否定している。(清水哲男)




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