1997N329句(前日までの二句を含む)

March 2931997

 借り傘に花の雨いま街の雨

                           北野平八

先で、雨に降られてしまった。「こんな傘でもよかったら」と差し出された傘を借りて帰る。他人の傘とは不思議なもので、なかなか手になじまない。女物だったりすると、なおさらである。それが桜並木を通りかかり、雨に煙る花の美しさに心を奪われているうちに、いつしか気にならなくなっていて、気がつけばもうあたりは見慣れた街の中だ。こんな雨なら、雨もいいものだ。と、自然に小さな充足感がわいてくる。平八ならではの繊細な感覚。そして、なによりも字面の綺麗さにうっとりとさせられる。『北野平八句集』所収。(清水哲男)


March 2831997

 まさをなる空よりしだれざくらかな

                           富安風生

さに至福の時。見上げると、快晴の空から、さながら神の手が降し給うたように満開の花が枝垂れている。私などは京都祇園の枝垂桜が頭にあるから、ついでに「祇園恋しや だらりの帯よ」という歌の文句も連想してしまう。垂れている現象に美を感じる心は、日本人独特といってもよさそうだ。上五から下五にかけて作者の目線がすっと下りているところに注目。漢字が一字という技巧にも。かくのごとく豪華絢爛に詠まれた花は、もとより以て瞑すべしというべきか。(清水哲男)


March 2731997

 手をあげて此世の友は来りけり

                           三橋敏雄

に誘われた恰好で、ひさしぶりに会おうかということになったりする。年来の友だから、待ち合わせ場所で顔をあわせても、挨拶は「やあ」と軽く手をあげる程度だ。それですむのである。しかし、以前であれば、間もなくもう一人の共通の友人が、同じように「やあ」とこの場に姿を現したものだったが、彼は既に「此世」の人ではない。五十の坂を越えたあたりから、残された者は、この類の喪失感を何度も味わうことになる。そんなとき「此世」にいない人との別れ際の挨拶を思い出してみると、多くはただ軽く手をあげただけだったような気がする。敏雄に、もう一句。「死ねばゐず北へ北へと桜咲き」。死ねば存在しない。この場合の死者は、かつての戦争の犠牲者たちだと読める。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます