1997N330句(前日までの二句を含む)

March 3031997

 木のもとに汁も鱠も櫻かな

                           松尾芭蕉

は「なます」。木は「こ」と読ませる。昔から、桜に対するとどうも臍曲りになる表現者が多い。「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」(在原業平)だとか、「わがこころはつめたくして/花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ」(萩原朔太郎)だとかと、枚挙にいとまがない。なにせはかない命の桜花だもの、そう表現したい気持ちはよくわかりマス。しかし他方では、せっかく咲いた桜なのだから「酒の肴」にしちまおうなんていう逞しい感覚の庶民もたくさんいたわけで(いまでも)、だとすれば、もっと楽しい作品があってもいいのになと思う。その意味で、この軽みはとてもよい。花見の座。そこに坐って一杯やったら、これっきゃないですよね。時は元禄三年(1690)、芭蕉四十七歳。晩年の句だ。(清水哲男)


March 2931997

 借り傘に花の雨いま街の雨

                           北野平八

先で、雨に降られてしまった。「こんな傘でもよかったら」と差し出された傘を借りて帰る。他人の傘とは不思議なもので、なかなか手になじまない。女物だったりすると、なおさらである。それが桜並木を通りかかり、雨に煙る花の美しさに心を奪われているうちに、いつしか気にならなくなっていて、気がつけばもうあたりは見慣れた街の中だ。こんな雨なら、雨もいいものだ。と、自然に小さな充足感がわいてくる。平八ならではの繊細な感覚。そして、なによりも字面の綺麗さにうっとりとさせられる。『北野平八句集』所収。(清水哲男)


March 2831997

 まさをなる空よりしだれざくらかな

                           富安風生

さに至福の時。見上げると、快晴の空から、さながら神の手が降し給うたように満開の花が枝垂れている。私などは京都祇園の枝垂桜が頭にあるから、ついでに「祇園恋しや だらりの帯よ」という歌の文句も連想してしまう。垂れている現象に美を感じる心は、日本人独特といってもよさそうだ。上五から下五にかけて作者の目線がすっと下りているところに注目。漢字が一字という技巧にも。かくのごとく豪華絢爛に詠まれた花は、もとより以て瞑すべしというべきか。(清水哲男)




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