1997N4句

April 0141997

 ひつ込まぬびつくり箱や万愚節

                           北野平八

レゼントにもらった箱を楽しみに開けた途端に、何やらヒュルルッと飛び出してきた。びっくり、した。そういえば「今日はエイプリル・フールズ・デイであったわい」と、かつがれたことに苦笑する。ところが、飛び出してきた物を箱にしまおうとするのだが、どういう仕掛けになっているのか、元の箱におさまらない。いろいろやってみるのだが、どうしても元どおりにならない。そのうちに、大の男がびっくり箱と一心不乱に苦闘している滑稽さにふと気づき、再び苦笑したところでこの句が生まれた。いつまでも子供の一面を持つ男という生物の様子に、私もまた苦笑しつつも共感を覚えた次第である。『北野平八句集』所収。(清水哲男)


April 0241997

 眼を先へ先へ送りて蕨採る

                           右城暮石

(わらび)で思い起こすのは「万葉集」の志貴皇子の次の歌だ。「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」。春が来た喜びを、これほど素直にして上品に歌うことのできた人の心根がしのばれる。この歌の影響だろうか。そんなことはないはずなのに、蕨というと「和歌的な植物」と感じてしまう。対するに、ぜんまいは「俳句的植物」か。食料難に悩まされた子供の頃、蕨採りは日課であった。風流のためではなく生活のためだから、この句のようにいささか血まなこめくのであった。(清水哲男)


April 0341997

 春泥に押しあひながら来る娘

                           高野素十

かるみを避けながら、作者は用心深く歩いている。と、前方から若い女性たちのグループがやってくる。陽気なおしゃべりをかわしながら、互いの体を押し合うようにして軽やかにぬかるみを避けている。そんな溌溂とした娘たちの姿は美しく、そして羨ましい。春の泥も、日にまぶしい。若さへの賛歌。私も、こういう句のよさが理解できる年令になってきたということ。ちょっぴり寂しくもある。(清水哲男)


April 0441997

 考へてをらない蝌蚪の頭かな

                           後藤比奈夫

(かと)はお玉杓子、つまり蛙の子のこと。たしかに頭が大きくて、人間でいえば秀才タイプに属しそうだが、さにあらず。こいつらは何も「考へてをらない」のだと思うと、ひとりでに微笑がわいてくる。楽しくなる。しかし、その何も「考へてをらない」蛙の子に、最前からじいっと見入っている俺は、はたして何かをちゃんと考えているのだろうか。蝌蚪の泳ぐ水にうつっている自分の顔を、ちらりと盗み見してみたりする。(清水哲男)


April 0541997

 菫程な小さき人に生れたし

                           夏目漱石

見る乙女や心優しきご婦人が詠んだ句ではなく、髭をはやした漱石の句である。小さき者の愛らしさ、美しさは、人の心ををなごませてくれるが、漱石は、日本に「ガリバ旅行記」を本格的に紹介した人でもある。つまり、童話ではなく、堕落した人間の本質を抉る風刺小説であることを説いた。著者のスイフトも、「人類という動物」を激しく嫌いながらも、そのメンバーである一人一人の人間は大好きだといっている。人間を辱めたつもりの小説が、著者の意図に反して童話として読まれてしまう理由が、このあたりにある。(板津森秋)


April 0641997

 とへば茅花すべて与へて去にし子よ

                           中村汀女

こで摘んできたの」とでも、行きずりのその子に尋ねたのだろうか。その子は答えず、いきなり「これ、あげる」とだけ言って、作者に持っていた茅花(つばな)を全部押しつけるようにわたすと、駆けて行ってしまった。その子はきっと、見知らぬ女の人と口をきくのがまぶしく、羞ずかしかったのだろう。そんな子の態度に、作者はいとおしさを感じて詠んでいる。茅花といっても、若い人は知っているかどうか。イネ科の多年草。正確にいえば「茅萱(ちがや)の花」であるが、花がまだ細くとがった苞(ほう)に包まれている頃に食べると、柔らかくて甘い。だから、句の子供も、たくさん摘んで大切に持っていたのである。「去にし」は「いにし」と読ませる。(清水哲男)


April 0741997

 女拗ねて先に戻りし桜狩

                           潮原みつる

狩(花見)といっても、楽しいことばかりが待ち受けているわけではない。「花疲れ」という季語もあるように、けっこう疲れるものだから、些細なことで口喧嘩になったりする。「だから気がすすまないって言ったでしょ。やっぱり来るんじゃなかったわ」と、連れが拗(す)ねて帰ってしまったという図。せっかくの花見がぶちこわしで、作者はどっと疲れてしまう。女の短慮だとは思うけれど、人間関係とはまことに難しいものだとも思い知らされた。ところで、帰ってしまう直前の女性の気持ちはどうだったかというと「花疲れ人に合せて笑顔して」(清水美登)というところか……。こんなふうに、いろいろなドラマを生んだであろう今年の桜花も、関東では終りに近い。(清水哲男)


April 0841997

 たけの子や畠隣に悪太郎

                           向井去来

く知られた芭蕉七部集のなかでも、『猿蓑』(元禄4年・1691年)は蕉風俳諧の円熟期の収穫とされるが、この句は猿蓑集巻之二・夏の部に登場する。去来の句のすぐ前に凡兆の「竹の子の力を誰にたとふべき」、すぐ後に芭蕉の「たけのこや稚き時の絵のすさび」がならぶが、いずれも理屈でもたつき、去来の直接的な明解さに及ばない。ニョキとはえ出たたけの子を隣りの土地から見つめている腕白小僧。たけの子のかわいさに柄にもなく見とれているが、じつは盗もうかいたずらしようかと悪智恵をめぐらしているようだ。俳句では古くからたけの子と子どもの連関が多く詠まれているらしいが、ここでは憎まれ小僧の"悪太郎"であるのがいかにも野趣があり、両者の対比が生きている。こうした健やかで愉快な初夏の情景が、今でもどこかに残っているだろうか。(八木忠栄)


April 0941997

 入園児父が与へし名を胸に

                           船津りん一

が子の幼稚園入園。両親の喜びは同じようでもあるが、しかし、この句のように少し違う場合もある。生まれたとき、あれこれ考えたあげくに苦心してつけた子供の名前が、やっと社会的に自立するときが来たのだから、誇らしく思えるのである。と同時に、少々こそばゆいような感じもある。だから、この複雑な思いをストレートに妻に告げる夫は、なかなかいないだろう。かくて、ここにこのような詩ができ、歌ができたわけである。(清水哲男)


April 1041997

 あをあをと空を残して蝶分れ

                           大野林火

みあって舞いのぼった蝶が、空中でパッと二つに分れたのだ。その後の青空の美しさ。大野林火の耽美的傾向を代表する作として知られるこの句は、昭和16年作、句集『早桃』に収められている。同じ16年作に、「瓶の芒野にあるごとく夕日せり」という句もあるが、いずれも単純な構図の中に作者の美意識がよく顕れている。こうした句からも分るように、林火は自他共に許す抒情派であるが、句作とともに文章をよくし、随筆集『行雲流水』評論集『近代俳句の観賞と批評』など句集以外の著作も多い。明治37年生れ、臼田亜浪門。昭和21年、俳誌「濱」創刊主宰、同53年、俳人協会会長就任。同57年8月21日没。「先師の萩盛りの頃やわが死ぬ日」が辞世の句。先師は亜浪。(大串章)


April 1141997

 春ひとり槍投げて槍に歩み寄る

                           能村登四郎

とり黙々と槍投げの練習に励む男。野球などとは違い、練習から試合まで、槍投げは徹底して孤独なスポーツだ。野球だと、ときに処世訓めいた言葉とともに語られることもあるけれど、そういうことも一切ない。ただひたすらに、遠くに投げるためだけの行為のくりかえし。すなわち人生的には無為に近いこの行為を、作者は無為にあらずと詠んでいるのだ。春愁を通り越した人間の根源的な愁いのありかを、読者に差し出してみせた名句である。『枯野の沖』所収。(清水哲男)


April 1241997

 花吹雪うねりて尾根を越えゆけり

                           矢島渚男

んなにも力動感に溢れた桜の句は、はじめてだ。写生句だろうか。だとすれば、どこの山の情景だろうか。「うねりて」が凄い。豪華絢爛、贅沢三昧。それでいて、花の終りの哀切感も滲み出ている。なんだか、今夜の夢にでも出てきそうな気がする。渚男は、長野県小県郡在住の俳人。彼の地の花吹雪までには、まだ少し間があるだろう。『船のやうに』所収。(清水哲男)


April 1341997

 人間へ塩振るあそび桃の花

                           あざ蓉子

からない。蓉子には、不可解句が多い。だが、どこか気になる。作者は言う。「言葉は概念である。その概念を俳句定型内で組み合わせると、その組み合わせによっては、言葉が別の意味に移ろうとして立往生することがある。このもどかしい像は、これからの俳句の一つの可能性かもしれない」(『21世紀俳句ガイダンス』現代俳句協会青年部編)。すなわち、俳句の伝統を破るのではなく、そのなかで遊んでしまおうという考えだ。餅を搗く臼で、たとえば金魚を飼うがごとくにである(古道具屋で聞いた話だが、実際にそうしているアメリカ人がいるという)。つまり作者は、それほどに俳句という頑丈な様式を信頼しているということだろう。「人間」と「塩」と「桃の花」。それこそもどかしくも、気になる一句ではある。『ミロの鳥』所収。(清水哲男)


April 1441997

 濯ぎ水あふれ細紐生きはじむ

                           今井真子

濯機なんてなかったから、学生時代にはタライで下着などを洗った(下宿のタライの裏側には、私の生年と同じ購入年度が墨で書かれていた)。暖かくなってくると、水仕事も楽になる。そんな嬉しさが、この句には溢れているようだ。濯ぐために勢いよく水を注ぐと、脇役の細紐が主役のような顔をして踊りだす。そんな些事をとらえて、大きな自然の変化を表現した作者の感性が素敵だ。いわゆる季語は使われていないけれど、句全体が春の輝きのなかにある。『水彩パレット』所収。(清水哲男)


April 1541997

 がうがうと欅芽ぶけり風の中

                           石田波郷

(けやき)の大木が、あちらこちらで芽吹き始めている。大木になるために、小さな家の庭は勿論、小さな公園でも、又街路樹としても余り歓迎されない。「困」るという字には、元々、屋敷「□」の「木」が大きくなって「困」るという意味があるようである。狭い土地を更に分割して庇を寄せあって暮らしている人間を尻目に超然と、欅は、今年も、風を相手に蘇ってきている。(板津森秋)


April 1641997

 頭悪き日やげんげ田に牛暴れ

                           西東三鬼

われてみると、私たちには頭の「悪い日」と「よい日」とがあるような気がする。運の「よい日」と「悪い日」とがあるように……。そんな頭の悪い憂鬱な日に、美しいげんげ田を眺めていると、猛り狂った牛が暴れこんできた。せっかくの紫雲英が踏み荒らされて台無しである。昔の漫才師・花菱アチャコの台詞ではないけれど、「もうムチャクチャでござりまするわ」の図。よくよくツイてない日だと作者はうなだれている。読者にはそこが笑えるし、そこで楽しくなる。もっとも他方では、この句を抽象的に精神の劇として読もうとする人もいると思う。が、このまま素直に実景として受けとっておくほうが、私はそれこそ「頭」にも「身体」にもよいと思うのである。(清水哲男)


April 1741997

 草餅に異な振舞や鯲汁

                           服部土芳

馳走になるのは嬉しいが、草餅と鯲汁(どじょうじる)がいっしょに出てきた。現代ならば、さしずめケーキに味噌汁が添えられているようなものだ。一瞬、何故なんだと挨拶に困ってしまう。ミスマッチである。しかし、いつの時代にもその家の流儀というものはあるわけで、今では西瓜に砂糖添え程度ならザラだろう。もっとも、コーラを飲みながら寿司を食べる現代っ子たちには、草餅と鯲汁だって平気かもしれない。となると、この句の面白さを理解できる人は、遠からず存在しなくなってしまうということになる。土芳は伊賀上野藩士。蕉門。(清水哲男)


April 1841997

 靴みがきうららかに眠りゐたりけり

                           室生犀星

ってみるとすぐに分かるが、「うららか」や「のどか」といった季語を使うのはとても難しい。季語自体が完璧な世界を持っているからだ。それで説明がすべてすんでしまっているからである。だから、たいていの場合は、屋上屋を重ねたようなあざとい句か月並みなそれに堕してしまう。その点、この句は自然とは無縁の都会に「うららか」を発見していて、まずは及第点か。おお、懐かしの「東京シューシャイン・ボーイ」よ、いま何処。彼らはみな、とっくに還暦は越えている。(清水哲男)


April 1941997

 歩かねば山吹の黄に近づけず

                           酒井弘司

流竿をリュックにしのばせ、谷を降りる。朝もやの川面に今、何か動いた。仕掛けを用意する手ももどかしい。早く、あのポイントへ第一投を。竿を納め、山道を戻る。山女に出会えたヨロコビ。山吹の黄がにわかに目に入る。俳誌「朱夏」所載。(八木幹夫)

[memo・山吹]バラ科ヤマブキ属の落葉低木。よく見かけるのでありふれた庭木と思われがちですが、植物分類学上は一属一種の珍しい植物です。学名ケリア・ヤポニカ。ケリアは英国の植物学者の名に由来し、ヤポニカは日本産の意味です。(讀売新聞・園芸欄・小西達夫・April.15.1997)


April 2041997

 初孫はいとしき獣山笑ふ

                           増田耿子

と猫を素材にした詩歌にはロクなものがない。というのが、私の持論だ。対象にべたつきすぎるからである。自己陶酔の押し売りでしかない場合が多いからだ。その意味で、この句の「いとしき」も気にはなるが、孫をずばり「獣」ととらえたところが新鮮だ。言われてみると、人間が本当に「獣」と同じである時間は、赤ん坊のときだけのような気がする。獣は山に棲む。だから、山は微笑して赤ちゃんを見守る存在だ。「山笑ふ」という季語を使った俳句という観点から見ても、異色の一句だろう。『一粒句集』第34集(電通関西支社・電通会俳句部刊)所収。(清水哲男)


April 2141997

 むつまじき吾が老父母にパンジーなど

                           赤城さかえ

良きことは美しき哉。素直すぎるくらいの句だ。が、妙にひねくりまわすよりも、このほうがよほどいい。作者とともに、読者もホッとできる。ところで、このパンジー(三色菫・遊蝶花)。どんな歳時記を開いても春の部に収録されているが、実際には秋でも冬でも元気に咲いている。近年、新しい品種が開発されたからだ。老舗の「タキイ種苗」(下り新幹線で京都駅近くにさしかかると、北側に本社社屋が見える)が二十年という歳月をかけて品種改良したものだという。冬の北欧などでパンジーを見かけたら、日本産と思って間違いはないそうだ。すなわち、今後創作されるパンジーの句は、必然的に「無季」ということになってしまう。「タキイ」も余計なことをしてくれた。と言ってよいのか、悪いのか……。(清水哲男)


April 2241997

 梅の実の子と露の子と生れ合ふ

                           中川宋淵

が散った後、気にも留めなかった梅の枝に小さな実がついているのに気がつく。近よってみると、その梅の実にさらに小さな露の玉がついている。青い梅の実と透きとおった露がすがすがしい。植物、梅の実は水があってこそはもちろんだが、「露の子」も「梅の実の子」の柔毛?があってこそ生まれたという生命の共生への思いを込めた「生れ合ふ」だろう。(齋藤茂美)


April 2341997

 茶畑のずり落ちさうでずり落ちず

                           丘本風彦

われてみると、なるほど茶畑はバランス的に危うい地形の丘陵に多くある。いまにも、ずり落ちてきそうだ。同じ風景を見ても、人それぞれに感じ方は違うとは分かっていても、この句には「やられた」と思ってしまう。感じ方の差異などあっけなく乗り越えて、読者をねじ伏せるようにユーモアをまじえて説得している。いわば「コロンブスの卵」的発想の名句だろう(ただし、玄人っぽすぎるかもしれないが……)。そろそろ新茶が出回りはじめる季節。今年の作柄は、静岡茶では平年並みというニュース。(清水哲男)


April 2441997

 太陽を探しに遠足坂また丘

                           野沢節子

り日の遠足。いまにも降ってきそうだ。もうひとつ心が弾まない。自然に足どりも重くなる。坂道を登ったと思ったら、また前方に小高い丘が見えてきた。ヤレヤレ。なんだか、みんなで苦労して太陽を探しに来ているみたい。お弁当の時間まで、もう少しだ。ちょっとでいいから、晴れてほしいな……。と、曇天下の遠足を詠んだ句は珍しい。日本のどこかでは、今日もこんな遠足が行なわれていそうだ。(清水哲男)


April 2541997

 緑なす松や金欲し命欲し

                           石橋秀野

にでも、季節は平等にめぐりくる。が、受け取り方は人さまざまだ。病者にとっては、とくに春のつらい人が多い。中途半端な気温、中途半端な自然の色彩。あるいはそこここでの生命の息吹きが、衰えていく身には息苦しいからである。そんな心境を強く表白すれば、この句のようになる。この句を読んで、誰も「あさましい」などとは思わないだろう。今年も、元気者だけのための「ゴールデン・ウィーク」がやってくる。(清水哲男)


April 2641997

 頬よせて四つ葉のクローバー多感なり

                           柴田美代子

に描いたような少女像。四つ葉のクローバーを見つけた友だちと、頬寄せ合って眺め入っている少女たち。そんな光景を、作者はほほえましく見つめている。その一方で、みずからの多感期を思い出しているのでもある。もう少し深読みしておけば、幸福の象徴とされる四つ葉を見つけたからといって、少女の未来の幸福が保証されるわけではない。当たり前の話だ。が、そのことに、言いようのない切ない感情がわいてくるのを止めることができないでいる……。(清水哲男)


April 2741997

 チューリップ散って一茎天を指す

                           貞弘 衛

稚園や小学校の校庭の花壇に並び、子ども達と一緒に遊んだチューリップもそろそろ散り始める。愛らしく影ひとつない明るさが、学び始める子どもの心に溶け込む花だが、散ってしまえば誰も振り向かない。さびしく茎だけが天を指している。子ども達が何十年も後に知る心境である。(板津森秋)


April 2841997

 人体冷えて東北白い花盛り

                           金子兜太

北の旅先での空気の冷たさと花の盛りを「人体冷えて」と「白い花盛り」でうまく表現した句。初心者だと叱られる上5の字余りも「人体」という言葉の選択により逆に効果的か?(本当はよくわからない。)俳句の「花」は桜であるが、多くの植物が一斉に花開く北国で作者がみた「花」はりんごや梨の白い花も含んでいただろう。なお、東北に住む人の感じる花は「冷えて」の「花」ではなく、暖かい土地の人以上に「心浮き浮きする花」である。その意味で掲載句はあくまでも旅の句である。(齋藤茂美)


April 2941997

 おだまきの花より美しきひとめとらむ

                           牧ひでを

賞用に栽培されているが、詩歌に出てくるのは、ほとんどが高山に自生するミヤマオダマキ(深山苧環)だ。たとえば、萩原朔太郎「夜汽車」の「ところもしらぬ山里に/さも白くさきてゐたるをだまきの花」など。仲春から初夏にかけて、白色または青紫色の花を下向きに開く。花の形は「苧環」(つむいだ麻糸を玉の形に巻いたもの)に似ている。一見地味で清楚なたたずまいだが、よく見るとなかなかに艶っぽい花でもある。そこで、この句が生まれたのだろう。「美しき」は「はしき」。(清水哲男)


April 3041997

 永き日のにはとり柵を越えにけり

                           芝不器男

間でいちばん日照時間が長いのは夏至だが、俳句では「永き日」を春の季語としてきた。ゆったりとした春の日の実感からきたものだろう。ちなみに、夏は夜に焦点を移動して「短夜(みじかよ)」という季語を使う。このあたりの私たちの微妙な感覚は、外国人にはなかなか理解できないかもしれない。ところで、この句。ありのままの情景を詠んだものだが、無音のスローモーション・フィルムを見ているようで、句全体が春の日永の趣きを的確に描出している。句は忘れても、このシーンだけはいつまでも脳裏に残りそうだ。(清水哲男)




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