1997N46句(前日までの二句を含む)

April 0641997

 とへば茅花すべて与へて去にし子よ

                           中村汀女

こで摘んできたの」とでも、行きずりのその子に尋ねたのだろうか。その子は答えず、いきなり「これ、あげる」とだけ言って、作者に持っていた茅花(つばな)を全部押しつけるようにわたすと、駆けて行ってしまった。その子はきっと、見知らぬ女の人と口をきくのがまぶしく、羞ずかしかったのだろう。そんな子の態度に、作者はいとおしさを感じて詠んでいる。茅花といっても、若い人は知っているかどうか。イネ科の多年草。正確にいえば「茅萱(ちがや)の花」であるが、花がまだ細くとがった苞(ほう)に包まれている頃に食べると、柔らかくて甘い。だから、句の子供も、たくさん摘んで大切に持っていたのである。「去にし」は「いにし」と読ませる。(清水哲男)


April 0541997

 菫程な小さき人に生れたし

                           夏目漱石

見る乙女や心優しきご婦人が詠んだ句ではなく、髭をはやした漱石の句である。小さき者の愛らしさ、美しさは、人の心ををなごませてくれるが、漱石は、日本に「ガリバ旅行記」を本格的に紹介した人でもある。つまり、童話ではなく、堕落した人間の本質を抉る風刺小説であることを説いた。著者のスイフトも、「人類という動物」を激しく嫌いながらも、そのメンバーである一人一人の人間は大好きだといっている。人間を辱めたつもりの小説が、著者の意図に反して童話として読まれてしまう理由が、このあたりにある。(板津森秋)


April 0441997

 考へてをらない蝌蚪の頭かな

                           後藤比奈夫

(かと)はお玉杓子、つまり蛙の子のこと。たしかに頭が大きくて、人間でいえば秀才タイプに属しそうだが、さにあらず。こいつらは何も「考へてをらない」のだと思うと、ひとりでに微笑がわいてくる。楽しくなる。しかし、その何も「考へてをらない」蛙の子に、最前からじいっと見入っている俺は、はたして何かをちゃんと考えているのだろうか。蝌蚪の泳ぐ水にうつっている自分の顔を、ちらりと盗み見してみたりする。(清水哲男)




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