1997N48句(前日までの二句を含む)

April 0841997

 たけの子や畠隣に悪太郎

                           向井去来

く知られた芭蕉七部集のなかでも、『猿蓑』(元禄4年・1691年)は蕉風俳諧の円熟期の収穫とされるが、この句は猿蓑集巻之二・夏の部に登場する。去来の句のすぐ前に凡兆の「竹の子の力を誰にたとふべき」、すぐ後に芭蕉の「たけのこや稚き時の絵のすさび」がならぶが、いずれも理屈でもたつき、去来の直接的な明解さに及ばない。ニョキとはえ出たたけの子を隣りの土地から見つめている腕白小僧。たけの子のかわいさに柄にもなく見とれているが、じつは盗もうかいたずらしようかと悪智恵をめぐらしているようだ。俳句では古くからたけの子と子どもの連関が多く詠まれているらしいが、ここでは憎まれ小僧の"悪太郎"であるのがいかにも野趣があり、両者の対比が生きている。こうした健やかで愉快な初夏の情景が、今でもどこかに残っているだろうか。(八木忠栄)


April 0741997

 女拗ねて先に戻りし桜狩

                           潮原みつる

狩(花見)といっても、楽しいことばかりが待ち受けているわけではない。「花疲れ」という季語もあるように、けっこう疲れるものだから、些細なことで口喧嘩になったりする。「だから気がすすまないって言ったでしょ。やっぱり来るんじゃなかったわ」と、連れが拗(す)ねて帰ってしまったという図。せっかくの花見がぶちこわしで、作者はどっと疲れてしまう。女の短慮だとは思うけれど、人間関係とはまことに難しいものだとも思い知らされた。ところで、帰ってしまう直前の女性の気持ちはどうだったかというと「花疲れ人に合せて笑顔して」(清水美登)というところか……。こんなふうに、いろいろなドラマを生んだであろう今年の桜花も、関東では終りに近い。(清水哲男)


April 0641997

 とへば茅花すべて与へて去にし子よ

                           中村汀女

こで摘んできたの」とでも、行きずりのその子に尋ねたのだろうか。その子は答えず、いきなり「これ、あげる」とだけ言って、作者に持っていた茅花(つばな)を全部押しつけるようにわたすと、駆けて行ってしまった。その子はきっと、見知らぬ女の人と口をきくのがまぶしく、羞ずかしかったのだろう。そんな子の態度に、作者はいとおしさを感じて詠んでいる。茅花といっても、若い人は知っているかどうか。イネ科の多年草。正確にいえば「茅萱(ちがや)の花」であるが、花がまだ細くとがった苞(ほう)に包まれている頃に食べると、柔らかくて甘い。だから、句の子供も、たくさん摘んで大切に持っていたのである。「去にし」は「いにし」と読ませる。(清水哲男)




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