1997N5句

May 0151997

 暮れ際の紫紺の五月来りけり

                           森 澄雄

月が女性的な月だとすると、五月は男性的なそれである。満開のつつじの道を縫って行く赤旗の列も美しいが、労働者の祭典が幕を閉じた後の暮れ際の空の色は、まさに紫紺。凛とした思いが、ひとりでに沸き上がってくる。春愁の季節は確実に過ぎていき、太陽の季節が近くなってきた。(清水哲男)


May 0251997

 逢ひにゆく八十八夜の雨の坂

                           藤田湘子

春から数えて八十八日目。「八十八夜の別れ霜」などといわれ、この時期、農家にとっては大敵の時ならぬ霜が降りることがある。この日を無事に通り抜ければ、安定した天候の夏がやってくるというわけで、八十八夜は春と夏の微妙な境目なのだ。しかし、このスリリングな日を実感として受けとめられる人は、もはや少数派。死語に近いかもしれない。したがって、この句の作者が恋人に会いに行く気持ちについても、解説なしではわからない人が多いはずだ。一年中トマトやキュウリが出回る時代となっては、それも仕方のないことである。近未来の実用的な歳時記は、おそらく八十八夜の項目を削除するだろう。(清水哲男)


May 0351997

 憲法の日や雑草と山に居る

                           熊谷愛子

法が施行された五十年前に大人だった人々にとって、新憲法はまぶしいほどの衝撃をもたらしただろう。とくに、第9条は。「……国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。文字通り塗炭の苦しみをなめさせられた庶民のひとりとして、作者は戦争のない世の中の幸福をしみじみと味わい、雑草さえもがいとしく感じられ、共に生きる心持ちになっている。風はそよ風。上天気。(清水哲男)


May 0451997

 煮蜆の一つ二つは口割らず

                           成田千空

間にも強情な奴はいるが、蜆(しじみ)にも、なかなかどうして頑迷な奴がいる。素直じゃない。可愛くない。とまあ、これはもちろん口を割らない蜆のせいではないとわかってはいるけれど、ついつい人間世界に擬してしまいたくなるのが、人情というものだろう。滑稽にして、俳味十分。成田千空は、かつて学生時代の私が投句していた頃の「萬緑」(中村草田男主宰)のエース級同人。現在の主宰者である。(清水哲男)


May 0551997

 大鍋のカレー空っぽ子供の日

                           西岡一彦

食メニューの人気ランキングで、常にトップの座に君臨しつづけてきたカレーライス。子供たちは、本当にカレーが好きだ。私も好きだが、妙に凝った味のものよりも、そこらへんの店のありふれたものがよい。昔ながらの「そば屋のカレー」も独特な味がしてなかなかのものだが、時に飲み水のコップにスプーンを漬けて出してくる店があり、あれには閉口させられる。何の「まじない」なのだろうか。この句は、こどもの日のイベントが果てた後の感慨だろう。逞しい彼らの食欲に、人としての未来を感じ希望を感じている。それこそ妙に凝っていないところが、この句のよさである。(清水哲男)


May 0651997

 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく

                           金子兜太

ールデン・ウィークが終わって、オフィス街にも日常の顔が戻ってきた。すぐに慣れてしまう光景だが、朝のうちはまだ新鮮な感じを受ける。昨日までシャッターを下ろしていた銀行の内部を、見るともなく見ると、いつもと変わらぬ情景が認められ、なんとなくホッとする気分。作者は日本銀行に勤務していたから、これは内部者から見た銀行の姿だが、連休明けの街を行く市民の気持ちにも合うような気がする。人間が「烏賊(イカ)」のように蛍光するという独特な観察が、私にそんなことを連想させるのだろう。戦後俳句界を震撼させた話題作にして、兜太の代表作だ。『金子兜太句集』(1961)所収。(清水哲男)


May 0751997

 噴水の頂の水落ちてこず

                           長谷川櫂

るほど、噴水のてっぺんの水は落ちてこない(ように見える)。「それがどうしたの」と言われても困るが、作者はそう観察したからそう詠んだまでで、句に過剰な意味を背負わせているわけではないだろう。でも、読者のなかには「引力の法則を抜け出た水の様子が、作者の精神的超越志向を表現している」と評する人もいる。そんなふうに読んでもいいけれど、おもしろくはない。こういう句は、そのまま受け取っておくにかぎる。この句を一度知ったら、噴水を見るたびに頂(いただき)の水の様子が気になってしまう。それでよいのである。『古志』所収。(清水哲男)


May 0851997

 早乙女の月負へば畔細るなり

                           庄司圭吾

乙女は、田植えをす乙女のこと。それ以外の意味はない。角川書店編『俳句歳時記』(旧版)に「むかしは清浄な若い女子だけが(田植えに)従事したものだろう」という馬鹿な解説がある。金持ちの田植えイベントならいざ知らず、そんなことにこだわった百姓など、一人もいるものか。田植えは必死の労働なのだ。風流のためにあるわけじゃない。若い女が多かったのは、力仕事ではないからなのだ。女子供でもできたからである。私が子供だったころには、男の子の私も当然のように動員された。一日田にいると、小学生でも腰痛になった。古来、早乙女の句のほとんどは、腹の立つほど呑気なものである。そんななかで、この句は田植えが労働であることに触れている。夜になり、もはや畔(あぜ)もそれと認められないほどに細く感じられるなかで、はつかな月光を頼りに植える女たちの必死の労働に、よく呼応している。(清水哲男)


May 0951997

 たはむれにハンカチ振つて別れけり

                           星野立子

目っけを上手に発揮できる女性は、意外に少ない。男性に「モテる」条件の一つだけれど……。この場合は女性同士の挨拶で、何かとても楽しいことのあった後での別れにちがいない。お互い、少しハイな気分になっている。考えてみれば、ハンカチを振る別れなどは、映画の一シーンくらいでしか見たことはない。たいていの人が、実際に体験することは一生ないだろう。それにふと気がついて、早速実行してしまったというわけだ。「たはむれ」とはいいながらも、胸に残ったのは生きていることの充足感である。『立子句集』所収。(清水哲男)


May 1051997

 葱坊主どこをふり向きても故郷

                           寺山修司

坊主(葱の花)を見て、ロック歌手の白井貴子が「わあ、かわいい」と、昼のNHKテレビで言っていた。途端に私は「ああ、そう言われてみればかわいいな」と、はじめて思った。中学生のころの私には、なんだかとても寂しげな姿に見えていた。それこそ同じ坊主頭だったから、どこかで親近感を覚えていたのかもしれない。どうひいき目に見ても、ちっとも立派じゃないその姿が、このまま田舎で朽ち果てる自分の運命を暗示しているようにも見えたのである。とにかく、わけもわからずに大都会に出ることだけを夢見ていた少年の句だ。こう言っても、あの世の寺山修司は苦笑してうなずいてくれるだろう。『われに五月を』所収。(清水哲男)


May 1151997

 自転車のベル小ざかしき路地薄暑

                           永井龍男

い路地を歩いていると、不意に後ろから自転車のベルの音がする。「狭い道なんだから、降りて歩けよ」とばかりに、作者は自転車に道をゆずるようなゆずらないような足取りだ。暑さが兆してきたせいもあって、いささかムッとした気分。下町俳句とでも言うべきか。いかにも短編小説の名手らしい作品である。晩年、鎌倉のお宅に一度だけ、放送の仕事でうかがったことがある。仕事机の代わりの置炬燵の上には、マイクが置けないほどの本の山。雪崩れている本の隙間から校正刷とおぼしき紙片が見え、はしっこに「中村汀女」という活字が見えたことを覚えている。(清水哲男)


May 1251997

 薔薇熟れて空は茜の濃かりけり

                           山口誓子

薇の花が開ききった夕暮れ時、折りからの空はあかね色に濃く染まってきた。どちらの色彩もが、お互いに充実しきった一瞬をとらえている。しかし、この充実の時は長くはない。中村草田男に「咲き切つて薔薇の容(かたち)を超えけるも」があるが、いずれも普通の観賞句より、一歩も二歩も踏み込んで詠んでいる。誓子句のほうがよほど抒情的だけれど、こちらのほうが大方の日本人の好みには合うだろう。蛇足ながら、薔薇の句に名句は少ない。花が西洋的で豪奢すぎるせいだろうか。(清水哲男)


May 1351997

 そら豆はまことに青き味したり

                           細見綾子

までは、ビールのつまみ。子供の頃は、立派なおかずだった。この句からよみがえってくる味は、子供の頃のそれである。我が家の畠で収穫したそら豆は、本当に「青き味」がしたものだが、いまどきの酒場で出すものには「青き味」どころか、ほとんど味というものがない。変な話だが、東京では銀座あたりの料亭にでもいかないと、そら豆にかぎらず「青き味」などは味わえなくなってしまった。ある所にはあるということ。ところで、なぜこの豆を「そら豆」というのだろうか。「葉を空に向けるので」と、物の本で読んだことがある。(清水哲男)


May 1451997

 女教師の眉間の傷も夏めけり

                           清水哲男

めく」は微妙な季語である。まだ春の雰囲気が残っているころ、なにげないものに夏の匂いを感じるというわけである。歳時記では「夏」。生と死のぎらぎらする夏。「女教師の眉間の傷」は短編小説に発展する素材でもある。作者は多分、その時中学生(高校生かな)。いずれにしろ微妙な年齢である。見てはならないものを見てしまったというより、それに魅せられ想像力をふくらませているとも言えるが、むしろ冷静に大人びた観察をしているように思える。その傷ははつかな汗に淡い光を帯びている。『匙洗う人』所収。(佐々木敏光)


May 1551997

 蕗刈るや山雨のはじめ葉を鳴らす

                           安藤五百枝

まにも降ってきそうな空の下で、おっかなびっくり仕事をはじめた途端に、やはりパラパラッと降ってきた。こんなときには、誰しもがたいした雨じゃないと思いたいところだけれど、葉に当たる音からして勢いが出てきそうな雨である。ならば、即刻ここで引き上げるべきか、それとも少しでも刈り取って帰るべきか。帰路は遠い……。見上げると、空は真っ暗だ。山の仕事につきものの天候の気まぐれ。このときの風景の色はといえば、さながら昔のソ連版カラー映画の暗緑色といったところだろうか。決してイーストマン的な色彩ではない。ところで、蕗を醤油で煮詰めた食べ物が、ご存じの「キャラブキ」だ。川端茅舎に「伽羅蕗の滅法辛き御寺かな」があり、生真面目なトーンの句だけに、思わずも笑わされてしまった。(清水哲男)


May 1651997

 万緑の中や吾子の歯生えそむる

                           中村草田男

んな歳時記にも載っている句だ。それもそのはずで、「万緑」という季語の創始者は他ならぬ草田男その人だからである。「万緑」の項目を立てる以上、この句を逸するわけにはいかないのだ。草田男自身は、ヒントを王安石の詩「万緑叢中紅一点」から得たのだという。見渡すかぎりの緑のなかで、赤ん坊に生えてきたちっちゃな白い歯がまぶしいという構図。人生の希望に満ちた親心。この親心のほうが、読者には微笑ましくもまぶしく感じられるところだ。私は読んでいないが、この句のモデルになったお嬢さんが、最近、家庭人としての草田男像を書いた本を上梓され評判になっている。もうひとつの草田男の名句になぞらえていうならば、だんだん「昭和も遠くなり」つつあるということか。(清水哲男)


May 1751997

 富める家の光る瓦や柿若葉

                           高浜虚子

ういう句に、虚子の天才を感じる。平凡な昔の田舎の風景を詠んでいるのだが、風景のなかに見えてくるのは、単なる風景を超えた田舎の権力構造そのものである。柿の若葉はよく光りを反射してまぶしいものだが、そのなかでひときわ光っているのが瓦屋根だという着眼力。そのかみの田舎では、金持ちでなければ瓦の屋根は無理であった。知らない土地に行っても、屋根を見れば貧富の差はすぐに知れたものだ。杉皮で葺いた屋根の下に暮らしていた小学生の私は、瓦屋根の家の柿若葉の下で、窓越しにラジオを聴かせてもらっていた。野球放送のなかで、自然に流れてくる都会の雑音を聞くのも楽しみだった。船の汽笛が聞こえてきたこともある。あれは、どこの球場からの実況放送だったのだろうか。昭和二十年代。昔の話である。(清水哲男)


May 1851997

 くちびるに夏欲しければ新茶飲む

                           小迫倫子

せようか、載せまいか。何日か思い悩む句がある。偉そうにしているわけではないけれど、私なりの評価が定まらないからだ。この句も、そのひとつ。若々しく新しい感覚ではある。だが、どこか私にはいぶかしい。それは「新茶飲む」という表現のせいだ。これまでの句では、茶は「汲む」ものであり「喫する」ものでありと、「飲む」というストレートな言い方はゼロに近かった。茶には「飲む」だけでは伝わらない風合いがあるので、多くの俳人はあえて婉曲的な表現を選んできたのだろう。そんななかで、作者はずばり「飲む」と詠んでいる。ミルクやジュースと同じ「飲み方」をしている。そういうふうに読める。おそらくは、このあたりの表現法が今後の俳句の大問題になるはずで、当サイトの読者はどうお考えになるだろうか。「喫茶」という言葉が持つ色気を追放したときに、どんな新しい風が吹いてくるのか。私にも、大いに興味がある。その意味で、この作品は重要だと考え紹介することにした。小迫さんは1969年生まれ。『21世紀俳句ガイダンス』(現代俳句協会)所載。(清水哲男)


May 1951997

 遠近の灯りそめたるビールかな

                           久保田万太郎

近は「おちこち」。たそがれ時のビヤホール。まだ、店内には客もまばらだ。連れを待つ間の「まずは一杯」というところか。窓の外では、ポツポツと夜の灯りが点りはじめた。いかにも都会派らしい作者のモダンな句だ。この作品はまずまずとしても、意外なことにビールの句にはよいものが少ない。種々の歳時記を見るだけで、ビール党の人はがっかりするはずである。なぜだろうか……。今日はおまけとして、情緒もへったくれもあったものじゃないという短歌を二首紹介しておく。「小説を書く苦しみを慰さむは女房にあらずびいる一杯」(火野葦平)。「原稿が百一枚となる途端我は麦酒を喇叭(らっぱ)飲みにす」(吉野秀雄)。俳句では、逆立ちしてもこうはいかない。(清水哲男)


May 2051997

 子育ての大声同志行々子

                           加藤楸邨

声でヨシキリが鳴く小川に沿う道が我が通勤路。子育て真最中の行々子の鳴き声がしきり。会話の中味は、ひなの成長の自慢話しか、托卵されかっこうのひなの里親になった不運への愚痴か、はたまた、治水と称して河原の安住の葦原を侵略する人間への恨みごとか。にぎやかな行々子の声を聴きながら、亡き妻との子育ての昔を振り返る作者の姿が目に浮かぶ。遺句集『望岳』所収。(齋藤茂美)


May 2151997

 皮を脱ぐ音静かなり竹の奥

                           如 洋

頃の竹林に入ると、竹の皮の落ちる音がしているはずだ。「はらり」でもなく「ばさり」でもなく、その中間の微妙なかそけき音。小学生の頃には、よく真竹の皮をひろいに行った。おにぎりなど、いろいろな物を包むのに使うためだ。都会では、肉屋さんの必需品でもあった。まさにこの句の言うとおりで、ときおり皮を脱ぎ落とす音がすると、子供心にも神秘的な感じを受けたものである。加えて、土のしめった感触や匂いなどにも……。ところで、私がいま住んでいる東京の三鷹は、埼玉の所沢と並んで、関東地方の細工用の竹の一大産地だったそうである。昨日の放送スタジオで、コミュニティセンターで「竹とんぼ」教室を開いているゲストの方からうかがった話だ。なお、竹の皮の品質のよさでは、なんといっても京都嵯峨野産が有名である。いや、有名であった。(清水哲男)


May 2251997

 風知つてうごく蚊帳吊りぐさばかり

                           大野林火

句の感想を書いていて困るのは、昔は誰でも知っていた草木の名前などを知らない人が増えてきたことだ。「蚊帳吊りぐさ(草)」も、もはやその一つと言ってよいだろう。いわば「教養」という引き出しに入ってしまった感のあるこの雑草は、そこらへんの畑や畦道に長い茎(20-70センチほど)を真っ直ぐにすっと伸ばして生えている。だから、この句のように、微風にもいちはやく敏感に反応するというわけだ。茎の断面が三角形で、上下を残して二つに割いていくと方形ができ、それが「蚊帳」を連想させるところから、この名がついた。「蚊帳吊りぐさ」はおろか「蚊帳」すらも忘れられていく時代に、このような佳句もまた、少数者の「教養」の引き出しにしまいこまれていくのであろうか。(清水哲男)


May 2351997

 店じまひしたる米屋の燕の巣

                           塩谷康子

ソリン・スタンドで米を売る時代だもの、廃業に追い込まれる米屋があっても不思議ではない。事情はともあれ、店じまいしてガランとした米屋の軒先に、今年もまた燕がやってきた。何もかもきれいさっぱりと片づけて去った店の主人が、燕の住環境だけはそのまま残しておいたのだ。そんな店主の人柄が伝わってくる句。滅びと出立の対照の妙もある。私が若かったころは、引っ越しをするたびに米穀通帳(寺山修司が「米穀通帳の職業欄に『詩人』と記入する奴はいない、詩人は職業じゃないから」と、当時の雑誌に書いていたことを思い出す)を更新する必要があり、あちこちの米屋のお世話になった。どこの店にも独特の米糠の匂いが満ちており、どこのご主人も、人柄になぜか共通するところがあったような気がする。『素足』所収。(清水哲男)


May 2451997

 襖除り杜鵑花あかりに圧されけり

                           阿波野青畝

っと読み下せた人は、なかなかの漢字通です。「ふすまとりさつきあかりにおされけり」と読む。大勢の客を迎える準備だろうか。部屋をブチ抜きにするために、襖を外したところ、杜鵑花(さつき)が満開の庭の明るい光がどっと入ってきて、思わず気圧されてしまったという構図。いかにも初夏らしい気分を的確にとらえた、見事な作品である。杜鵑花は「つつじ」の親戚だが、陰暦の五月に咲くので「さつき」となった。ところで、今週あたりから来月上旬にかけて、各地で「さつき展」が開かれる。今年は、桜からはじまって一般的に開花が早いので、あまり盛り上がらないのではないかと、これは関係者の話。(清水哲男)


May 2551997

 ひと日臥し卯の花腐し美しや

                           橋本多佳子

暦の四月は「卯の花月」。昔の人は、この頃に咲く卯の花を腐らせるような霖雨のことを「卯の花腐し(うのはなくたし)」と呼んだ。健康な人にとってはまことに陰欝な雨でやりきれないが、病者にはむしろみずみずしい生気とうつる。臥(ふ)している作者は、降りつづく雨の庭を飽かず眺めながら、心に染みいるような美しさを味わっている。心なしか体調もよくなってきた感じ……。妙なことを言うようだが、長患いは別として、人間たまには寝込むことでストレスの解消になる。煩瑣な日常生活と、否応なく切り離されてしまうからだろう。(清水哲男)


May 2651997

 冷酒や蟹はなけれど烏賊裂かん

                           角川源義

まは宴席などでも冷酒を飲む人は多いが、昔は燗をつけて飲むのが一般的だった。したがって、冷酒は応急的(?)宴会で飲まれたものだ。とりあえずの酒だった。急に飲もうと話が決まり、燗をつけるなどまだるっこしいことはやっていられない雰囲気。これで肴に蟹でもあれば最高だなァと誰かが言い、べらぼうめェ、蟹だって烏賊(いか)だってアシの数では同じようなものじゃないかと乱暴な論理をふりかざして、作者はスルメを裂いている。これから「さあ、飲むぞ」という酒飲み連中の昂揚感をよく伝えている句だ。それこそ「蟹はなけれど」、赤い蟹の姿まで見えてきそうな気がするところも面白い。(清水哲男)


May 2751997

 砂糖水飲む文弱の一守衛

                           小池一覚

ういえば、最近は「文弱(ぶんじゃく)」という言葉を聞かなくなった。詩や小説を書くことなどにかまけていて、世間的には弱々しいことをいう。意味は違うが「青白きインテリ」という言葉も、ひところ流行した。聞かないというと「砂糖水」も同様である。「知ってるかい」と尋ねたら「ソレって何ですか」と、若い人に言われてしまった。ただ砂糖を冷水に溶かしただけの飲み物だ。そして「守衛」もいまや「ガードマン」なのだから、作者せっかくの韜晦も、そろそろ通じなくなってくるだろう。雑誌「すばる」(97年6月号)に、中村真一郎が書いていた。「小生の年間所得、昨年は遂に五百万円を割る。文学出版の不況が、こちらに皺寄せの結果と、小生が時代からの遊離のため」。こちらのほうが、よく通じる。(清水哲男)


May 2851997

 真清水も病みて野をゆく初夏よ

                           沼尻巳津子

の季節のさわやか(もっとも「さわやか」は秋の季語だけれど)な「真清水」と「初夏(はつなつ)」との取り合わせ。そこに、作者は病的な照明をあてている。「も」という助詞に注目せざるをえないが、このとき、作者は病身なのだろう。常識を裏切った句というよりも、自分の感性に忠実な句。身体が弱っていると、世の溌溂としたもの全てが疎ましくなる。が、この句。発熱の悪寒から解放されたときのような清々しさも湛えている。不思議な句境だ。なお、考えてみたい。『華彌撒』所収。(清水哲男)


May 2951997

 病院に母を置きざり夕若葉

                           八木林之助

親を入院させたのか、あるいは見舞いにいったのか。病院を出てくると、若葉が夕日に映えて実に美しい。ホッとさせられる。だが、その気持ちの下から、母を「置きざり」にしてきて、なぜ俺はホッとしたりできるのかという自責の念もわいてくる。肉親の入院は、人生での大きな出来事だ。最悪の事態までを考えたりと、ストレスはたまるばかり……。だから、不確かでも一応のメドが立つと、病院を離れた瞬間に、開放的な気分になるのが人情というものだろう。この句を、センチメンタルに重く読みすぎるのは間違いだ。むしろ読者は「夕若葉」の美しさのほうをこそ、読み取るべきではあるまいか。「夕若葉」を詠んだ句は、意外に少ない。(清水哲男)


May 3051997

 花石榴生きるヒントの二つ三つ

                           森 慎一

とこころが瞬間にぶつかって句が成る。よくあることなのだろうか。人事句でありながら、花石榴(はなざくろ)の実が一樹にぽつりぽつりとあるのを、永年見つづけてきた人の句。花はたくさん咲くが、実は少ない。やはり、二つ三つ。『風のしっぽ』所収。(八木幹夫)


May 3151997

 鮒鮓や彦根の城に雲かかる

                           与謝蕪村

版の角川歳時記でこの句を知ったとき、まだ鮒鮓(ふなずし)を知らなかった。いかにも美味そうであり、品のある味がしそうだ。憧れた。城に似合う食べ物なんぞ、めったにあるものじゃない。とりあえず彦根東高校出身の友人に「うまいだろうなあ」と尋ねたら、「オレは嫌いだね」とニベもなかった。なんという無風流者……。そう思ったが、後に食べてみて大いに納得。私の舌には品格も何もあったものではなくて、あの臭いには閉口させられた。もともと寿司は魚の保存法の一種として開発された食物だから、鮒鮓のあり方は正しいのだ。と、頭ではわかっているけれど、いまだに駄目である。たぶん納豆嫌いの人の心理に共通したところがあるのだろう。でも、句は素敵だ。単なる叙景句を越えている。(清水哲男)




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