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May 0351997

 憲法の日や雑草と山に居る

                           熊谷愛子

法が施行された五十年前に大人だった人々にとって、新憲法はまぶしいほどの衝撃をもたらしただろう。とくに、第9条は。「……国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」。文字通り塗炭の苦しみをなめさせられた庶民のひとりとして、作者は戦争のない世の中の幸福をしみじみと味わい、雑草さえもがいとしく感じられ、共に生きる心持ちになっている。風はそよ風。上天気。(清水哲男)


September 2392001

 母の行李底に団扇とおぶひひも

                           熊谷愛子

悼句だろう。亡くなった母親の遺した物を整理するうちに、行李(こうり)を開けたところ、いちばん底のほうから「団扇(うちわ)」と「おぶひひも」が出てきた。彼女は、何故こんな役立たずのものを大事に仕舞っておいたのか。……といぶかしく思いかけて、作者はハッとした。覚えているはずもないが、この「おぶひひも」は赤ん坊の私をおんぶしてくれたときのもの。となれば、この「団扇」は暑い盛りに私に風を送ってくれたものなのだ。二度と使うことはないのに、こうやってとっておいた母の心が、わかったような気がした。母は「行李」を開けたときに、ときどき底のものを見ていたにちがいない。私が反抗したとき、私に馬鹿にされたとき、そして私が結婚して家を出たときなどに……。とくに女性にはプライバシーもへちまもなかった時代には、自分用の「行李」だけは、プライバシーの拠り所だったはずだ。だから、そこに仕舞ってあるのは単なる「物」以上の意味をこめた「もの」も収納されていたのだと思う。このときに「行李」の「底」とは、「心の底」と同義である。何度か読んでいると、自然に涙がにじんでくる。名句である。「おぶひひも」の平仮名が、切なくも実によく効いている。「団扇」は夏の季語だから、一応夏に分類はしておくが、句の本意からすると無季が適切かと。『旋風(つむじ)』(1997)所収。(清水哲男)


January 0712013

 不機嫌に樫の突つ立つ七日かな

                           熊谷愛子

語は「七日」で、一月七日のこと。習慣的に関東の松の内は七日まで(関西では十五日までとされているが、最近ではどうなのだろう)だから、今日で正月も正月気分もおしまいだ。多くの人にとって、正月は非日常に遊ぶ世界ではあるが、三が日を過ぎるあたりから、その非日常の世界を日常が侵食してくる。お節に飽きてきてカレーライスを食べたくなったり、ゴミの収集がはじまったりと、非日常が徐々に崩れてくる。同じ作者に「初夢の釘うつところ探しゐて」という句があり、ここでは早々に日常に侵入されてしまっている。客の多い家ともなると、主婦が非日常に遊ぶなんてことは不可能だ。それでもまあ、松の内という意識があるから、なんとなく七日くらいまでは正月気分をかき立てているわけだ。この句は、そんな気分で七日を迎えた主婦が、久しぶりに醒めた視線でまわりの景色を見渡したときの印象だろう。樫の木が不機嫌そうに立っているのが、目についた。なんだか人間どもの心理的物理的な落花狼藉の態を、ひややかに見つめつづけていたような雰囲気である。この樫の木の不機嫌も、やがては日常の中に溶けて消えてしまうのだが、今日七日のこのひんやりとした存在感は、特別に作者の心に突き刺さったのだった。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 30112013

 嬰のまはりはことばの華よ冬満月

                           熊谷愛子

には、やや、とふられている。泣き声と話し声、生まれたばかりの赤子を包む幸せがまず音として感じられ、それから風景となって見えてくる。花を思わせる、嬰、の文字と、華、が呼応しているところに、冬満月の円かでありながら冴え冴えとした光が加わって余韻を生む。二人の子を持つ友人がだいぶ離れた三人目を授かった時、二人でいいかなって思っていたのだけど、赤ちゃんを囲んでいる時の家族がなんだかなつかしくなったの、と言っていたのを思い出す。生まれたての命は無条件に幸せをもたらしてくれるのだろう。前出の友人の末娘も大学生、甘やかされているはずが二人の兄より強く逞しく、ずっと母を幸せにしている。『旋風』(1997)所収。(今井肖子)




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