May 081997
早乙女の月負へば畔細るなり
庄司圭吾
早乙女は、田植えをす乙女のこと。それ以外の意味はない。角川書店編『俳句歳時記』(旧版)に「むかしは清浄な若い女子だけが(田植えに)従事したものだろう」という馬鹿な解説がある。金持ちの田植えイベントならいざ知らず、そんなことにこだわった百姓など、一人もいるものか。田植えは必死の労働なのだ。風流のためにあるわけじゃない。若い女が多かったのは、力仕事ではないからなのだ。女子供でもできたからである。私が子供だったころには、男の子の私も当然のように動員された。一日田にいると、小学生でも腰痛になった。古来、早乙女の句のほとんどは、腹の立つほど呑気なものである。そんななかで、この句は田植えが労働であることに触れている。夜になり、もはや畔(あぜ)もそれと認められないほどに細く感じられるなかで、はつかな月光を頼りに植える女たちの必死の労働に、よく呼応している。(清水哲男)
May 071997
噴水の頂の水落ちてこず
長谷川櫂
なるほど、噴水のてっぺんの水は落ちてこない(ように見える)。「それがどうしたの」と言われても困るが、作者はそう観察したからそう詠んだまでで、句に過剰な意味を背負わせているわけではないだろう。でも、読者のなかには「引力の法則を抜け出た水の様子が、作者の精神的超越志向を表現している」と評する人もいる。そんなふうに読んでもいいけれど、おもしろくはない。こういう句は、そのまま受け取っておくにかぎる。この句を一度知ったら、噴水を見るたびに頂(いただき)の水の様子が気になってしまう。それでよいのである。『古志』所収。(清水哲男)
May 061997
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
金子兜太
ゴールデン・ウィークが終わって、オフィス街にも日常の顔が戻ってきた。すぐに慣れてしまう光景だが、朝のうちはまだ新鮮な感じを受ける。昨日までシャッターを下ろしていた銀行の内部を、見るともなく見ると、いつもと変わらぬ情景が認められ、なんとなくホッとする気分。作者は日本銀行に勤務していたから、これは内部者から見た銀行の姿だが、連休明けの街を行く市民の気持ちにも合うような気がする。人間が「烏賊(イカ)」のように蛍光するという独特な観察が、私にそんなことを連想させるのだろう。戦後俳句界を震撼させた話題作にして、兜太の代表作だ。『金子兜太句集』(1961)所収。(清水哲男)
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