May 231997
店じまひしたる米屋の燕の巣
塩谷康子
ガソリン・スタンドで米を売る時代だもの、廃業に追い込まれる米屋があっても不思議ではない。事情はともあれ、店じまいしてガランとした米屋の軒先に、今年もまた燕がやってきた。何もかもきれいさっぱりと片づけて去った店の主人が、燕の住環境だけはそのまま残しておいたのだ。そんな店主の人柄が伝わってくる句。滅びと出立の対照の妙もある。私が若かったころは、引っ越しをするたびに米穀通帳(寺山修司が「米穀通帳の職業欄に『詩人』と記入する奴はいない、詩人は職業じゃないから」と、当時の雑誌に書いていたことを思い出す)を更新する必要があり、あちこちの米屋のお世話になった。どこの店にも独特の米糠の匂いが満ちており、どこのご主人も、人柄になぜか共通するところがあったような気がする。『素足』所収。(清水哲男)
May 221997
風知つてうごく蚊帳吊りぐさばかり
大野林火
俳句の感想を書いていて困るのは、昔は誰でも知っていた草木の名前などを知らない人が増えてきたことだ。「蚊帳吊りぐさ(草)」も、もはやその一つと言ってよいだろう。いわば「教養」という引き出しに入ってしまった感のあるこの雑草は、そこらへんの畑や畦道に長い茎(20-70センチほど)を真っ直ぐにすっと伸ばして生えている。だから、この句のように、微風にもいちはやく敏感に反応するというわけだ。茎の断面が三角形で、上下を残して二つに割いていくと方形ができ、それが「蚊帳」を連想させるところから、この名がついた。「蚊帳吊りぐさ」はおろか「蚊帳」すらも忘れられていく時代に、このような佳句もまた、少数者の「教養」の引き出しにしまいこまれていくのであろうか。(清水哲男)
May 211997
皮を脱ぐ音静かなり竹の奥
如 洋
今頃の竹林に入ると、竹の皮の落ちる音がしているはずだ。「はらり」でもなく「ばさり」でもなく、その中間の微妙なかそけき音。小学生の頃には、よく真竹の皮をひろいに行った。おにぎりなど、いろいろな物を包むのに使うためだ。都会では、肉屋さんの必需品でもあった。まさにこの句の言うとおりで、ときおり皮を脱ぎ落とす音がすると、子供心にも神秘的な感じを受けたものである。加えて、土のしめった感触や匂いなどにも……。ところで、私がいま住んでいる東京の三鷹は、埼玉の所沢と並んで、関東地方の細工用の竹の一大産地だったそうである。昨日の放送スタジオで、コミュニティセンターで「竹とんぼ」教室を開いているゲストの方からうかがった話だ。なお、竹の皮の品質のよさでは、なんといっても京都嵯峨野産が有名である。いや、有名であった。(清水哲男)
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