ro句

May 2751997

 砂糖水飲む文弱の一守衛

                           小池一覚

ういえば、最近は「文弱(ぶんじゃく)」という言葉を聞かなくなった。詩や小説を書くことなどにかまけていて、世間的には弱々しいことをいう。意味は違うが「青白きインテリ」という言葉も、ひところ流行した。聞かないというと「砂糖水」も同様である。「知ってるかい」と尋ねたら「ソレって何ですか」と、若い人に言われてしまった。ただ砂糖を冷水に溶かしただけの飲み物だ。そして「守衛」もいまや「ガードマン」なのだから、作者せっかくの韜晦も、そろそろ通じなくなってくるだろう。雑誌「すばる」(97年6月号)に、中村真一郎が書いていた。「小生の年間所得、昨年は遂に五百万円を割る。文学出版の不況が、こちらに皺寄せの結果と、小生が時代からの遊離のため」。こちらのほうが、よく通じる。(清水哲男)


February 0621998

 倖かひとり鳥貝の寿司食ふは

                           小池一覚

は「しあわせ」。「寿司」は夏の季語だが、この場合は「鳥貝」で春。鳥貝とはまた奇妙な名前だ。味が鶏肉に似ているからだとか、軟体部が小鳥の形に似ているからだとか、命名の根拠には諸説がある。冬から春にかけてが旬だ。作者の好物なのだろう。多少懐に余裕があったので、一人で寿司を食べている。ひさしぶりに幸せな気分だ。食べているうちに、しかし、だんだんとさびしくなってくる。なんだか、家族や職場の同僚をさしおいて、自分一人だけがいい気になっているような気がしてきたのである。軽い自己嫌悪の気分に見舞われている。つまり、こっそりと贅沢をしている自分が嫌になりつつあるというところだろう。先日ラジオで、退役した外交官が「国連の明石さんが遊びにみえて、寿司でもつまもうかということになって……」と、気楽に話していた。この話を聞くまで、私は「寿司をつまむ」という表現をすっかり忘れてしまっていた。「つまむ」には元来の意味である単なる食べ方もあるが、こう寿司が高価になってくると、金持ちの余裕みたいなニュアンスもくっついてくる。私など、「つまみに行こうか」などと言ったことはない。ところが、今でも「つまむ」と日常的に気楽に言える人が、存在するのである。ただし、寿司をちょっと「つまめる」身分の人には、この句の味はわからないだろう。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます