cq句

June 2261997

 ほうたるや闇が手首を掴みたり

                           藤田直子

句があるような気がする。あっても一向に構わないが、そんなふうに私が感じたのは、この闇の中の感性が女性特有のものであり、共通する感性が生んだ句をいくつも読んで啓蒙されてきたからだろう。幻想か、現実か。それはどちらでもよいのだし、どちらでもないのかもしれない。いずれにしても、闇が女を確実に女にすることがあるということだ。それにひきかえ、男の蛍見物などは、まことにもって無邪気なものである。男はむしろ、闇の中で幼児化してしまう。『極楽鳥花』所収。(清水哲男)


July 1271997

 古着売り緑蔭にひろぐ婚衣裳

                           藤田直子

者が思わずも古着売りの前で立ち止ったように、句集のなかのこの句の前では立ち止らざるを得ない。緑陰にひろげられた婚礼用の衣裳は、和風であれ洋風であれ、純白のものだろう。木々の緑との対比が、まぶしいほどに目に鮮やかだ。そこまではよい。が、戦後の混乱期ならいざ知らず、これは現代の光景だ。だから、作者と同じように読者もここで立ち止るのは、すぐにひとつの素朴な疑問がわいてくるからである。いったい、どんな人が何のために古着の花嫁衣裳などを買うのだろうか。思いつく答えとしては、劇団関係者が舞台用に求める可能性はあるという程度だ。今度古着屋さんに出会ったら、ぜひとも質問してみたいと思う。『極楽鳥花』所収。(清水哲男)


November 16111997

 黄落やジーンズ家族に空の青

                           藤田直子

ながら、この季節の家庭雑誌の表紙絵のようだ。晴れた日の昼下がり、ジーンズ姿の一家四人(とは書いてないけど)が黄落する山道か公園を歩いている。真青な空を背景に、黄色い木の葉がときおり舞い落ちてくる。おだやかな小春日の、なんでもない一齣だが、この種の記憶は案外いつまでも残るものなのだ。ひょっとすると「黄落」は「行楽」にかけられているのかもしれない。そう読むと、ちょっと怖い。この一家のささやかな幸福感も、やがては枯れて散りはててしまうことを、作者が予感していることになるからだ。でも、たぶんこれは深読みだろう。字面通りに素直に受け取っておくほうが楽しいし、精神衛生的にもよろしいと思う。余談だが、一年中ジーンズで通している私には、俳句にジーンズが出てくるだけで、単純に嬉しくなってしまうところがある。『極楽鳥花』(1997)所収。(清水哲男)


July 1571998

 扇子低く使ひぬ夫に女秘書

                           藤田直子

かの用事で会社の夫を訪ねたのだろう。重役室か部長席か、秘書がいるのだから、夫の地位は相当に高いと知れる。そして、その女秘書は作者よりもだいぶ若いし美人でもある。見るともなく見ていると、仕事ぶりもてきぱきしている。で、使っている扇子の位置が自然に普段よりも低くなったというのだが、これはまた実に見事な心理描写だ。「扇子低く使ひぬ」とは、何のためなのか。女秘書に対して、それからその場にいる夫に対しても、自分の存在を少しでも大きく強く認識させようとしたためである。そんなことくらいで存在を大きく強くアピールできるわけもないのだが、そこはそれ、人間心理の微妙なところではあるまいか。共に働く女秘書と夫に対する軽い嫉妬の心が、思わずも扇子を低く使う仕草に表われていたというわけだ。しかも、その心理と仕草を覚えていてこのように書きとめた作者の腕前は、たいしたものだと思う。凡手は、ここを見逃す。見逃して、蝶よ花よとあたりを見回す。あえて見回さなくても、俳句の素材はみずからの心理や行為のうちにいくらでもあるし、発見できるというサンプルみたいな作品だ。うわぁ、説教臭くなっちゃった。『極楽鳥花』〔1997〕所収。(清水哲男)


July 0972001

 山風を盆地へとほす葭障子

                           藤田直子

かにも涼しそうだ。実際にはどうであれ、座敷などに「葭障子(よししょうじ)」が建てつけてあるだけで、涼味を誘う。その涼味をあらわすのに、山からの風を「盆地へとほす」(ようだ)と大きく張ったところが素晴らしい。かりに「葭障子」の発明者がいるとして、掲句を読んだら、ここに本意きわまれりと感激するにちがいない。網戸や簾(すだれ)、暖簾(のれん)などもそうだし、夏料理にしてもそうだが、湿気の多い日本の夏を少しでも涼しく過ごすための工夫は、一つ一つを考えてみると、実に面白くもあり感心もさせられる。現今の暴力的な冷房装置とは違い、五感すべてをフルに動員してこその涼味が、そこにある。人間をも含めた自然との親和的な交感が、具体的に表現されている。「葭障子」の近代版は網戸と言えようが、波多野爽波にこんな愉快な句がある。「網戸越し例の合図をしてゆける」。網戸は表から室内が丸見えになっているようでいて、さにあらず。むろん昼間にかぎるが、表のほうがよほど明るいので、表からは中がよく見えない。その見えない薄暗がりに向けて、「今夜は例のところで一杯やろうぜ」などと「合図」を送ってきた悪友の姿がほほ笑ましい。私生活がほんのりと表に開かれていた時代のほうが、私は好きだな。『極楽鳥花』(1997)所収。(清水哲男)


November 07112006

 拭ひても残る顔あり今朝の冬

                           藤田直子

と自分がここにいる不思議を思う瞬間がある。鏡を覗き込む顔も見知らぬ者のように映り、水にくぐらせた皮膚に冬の空気が通りすぎる感触さえ、どこかよそよそしく感じる。句集は作者が配偶者に先立たれた時間のなかで作られたものであり、掲句からは愛する者を亡くしたのちも実体のある自身を持て余すようなやりきれなさが伝わってくる。しかし、残された者には望むと望まざるに関わらず、連綿と日常が控えている。今日から冬が始まることは、同時に作者の新しい日々が始まることでもある。エジプトの王ツタンカーメンの棺には、妻アンケセナーメンが摘んだ矢車草の花が添えられていたという。暗殺説もある複雑な人間関係のなかで、夫婦の愛情だけは確かに育まれていたのだ。残された若きエジプト王妃もまた、悲しみを拭うように朝を迎えていたことだろう。「秋麗の棺に凭れ眠りけり」「そぞろ寒供花ふやしてもふやしても」「がらんどうの冬畳より立ち上がる」、途方もない虚無感がごつごつと胸を乱暴に駆け抜ける。長い長い時間をかけてようやく悲しみは、かけがえのない思い出となる。『秋麗』(2006)所収。(土肥あき子)


November 03112007

 落魄やおしろいの実の濡れに濡れ

                           藤田直子

れるは光るに通じている。先日の時ならぬ台風の日、明治神宮を歩いた。玉砂利に、団栗に、ざわつく木々とその葉の一枚一枚に降る雨。太陽がもたらす光とは違う、冷たく暗い水の光がそこにあった。何年か前の雨月の夜、同じように感じたことを思い出す。観月句会は中止となったが、せっかく久しぶりに会ったのだからと、友人と夜の公園に。青い街灯に、桜の幹が黒々と、月光を恋うように光っていた。この句は、前書に「杜國隠棲の地 三句」とあるうちの一句。坪井杜國(つぼいとこく)は、蕉門の一人で、尾張の裕福な米穀商だったが、商売上の罪で流刑、晩年は渥美半島の南端で隠棲生活を送った。享年三十四歳。おしろいの花の時期は、晩夏から晩秋と長いが、俳句では秋季。落魄(らくはく)の、魄(たましい)の一字にある感慨と、おしろいの実の黒く濡れた光が呼応して、秋霖の中に佇む作者が見える一句である。芭蕉は、この十三歳年の離れた弟子に、ことのほか目をかけ、隠棲した後に彼の地を訪ね、別れ際に、〈白芥子に羽もぐ蝶の形見かな〉の句をおくったという。あえかなる白芥子の花弁と、蝶の羽根の白に、硬く黒いおしろいの実の中の、淡い白さが重なる。「秋麗」(2006)所収。(今井肖子)


January 2312012

 巻いてもらふ長マフラーの軸となり

                           藤田直子

マフラーで思い出すのは、イギリス映画『マダムと泥棒』(1955)に出てくるアレック・ギネスだ。彼は自称音楽家のふれこみで人の良い老未亡人宅に仲間と下宿するのだが、実は強盗団の首魁である。いつもきちんとスーツを着込み、しかし何故か首に一巻きしただけのマフラーは膝下くらいまでの長さがあり、それをいつもだらりと下げたまま行動している。男だから、まあこんな巻き方でもよいのかもしれないが、女性となるとそうもいくまい。巻くときに鏡があればまだしも、ないときに巻くのはかなり難しいだろう。胸の辺りで上手にまとめようとしても、両端を均一の長さに結ぶのには苦労しそうだ。句では、そんな長マフラーを誰かに結んでもらっている。そうしてもらっているうちに、なんだか自分がマフラーの軸になったようだと言っている。これはおそらく男がネクタイを結んでもらうときの感覚と似ているのだと思う。つまり、主体は巻く側にあるので、巻かれる側はあくまでも巻きやすい姿勢を保持しなければならない。要するに、軸という物体として佇立していないといけないのである。実感から生まれた句。お洒落も大変なのです。『未来図歳時記』(2009)所載。(清水哲男)


August 2682014

 草の穂や膝をくづせば舟揺れて

                           藤田直子

と舟は、推進に動力を利用する大型のものが船、手で漕ぐごくちいさなものを舟、とその文字により区別される。現在でも川や湖など短距離を移動するための手段として渡し船が活躍する場所もあるが、舟の腹にぶつかる波も、船頭の立てる櫓のきしむ音も、なつかしいというより、ひっくり返りはしないかと落ち着かないものである。小刻みな揺れに身を任せることにもどうにか慣れ、ようやく緊張の姿勢を解いたそのとき、舟が大きく傾く。こんな時、ひとはきっと一番近い陸を見る。あそこまで泳げるか、などという現実的な考えなど毛頭なく、地上を恋う体がそうさせるのだ。すがる思いで岸辺を見れば、草の穂が秋の日差しのなかきらきらと輝いている。風に揺れるのは草の穂なのか、自分自身なのか……。水のうえに置かれている我が身がいっそう頼りなく思え、頬をかすめる秋の風が心細さをつのらせる。〈一舟に立ちてひとりの白露かな〉〈汁盛神社飯盛神社豊の秋〉『麗日』(2014)所収。(土肥あき子)


May 0952015

 薔薇咲くや生涯に割る皿の数

                           藤田直子

り乱れる薔薇の花弁から割れた皿の破片を思い浮かべるのと、割れてしまった皿の欠片を見た時そこに薔薇のはなびらが重なって見えるのとでは印象が異なるだろう。割れた皿の欠片からさえ、美しく散る薔薇を連想するという想像力と美意識が、この作者の凛とした句柄には似合っているのかもしれない。しかしまた、広い薔薇園で散り始めた無数ともいえる花弁の色彩やふくよかな香りの中にいながら、ふと硬く尖った陶器の破片が音を立てて散らばった一瞬を思う、というのも捨てがたい。いずれにせよ、生涯に割る、という一つの発見までの時間の経過を共有することで読み手も一歩踏み込むことができ、咲くや、により薔薇はなお生き生きと強い生命力を持ちそれが前を向いて進む作者の姿に重なる。『麗日』(2014)所収。(今井肖子)


December 18122015

 覆面に眼のあるきんくろはじろかな

                           藤田直子

んくろはじろは漢字表記すれば金黒羽白。金は目、黒は背中、白は腹部の色。飛翔中にも翼帯に白が見える。顔から背中が黒くその中に金色の目が覆面から覗いているようで印象的である。作者はそんな容姿そのものの可愛さに感動している。おもに冬鳥として渡来し、湖沼、池、広い川、入り江などに群れで生活する。水面を泳ぎ、水に潜って水中の草や水底の貝を食べる。水をけって助走してから飛び立ち、はばたきは速い。公園のすこし大きな池などで身近に眺めることが出来る鴨である。他に<詩(うた)のため何捨つべしや葛の花><われの血の重さに蛭の離れたる><廃炉へと働く人や冬銀河>などがある。「俳壇」(2015年1月号)所載。(藤嶋 務)




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