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June 2861997

 貨車の扉の隙に飯喰う梅雨の顔

                           飴山 實

後十一年(1956)、国鉄労働者という存在が組織的には輝いていた時代の句。つらい労働の合間にふと垣間見せた一個人としての表情を、作者は見逃さなかった。無心ではあるが、暗い影のある表情。もとより、それはある日ある時の自分のそれでもあるはずなのだが……。飯のために働き、働くために飯を喰う。そんな単純で素朴な社会における人物スケッチだ。最近ではトラック輸送に追いやられて、長い貨車の列など見たことがない。子供らが競って、車体に表示された記号から、何を運ぶための貨車なのかを覚えた時代だった。『おりいぶ』所収。(清水哲男)


November 19111997

 汽車の胴霧抜けくれば滴りぬ

                           飴山 實

和29年の作品。いわゆるSLである。なんとなく「生き物」という感じがしたものだ。いまの新幹線などは点から点へ素早く冷静に移動させてくれる乗り物でしかないが、昔の機関車は私たちをエッチラオッチラ一所懸命に運んでくれているという感じだった。汽笛にも「感情」がこめられているようだった。したがって、この句は客観写生句ではあるけれど、読者にはどこかでそれを越えた作者のねぎらいの心が伝わってくるのである。まだ観光旅行もままならず、乗客がみなよんどころのない事情を抱えていた時代の汽車は、いわば数々の人間ドラマを運んでいたわけで、それだけにいっそう神秘的にも見えたのだろう。同じ作者の前年の作に、敦賀湾で詠んだ「冬の汽笛海辺の峠晴れて越す」がある。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


February 0421998

 部屋に吊した襁褓に灯つき今日立春

                           飴山 實

褓は「きょうほう」と読む。元来は赤子を包む「かいまき」のことを言った。転じて、おむつ(おしめ)。この場合は「おむつ」だろう。いまでは貸しおむつや使い捨てのおむつが普及していて、部屋でたくさんのおむつを干す光景を見かけなくなった。が、昔はこの通りで、部屋中におむつが吊るしてあった。夕暮れになって、その部屋に灯がともされる。いつもと変わらぬ様子ではあるが、今日が立春だと思うと、作者はうっとおしさよりも心にも灯を感じている。言葉だけでも「春」は心を明るくしてくれる。「きょうほう」と「きょう」の語呂合わせも面白い。もう二十年以上も前、ギタリストの荘村清志さんのお宅にうかがったことがある。通された部屋の壁には数本のギター、頭の上にはそれ以上のおむつが吊るしてあった。なんだか、とても「いいな」と思ったことを覚えている。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


July 0971998

 鼻さきに藻が咲いてをり蟇

                           飴山 實

の花の咲いている池の辺で、作者は蟇(ひきがえる)を見つけた。蟇は俳人と違って風流を解さないから、鼻先に藻が咲いていようと何が咲いていようと、まるで意に介さずに泰然としている。当たり前の話ではあるが、なんとなく可笑しい。グロテスクな蟇も、ずいぶんと愛敬のある蛙に思えてくる。このあたりの技巧的表現は、俳句ワールドの独壇場というべきだろう。蟇の生態をつかまえるのに、こんなテもあったのかと、私などは唸ってしまった。なお、蝦蟇(がま)は蟇の異名である。蟇の研究をしている人の本を読んだことがあるが、彼らの世界には一切闘争という行為はないそうだ。そして、親分もいなければ子分もいない。私たち人間からすれば、まさに彼らは「ユートピア」の住人であるわけだが、数はどんどん減少しているという。誰が減らしているのかは書くだけ野暮というものだけれど、最近では確かに、滅多にお目にかかる機会がない。戦前のエノケンの歌の文句に、財布を拾ってやれ嬉しやと、明るいところでよく見てみたら「電車に轢かれたひきがえる……」というのがあった。それほどに、都会にもたくさん彼らはいたということである。『辛酉小雪』(1981)所収。(清水哲男)


August 2481998

 秋風に売られて茶碗括らるゝ

                           飴山 實

の箱に収められるような立派な茶碗ではない。小さな瀬戸物屋の店先で、うっすらと埃をかぶっている二束三文の安茶碗だ。それを何個も買う人がいて、店の主人が持ち帰りやすいようにと細い縄で括(くく)っている。茶碗の触れ合う音に秋の風。ちょっと侘びしげな光景である。この句から受けるセンチメンタルな気分は、茶碗が日常生活の道具だからだろう。こうして括られ売られていく茶碗は、どんな家庭のどんな食卓に乗せられるのか。作者の頭を、ちらりとそんな想像がかすめたにちがいない。生活のための道具には感覚的に生臭いところがあって、あまり想像力を働かせたくないときがある。この場合もそうであり、心地好い秋風のおかげで、作者は生臭さから免れているというわけだ。句の主語を茶碗にしぼったのも、同じ理由によるものだろう。話は飛ぶが、横山隆一の人気漫画『フクちゃん』に出てきた友達のコンちゃんやキヨちゃんの家は、たしか瀬戸物屋である。アメリカ漫画のチャーリー・ブラウンの家が小さな床屋であるように、小さな瀬戸物屋も、昔の日本ではどこにでもある格別に珍しくはない店のひとつだった。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


October 09101998

 勉強の音がするなり虫の中

                           飴山 實

の手柄は、なんといっても「勉強の音」と言ったところだ。いったい「勉強」に「音」などがあるだろうかと、疑問に思う読者のほうが多いかと思うが、ちゃんと「勉強」にも「音」はある。本のページをめくる音、ノートに何か書きつける音、茶を飲む音や独り言など、四囲から虫の音が聞こえてくるほどの静かな秋の夜であるから、かすかな室内の音までもがよく聞こえるのである。作者は眠りにつこうとしているのであり、隣の部屋では誰かがまだ勉強しているという図であろう。深夜、本をめくる音が気になると、私はそれぞれ別々のシチュエーションで、二度注意されたことがある。自宅では母に、下宿では同級生に……。いずれも襖一枚をへだてていたのだが、眠ろうとする人にとっては、相当にうるさく聞こえるらしいのだ。放送業界では「ペーパー・ノイズ」といって、台本などの紙をめくる音は大いに騒々しいので、素人の出演者にまで注意したりする。マイクがよく拾う音は、人間の耳にもうるさいということだろうか。句の作者は、しかし、うるさいと思っているわけではあるまい。「勉強」している人に、そしてその「音」に、好ましさを感じながら眠りにつこうとしているのだと思う。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


December 25121998

 青菜つづく地平に基地の降誕祭

                           飴山 實

和二十九年(1954)の作句。この年代に意味がある。句集では掲句と並んで、「キャンプ・オーサカ、日本人労務者の首切り反対スト」と前書のある「星条旗より膨れ赤旗枯れ芝生」他一句が載っている。大不況であった。米軍基地といえどもが、経費の節減を強いられていた。まずは、弱いところからのリストラである。いつの世にも変わらぬお定まりの経営感覚だ。反発した日本人労働者が、赤旗を林立させて果敢にストライキを打ったのは当然として、しょせん米軍の強権には歯が立たなかったはずだ。当時、基地の街・立川の高校に通っていた私には、いまだに実感として納得される。植民地支配とは、ああいう理不尽なものであった。そんな基地にクリスマスが訪れ、普段とは違った静寂の日となる。周辺には冬野菜の植えられた畑が広がっており、その彼方に、一般の日本人にはうかがい知れぬベース・キャンプが鉄条網に囲まれてひっそりとしている。予告なく容赦なく轟音を響かせて飛ぶ飛行機も、今日だけはその気配もなく翼を休めている。これが彼らのクリスマスか。あのなかでは、一体どんなことが行われているのだろう。眼前の青菜と彼方の鉄条網との対比の妙。戦後史の一齣である。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


June 0761999

 水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首

                           阿波野青畝

語は「蛇」で夏。鳳凰堂は宇治平等院の有名な伽藍である。十円玉の裏にも刻んであるので、見たことがない読者はそちらを参照してください。前池をはさんで鳳凰堂を眺めていた作者の目に、突然水のゆれる様子がうつった。目をこらすと、伽藍に向かって泳いでいく蛇の首が見えたというのである。この句の良さは、まずは出来事を伏せておいて「水」と「鳳凰堂」から伽藍の優雅なたたずまいを読者に連想させ、後に「蛇の首」と意外性を盛り込んだところにある。たとえ作者と同じ情景を見たとしても、なかなかこのように堂々たる鳳凰堂の姿を残しながら、出来事を詠むことは難しい。無技巧と見えて、実はとても技巧的な作品なのだ。同じ「水」と「鳳凰堂」の句に「水馬鳳凰堂をゆるがせる」(飴山實)がある。前池に写った鳳凰堂の影を、盛んに水馬(あめんぼう)がゆるがせている。こちらは明らかに技巧的な作品だが、少しく理に落ちていて、「蛇の首」ほどのインパクトは感じられない。『春の鳶』(1951)所収。(清水哲男)


July 1271999

 放浪や肘へ氷菓の汁垂れて

                           飴山 實

大生だった作者が、夏休みに俳句仲間と奥能登へ旅行した際の句。二十一歳(1947)。戦後二年目の旅だ。もとより、貧乏旅行だったろう。旅の気持ちを「放浪」気分と詠んで、いかにも若者らしい強がりも含めた青春像が見て取れる。「氷菓(ひょうか)」は、アイスキャンデーだと思う。当時の固くて冷たくて唇に吸い付くような棒状のアイスキャンデーは、しばらく舐めて温めないと噛み砕けなかった。しかし、温まってくると、今度はにわかに崩壊剥落するので厄介だった。したがって、もちろん肘に汁が垂れることもある。「放浪」と感じたもうひとつの根拠には、このような氷菓の「崩壊」も関与したに違いない。作者は、肘に垂れた汁を拭おうともしていない。眼前に展開するのは、夏の激しい陽光を照り返す日本海の荒波だ。若者は垂れるにまかせて、いささかヒロイックに「放浪」者として立っている。「明日の暦は知らず氷菓の紅にごる」と、敗戦後の青春はみずからの明日を設計することもかなわず、いわば昂然と鬱屈していたのである。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


February 0822000

 梅固し女工米研ぐ夜更けては

                           飴山 實

集の一つ前の句に「貯炭場に綿入れ赤し鉱区萌え」がある。作句は1955年(昭和三十年)、戦後十年目の早春だ。まだ「女工」という言葉が生きていた。当時の私は高校生、父が働いていた花火工場の寮に住んでいたので、この哀感はよく理解できる。朝早くから夜遅くまで働きづめに働いて、ようやく寮に戻ってくると、今度は自分の食事のための労働が待っていた。電気炊飯器などはない時代だから、冷たい水で米を研ぎ、火を起こして炊かなければならない。コンビニで簡単に弁当が買える今の環境とは大違いだ。「女工」たちは、多くが中学を卒業したばかりくらいの年齢だった。「梅固し」は、そんな蕾のような少女の姿を彷彿とさせている。貧しい農村や漁村から、集団就職で鉱区はもとよりいろいろな工場に働きに出た少年少女の数は膨大だった。「金の卵」とおだてられもしたが、要するに安い労働力として使われていたわけで、遊びたい盛りの彼らの心情はいかばかりだったろう。こうした人々の苦しい労働の結集があって、はじめてこの国の基盤が築かれたことを忘れてはならない。もはや高齢となった「金の卵」たちは、いまこの国に何を思って生きているのか。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


March 0332000

 われの凭る壁に隣は雛かざる

                           飴山 實

羽打ち枯らした浪人が、長いものを抱くようにして壁に凭(もた)れかかっている。もはや進退きわまったという姿。長屋の壁は薄いので、隣家で雛祭を寿ぐさんざめく笑い声などが聞こえてくる。ホーホケキョ。「もう、春か」。……というような情景では、まったくない(笑)。しかし、こんな情景に通じるような落魄の心持ちが、作者にはあったのだろう。この明暗の対比が、近代的抒情効果を生む仕掛けの正体だ。一方、隣の部屋には、笑いさざめく人たちの間に、こういう年老いた女性も静かに座っている。「来し方や何か怺へし雛の貌」(菅井富佐子)。毎春見慣れてきた雛の顔であるが、こうやってつくづく眺めていると、何か物言いたげなようであり、それを懸命に怺(こら)えているようである。さながら私の人生のように、言いたいことも言わずに、雛もここまで過ごしてきたのか。人形に感情移入できるのは、やはり女性に特有の才質の一つと言うべきだろう。今日飾られている雛人形には、雛の数だけ、それぞれの女性の思いがこもっているのだ。そう思うと、いかに私のごとき暢気な男でも、あらたまった気持ちにさせられる。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


March 1832000

 法隆寺からの小溝か芹の花

                           飴山 實

者の飴山實さんが、一昨日(2000年3月16日)山口で亡くなった、享年七十三歳。面識はなかったが、学生時代に第一句集『おりいぶ』(1959)という、およそ句集らしからぬタイトルに魅かれたこともあって愛読した俳人だ。当時の飴山實は「女工等に桜昏れだす寒い土堤」などの社会性のある抒情句を得意としていて、影響で私も同じような詩の世界を志向した。私のはじめての詩集『喝采』(1963)にはその痕跡が拭いがたく歴然としており、詩人の中江俊夫さんに「どっちつかずで中途半端」と評されたのも、いまは懐しい思い出である。その後の飴山さんは見られるとおりの句境を得られ、独自の地歩を築かれた。句の舞台は、早春のいかるがの里。法隆寺を少し離れた道端の小溝に可憐な芹の花が咲いているのを見つけ、流れる清冽な水が法隆寺に発しているかと思い、そこに悠久の時間を感じている。千年の昔にも、いまと変わらぬ光景があったのだ、と。飴山さんは「酢酸菌の生化学的研究」で、日本農芸化学会功績賞を受けた学者でもあった。合掌。『次の花』(1989)所収。(清水哲男)


May 0652000

 竹陰の筍掘りはいつ消えし

                           飴山 實

いさきほどまで黙々と筍を掘っている人を見かけたが、いつの間にか、その人の姿はかき消されたように見えなくなっている。作者もまた、同じ竹林のなかで掘っているのだろう。暗く湿った竹の陰での、ほとんどこれは幻想に近い光景だ。単なる実景写生を越えて、句は濃密な歴史的とも言える時間性を帯びている。読んだ途端に、私は村上鬼城の「生きかはり死にかはりして打つ田かな」を思い出した。鬼城は遠望しているが、作者はより対象に迫った場所から詠んでいる。昔から人はあのように竹林に現れては筍を掘り、またこのようにふっと姿を消していく。その繰り返しに思われる人間存在のはかなさは、もとより作者自身のそれなのでもある。しかし、作者は侘びしいなどと言っているのではない。筍堀りに込められた充実した時間性が、ふっふっと繰り返し消えていく。消えたと思ったら、また繰り返し現れる。その繰り返しのなかで、人は人らしくあるしかないのだ。いわば達観に近い鬱勃たる心情が、句の根っこに息づいている。『花浴び』(1995)所収。(清水哲男)


October 06102000

 煙草女工に給料木犀よりあかるし

                           飴山 實

料日。不思議なもので、誰が口に出すわけでもないのに、なんとなく会社や工場のなかがはなやぐから、訪ねた第三者にもそれとわかる。作者は戦後間もなく、生活改善運動などに取り組んでいたので、その折りの一光景だろうか。まだ「女工」という言葉が生きていた。決して高くはない給料を手にした彼女たちが素直に喜んでいる様子を、敷地内の「木犀(もくせい)」に「よりあかるし」と照り返させている。愛情にいささかの哀惜の情が入り交じって、美しい一句となった。この「より」を「MORE」ではなく「THAN」と読むことも可能だが、私には「MORE」のほうが工場全体の雰囲気を伝えていて、好もしい。「THAN」だと、句が平板になるように思う。いずれにしても、当時の給料は現金支給だったので、明るさが自然に素朴に出たのだろう。私が勤めていた1960年代の河出書房もキャッシュであり、おまけに月二回システムだったから、社内は月に二度はなやいだ。もっとも、その頃の文藝春秋社などは、なんと週給制を採用していた。どういうわけだったのだろう。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


December 22122000

 父と娘に煤まじる雪朝の岐路

                           飴山 實

書に「尼崎にて二句」とあり、うちの一句。工業地帯だ。今では改善されているのだろうが、句の作られた戦後間もなくのころには、煤煙がひどかったろう。三十年ほど前に、私も四日市で体験したことがある。あれでは、降る雪も白銀色というわけにはいかない。そんな朝の道を、父親と娘が連れ立って出かけていく。テレビ・コマーシャルの一場面のようだが、汚れた雪では絵にもならない。二人とも、大いに仏頂面であるに違いない。やがて、父親と娘がそれぞれの方向に別れて行く「岐路」にさしかかったというわけだ。いつものように「じゃあね」と別れるだけのことだが、そこに着目して作者は、このなんでもない「岐路」にさまざまな人生のそれを読み取っている。年譜を見たら、父親は作者ではないとわかった。父娘は、単に通りすがりの人だった。この父親は煤煙を排出している工場の従業員かもしれず、娘もまた、そうかもしれぬ。だとすれば、父親は生涯この町で過ごすのだろうし、若い娘はいずれ出ていくのだろう。あるいはまた、父親のほうが汚い雪の降る町なんぞから早く出ていきたいという願望を持っていて、そろそろ決断の「岐路」に来ているのかもしれぬ。等々、揚句から浮かんでくる思いは、読者にとっていろいろだろう。が、いろいろな思いの底に流れるものは共通だ。すなわち、作者の静かなる憤怒の心である。人は、自分の力だけではどうにもならない理不尽を生きていく。煤煙まじりの雪が降ろうと、それはそれとして甘受せざるを得ない。どうにも動かせない劣悪な環境のなかで、とりあえず用意されている「岐路」は、むなしくもただ「じゃあね」と別れる程度のものでしかないのである。はやくから環境問題に取り組んだ作者の、これは哀感を越えた怒りの詩だ。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


March 1532001

 笹舟の舫ひていでぬ茅花かな

                           飴山 實

庭が大きな世界をミニチュア化した楽しさなら、揚句は反対に小さな世界を大きく見立てた面白さだ。小さな笹舟が、あたかも本物の舟同士を舫(もや)ったような感じで、次々と岸を離れていく。このとき、岸辺になびく可憐な茅花(つばな)の穂は、笹舟からすればさながら嵐のなかの巨木のように写ることだろう。子供が玩具で遊ぶときの、あの童心の世界だ。と同時に、句は自然の大きさも描いている。大きな自然からすれば、笹舟も本物の舟も、人間を尺度にした大小などにさしたる違いがあるわけではない。むしろ、同一だとしたほうがよいだろう。だから自然のなかにあっては、童心は見立てや錯覚に起因するのではなくて、それこそ自然そのものから流れ出してくる心持ちなのだ。この季節に、笹舟ではよく遊んだ。学校帰りの道草である。唱歌に出てくるのとそっくりな「春の小川」に、一枚の笹の葉を細工した簡単な舟、二枚を組み合わせて作った帆掛け船を、飽きもせずにひたすら流すだけ。笹舟では物足らなくなった上級生たちは、木を削ってゴム動力をつけたり、本格的に蒸気エンジンを搭載した船まで走らせていたっけ……。岸の茅花の若い穂を引き抜いて噛むと、わずかに甘い味がした。なかにはついでにメダカをすくって食べる奴もいたけれど、これは仲間におのれの度胸を誇示するためで、臆病な私にはとうてい適わぬ芸当だった。懐かしいなあ、笹舟も茅花も。『次の花』(1989)所収。(清水哲男)


April 2042001

 もの問へば接穂くはえてゐたりけり

                           飴山 實

語は「接穂(つぎほ)」で、春。接ぎ木をするときに、砧木(だいぎ)に接ぐ芽の付いた枝のことを言う。「話の接穂がない」などは、ここから出た言葉だ。何やら農作業をしている人に、道でも尋ねたのだろうか。振り向いた人が、接穂を口にくわえていた。ただそれだけのことながら、くわえられた接穂が、あざやかに春の息吹を感じさせる。それも、その人が振り向いた一瞬を捉えての描写なので、余計にあざやかな印象を残す。こうした表現は、俳句でなければ実現できないことの一つだろう。接ぎ木は、いわば夢の実現を目指す伝統的なテクニックである。渋柿の木に甘い柿がなってくれたらと、遺伝子などという考えもない昔の人が、試行錯誤をくりかえしながら開発した方法だ。物事の不可能を表す言葉に「木に竹を接ぐ」があるけれど、これだって、おそらくは試みた人がたくさんいたに違いない。何度やっても、どう工夫しても駄目なので、ついに不可能という結論に達したのだと思われる。現代の品種改良の難題として有名なのは「青いバラ」の実現だ。バラも接ぎ木で改良が重ねられてきたが、経験則での「青いバラ」実現は、木に竹を接ぐような話とされている。そこでどこかの企業がプロジェクトを組んで、遺伝子の側から演繹的に攻めているそうだ(改良途中の花の写真が、新聞に載ったことがある)。でも、夢は失敗の経験を帰納的に積み上げた果てに実現するのでないと、夢そのものの価値が薄れてしまう。「交番でばらの接木をしてゐるよ」(川端豊子)でないと、ね。「夢」を季語にするとしたら、やはり春だ。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


November 06112001

 米提げて野分ただ中母小さし

                           飴山 實

書に「母来阪、大阪駅にて」とある。「野分(のわき)」は秋に特有の強風のことで、草木を吹き分けるほどの強い風のこと。さて、作者が田舎から出てきた母親を出迎えたのは、戦後九年目の大阪駅だ。ホームには、台風だったのか、風が激しく吹き過ぎている。そして少し離れた降車口から降りてきた母は、重そうに大きな包みを提げており、作者には中身を問わずとも、それが「米」だとわかった。風にあおられた母の姿は、ことのほか小さく見えた。無理をして「米提げて」くることはないのに……。息子はちらりとそう思い、足早に母に近づいていく。似たようなシチュエーションはよくあるだろうし、句が母子の関係に何か格別な発見をしているわけでもない。「母小さし」も、使い古された言い方である。しかし、なおこの句に私が魅かれるのは、大阪駅に吹く強風を「野分」と言っているところだ。都会の強風を「野分」とする例はあるけれど、その場合には自然の草木や風物が介在する。いかな戦後間もなくとはいえ、大阪駅のホームには一草たりとも生えてはいなかった。なのに、たとえば台風とは言わずに、あえて野を分ける風と言ったのか。言いたかったのだろうか。手品のタネは既に露見しているようなものだが、作者が「小さき母」に認めたのは、単にひとりの老いた母の像だけではなくて、懐かしい田舎のイメージだったからである。実際に提げてきたのは「米」であるが、負ってきたのは故郷であった。このとき、大都会の駅も「野分のただ中」に……。「台風」ではなく「野分」でなければならない所以である。したがって「前書」を必要とした。もはや「木枯らし」の季節だが、今年の秋の部に駆け込み記入(笑)。明日は「立冬」。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


December 29122001

 蒟蒻を落して跼む年の市

                           飴山 實

語は「年の市」で冬。昔は大晦日まで、新年用の品物を売る市が社寺の境内などに盛んに立ち、買い物客でごったがえした。「押合を見物するや年の市」(河合曽良)。作者は現代の人だから、東京のアメ横のようなところか、あるいは商店街の辻に立つ小市での句だろうか。いずれにしても、混雑のなかでの買い物にはちがいない。注連飾りや盆栽、台所用品から食料品など、実にいろいろな物が売られている。景気のいい売り声に誘われて、あれもこれもと少しずつ買っていくうちに、だんだんと荷物が増えてきて、ついつるりと「蒟蒻(こんにゃく)」を落としてしまった。この場合は、板コンニャクではなく、べちゃっと落ちる糸コンニャクのほうが面白い。しまった。あわてて誰かに踏まれないうちに拾おうとするわけだが、これ以上何かを落とさないように、手元の荷物も慎重に扱わねばならぬ。したがって、ちょっと「跼(かが)」んでから、半ば手探り状態でコンニャクを拾う感じになる。その寸刻の懸命なしぐさは、哀れなような滑稽なような……。些事といえば些事だ。しかし、そんな些事の連続が生活するということであるだろう。さて、押し詰まってきました。今日明日と、類似の体験をする人はきっといるでしょうね。『辛酉小雪』(1981)所収。(清水哲男)


April 2542002

 帆に遠く赤子をおろす蓬かな

                           飴山 實

語は「蓬(よもぎ)」で春。海の見える小高い丘に立てば、遠くに白帆が浮かんでいる。やわらかい春の陽光を反射して、きらきらと光っている水面。気持ちの良い光景だ。作者はここで大きく背伸びでもしたいと思ったのか、あるいは腕のなかの「赤子」の重さからちょっと解放されたかったのかもしれない。たぶん、赤ん坊はよく眠っているのだろう。あんなにちっぽけでも、重心の定まらない赤ん坊を長時間抱っこしていると、あれでなかなかに重いのである。手がしびれそうになる。「おろす」のにどこか適当な場所はないかと見回してみても、ベンチなどは置いてない。そこで、やわらかそうに群生している「蓬」の上に、そおっとおろしてみた。このときに作者の目は、白帆の浮かぶ海からすうっと離れて、視野は濃緑色のカーペットみたいな蓬で満たされる。この視線の移動から、どこにも書かれてはいないけれど、父親としての作者の仕草がよくわかる。そっとかがみこんで、いとしい者を大切に扱っている様子が、読者の目に見えてくる。蓬独特の香りも、作者の鼻をツンとついたことだろう。蓬に寝かされた赤ん坊は、まだすやすやと気持ち良さそうに眠っている。やさしい風が吹いている。『少長集』(1971)所収。(清水哲男)


December 08122002

 旅にみる灯ぬくき冬よ戰あるな

                           飴山 實

後十年目に詠まれた句。旅の途次での夜景だ。車窓からの眺めかもしれない。見渡すと、あちこちに人家の「灯」が点々とともっている。外気はあくまでも冷たいが、それらの「灯」はとても「ぬく」く感じられる。この「ぬくき灯」の点在こそが、平和というものなのだ。二度と「戰」などあってはならない。と、理屈ではわかっても、この句を実感として受け止められる人は、もう国民の半分もいなくなってしまった。そう思うと、複雑な気持ちになる。戦時中の灯火管制と頻繁に起きた停電とで、往時は町中でも真っ暗だった。敗戦後に、人々がもっとも解放感を味わったことの一つは、まぎれもなく夜の「灯火」を自由に扱えるようになったことである。多くの人が、その喜びを話したり書いたりしている。掲句もまた、その喜びの余韻のなかで詠まれているわけで、だからこそ「戰あるな」が痛切な説得力を持つ。ここで思い出されるのは、かつての湾岸戦争で、イラクを一番手で空爆したアメリカ兵士のコメントだ。「バグダッドの街は、まるでクリスマス・ツリーのように輝いていた……」。そのときに、かりに彼にこの句が読めたとしても、真意はついに理解できないだろうなと思った。現代の戦争は「灯」を消そうが消すまいが関係はないのだけれど、そういうことではなくて、彼には「灯」から人間の生活を思い描く能力が欠如している。素直にキレいだと言っただけであって、正直は認めるが、この正直の浅さがとても気になった。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


December 12122003

 丞相のことば卑しく年暮るゝ

                           飴山 實

近はあまり見かけない言葉だけれど、「丞相(じょうしょう・しょうじょう)」は昔の中国で、天子を助けて国政を行った大臣のことだ。転じて日本では大臣の異称として用いられるが、句の場合は総理大臣だろう。では、この「ことば卑し」き総理大臣とは、誰をさしているのだろうか。句集の出版年次から推して考えると、中曽根康弘か竹下登に絞られる。彼らの「ことば」の中身についての諸評価はあろうが、二人のうちのどちらが詠まれているにせよ、当たっているように思われる。彼らあたりから首相としての発言のレベルは下がり、品位も下落した。私は歴代総理の政策にはほとんど反対の立場であるが、いまにして思えば、大平正芳や鈴木善幸までは老獪さも含めて、まだマシだった。少なくとも、自分に恥じるような卑しい言葉はほとんど吐かなかった。作者は、一国の宰相ともあろう人物がここまで成り下がったのかと憮然としている。この調子では世の中がどんどん悪くなるだろうと、一年の来し方を振り返って慨嘆しているのだ。抒情句の名手であった作者にしては、出来の芳しくない作品だが、それをおそらくは自覚しつつも敢えて句集に収めた心情は見上げたものだ。俳句は庶民の文芸である。花鳥風月も大いに結構だが、やはり庶民の生活ベースを左右する事どもについても述べておくのは当然だろう。そんな作者の声が聞こてくるような気がする。もしも作者が存命ならば、彼は今回の自衛隊派遣をめぐる一連の小泉純一郎の「ことば」をどう捉え、どう詠んだであろうか。もはや「卑しき」程度のやわらかな形容ではすまさなかったはずである。『次の花』(1989)所収。(清水哲男)


December 31122004

 除夜の月機械に注連を張りおわる

                           飴山 實

うした「除夜」の光景も、そんなに珍しいことではなかった。1956年(昭和三十一年)の句。戦後も、まだ六年目だ。大晦日まで「機械」を稼働させて、暗くなってからやっと仕事が終わり、ともかくも新年を迎えるための「注連(しめ)」を張り終わった。いわゆる一夜飾りは良くないと知ってはいるものの、生活のためには、そんなことを言ってはいられない。張り終えてほっと安堵した目に、仕事場の窓を通して、冴えかえる小さな月が認められた。来るべき年にさしたる目算もないけれど、どうか佳い年であってくれますように……。そんな思いが、自然に湧いてくる。このとき、作者は三十歳。「俳句をつくっていく中で、歴史を動かす一モメントとしての自分の位置と力を探りだし、確かめていきたい」と書く。この気概、現代俳人にありや、無しや。話は変わるが、除夜といえば除夜の鐘。アメリカ流のカウントダウンなどとは違って、撞きだす時刻は特に定まってはいない。おおよそ午前零時近くになって撞くわけだが、これにはもとより理由がある。というのも、現代の私たちは一日を「朝から」はじまるととらえているが、昔の日本人は「夜から」はじまると考えていた。つまり、日暮れてくると、もうそこにはかすかに「明日」が兆してくるのである。だから、午前零時ぴったりで日付が変わるという観念は薄く、今日と明日とはグラデーションのように徐々に移り変わってゆく。したがって、鐘撞きの開始を時計に合わせる必要はないというわけだ。『おりいぶ』(1959)所収。(清水哲男)


June 1062007

 金魚屋のとゞまるところ濡れにけり

                           飴山 實

ういえばかつては金魚を、天秤棒に提げたタライの中に入れ、売っている人がいたのでした。実際に見た憶えがあるのですが、テレビの時代劇からの記憶だったのかもしれません。考えてみれば、食物でもないのに、小さな生命が路上で売り買いされていたのです。たしかに「金魚」というのは、命でありながら同時に、水の中を泳ぐきれいな「飾り物」のようでもあります。掲句の意味は解説するまでもなく、金魚売りがとまったところに、タライの水が道にこぼれ、濡れた跡がついているというものです。どうということのない情景ですが、水がこちらまで沁みてくるような、しっとりとした印象を持ちます。こぼれた水は夏の道に、濃い斑点のように模様を描いています。句から見えてくるのは、どこまでも続くひと気のない広い道です。道の両側には軒の低い家々が建ち並んでいます。目をこらせば、かなり遠くまで行った金魚売の後姿が見えます。揺れる水を運ぶ人の上に、夏の日差しが容赦なく照りつけています。「キンギョエー、キンギョー」物売りのための高い声は、命のはかなさに向けて、ひたすら叫ばれているようにも聞こえてきます。『現代の俳句』(2005・講談社)所載。(松下育男)


May 2152012

 田を植ゑしはげしき足の跡のこる

                           飴山 實

植えの終わった情景を詠んだ句は無数にあるけれど、大半は植え渡された早苗の美しさなどに目が行っている。無理もない。田植えの句を詠む人のほとんどが、他人の労働の結果としての田圃を見ているからだ。よく見れば、誰にでもこの句のような足跡は見えるのだが、見えてはいても、それを詠む心境にはなれないのである。ところが作者のような田植えの実践者になると、どちらかといえば、田圃の美しさよりも、辛い労働が終わったという安堵感のほうに意識の比重がかかるから、田植えをいわば観光的には詠めないということになる。手で植えていたころの田植えは実に「はげしい」労働だった。植え終えた田圃にも、まずその辛さの跡を見てしまう目のやりきれなさを、作者はどうしても伝えておきたかったのである。『辛酉小雪』(1981)所収。(清水哲男)


July 1572012

 雨つぶの雲より落つる燕子花

                           飴山 實

雨時の草花は、生き生きしています。水をたっぷり吸って、葉も花びらも雨に洗われて新鮮です。傘をさして歩くことが多くなるのでうつむきがちになりますが、燕子花(かきつばた)のような青紫色の花に出会うと、この季節にふさわしい色彩であると思い至ります。紫陽花もそうですが、青空が少ないこの季節には、青紫を希求する心情があるように思われます。梅雨時には青紫が似合います。「雨つぶの雲より落つる」は、雨つぶを単数ととらえるか、複数ととらえるかで趣きが変わります。複数ととらえると、雲にも雨の降る範囲にも広がりが出て、燕子花の数もにぎやかになります。しかし、ここは利休が朝顔一輪で秀吉を招いたわび茶にならって、雨は一粒、燕子花 は一輪と とらえます。すると、雨つぶの一滴が雲から垂れ落ちるその一瞬を、じっくり時間をかけて夢想することができます。その一粒が、青紫の花一輪にとどいています。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


January 0512014

 白山の初空にしてまさをなり

                           飴山 實

山は、石川県白山市と岐阜県白川村の間に聳える霊峰です。古代より山岳信仰の対象として崇められ続け、白山神社は日本各地に2700社余り鎮座しています。信仰の有無にかかわらず、新春の朝、白山を仰げるのは喜ばしいことでしょう。その初空は真青です。白山が雪を冠して白いゆえに初空はいよいよ青く、初空が真青ゆえに白山はいよいよ白い。年初にふさわしい色彩の対置です。ニュートンの色彩論によると、青は広がりやすい波長を備えているので空や海は青く広がるらしいのですが、掲句の「まさを」というひらがなの語感にも、そのような青の広がりがふくまれているように感じられ、「白山」の凛とした輪郭と対照をなしています。掲句の要素を取り出してみると、「山・空・白・青」、そして、詠み手の主観である「初」です。何のドラマもありません。しかし、青空に聳える白山を眺めて、この一年が始動しています。作者は、「まさを」を半紙に「白山」と書き初めをしたのでしょう。『次の花』(1989)所収。(小笠原高志)


April 1242015

 奥山の風はさくらの声ならむ

                           飴山 實

を愛でる人は、桜を待ち、桜を見て、桜と別れます。花びらが散り終わったあとの萼(がく)の臙脂(えんじ)に満開の名残を見、葉桜になれば初夏を予感し始めます。中には、一度の別れでは満足できない人も居て、掲句の場合はそうなのかもしれません。平地では桜の盛りが過ぎても、山地に行けばまた桜に出会えます。山の奥の方から風が吹いてきて、それを桜の声なのかと感じています。しかし、強い風ではないようなので、花びらは届いていません。「奥山の風」は、おそらく山桜が放つ匂 いも届けてくれています。桜は見えていなくても、匂いから花の盛りの期待は高まります。「さくら」とひらがな表記しているところにも、やや官能的な匂いの気配を読みとります。なお、句集の配列から見て、「奥山」は吉野山と思われます。『飴山實全句集』(2003)所収。(小笠原高志)


January 1612016

 橙の灯いろしぼれり牡蠣の上

                           飴山 實

ともはやおいしそうな句だ、そして美しい。橙を牡蠣の上にきゅっとしぼった、と言っているだけなのだが、大ぶりの牡蠣にやさしい光をまとった橙の雫が数滴落ちて、牡蠣の身はよりいっそうふっくらと輝いている。牡蠣好きにはたまらないがやはり、灯いろ、の方が、灯色、より果汁のとろりとした自然な感じが出て、しぼれり、へのつながりも絶妙だ。生牡蠣にはレモンが添えられることが多いが、以前橙酢というのをいただいてそれがお刺身にとてもよく合ったことを思い出した。個人的には生牡蠣は何もかけずに塩味で食べるのが好みだが、今度橙を試してみたいと思う。『鳥獣虫魚歳時記 秋冬』(2000・朝日新聞社)所載。(今井肖子)




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