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July 1671997

 夏の朝めろんの露を享けにけり

                           入江亮太郎

江亮太郎。1925年(大正14年)沼津市生まれ。昭和25年「詩学」新人コンクールに入選。金井直等の「零度」に参加。新日本文学会、詩人会議、「現代詩評論」に参加。「彼方」同人となる。成城高校在学中に患った脊髄カリエスが元で、歩行が不自由な体で、文藝春秋社社外校正員として活躍するが、昭和47年頃より体力消耗し療養生活に入る。49年「彼方」同人を辞し、詩作から遠ざかる。以後は「酔生夢死」を旨とし、酒と俳句と少年野球を楽しみとする。1986年(昭和61年)食道癌で死去。享年61歳。この句は彼が病院に再入院する直前に、救急車を待つ間に書いたという文字通りの絶句である。そのいきさつは、この6月26日作者の命日の日に出版された『入江亮太郎・小裕句集』(卯辰山文庫発行)に詳しい。この本は夫人の小長井和子さんが亡夫のために編んだ。「晩年の入江亮太郎」という文あり。序文は金子兜太氏。「小裕」は入江の俳号である。(井川博年)


February 2221998

 うららかや涌き立つ鐘のするが台

                           入江亮太郎

駿河台(東京・神田)の鐘といえば、昔からニコライ堂のそれと決まっている。にぎやかな音でうるさいほどだが、涌(わ)き立つ感じは希望の春に似合っている。作者の母の生地でもあり、この鐘の音には特別な思い入れがあっての一句だろう。「ニコライの鐘や春めく甲賀丁」とも詠んでいる。戦後の流行歌に「青い空さへ小さな谷間……」という歌い出しの「ニコライの鐘」というヒット曲があって、この鐘が全国的に有名だった時代もあった。「うるさいほど」と書いたが、これは私の実感で、受験浪人時代に鐘のすぐそばの駿台予備校(現在とは違う場所にあった)に通っていたことがあり、鳴りはじめると講師の声が聞こえなかった思い出がある。したがって、間違ってもこの句のような心境ではなかったのだが、今となってはやはり懐しい音になった。ひところ騒音扱いされて鳴らさなくなったと新聞で読んだ記憶があるが、今はどうなのだろうか。駿河台界隈には、めったに行かなくなってしまった。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


November 04111999

 秋のくれ大政通るその肩幅

                           入江亮太郎

書に「文久生れの祖母云、大政さんといふ人はなう肩はばの広い人でなう」とある。「大政(おおまさ)さん」とは実在の人物。清水次郎長一家二十八人衆のうちの一の子分で、怪力無双の槍の使い手であった。広沢虎造の浪曲に「清水港は鬼より恐い、大政小政の声がする」とうたわれている。昔の駿河の人はみな、次郎長はもとより主だった子分にいたるまでを、彼女のように必ず「さん」づけで呼んでいたという。決して、呼び捨てにはしなかった。人気のほどがうかがえるが、それも単なる博打うちを脱した次郎長晩年の社会的功績によるものだろう。清水姓の私は、子供の頃から次郎長一家が好きだった。といっても浪曲や映画の世界のなかでの贔屓であるが、森の石松が都鳥三兄弟に騙し討ちにされるシーンなど、涙無しには見ていられなかった。だから、作者のおばあさんのように実際の大政を見たことがあるというだけで、その人を尊敬してしまう。そうか、肩幅の広い人だったのか。でも、背は高くなかったろうな。高ければ、彼女はまずそのことを言ったはずだから……。句はそっちのけで、そんな大政の姿を想像してしまった。大政の墓は清水市の梅蔭寺(ばいいんじ)にあり、親分の次郎長を守るようにして小政らと眠っている。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


February 0122001

 飴売の鳥居にやすむ二月かな

                           入江亮太郎

前の句。縁日でのスナップだろうか。笛を吹きながらにぎやかに飴を売っていた男がくたびれたらしく、小休止している。それも、鳥居の根元のところに腰掛けている。たぶん大きな鳥居で、腰掛けている姿は中腰に近いと読んだほうが面白い。神域で商売をしながら、ちょいと神域に尻を向けている図だ。真っ赤な鳥居と派手な衣装の飴売りの姿との取り合わせにも、長閑な気分がある。全て世は事もなしといった感じに、作者は「もう春だなあ」と微笑している。旧暦の二月は春も仲春だから、歳時記で「二月」は春の部に分類されてきたが、新暦当月はまだまだ寒さが厳しい。したがって、新暦二月を詠むとなると、どうしても「春は名のみの……」という感覚が入り込んでくる。事実、そういう句が多い。そんななかで揚句は新暦句ながら、「二月」に仲春の雰囲気を見つけている。たまさか暖かい日だったのかもしれないが、ふんわりとして明るい句だ。では逆に、ものすごく寒そうな一句を。「詩に痩せて二月渚をゆくはわたし」(三橋鷹女)。渚も寒いだろうが、「詩に痩せ」た作者の心の内はもっと寒い。春など遠い厳寒だ。ただし、このような詩心の行き詰まりをあえて句にする作者の気性は相当に激しく、熱い。いわば癇性(かんしょう)に近い感覚だと思う。だから余計に、句に寒さがしみ渡るのである。遺句集『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)


March 2232001

 春暁亡妹来り酒静か

                           入江亮太郎

中吟。「悼妹」の前書あり。「春暁」は「はるあかつき」と読ませている。春暁の夢の醒め際に、亡き妹が現われた。そのことを思い、妹との交流の日々をしみじみと思い出しつつ、静かに酒を含んでいる図だ。漢字が多く、見た目にゴツゴツしているところは「詩人俳句」の特徴みたいなものだが、この場合にはそれがかえって効果をあげている。かつて「彼方」の詩人として知られた入江亮太郎が本格的に作句をはじめたのは、晩年になってからだという。詩から俳句への道筋は、どのような思いからだったのだろう。詩を書いてきた私にも関心をかき立てられるところだが、遺句集に収められた令夫人の小長井和子さんの文章で、次の美しい解説を読むことができる。「滅びの予感に怖れを抱きつつ、長いあいだ紙の上に詩を書かずにいた入江は、『私に優しかりし人と山川草木水石及び鳥獣蟲魚の印象を記す』とかねて考えていたことを俳句という形式によって実現し、幼馴染みの友人に見せようとした。そしてそれが実際には彼の白鳥の歌となったのである。もはや未来を考えることが無意味となったとき、彼はひたすら幼年時代ににさかのぼって過去を探り、そのイメージを表現することによってしばし病苦を忘れようとしたのだろう。時たまテレビに映し出される沼津駅前の現代化したにぎわいなど、入江にとってはどうでもよかった。彼はただ記憶のなかに止められている美しいふるさとの風物や、懐かしい人々の映像を書きとめ、その記憶の世界を自分と共有しうる友人に贈りたかったのにちがいない。……」(「晩年の入江亮太郎」)。亮太郎は沼津の出身だった。それにしても「もはや未来を考えることが無意味となったとき」という件りには、粛然とさせられる。よほど運がよくないと、私もこうなるだろう。と同時に、この人に「俳句」があって本当によかったと思い、あらためて「俳句という形式」の並々ならぬ魅力に思いが至った。『入江亮太郎・小裕句集』(1997)所収。(清水哲男)




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