Al句

July 2371997

 雲の湧くたびに伸びんと夏蓬

                           廣瀬直人

ことにもって暑苦しい光景。蓬(よもぎ)も、蓬餅のために摘むころにはむしろ可憐でさえあるが、夏場にかかると、もういけない。図太く生長しつづけ、引っこ抜こうにも根が頑固で、ちっとやそっとの力では引き抜けなくなってしまう。蓬の生態を、実に的確にとらえた作品だ。もとより作者は、どちらかといえば、そうした蓬の生命力の強さに賛嘆の念を抱いているのである。元気な我が身との相似性を言っているようにも読める。猛暑も楽し。かつ風流でもあるということだろう。(清水哲男)


November 29112000

 短日や書体父より祖父に似る

                           廣瀬直人

ッとした。こういうことは、思ってもみなかった。たしかに「書体」だって、遺伝するだろう。身体の仕組みが似ているのだから、ちょっとした仕草や動作にも似ているところがあるのと同じことで、「書体」も似てくるはずである。そういうことを、掲句に触れた人はみな、ひるがえって我が身に引きつけて考える。その意味では、この句はすべての読者への挨拶のように機能している。私の場合、二十代くらいまでは父の書体に似ていた。良く言えば几帳面な文字だが、どこか神経質な感じのする「書体」だった。さっき大学時代のノートの小さな文字列を見てみて、まぎれもない父似だと感じた。ところが、三十代に入って文筆を業とするようになってからは、「書体」が激変することになる。貧乏ゆえ原稿用紙を買うのが惜しかったので、最初に関わった「徳間書店」で大量にもらった升目の大きい用紙を使いつづけたせいだと思う。大きな升目に小さな文字ではいかにも貧相なので、升目に合わせて大きく書くようになった。以来の私の文字は、母方の祖父の「書体」に似ているような気がする。彼の文字は、葉書だと五行ほどで一杯になるくらい大きかった。祖父の体格は「書体」にふさわしく堂々としていたが、私は華奢だ。しばしば、編集の人から「身体に似合わない字を書きますね」と言われた。「短日(たんじつ)」は「秋思」の延長のようにして、人にいろいろなことを思わせる。『日の鳥』(1975)所収。(清水哲男)


January 2912001

 受験生呼びあひて坂下りゆく

                           廣瀬直人

者は、高校の国語科教師だった。入学試験が無事に終わって、ほっとした気分で職員室から眺めた情景だ。三々五々校舎から出てきた受験生たちが、友だちを呼びあいながら、坂をくだって帰っていく。例年のことだが、作者はその一人ひとりの心細い胸の内を察して、みんなに合格してほしいという気持ちになっている。ああやって友だちを呼びあうことで、精いっぱい心細さをふっ切って帰っていく子供たちのなかで、四月から毎日この坂をのぼってくる子もいれば、そうでない子もいる。ちらりとそんな思いも去来して、受験生たちを見送っている。「坂下りゆく」は実景そのままではあるけれど、ついにこの坂とは無縁になるであろう受験生のほうに気持ちが傾いている表現でもあるだろう。人の情に溢れた句だ。入学試験制度の是非はいつの時代にも問われ、いまも論議はつづいている。しかし、どのような論議や改変が行われようとも、受験生にしてみれば、またその家族にしてみれば、論議や改変のプロセスのなかにある一つの時代的試行が「絶対の壁」となる。こうしてくれ、ああしてほしいなどは、通用しない。なんとしても、この理不尽を乗り越えなければならないのだ。宮沢賢治の口真似をしておけば、どうにも動かせない「真っ暗な大きな壁」として、制度は屹立するのである。この「絶対の壁」の屹立があって、揚句の味わいがある。ところで、中国で「鬼才」といえば夭折した詩人の李賀ひとりを指すに決まっているが(ちなみに「天才」といえば李白のこと)、彼は受験する以前に科挙のチャンスを唐朝から拒絶された。これまた「絶対の壁」であり、絵に描いたような制度の理不尽にはばまれた。出世を期待していた家族のもとにおめおめと舞い戻ったときの詩の一節に、「人間(じんかん)底事(なにごと)か無からん」とある。この世の中の(不快な)仕組みは、底なしの泥沼みたいじゃないか。鬼才にして、このうめき……。『帰路』(1972)所収。(清水哲男)


May 1852001

 郭公や寝にゆく母が襖閉づ

                           廣瀬直人

公(かっこう)が鳴いているのだから、昼間である。外光はあくまでも明るく、郭公がしきりに鳴いている。この好日に、老いて病身の母はとても疲れた様子だ。「少し休みたい……」と言い、次の間に「寝に」立った。そろりそろりと、しかしきっちりと、作者の前で「襖(ふすま)」が閉められる。たかが襖ではあるけれど、きっちりと閉められたことにより、残された作者の心は途端に寂寥感に占められた。襖一枚の断絶だ。細目にでも開いていれば、まだ通じ合う空気は残る。しかし、このときの襖を隔てた向こうの部屋は、もはやこちらの部屋とは相いれぬ世界となった。急に、母親が遠く手の届かぬ見知らぬ世界に行ってしまったようだ。いくつになっても子供は子供と言うが、逆もまた真なりで、いくつになっても親は親である。とくに母親は、いつまでも元気に甲斐甲斐しく家事を切り回す存在だと、どんな子供も漠然とそう信じて生きているだろう。だが、決してそうではないという現実を、この真昼に閉ざされた一枚の襖が告げたのである。郭公は、実に明るいような寂しいような声で鳴く。そこで時代を逆転させ、掲句に一句をもって和するとすれば、すなわち「憂き我をさびしがらせよ閑古鳥」(松尾芭蕉)でなければなるまい。ちなみに「閑古鳥(かんこどり)」は「郭公」の異名である。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)


July 1172001

 父ひとりゆく日盛りの商店街

                           廣瀬直人

独の肖像。偶然に、後ろ姿を見かけたのだろう。アーケードがなかった頃の「日盛りの商店街」は、さすがに人通りも少ない。そんなカンカン照りのなかを、老いた父親がひとりで歩いている。それでなくとも男に昼間の商店街は似合わないのに、何か緊急の買い物でもあるのだろうか。それとも、この通りを抜けて行かざるを得ない急ぎの用事でもできたのか。呼び止めるのもためらわれて、作者はそこで目を伏せたにちがいない。それこそ用事もないのに、次の角を曲がったか。えてして、男同士の親子とはそんなものである。だから、この「父」の姿は多くの男性読者の父親像とも合致するだろう。その意味で、作者の単なる個人的なとまどいを越えて、掲句は説得力を持ちえている。この父親像は、今日も確実に各地の「商店街」に存在している。ただし、句集を読めばわかることだから書いておくが、作者がなぜこの句を詠んだのかには抜き差しならぬ事情があったのだ。作者の妹である「父」の娘が、少し前に産児とともに急逝したという事情である。「青嵐葬場に満ち母と子焼く」など作者痛恨の十句あり。そうした事情があってのこの句なのだが、しかし、作者が目撃した「父」の事情は、あるいはこの事態とはかけはなれていたかもしれない。が、妙な忖度などせずに、すっと「父」の後ろ姿に目を伏せるのが、私の愛する表現を使えば「人情」というものである。『帰路』(1972)所収。(清水哲男)


August 1482001

 稲稔りゆつくり曇る山の国

                           廣瀬直人

者は山梨県東八代郡に生まれ、現在も同地に暮らす。したがって山梨の山河に取材した句が多いが、掲句もその一句だ。季語は「稲」で秋。なによりも私は、一見地味な「ゆつくり」の措辞に心惹かれた。一面に広がった田圃に稔りつつある稲の生長も「ゆつくり」なら、空の曇りようも「ゆつくり」である。「ゆつくり」は単に速度が遅いという意味ではなく、自然の動きが充実しながらしかるべき方向に移ってゆく様子を捉えている。自然が、自然のままに満ち足りて発酵していく時間の経過を述べている。「山の国」ならではの感慨で、都会でもむろん「ゆつくり」曇ることはあるけれど、それに照応する自然がないので、単に速度が遅いという意味にしかなり得ない。子供の頃の私の田舎でも、時はこのように「ゆつくり」と流れていたのだろう。そして、おそらくは今も……。しかし当時の私には、充実に通じる「ゆつくり」が理解できなかったのだ。ただそれを、退屈な時間としか受容できなかったのである。今日あたりの故郷には、村を出ていった友人たちも多く帰省しているだろう。そして、この「ゆつくり」の自然の恵みを存分に味わっているにちがいない。帰りたかったな。『日の鳥』(1975)所収。(清水哲男)


October 22102001

 黄落のひかり突切る高校生

                           廣瀬直人

く晴れた日の通学路。黄色く色づいた銀杏の葉が、日差しを受けてきらきらと舞いながら落ちてくる。その「ひかり」を自転車通学の高校生たちが、勢いよく「突切」っていく。「ひかり突切る」で、句の焦点が見事に定まった。「突切る」高校生には、「黄落(こうらく)」の情趣など関係はない。そういうことには、一切無頓着である。彼らにとっては、ただ爽やかな「ひかり」でしかない。それが若さだ。一瞬、そんな姿に作者は見ほれてしまった。歌われているのは、若さへの賛歌である。ある程度の年齢になると、こういう感じ方は誰にでも起きるのではなかろうか。私に若さが多少ともあったころには、他人の若さなんて、ひたすらに猥雑で生臭く騒々しいばかりで、むしろ遠ざけたい対象だった。それがいつの間にか、ただ若いというだけの存在を許容しはじめ、果ては見ほれるようなことにもなってきた。しかし人間は皮肉にできていて、そのただ中にあるときには、おのれの若さには気がつかない。何も感じない。句の「高校生」にしても、むろん同じ感覚だろう。あくまでも気持ちのよい句なのだが、そんなことも同時に思われて、ちょっとセンチメンタルな気分にもさせられてしまった。『日の鳥』(1975)所収。(清水哲男)


August 2082002

 夏逝くや油広がる水の上

                           廣瀬直人

の上ではとっくに秋になっているが、体感的な夏もそろそろ終りに近づいてきた。八月も下旬となると、ことに朝夕は涼しく感じられる。作者はそんな季節に、日中なお日の盛んな池か川の辺にたたずんでいる。「水の上」を見やると、何かの「油」が流れ出しており、日光を反射した油の輪が鈍い虹色を放っていた。一読、すぐに「油照」という季語が連想される。風がなく、じっとしていても脂汗(あぶらあせ)が滲んでくるような夏の暑さを言う。このときに掲句は、まさに本物の現象としての油照と言ってよいだろう。見ているだけで、脂汗が浮いてきそうだ。しかし、じっと油の輪が照り返す光りの様子を見ていると、静かに少しずつ輪が広がっていくのがわかる。広がっていくにつれて、虹色の光彩は徐々に薄まっていくのである。そこで作者は、今そのようにして夏が逝きつつあるのだと実感し、この句に至った。さすがの猛暑も、ついに水の上の油のように拡散し、静かに消えていこうとしている……。やがてすっかり油の輪が消えてしまうと、季節は「べとべと」の夏から「さらさら」の秋へと移っていく。油に着目した効果で、このように体感的にも説得力を持つ句だと読んだ。『矢竹』(2002)所収。(清水哲男)


March 2132003

 春深む一期不惑にとどかざり

                           廣瀬直人

書に「武田勝頼」とある。勝頼(1546-1582)は武田信玄の四男であったが、父を継いだ。戦国時代の血みどろの抗争のなかで、ついに生き残れなかった武将の一人だ。実録とはみなせないが、武田研究のバイブルと言われる江戸期に出た『甲陽軍鑑』に、勝頼最後の様子が書かれている。「左に土屋殿弓を持って射給ふに、敵多勢故か無の矢一ツもなし。中に勝頼公白き御手のごひにて鉢巻をなされ、前後御太刀打也。土屋殿矢尽きて刀をぬかんとせらるる時、敵槍六本にてつきかくる。勝頼公土屋を不憫に思召候や、走寄給ひ左の御手にて槍をかなぐり六人ながら切り伏せ給ふ。勝頼公へ槍を三本つきかけ、しかも御のどへ一本、御脇の下へ二本つきこみ、押しふせまいらせて御頚を取候」。無惨としか言いようがないが、これが「戦争」である。作者は「春深む」終焉の地にあって、武将の生涯にあらためて思いを致し、彼が「不惑(四十歳)」にもとどかずに死んだ事実に呆然としている。勝頼に感情移入して可哀相だとか、逆に愚かだなどと思うのではなく、ただ呆然としている作者の姿が、「春深む」の季語から浮かび上がってくる。濃密な春の空気のなかに、ひとり勝頼の生涯ばかりではなく、人の「一期(いちご)」を思う心が溶け込んでいくのである。『矢竹』(2002)所収。(清水哲男)


December 31122003

 晴れきつて除夜の桜の幹揃ふ

                           廣瀬直人

すがに蛇笏門。重厚な品格がある。こういう句は、作ろうと企んでも、なかなか出てくるものではない。日頃の鍛練から滲み出てくるものだ。専門俳人と素人との差は、このあたりにあるのだろう。句をばらしてみれば、そのことがよくわかる。「晴天」「除夜」、そして「桜の幹」と、これだけだ。いずれもが、特別な風物風景じゃない。よく晴れた大晦日の夜に、これから参拝に出かけようとして、たとえば桜並木の道に出れば、それで句の条件は誰にでもすべて整う。作者だけの特権的な条件は、一切何もないのである。しかし作者以外には、このようには誰も詠まないし、詠めない。まずもって目の前にあるというのに、「桜」に注目しないからだ。いわんや「幹」に、その幹が整然と揃って立っていることに……。何故なのかは、読者各位の胸の内に問うてみられよ。すっかり葉を落して黒々と立つ桜の幹には、何があるだろう。あるのは、来たるべき芽吹きに向かっているひそやかな胎動だ。生命の逞しい見えざる脈動が、除夜の作者の来春への思いと重なって読者に伝わる。「去年今年」の季語に倣って言うならば、さながら「今年来年」の趣がある。除夜にして既に兆している春への鼓動。それはまた、新しい年を待つ私たちの鼓動でもある。「木を見て森を見ず」ではないけれど、専門家はこのように「木を見て木を見る」ことができる。鍛練の成果と言う所以だ。少なくとも私なんぞには、逆立ちしてもできっこないと感心させられた。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)


March 2532004

 人の目の真つ直ぐに来る花の中

                           廣瀬直人

の句は数々あれど、これは異色作だ。花見客でにぎわう場所か、あるいは桜並木の通りでもあろうか。ゆったりとした気分で作者が花を賞でながら歩いているうちに、ふと前から来る人の何か周囲の人たちとは違った気配に気がついた。思わず見やったその人は、桜を楽しむ気などさらさらないといった雰囲気で、ひたすら「真つ直ぐ」にこちらに向かって歩いてくるのだった。その様子を「人が真つ直ぐに来る」と言わずに、「人の目」が来ると詠んだところが実に巧みだ。思い詰めたような顔つきだったかもしれないが、その「顔」でもなくて「目」に絞り込んだ凝縮力の鋭さには唸ってしまう。行き交う人々の「目」があちこちの花にうつろっているときだけに、その人の前方を見据えて動かない「目」が際立って見えるのである。「人」でもなく「顔」でもなく、ほとんど「目」のみがずんずんと近づいてくる。言い得て妙ではないか。その人は、べつに思い詰めていたわけではなく、単に道を急いでいただけなのかもしれない。というのも、我が家の近くに東京では桜の名所に数えられる井の頭公園があって、満開の時期にはたいへんな人出となる。公園に通じる舗道はどこも狭いので、押し合いへし合い状態だ。いつだったか、そんな人込みの波を逆流する格好になって、用事のために急いで通ろうとしたたことがあった。しかし、そう簡単には前へ進めない。人並みをかきわけかきわけ、時には突き飛ばしたくなる思いにかられながら急いだ私の「目」は、まさに掲句の「人の目」に似ていたかもしれないと苦笑させられたからなのだ。井の頭の花は、今週末が見頃となる。どうか「目」だけで歩くような急用などが持ち上がりませんように。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)


June 2462004

 屋根一つ一つに驟雨山を下り

                           廣瀬直人

語は「驟雨(しゅうう)」で夏。「夕立」に分類。山の斜面に、点々と家が建っている。そこへ、頂上の方からにわかに激しい雨が降ってきた。見る間に雨は「山を下り」てきて、さっきまで明るかった風景全体が墨絵の世界のように色を失う。雷も鳴っているだろう。夏の山国ではよく見かける光景だが、雨が一戸も外さず一つ一つの屋根を叩いて下りてきたという措辞は、言い得て妙だ。一見当たり前のような描写だが、このように言い止めることで雨の激しさが表現され、同時に山国の光景が現前され、句に力強さを与えている。山国に育った私としては、この的確さに唸らされた。まさに実感的に、この通りなのである。実感といえば、こうした自然の荒々しさを前にすると、人間というものはお互いに寄り添って生きていることを、いまさらのように感じさせられてしまう。「屋根一つ一つ」の下には、平素はさして付き合いのない人たちもいるし、なかにはムシの好かない奴もいたりする。が、ひとたび激甚の風雨来たれば、そんなことはどうでもよいことに思えてくる。「屋根一つ一つ」を順番に余さず叩く雨そのものが、人が身を寄せ合って生きている光景をあからさまに浮かび上がらせるからだ。驟雨は、短時間で止んでしまう。やがてまた日がパッと射してきた時に、私たちの心が以前にも増して晴れやかになるのは、単に厄介な自然現象が通り過ぎて安堵したということからだけではない。短時間の雨の間に、周囲に具体的に人がいるかいないかには関係なく、私たちのなかには他人に対する親和の心が芽生えているからだと思う。『日の鳥』(1975)所収。(清水哲男)


July 2572004

 その色の少年夢二草苺

                           廣瀬直人

語は「草苺(くさいちご)」で夏。と言っても、もう実の盛りは過ぎているかもしれない。全体の姿が草のように見えるのでこの名があるが、れっきとしたバラ科の落葉低木で、いわゆる木苺の一種だ。小さな良い香りの赤い実がなり、甘酸っぱい味がする。「夢二(竹久夢二)」は、少年期を岡山県東南部の邑久郡邑久町で過ごした。句の前書きに「岡山小旅」とあるから、現地での作句のようだ。たまたま見かけた草苺の姿に、「少年夢二」を通い合わせている。「その色」の「その」はもちろん「草苺の」であるが、「色」には草苺の可憐な赤に象徴される夢二その後の人生や作品活動のありようをも滲ませてある。いささかセンチメンタルな思い入れではあろうけれど、この感傷はしかし上質のものだ。甘さに流れる寸前で句が踏みとどまっているのは、すっと「その色の」と出た力強さにあるのだろう。可憐ではかなくて……、夢二にはこうしたセンチメンタリズムがよく似合う。「泣く時はよき母ありき/遊ぶ時はよき姉ありき/七つのころよ」。明治四十三年の「中学世界」に載った夢二の歌である。ここにも句の「その色」が、そのまま通い合っているようではないか。俳誌「白露」(2004年8月号)所載。(清水哲男)


August 2082004

 曼珠沙華人ごゑに影なかりけり

                           廣瀬直人

語は「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」で秋。植物名は「ひがんばな」。別名を「死人花(しびとばな)」とも言うが、これは葉が春に枯れることから「葉枯れ」を「わかれ」と訛って、人と別れる花の意としたらしい。こうなると、もう立派な判じ物だ。ついでに「捨子花」の異名もあって、こちらは「葉々(母)に別れる」の謂いだという。いずれにしても、昔から忌み嫌う人の多い花である。だから墓場によく見られるのか、逆に墓場のような場所によく自生していたから嫌われるのか。句の情景も、おそらく墓場ではないかと思う。都会の洒落た霊園などではなく、昔ながらの山国の田舎の墓場だ。霊園のように区画もそんなに定かではないし、どうかするとちゃんとした道もついていない。周辺には樹々や雑草が生い茂り、曼珠沙華が点々と燃えるがごとくに咲いている。聞こえてくるのは蝉時雨のみというなかで、不意にどこからか「人ごゑ」がした。思わずもその方向を目をやってみたが、それらしい誰の姿も見えなかった。「影」は「人影」である。作者が墓参に来ているのかどうかはわからないが、それはどうでもよいことなのであって、山国のなお秋暑い白日のありようが、ちょっと白日夢に通じるような雰囲気で活写されていると読むべきだろう。私には田舎での子供時代の曼珠沙華の様子を、まざまざと思い出させてくれる一句であった。『朝の川』(1986)所収。(清水哲男)


December 21122004

 山国にがらんと住みて年用意

                           廣瀬直人

語は「年用意」で冬。新年を迎えるための諸支度。ミソは「がらんと住みて」だ。家の中が「がらんと」しているなどと使う「がらんと」であるが、それを「山国」全体に適用したところがユニークである。いかにも茫洋とした山国の空間を言った上で、なおゆったりとした時間の流れをも暗示している。平常はそんな時空間に暮らしている我が身でも、この時期になると、それなりの「年用意」でけっこう忙しい。大掃除や障子貼り、外回りの繕いや松飾りの手配などがあり、さらには正月用の買い物もある。平素は「がらんと住みて」いるがゆえに、それだけ余計にせわしなく感じられるということだろう。年中行事のあれこれについては、都会よりも田舎のほうが気を使う。都会では何の支度もせずに新年を迎えても、誰も何とも言いはしないけれど、田舎ではなかなかそうはいかない。あからさまに指摘はされずとも、村落共同体の目が、いつも厳しく光っているからだ。少なくとも表面的には、世間並みにつきあっていく必要がある。抜け駆けも許されないが、故意のドロップアウトも許されない。昔から、みんなで足並みを整えていくというのが、村落共同体の生き残る知恵であり、暮らしの条件なのであった。現代に至っても、その基調にはなお根強いものがあると思う。田舎の友人と話したりするとき、そのことをよく感じる。『矢竹』(2003)所収。(清水哲男)


July 0372005

 恙なき雲つぎつぎに半夏かな

                           廣瀬直人

語が「半夏(はんげ)」であるのは間違いないが、どの項目に分類するかについては、いささか悩ましいところのある句だ。というのも、単に「半夏」といえば一般的には植物の「カラスビシャク」のことを指すからである。だが、私の知るかぎり、この植物を季語として採用している歳時記はない。ならば当歳時記で新設しようか。でも、待てよ。歳時記をめくると、半夏が生えてくる日ということから「半夏生(はんげしょう)」という季語があって、こちらは全ての歳時記に載っている。今年は昨日7月2日がその日だった。そこで悩ましいのは、掲句の中味はカラスビシャクを知っていても、こちらの季語の意味を知らないと解けない点である。すなわち、「恙(つつが)なき雲」は明らかに、半夏生の日の天気によって米の収穫を占った昔の風習を踏まえている。梅雨の晴れ間の空に「つぎつぎに」生まれる白い雲を眺めながら、作者は昔の人と同じように吉兆を感じ、清々しい気持ちになっているのだ。だとすれば、何故「半夏かな」なのだろう。ここをずばり「半夏生」と押さえても字余りにもならないし、そのほうがわかりやすいし、いっこうに差し支えないのではないか。等々、他にもいろいろ考えてみて、一応の結論としては、句作時の作者の眼前には実際にカラスビシャクが生えていたのだと読んでおくことにした。つまり季語の成り立ちと同様に、句のなかでは植物の「半夏」にうながされて「半夏生」が立ち上がってきたのであり、はじめから「半夏生」がテーマではなかったということだ。ブッキッシュな知識のみによる句ではないということだ。便宜的に一応「半夏生」に分類はしておくが、あくまでも「一応」である。俳誌「白露」(2005年7月号)所載。(清水哲男)


May 1552009

 累々として今生の実梅たり

                           廣瀬直人

事な句と思う。累々というのだから実梅が地に落ちている情景。「たり」には一個一個の存在感が意図されている。「今生」つまりただ一回きりの自分の生の或る瞬間の風景として実梅を見ている。品格も熟達の技術も一句の隅々まで行渡っている。ところで、今生の或る瞬間の風景として、たとえば自転車や自動車やネジやボルトやパソコンやテレビや机や椅子が「累々」としていては「今生」を意識できないか。できないとするならばなぜかというのが僕の中で持続している問題意識。「今生」の実感を引き出すのに「実梅」が持っている季語としてのはたらきや歴史的に累積してきた「俳句的情趣」が不可欠なのかどうかということ。特段に自然の草木の中に身を置かずとも僕らが日常見聞きし感じている万象の中にこそ「今生」の実感を得る契機は無数に用意されているのではないか。病床六尺の中にいて「今生」の実感を詠った子規が生きていたら聞いてみたいのだが。『新日本大歳時記』(2000)所収。(今井 聖)


April 3042010

 鴉子離れからからの上天気

                           廣瀬直人

の子別れは夏の季語。古くからある季語だが、あまり用いた句を知らない。鴉の情愛の濃さは格別である。春、雌が巣籠りして卵を温めている間は、巣を離れらない雌のために雄が餌を運び、雌の嘴の中に入れてやる。生まれた子は飛べるようになってもしばらくは親について回り、大きく嘴を開き羽ばたいて餌をねだる。しかし、夏が近づいてくるころ、親はついてくる子鴉を威嚇して追い払う。自分のテリトリーを自分でみつけるよううながすのである。親に近づくとつつかれるようになった子鴉が、少し離れたところから親を見つめている姿は哀れを催す。そのうち子鴉はどこかに消える。親が子を突き放す日。日差しの強い、どこまでも青い空が広がっている。「俳句」(2009年6月号)所載。(今井 聖)




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