1997N731句(前日までの二句を含む)

July 3171997

 黄泉路にて誕生石を拾ひけり

                           高屋窓秋

泉路(よみじ)は冥土へ行く路。冥土への途中で、皮肉にも誕生石を拾ってしまったという諧謔。年齢的に死の切迫を感じている人ならではの発句だが、その強靱な俳諧精神にうたれる。最近の私は時折、若くして逝った友人の誰かれを思い出す。なかには常に心理的に私をおびやかす人もいたが、時の経過というフィルターが、いつしかそんな関係を弱め忘れさせてしまう。よいところばかりを思い出す。彼らもまた、黄泉路で何かを拾っただろうか。この世ではみんな運が悪かったのだから、せめて何かよいものを拾って冥土に到着したと思いたい。『花の悲歌』(1993)所収。(清水哲男)


July 3071997

 蚊帳に寝て母在る思ひ風の音

                           杉本 寛

和六十二年(1987)の作品。もはや一般家庭で蚊帳(かや)を吊るとは考えられない年代だから、これは旅先での句である。「風の音にふと目覚め、改めて蚊帳に気がついた。蚊帳は幼い思い出。それは母に繋るが」と、自註にある。このように、物を媒介にして人とつながるということは、誰にでも起きる。そのあたりの機微を、俳句ならではの表現でしっかりととらえた佳句だ。蚊帳といえば、横山隆一の漫画『フクちゃん』に、部屋いっぱいに広げた青い蚊帳を海に見立てて、海水浴ごっこをする場面があった。我々兄弟はそれを真似て、椅子の上から何度も蚊帳の海に飛び込んだ。本当の海水浴など、夢のまた夢の敗戦直後のことであった。『杉本寛集』(自註現代俳句シリーズ・俳人協会)所収。(清水哲男)


July 2971997

 そのことはきのうのように夏みかん

                           坪内稔典

蜜柑は、気分を集中しないと食べられない。スナック菓子のように、簡単に口に運ぶわけにはいかない。したがって、つい先程の「そのこと」などは、あたかも昨日のことのように遠のいてしまう。「そのこと」とは何だろうか……。本来であれば、しばし当人の心に引っ掛かるはずのことどもであろうが、しかし、その中身は読者にゆだねられている。男女のことでもよいし、生活の中の不意のトラブルでもよい。稔典は俳句を指して、作者と読者の「新たな関係を創造する装置」だと言う。「どんなに厳密に書かれていても、俳句はついに一種の片言にすぎない」とも。だから読者としては、安んじて「そのこと」の中身を自由勝手に想像してよいのである。というよりも、この句の面白さは、作者のそうした俳句理論の露骨な実践的企みにある。『猫の木』所収。(清水哲男)




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