Gq句

August 0281997

 我に残る若さ焼ソバ汗して喰ふ

                           中嶋秀子

だ冷房もさほど普及していなかった昭和四十年頃の作品。前書に「生花教室の生徒と」とある。焼きそばを出すような店では、扇風機があればよいほうだった。そんな暑さなど苦にしない若い生徒たちに誘われて、真昼の焼きそばに付き合ってみたら、意外なことに食が進む。そのうちに、吹き出る汗を拭いながら食べるという行為そのことに、快感すら覚えてきた。私にも、こんな若さが残っていたのだ……という喜び。だから「食べる」のではなく「喰ふ」のほうがふさわしいのだ。ただし、このとき作者は三十歳。女盛りの年代だが、若い人たちに囲まれると、その若さがまぶしく映りはじめる年頃ではあるだろう。『花響』所収。(清水哲男)


September 2591997

 闇にただよふ菊の香三十路近づきくる

                           中嶋秀子

ろうとして床につくが、なかなか寝つけない。部屋に活けた菊の濃密な香がただよっていて、心なしか息苦しい感じさえする。思えば、三十路も間近だ。もうそんなに若くはないのだから、もっとしゃんとしなければという自戒の念。三十路に対しては、男よりも女のほうが敏感だろう。このとき作者は結婚しているが、現代の「結婚しない女たち」にとっても、三十路に入る心境は複雑なようだ。新聞や雑誌が、繰り返してそんな女性たちのレポートを載せている。『花響』所収。(清水哲男)


November 30111997

 黄落をあび黒猫もまた去れり

                           中嶋秀子

葉の黄色と猫の黒色を対比させた絵画的な作品だ。ここで落葉はほとんど金色であり、猫もビロードのような見事な黒色でなければならない。薄汚れた野良猫の類ではない。猫を詠んだ句は多いが、このように貴族的な感じのする猫が登場する句は稀である。実景なのか、幻想なのか。もはや黒猫が舞台から去ってしまった以上、それはどちらでもよいことで、残された作者は自然の描いた巧まざる傑作を胸に抱いて、またこの場を離れていくのである。中身は違っても、こういう種類の記憶の一つや二つは、誰にでもあるだろう。俳句という装置は、そのような曰く言い難い光景を取り込むのにも適している。『花響』(1974)所収。(清水哲男)


February 0522001

 雪国の言葉の母に夫奪はる

                           中嶋秀子

い夫婦を訪ねてきたのは、作者自身の母親だろう。義母だとしたら、わざわざ俳句にするまでもない。夫と彼の母親が仲良く話していても当たり前で、「奪はる」とまでの感情はわいてこないはずだからだ。「奪はる」というのは大袈裟なようだが、作者が思いもしなかった展開になったことを示している。いまどきの軽い言葉を使うと、「ええっ、そんなのあり……」に近いだろうか。「夫」と「母」の間には、社交辞令的な会話しか成立しないと思っていたのが、意外や意外、よく通じ合う共通の話題があったのだ。つまり、母親の育った土地と夫のそれとが合致した。そこでたちまち二人は意気投合して、お国言葉(雪国の言葉)で盛んに何か話し合っている。別の土地で育った作者には、悲しいかな、入っていけない世界である。嬉々として話し合う二人を前にして、作者は母親に嫉妬し、憎らしいとさえ思っているのだ。第三者からすれば、なんとも可憐で可愛らしい悋気(りんき)である。ここで興味深いのは、作者の嫉妬が母親に向けられているところだ。話に夢中になっている夫だって同罪(!?)なのに、嫉妬の刃はなぜか彼には向いていない。私のか細い見聞による物言いでしかないが、男女の三角関係においては、どういうわけか女の刃は同性に向くことが一般的なようである。新聞の社会面に登場する事件などでも、女性が女性を恨むというケースが目立つ。たとえ男の側に非があっても、とりあえず男は脇にどけておいて、女性は女性に向かって真一文字に突進する。何故なのだろう。本能なのだろうか……。いけねえっ、またまた脱線してしまったようだ(反省)。『花響』(1974)所収。(清水哲男)


May 1552002

 夫恋へば吾に死ねよと青葉木菟

                           橋本多佳子

語は「青葉木菟(あおばずく)」で夏。野山に青葉が繁るころ、インドなど南の国から渡ってくるフクロウ科の鳥。夜間、ホーホー、ホーホーと二声で鳴く。都市近郊にも生息するので、どなたにも鳴き声はおなじみだろう。「夫(つま)」に先立たれた一人居の夜に淋しさが募り、亡き人を恋しく思い出していると、どこからか青葉木菟の鳴き声が聞こえてきた。その声は、さながら「死ねよ」と言っているように聞こえる。死ねば会えるのだ、と。青葉木菟の独特の声が、作者の寂寥感を一気に深めている。一読、惻隠の情止みがたし……。かと思うと、同じ青葉木菟の鳴き声でも、こんなふうに聞いた人もいる。「青葉木菟おのれ恃めと夜の高処」(文挟夫佐恵)。「恃め」は「たのめ」、「高処」は「たかど」。ともすればくじけそうになる弱き心を、この句では青葉木菟が激励してくれていると聞こえている。自分を信じて前進あるのみですぞ、と。すなわち、掲句とは正反対に聞こえている。またこれら二句の心情の中間くらいにあるのが、「病むも独り癒ゆるも独り青葉木菟」(中嶋秀子)だ。夜鳴く鳥ゆえに人の孤独感と結びつくわけだが、受け止め方にはかくのごとくにバリエーションがある。ちなみに青葉木菟が季語として使用されはじめたのは、昭和初期からだという。近代的な憂愁の心情に、よく呼応する鳴き声だからだろうか。『新日本大歳時記・夏』(2000・講談社)所載。(清水哲男)


November 14112002

 セーターの黒い弾力親不孝

                           中嶋秀子

語は「セーター」で冬。二十歳のときの作句だという。学生であれば、まだ親がかりの身。半人前でしかないわけだが、当人は一人前のような気になりはじめる年ごろだ。何かにつけて親の存在がうっとうしくなり、反抗的な態度も出てくる。「弾力」は、むろん自分の身体的な若さ、しなやかさを言っているのだけれど、それを「黒い」ととらえたところで、句が成立した。黒いのは単に着ているセーターの色にすぎないのだが、その黒色は身体のみならず精神までをも覆っているという発見。精神の若さ、しなやかさもが黒く染められているという自覚。このときに、ふっと「親不孝」を思った作者の感覚は、しかし、まだまだ初々しい。生意気ではあっても、イヤみがない。だから、微笑して読むことができる。作者二十歳の黒い心の中身は知らねども、そう読めるのは、我が身を振り返ってみると、思い当たる中身があるからでもある。振り返って、たとえばポール・ニザンが『アデン・アラビア』の冒頭に、「その時、僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しい時だなんて誰にもいわせない」と書いたフレーズは、あまりにも有名だ。さて、読者諸兄姉の二十歳のときは、どんなふうだったでしょうか。私は、もう一度「あの黒い時代」に帰ってみたいような気になりました。『陶の耳飾り』(1963)所収。(清水哲男)


May 2052004

 若からぬ一卓ビールの泡ゆたか

                           中嶋秀子

く見かける情景だ。何かの会合の流れなどで、もはや「若からぬ」人たちがビールの卓を囲んで談笑している。大きなジョッキになみなみと注がれた「ビールの泡」が、その場のなごやかさを更に盛り上げている。このときに「ゆたか」とは、そうやって集い楽しむ人たちの、ささやかながらも充実した時空間の形容だろう。長い人生を生きてきた人々ならではの楽しみ方が、そこにある。若者の一団からは感じることのできない、ゆったりとした雰囲気は、傍から見ていても微笑ましいものだ。若い頃から私は感じてきたが、ビールが似合うのは若者よりも年配者のほうではないだろうか。ビールのコマーシャルなどでは若者が一気に飲み干すシーンが多いけれど、あんなに飢えたように飲むのでは、本当はそんなに美味くないと思う。喉の渇きを癒すのならば、むしろ水を一気に飲むほうが効果的だろう。それにあんなに急いで飲むと、後がつづくまい。ビールの味がわかるまい。半世紀近く飲みつづけてきた体験からすると、泡が完全に消えるまでの間にゆっくりと飲むのが、最良な方法のような気がする。だから生ビールであれば、できれば自分のペースに会わせた泡の量を指定できる店で飲むことだ。そんな店は多くはないが、銀座のライオンなどではちゃんと泡の量を注文できる。注ぎ手がよほど優秀でないと無理な注文になるけれど、あの店では決まって泡七割と指定する常連客がいるのだという。むろん「若からぬ」人である。支配人から聞いた話だ。他にもいろいろ聞かせてもらったが、美味く飲むためには、なるべく物を食べないことも条件の一つだった。そしてその点だけは、私は彼に誉められた。私の大いに自慢とするところだ。『約束の橋』(2001)所収。(清水哲男)


October 12102004

 梅干の真紅を芯に握り飯

                           中嶋秀子

語は「梅干」で夏。梅を干す季節から定まった季語だが、句のように「握り飯」とセットになると、夏よりもむしろ秋を思わせる。運動会の握り飯、遠足やハイキングの握り飯など、とりわけて新米でこしらえた握り飯は美味かった。当今のスーパーで売っているようなヤワな作りではなく、まさに梅干を「芯(しん)」にして固く握り上げたものだ。飾りとしか言いようのない粗悪な海苔なんかも巻いてなくて、純白の飯に真紅の梅干という素朴な取り合わせが、目の保養ならぬ目の栄養にもなって、余計に食欲が増進し、美味さも増したのだった。掲句は、そうした視覚的な印象を押し出すことによって、握り飯本来の良さを伝えている。昔話「おむすびころりん」のおじいさんが取り落とした握り飯も、きっとそんな素朴なものだっのだろう。ついでに引いておけば、明治時代の教科書には、こんな梅干しの歌が載っていたそうだ。「二月・三月花ざかり、うぐいす鳴いた春の日のたのしい時もゆめのうち。五月・六月実がなれば、枝からふるい落とされて、近所の町へ持ち出され、何升何合はかり売り。もとよりすっぱいこの体、塩につかってからくなり、しそにそまって赤くなり、七月・八月暑い頃三日三晩の土用干し、思えばつらいことばかり、それも世のため人のため。しわはよっても若い気で、小さい君らの仲間入り、運動会にもついて行く。まして腹痛のその時は、なくてはならぬこのわたし」。『玉響』(2004)所収。(清水哲男)


February 2822005

 バースデー春は靴から帽子から

                           中嶋秀子

まには、こうした手放しの明るさも気持ちが良い。作者の「バースデー」の正確な日付は知らないが、まだ寒い早春のころだろう。誕生日というので、自分に新しい「靴」と「帽子」をおごった。身につけると、それらの華やいだ色彩から、自然に先行して「春」が立ち上ってきたように思われたと言うのである。ひとり浮き浮きしている様子が伝わってくる。何の変哲もない句のように思えるかもしれないが、俳句ではなかなかこうした美意識にはお目にかかれない。つまり、人工的な靴や帽子から自然現象としての春に思いが至るという道筋を、通常の俳句様式は通らないからだ。何から、あるいはどこから春が来るかという問いに対して、たいていの俳句はたとえば芽吹きであったり風の吹き具合であったりと、同じ自然現象に予兆を感じると答えるのが普通だろう。が、掲句はそれをしていない。このような表現はかつてのモダニズム詩が得意としたところで、人工と自然を相互に反射させあうことで、いわば乾いたハイカラな抒情の世界を展開してみせたのだった。一例として、春山行夫詩集『植物の断面』(1929)より一部を紹介しておく。「白い遊歩道です/白い椅子です/白い香水です/白い猫です/白い靴下です/白い頸(くび)です/白い空です/白い雲です/そして逆立ちした/お嬢さんです/僕のKodakです」。「Kodak」はアメリカ製のカメラだ。掲句の「バースデー」も「Kodak」の味に通じている。『玉響』(2004)所収。(清水哲男)


October 28102005

 深秋の習志野に見し落下傘

                           中嶋秀子

語は「深秋(しんしゅう)」、「秋深し」に分類。千葉県の習志野市には自衛隊の駐屯基地がある。空挺団を持っているので、掲句は降下訓練の模様を詠んだものだろう。見たまんま、そのまんまだけれど、この句は「落下傘」を詠んだのではなく、その背景に広がる大空を詠んでいる。このときに真っ白いパラシュートは、紺碧の空を引き立てるための小道具なのだ。「深秋」の良く晴れた空は、それでなくとも美しいが、いくつかの小さな落下傘を浮かべることで、よりいっそう深みを増すことになった。そこで私の見たいちばん美しい空はと思い出してみて、学生時代の富士登山で見た空がよみがえってきた。夏、空気の清浄なこともあり、頂上近くなると抜けるような青空だった。思わずも「ああ、イーストマン・カラーみたいだ」と思ったのは、熱心な映画ファンだったことによる。最も映画を見た年は、数えてみたら400本を越えていた。当時のイーストマン・カラーは、コントラストの強いメリハリのはっきりした濃い色を出していたと思う。だから情景によっては嘘っぽくも見えてしまうわけだが、富士山の空はまさに天然色としてカラー映画そのものであった。いまでも私はちょっと濃いめの発色が好きで、カメラで言えばニコンの空色に惹かれる。しかしニコンは良いけれど、値段はすこぶるよろしくない。指をくわえて見ているだけとは、情けなや……。『季語別中嶋秀子句集』(2005・ふらんす堂)所収。(清水哲男)




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