1997N89句(前日までの二句を含む)

August 0981997

 愛しきを抱けば鏡裏に蛍かな

                           摂津幸彦

誌「豈」(97年・夏)「回想の摂津幸彦」特集号より。句は「俳句研究」(76年11月号)に発表された『阿部定の空』の一句。季語はいま都会でも田舎でも見掛けることのできなくなった蛍。蛍はまた古来より死者の魂の象徴と見なされてきた。この句はもちろん戦前の二・二六事件の最中に起きた有名な阿部定事件をふまえている。いままた世間を賑わす『失楽園』もこの事件が重要な背景となっている。この句の鏡は待合の三面鏡。「愛しきを抱けば」にもかすかに『四谷怪談』の雰囲気が漂う。次の句なども凄い。「埋められて極楽吹かれて地獄かな」。(井川博年)


August 0881997

 星合の宿のはじめは寝圧しかな

                           加藤郁乎

合(ほしあい)は、牽牛と織女の二つの星が出合うこと。すなわち、七夕のことを言う。こんな風流な日に、作者は一人旅である。で、浴衣に着替えて旅館で最初にすることが、ズボンの寝押しの準備というのだから、不風流きわまりない。思わずも力なく「へへへ」と笑ってしまったという図。こうなったら、七夕もへちまもあるものか。今夜は一杯やって、早いとこ寝ちまおう……。『江戸櫻』所収。(清水哲男)


August 0781997

 夜の蝉人の世どこかくひちがふ

                           成瀬櫻桃子

たま、夜に鳴く蝉がいる。虫ではあるが、一種の人間的な狂気を感じて恐くなったりする。自然の秩序から外れて鳴くそんな蝉の声を耳にして、作者は、ともすれば人の世の秩序から外れてしまいそうな我が身をいぶかしく思うのである。いかに努力を傾注してみても、くいちがいは必ず起きてきたし、これからも起きるだろう。みずからもまた、夜鳴く蝉にならないという保証はないのだ。何が、どこでどうなっているのか。突き詰めた詠み方ではないだけに、かえって悲哀の感情が滲み出てくる。『成瀬櫻桃子句集』(ふらんす堂・現代俳句文庫)所収。(清水哲男)




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