cY句

August 2981997

 夏痩せてすでに少女の面影なし

                           岡田日郎

段はそのふっくらとした体つきに、どことなく幼さも感じられる女性だった。が、痩せてくるともはやそんな少女の面影は消えてしまい、一人の大人の「女」としての存在感が際立つようになったというのである。余談になるが、最近は「夏痩せ」という言葉をほとんど聞かなくなった。明らかな「夏痩せ」の人の姿も見かけない。冷房設備が普及してきたので、誰もが極度の食欲の衰えを感じなくなってきたためだろう。逆にいまでは「夏太り」するという人さえあるようだ。「夏痩せ」も死語になるのだろうか。(清水哲男)


June 2162001

 夏至今日と思ひつつ書を閉ぢにけり

                           高浜虚子

日は「夏至」。北半球では、日中が最も長く夜が最も短い。北極では、典型的な白夜となる。ちなみに、本日の東京の日の出時刻は04時25分(日の入りは19時00分)だ。ただ「夏至」といっても、「冬至」のように柚子湯をたてるなどの行事や風習も行われないので、一般的には昨日に変わらぬ今日でしかない。あらかじめ情報を得て待ちかまえていないと、何の感興も覚えることなく過ぎてしまう。暦の上では夏の真ん真ん中の日にあたるが、日本では梅雨の真ん中でもあるので、完璧に夏に至ったという印象も持ちえない。その意味では、はなはだ実感に乏しい季語である。イメージが希薄だから、探してもなかなか良い句には出会えなかった。たいがいの句が、たとえば「夏至の夜の港に白き船数ふ」(岡田日郎)のように、正面から「夏至」を詠むのではなく、季語の希薄なイメージを補強したり捏ね上げるようにして詠まれている。だから、どこかで拵え物めいてくる。すなわち掲句のように、むしろ「夏至」については何も言っていないに等しい句のほうが好もしく思えてしまう。多くの人の「実感」は、こちらに賛成するだろう。『合本俳句歳時記』(1974・角川文庫)所載。(清水哲男)


March 2032010

 万華鏡廻すごとくに囀れり

                           岡田日郎

の句とは『俳句・俳景 山の四季』(1997)という本で出会った。作者は、四十年かけて「日本百名山」を踏破されたという。この句に並んで〈囀りの中絶叫の鳥ありし〉。囀りと絶叫、意表をつかれやや驚きながらも、そこには圧倒的な生きものの音が感じられる。その迫力とはまた違った掲出句。鮮やな万華鏡から連想される囀りは、春の輝きに満ちている。万華鏡収集が趣味、という友人が、「万華鏡って、二度と同じ模様が見られないところが好き」と言っていた。確かになあ、と思って覗いていると、その美しさは不思議で儚い。まして命あるものは、音となり形となって存在しているこの瞬間、突然消えてしまってもなんの不思議もない。あたりまえのように廻ってくる春も、二度と同じ春はなく、春が廻ってくることが、いつかあたりまえのことではなくなるのかもしれない、などと思いながら、ガラスの万華鏡で久しぶりに窓の外を覗いてみた。(今井肖子)




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