1997N9句

September 0191997

 震災忌向あうて蕎麦啜りけり

                           久保田万太郎

和三十五年、死の三年前の作品である。万太郎は浅草生まれで、震災にもあい戦災にもあった。そういうこともあり、まったく物質的な執着がない人だったという。大震災からはるかな年月を経て、そば屋で当時の体験などを話しながら向き合っているのは誰だろうか。それが誰であろうと、作者はここにこうして生きてある自分の幸運をこそ味わっているのだ。この句は、万太郎門の成瀬櫻桃子が月刊「うえの」の最新号(1997年9月号)で紹介している。万太郎は常々「蕎麦は、食べると言っては駄目。啜る(すする)だ」と、弟子たちに教えていたと書いている。(清水哲男)


September 0291997

 腿高きグレコは女白き雷

                           三橋敏雄

ュリエット・グレコ頌。腿は「もも」。いったいにシャンソン歌手は女性のほうが毅然としているが、なかでもグレコは群を抜いている。舞台か映像か、黒衣の彼女の歌いぶりに集中していると、その身体から白い雷が発生しているように思えたというのだ。「腿高き」が、作者の心酔度の高さを示している。私は仕事で一度だけ、来日した彼女に会ったことがある。初秋だった。半蔵門のスタジオから、紅葉のはじまりかけた皇居の森を見て「これはいまの私の色ね」と言って微笑した。つまり、自分は人生の秋にさしかかっていると言ったのである。気障なセリフだが、グレコが言うと素直に納得できるのだった。『まぼろしの鱶』所収。(清水哲男)


September 0391997

 虫の音をあつめて星の夜明けかな

                           織本花嬌

情の質からすれば現代を思わせるが、作者は一茶と同時代に生きた江戸期の女流である。たしかに秋の夜明けは、いまでもかくのごとくに神秘的で美しい。蕪村の抒情性などを想起させるところがある。ところで、作者の嬌花は一茶より三歳年上で南総地方随一の名家の嫁であり、後に未亡人となった人だが、一茶の「永遠の恋人」として伝承されている。もとよりプラトニック・ラブだったけれど、一茶の片思いの激しさのおかげで、いま私たちはこのように嬌花の句を読むことができるというわけだ。文化六年三月に嬌花の部屋で行われた連句の会の記録が残っている。まずは一茶が「細長い山のはずれに雉子鳴いて」と詠みかけると、彼女は「鍋蓋ほどに出づる夕月」と受けている。いや、しらっと受け流している。このやりとりを見るかぎり、すでに一茶の恋の行方は定まっていたようなものだ……。気の毒ながら、相手が一枚も二枚も上手(うわて)であった。(清水哲男)


September 0491997

 里ふりて柿の木もたぬ家もなし

                           松尾芭蕉

禄七年(1694)八月七日の作品だから、新暦ではちょうどいまごろの季節の句だ。柿の実はまだ青くて固かっただろう。農村に住んでいたせいだろうか、こういう句にはすぐに魅かれてしまう。私の頃でも、ちゃんとした農家の庭には必ず柿の木が植えられていたものだ。俗に「桃栗三年柿八年」というように柿の木の生育は遅いので、この句のように全戸に柿の木が成熟した姿で存在するということは、おのずからその村落の古さと安定とを示していることになる。ここで芭蕉が言っているのは、一所不住を貫いた「漂泊の詩人」のふとした自嘲でもあろうか。少なくとも俳諧などには無関心で、実直に朴訥に生きてきた人たちへの遠回しのオマージュのように、私には思える。二カ月後に、彼は「旅に病で夢は枯野をかけ迴る」と詠んだ。時に芭蕉五一歳。『蕉翁句集』所収。(清水哲男)


September 0591997

 容赦なき西日敗戦投手かな

                           佐藤博美

西日は夏の季語とされるが、実際には太陽が真向かいに来る秋口のほうがまぶしく濃い。高校野球の試合だろうか。敗戦投手のいたましさを、さらにクローズアップするかのような西日が強烈だ。およそピッチャーなる「人種」は人一倍プライドが高いのが普通で、したがって哀れさも余計に拡大されてしまう。暑さも暑し、観客である作者はうちひしがれた投手のそんな姿を正視できない気持ちだ。間もなくこの秋にも、来春の甲子園を目指して、三年生を除いた新チームによる秋季高校野球大会が開幕する。『七夕』所収。(清水哲男)


September 0691997

 とろろなど食べ美しき夜とせん

                           藤田湘子

節の旬のものを食卓に上げる。ただちに可能かどうかは別として、そのことを思いつく楽しさが、昔はあった。大いなる気分転換である。現代風に言えば、ストレス解消にもなった。この句は、ほとんどそういうことを言っているのだと思う。「とろろなど」いつだって食べられる智恵を持つ現代もたしかに凄いけれど、季節のものはその季節でしかお目にかかれなかった昔の、こうした楽しさは失われてしまった。その意味からすると「昔はよかった」と言わざるをえない。いまのあなたの「美しき夜」とは、どういうものでしょうか……。ところで「とろろ」は漢字で「薯蕷」と書く。難しい字だが、たいていのワープロで一発変換できるところが、妙に可笑しい。ワープロ・ソフトの作者も「昔はよかった」と思っているのだろうか。そんなはずはない。だから、可笑しい。(清水哲男)


September 0791997

 少年の腰のくびれや草相撲

                           小坂順子

性ならではの句。色っぽい。ただし、見ているのが「草相撲」であるところに、この句の真価がある。プロの相撲にだって「少年」はいくらも出てくるが、誰も「腰のくびれ」などに注目したりはしない。そんな人がいたら、常識ではこれを変態と言う。同じハダカでも「草」と「プロ」とでは、大いに異なる。「草」のハダカは生々しく、「プロ」のそれはむしろハダカを感じさせない。昔のストリップ興業に例えれば、京都の千中ミュージックや岡山のOK劇場が「草」で、有楽町の日劇ミュージックホールや大阪のOSなどが「プロ」だった(ストリップ評論家たらんとした我が若き日の「データベース」???より)。技術の差なのである。素人は、どうあがいても自分の肉体に頼ってしまう。頼るから、肉体が生に表に出てしまう。そこへいくと玄人は、肉体に技術という衣を纏っているようなものだ。第一、肉体だけに頼っていたら商売にはならないからである。その意味からすると、この句はなかなかに奥深いことを言っている。古来「相撲」は秋の季語とされてきた。相撲が、宮中の秋の神事として行われていた頃の名残りである。(清水哲男)


September 0891997

 雁来紅や中年以後に激せし人

                           香西照雄

こで雁来紅は「かまつか」と読ませる。そのまま「がんらいこう」と読む場合もある。『枕草子』六七段に「雁の来る花とぞ、文字に書きたる」とあり、要するに葉鶏頭(はげいとう)のことである。職場の同僚だろうか。若いころから温厚で通ってきた人が、中年にいたって急に爆発的に怒りを表すようになった。彼に何が起きたのか。その怒りを色彩に例えると、雁来紅の少々黒味を帯びた紅色に似ているというのだ。「かまつか」という語感も「顔が真っ赤」に通じていて、句にいっそうの深みを添えている。寂しき中年よ。もちろんお互いに、だ。(清水哲男)


September 0991997

 脇ざしの柄うたれ行く粟穂かな

                           加藤暁台

台は十八世紀江戸期の俳人で元尾張藩士。粟は人の腰の丈より少し高いところくらいにまで生長するから、刀をさした者が粟の畑近くを歩けば、このような情景になる。なんだか時代劇の一場面を見ている気持ちにさせられるけれど、二百年前のこの国のまぎれもない現実なのだ。と、頭ではわかっても、やっぱり不思議な気持ちになる。ところで、粟は米よりも味があわいので「あわ」と言ったという説がある。薄黄色の粟餅は私の好物だったが、このところとんとお目にかかれない。五穀のひとつである粟も、作る人がいなくなってしまったのだろう。脇差はとっくに消え、粟もまた消えていく。時世というものである。(清水哲男)


September 1091997

 秋晴の踏切濡らし花屋過ぐ

                           岡本 眸

鉄沿線の小さな踏切を、花屋のリヤカーが渡っていく。線路の凸凹に車輪がわずかに踊って、美しい花々が揺れリヤカーから水がこぼれる。こぼれた水の黒い痕。それもすぐに乾いてしまうだろう。見上げると空はあくまでも高く、気持ちのよい一日になりそうだ。都会生活者のささやかな充足感を歌っている。読者もちょっぴり幸福な気分になる。『朝』所収。(清水哲男)


September 1191997

 向き合へる蝗の貌の真面目かな

                           松浦加古

の季節の稲田に大挙して押し寄せる蝗(いなご)は、農民にとっては天敵である。畦道を歩いていると、しばしばこちらの顔にぶつかってくるほどの数だ。現在の方法は知らないが、こいつらを退治するのに、昔は一匹一匹手で捕まえるしか方法がなかった。主として子供たちの仕事で、用意した紙袋にどんどん捕まえては入れ、そのまま焚火で焼き殺す。そんな仕事中に、たまには餌食の顔をまじまじと見てしまうということも起きた。この句のとおり、彼らは極めて真面目な表情をしている。真面目に人間に害をおよぼしているのだ。そこのところがなんとなく哀れでもあり、可笑しくもあった。蝗をうまそうに食べる人もいるが、私は駄目だ。天敵とはいえども、同じ土地の空気を吸って共に生きた間柄だからである。(清水哲男)


September 1291997

 朝顔の紺の彼方の月日かな

                           石田波郷

郷二十九歳の作品だが、既に老成したクラシカルな味わいがある。句のできた背景については「結婚はしたが職は無くひたすら俳句に没頭し……」と、後に作者が解説している。朝顔の紺に触発されて過ぎ去った日々に思いをいたしている。と、従来の解釈はそう定まっているようだが、私は同時に、未来の日々への思いもごく自然に込められていると理解したい。過去から未来への静と動。朝顔の紺は永劫に変わらないけれど、人間の様子は変わらざるを得ないのだ。その心の揺れが、ぴしりと決まった朝顔の紺と対比されているのだと思う。『風切』所収。(清水哲男)


September 1391997

 草いろいろおのおの花の手柄かな

                           松尾芭蕉

来、梅や桜などの木の花は春、草の花はこの季節に多く咲くので秋のものとされてきた。したがって、この句の季語はそのように書かれてはいないが、「草の花」として秋の部に分類すべきだろう。句意は明瞭。草の種類は有名無名さまざまだけれど、それぞれの草がそれぞれに立派に花を咲かせている姿が見事だということである。ニュアンス的には、名も無き花に贔屓している。植物に「手柄」を使ったところも面白い。この言葉は武勲に通じるのでいまでは敬遠されがちだが、芭蕉の時代には、もっと幅広い含みがあったようだ。『笈日記』所収。(清水哲男)


September 1491997

 女房は下町育ち祭好き

                           高浜年尾

んとも挨拶に困ってしまう句だ。作者が虚子の息子だからというのではない。下町育ちは祭好き。……か、どうかは一概にいえないから困るのである。そういう人もいるだろうし、そうでない人もいるはずだ。たとえ「女房」がそうだったとしても、女子高生はみんなプリクラ好きとマスコミが書くようなもので、なぜこんなことをわざわざ俳句にするのかと困惑してしまう。祭の威勢に女房のそれを参加させてやりたい愛情はわからないでもないが、だったら、もっと他の方策があるだろうに。時の勢いで作っちまったということなのだろうか。この句のように「そうなんだから、そうなんだ」という類の句は、見回してみるとけっこう多い。しかもこういう句は、どういうわけか記憶に残る。そこでまた、私などは困ってしまうのだ。なお、俳句で単に「祭」といえば夏の季語で「秋祭」とは区別してきた。この厳密さに、もはや現代的な意味はないと思うけれど、参考までに。『句日記三』所収。(清水哲男)


September 1591997

 老人の日といふ嫌な一日過ぐ

                           右城暮石

じめは「としよりの日」(昭和26年制定)といった。それが「老人の日」(昭和39年)となり「敬老の日」(昭和41年)となった。しかし「敬老の日」とは、いかにも押し付けがましい。国家が音頭をとって「尊敬」などと言い出し、ロクなことがあったためしはない。景気のよい時には地方自治体がお祝い金を出していたが、いまではつまらない式典だけになった。金の切れ目が縁の切れ目で、駆り出さなければ誰も来ない。私はまだ駆り出される年齢ではないが、作者と共に余計なおせっかいは「超」不快である。もちろん、いまや老人福祉の問題は国民的な課題だ。が、世間で行われている福祉の実態には、いつも式典的要素が介在するのは何故なのか。老人ホームでみんなでお歌を歌うなんてことも一例で、私なら、ほっといてくれと言うだろう。そんなことに「敬老精神」を発揮されたのではたまらない。しかも発揮する人々の多くが善意であるだけに、いっそうたまらないのである。このような「善意の愚劣」を、先輩諸兄姉よ、ここらで勇気を持って打ち砕くべきではないでしょうか。かつてロシアの文豪が、自逆的に言いました。「私は人類はいくらでも愛するが、隣の婆アはどうにも気にくわねえ」と。「善意の愚劣」の根拠でしょう。(清水哲男)


September 1691997

 父がつけしわが名立子や月を仰ぐ

                           星野立子

は虚子。自分の名前に誇りを抱くことの清々しさもさることながら、父への敬愛の念をこれほど率直に表現した句も珍しい。直接に仰ぐのは月であるが、この月はまた天下の虚子その人なのである。臆面もないと感じる読者がいるかもしれぬ。が、父のつけてくれた名前にかけて凛とした人生を生きていくという気概が、そうしたいぶかしさを撥ね除ける句だと、私には思われる。月を仰ぐ人には、人それぞれの感慨がある。『立子句集』所収。(清水哲男)


September 1791997

 はせ川の河童屏風の雨月かな

                           竜岡 晋

せ川は料理屋の名前。親しい友人たちとしめしあわせて、月見で一杯と洒落れこんだ。奮発して、上等の部屋を予約した。……が、あいにくの雨。月見どころか、肌寒くて窓も開けられない。気がつくと、屏風には雨を喜ぶ河童の絵だ。「河童じゃあ、雨も当たり前さ」と、誰かが苦笑する。「俺たちは、いつもこうなる」と、誰かがボヤく。さりげない場面だが、大人の味が滲み出ている。そこらへんの俳句小僧には、作れそうで作れない句だ。ちなみに「雨月(うげつ)」は、雨のためにせっかくの名月が見られないことをいう。(清水哲男)


September 1891997

 電車の影出てコスモスに頭の影

                           鈴木清志

く晴れた日の郊外の駅。少し肌寒いので、いま下りた電車の影から日向のほうに出て歩く。今度は自分の影が尾を引くことになり、見ると、ちょうどその頭のところでコスモスが風に揺れていたという情景だ。人の影の頭の部分は、時に矢印の役割を負う。ここで矢印はコスモスを指して、作者に「秋」を発見させたわけである。なんでもないような句だが、作者の感覚は実にシャープで、心地よい。スケッチ句のお手本である。(清水哲男)


September 1991997

 朝鵙や昨日といふ日かげもなし

                           林 翔

は「もず」。気性の荒い鳥だ。朝早くからキーッ、キーッと苛立っている。そんな鵙の声を耳にすると、なんだか逆に気持ちが落ち着いてくる。昨日はいろいろなことがあり、どう対処すべきかなどと思い悩んだが、それが嘘のように消えてしまった。悩みの袋小路から、いつの間にかするりと抜け出ている。「昨日といふ日」はどこへ行ったのか、影もない。さっぱりとした気分で、一日がはじめられる清涼感。鵙の声は、なおしきりである。(清水哲男)


September 2091997

 母が割るかすかながらも林檎の音

                           飯田龍太

とんどの果物を、一年中店頭に見るようになったとはいえ、秋はやはり特別。梨、ぶどう、林檎。紅玉の好きな私に八百屋のおじさんは、「もう少しだね」と声をかけてくれる。秋は、地上の事々を一旦静けさへ立ち戻らすようなところがあって、この句も、割られる林檎の音、母親の存在、家の空気など、すべてが静けさに際立つ。(木坂涼)


September 2191997

 本郷に残る下宿屋白粉花

                           瀧 春一

粉花(おしろいばな)は、どこにでも自生している。名前を知らない人には、ごく小さな朝顔をギューッと漏斗状に引っ張ったような花と説明すれば、たいていはわかってもらえる。花は、白、赤、黄色と色とりどりだ。夕方近くに花が咲くので、英語では「Four O'clock(四時)」という。我が家の近所の公園にある花も、取材(!)したところ、ちゃんと四時には咲きはじめた。昼間は咲かないので、いつもしょんぼりとした印象を受ける人が多いだろう。そのあたりの雰囲気が、昔ながらの古めかしい下宿屋のイメージにぴったりとマッチする。細見綾子に同じ本郷を舞台にした「本郷の老教師おしろい花暗らし」があって、こちらは咲いているらしいが、やはり陰気なイメージである。(清水哲男)


September 2291997

 壷の花をみなめしよりほかは知らず

                           安住 敦

も植物の名に明るくないので、しばしばこういうことになってしまう。壷に挿された数種の花のうちで、わかるのは「女郎花(「をみなへし」あるいは「をみなめし」とも)」だけであるという句。最近では新種の花が増えてきたので、花屋の花を見てもますますわからなくなってきた。横文字の名前が多いのも、覚えにくくて困る。女郎花は『万葉集』にも出てくるし、秋の七草としても有名だ。謡曲に女郎花伝説あり。山城国男山の麓の野辺の名草女郎花の由来として、小野頼風という男の京の愛人が、頼風の無情を恨んで放生川に身を投じたところ、その衣が朽ちて花に生まれ変わったというのである。この伝説を下敷きにして眺めると、女郎花のいささか頼りなげな風情も納得できる。(清水哲男)


September 2391997

 はたをりが翔てば追ふ目を捨て子猫

                           加藤楸邨

たをりは、チョンギースと鳴く「きりぎりす」のこと。声が機を織る音に似ていることによる。捨てられた子猫も、虫が飛び立てば本能的に目で追うのだ。その可愛らしい様子が哀れでならない。実は、この子猫、作者と大いに関係がある。前書に「黒部四十八ヶ瀬、流れの中の芥に、子猫二匹、あはれにて黒部市まで抱き歩き、情ありげな人の庭に置きて帰る 五句」とあるからだ。とりあえず子猫の命は救ったものの、旅先ではどうにもならぬ。そこで「秋草にお頼み申す猫ふたつ」となった次第。捨てたのではなく、置いたのではあるが……。楸邨は常々「ぼくは猫好きではない」と言っていたそうだ。が、結婚以来いつも家には猫がいて、たくさんの猫の句がある。ふらんす堂から『猫』(1990)というアンソロジーが出ているほどだ。『吹越』所収。(清水哲男)


September 2491997

 馬が川に出会うところに役場あり

                           阿部完市

市の句に、意味を求めても無駄である。彼は人が言葉を発する瞬間に着目し、その瞬間の混沌の面白さを書きとめる。無意味といえばそれまでだが、人は意味のみにて生きるにあらず。人と話すにせよ文章を書くにせよ、最初に脳裡に浮かぶ言葉には意味はない。私たちはそのような言葉の混沌を意味的に整理しながら、やおら言葉を吐き出しにかかるのである。したがって、如何に結果的に理路整然とした文脈に感じられようとも、その源をたどればすべてが初発の混沌に行き着くのだ。この句を時系列的に読めば、作者はまず馬のイメージをを拾い上げ、その馬の動きを追っていくと川に出会い、そこに役場が出現する。そういうことだが、作者の混沌のなかでは、馬も川も役場もが同時的に一挙に出現したものなのである。だから不思議な抒情性があり、面白い味が出てきている。そして、私たちがそう感じ取れるのは、この不思議の源が、実は既に読者自身の言語的混沌のなかに内包されているものだからだと思う。『軽のやまめ』所収。(清水哲男)


September 2591997

 闇にただよふ菊の香三十路近づきくる

                           中嶋秀子

ろうとして床につくが、なかなか寝つけない。部屋に活けた菊の濃密な香がただよっていて、心なしか息苦しい感じさえする。思えば、三十路も間近だ。もうそんなに若くはないのだから、もっとしゃんとしなければという自戒の念。三十路に対しては、男よりも女のほうが敏感だろう。このとき作者は結婚しているが、現代の「結婚しない女たち」にとっても、三十路に入る心境は複雑なようだ。新聞や雑誌が、繰り返してそんな女性たちのレポートを載せている。『花響』所収。(清水哲男)


September 2691997

 男の傘借りて秋雨音重し

                           殿村菟絲子

の天気は変わりやすいので、こういうことも起きる。この場合、実際に重いのは男用の傘なのだが、こまかい秋雨の音まで重く感じられるというところが面白い。とりあえず助かったという思いと、重い傘の鬱陶しさとの心理的な交錯。この傘を返しにいくときが、また重いのである。あした晴れるか。(清水哲男)


September 2791997

 こほろぎにさめてやあらん壁隣り

                           富田木歩

正七年の作。前書に「家のために身を賣りし隣の子の親も子煩悩なれば」とあるので、これ以上の解説は不要だろう。木歩はこの前年に「桔梗なればまだうき露もありぬべし」と詠み、「我が妹の一家のため身を賣りければ」という前書をつけている。桔梗になぞらえられた妹まき子は遊女屋で肺病になり、家に戻され、間もなく死ぬ。享年十八歳。自力で歩行することのできなかった作者自身は、関東大震災のために二十六歳の若さで惨死している。弱者にとって、大正とはまことに残酷で理不尽な時代であった。『定本木歩句集』(1938)所収。(清水哲男)


September 2891997

 甲賀衆のしのびの賭や夜半の秋

                           与謝蕪村

賀衆は、ご存じ「忍びの者」。江戸幕府に同心(下級役人)として仕えた。秋の夜長に退屈した忍びの者たちが、ひそかに術くらべの賭をしてヒマをつぶしているという図。忍びの専門家も、サボるときにもやはり忍びながらというのが可笑しいですね。ところで、このように忍者をちゃんと詠んだ句は珍しい。もちろんフィクションだろうが、なんとなくありそうなシーンでもある。蕪村はけっこう茶目っ気のあった人で、たとえば「嵐雪とふとん引き合ふ侘寝かな」などというちょいと切ない剽軽句もある。嵐雪(らんせつ・姓は服部)は芭蕉門の俳人で、蕪村のこの句は彼の有名な「蒲団着てねたるすがたやひがし山」という一句に引っ掛けたものだ。嵐雪が死んだときに蕪村はまだたったの九歳だったから、こんなことは実際に起きたはずもないのだけれど……。『蕪村句集』所収。(清水哲男)


September 2991997

 伐竹をまたぎかねたる尼と逢ふ

                           阿波野青畝

から「竹八月に木六月」といって、陰暦八月頃は竹伐採の好季である。山道では道路交通法など関係がないから、とりあえず伐り出した竹はそこらへんの道端に放り出しておく。そこへ裾長の衣の尼さんが通りかかると、どうなるか。枝葉のついた大きな竹だから、またぐにまたげず立ち往生ということになる。放り出した人は山に入ったままなので、どうにもならない。そんな尼僧と会ったというのだが、このあと作者はどうしたのだろうか。そちらのほうが気になってしまう句だ。人気(ひとけ)の少ない山里での情景だけに、困惑している尼僧の姿が妙になまめかしく感じられる。(清水哲男)


September 3091997

 稲を刈る夜はしらたまの女体にて

                           平畑静塔

で刈る昔の稲刈りの光景。日がある間に、黙々と一株ずつ刈り取っていく。力がいるので、田植えは手伝える小学生も、稲刈りは無理である。重労働なのだ。この句は、そんな激しい労働に従事する若い女性をうたったもの。稲を刈る人々はみな同じようににしか見えないけれど、しかし、そのなかに白い玉のような輝くばかりの肉体の持ち主の存在を想像したところが眼目である。「夜はしらたまの女体」とは、いささか耽美的に過ぎるともいえようが、労働を扱った句としては異色中の異色だろう。なべて詩の第一の要諦は「発見」にある。(清水哲男)




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