1997N96句(前日までの二句を含む)

September 0691997

 とろろなど食べ美しき夜とせん

                           藤田湘子

節の旬のものを食卓に上げる。ただちに可能かどうかは別として、そのことを思いつく楽しさが、昔はあった。大いなる気分転換である。現代風に言えば、ストレス解消にもなった。この句は、ほとんどそういうことを言っているのだと思う。「とろろなど」いつだって食べられる智恵を持つ現代もたしかに凄いけれど、季節のものはその季節でしかお目にかかれなかった昔の、こうした楽しさは失われてしまった。その意味からすると「昔はよかった」と言わざるをえない。いまのあなたの「美しき夜」とは、どういうものでしょうか……。ところで「とろろ」は漢字で「薯蕷」と書く。難しい字だが、たいていのワープロで一発変換できるところが、妙に可笑しい。ワープロ・ソフトの作者も「昔はよかった」と思っているのだろうか。そんなはずはない。だから、可笑しい。(清水哲男)


September 0591997

 容赦なき西日敗戦投手かな

                           佐藤博美

西日は夏の季語とされるが、実際には太陽が真向かいに来る秋口のほうがまぶしく濃い。高校野球の試合だろうか。敗戦投手のいたましさを、さらにクローズアップするかのような西日が強烈だ。およそピッチャーなる「人種」は人一倍プライドが高いのが普通で、したがって哀れさも余計に拡大されてしまう。暑さも暑し、観客である作者はうちひしがれた投手のそんな姿を正視できない気持ちだ。間もなくこの秋にも、来春の甲子園を目指して、三年生を除いた新チームによる秋季高校野球大会が開幕する。『七夕』所収。(清水哲男)


September 0491997

 里ふりて柿の木もたぬ家もなし

                           松尾芭蕉

禄七年(1694)八月七日の作品だから、新暦ではちょうどいまごろの季節の句だ。柿の実はまだ青くて固かっただろう。農村に住んでいたせいだろうか、こういう句にはすぐに魅かれてしまう。私の頃でも、ちゃんとした農家の庭には必ず柿の木が植えられていたものだ。俗に「桃栗三年柿八年」というように柿の木の生育は遅いので、この句のように全戸に柿の木が成熟した姿で存在するということは、おのずからその村落の古さと安定とを示していることになる。ここで芭蕉が言っているのは、一所不住を貫いた「漂泊の詩人」のふとした自嘲でもあろうか。少なくとも俳諧などには無関心で、実直に朴訥に生きてきた人たちへの遠回しのオマージュのように、私には思える。二カ月後に、彼は「旅に病で夢は枯野をかけ迴る」と詠んだ。時に芭蕉五一歳。『蕉翁句集』所収。(清水哲男)




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